罪の女 6
マリアは、すぐに退院したが
ヴェネチアには帰らなかった。
「実家には、電話したわ。
パソコンの通話で顔も見せたの。
パパもママも泣いてたけど、安心した って」
僕らは、ベッドの下に座って話す。いつも。
「マリア」
マリアは ベッドに腕と頭を乗せて 僕を見る。
「一緒にいよう。このまま」
僕が そう言うと
マリアは「後ろを向いて」と言って
僕の背中を抱き締める。いつも。
********
「ジェイド。神学校を受けろ。今すぐ」
父は、突然 僕に言った。
寮に入れ、とも。
フリオとマリアの件で
溜まり場の倉庫が調べられた。
ドラッグだけでなく、スリや恐喝、詐欺。
余罪は幾つもある。
釈放はされたが、元締めの眼を抉った時も
目撃者も居すぎた。
「アロルドと、ユーリは?」
「他に転入先を用意した」
父は、僕らが家にいない間に収める と言った。
「マリアは?」
「ここで お前を待っていればいい。
だが お前はもう、
僕は、マリアに そのことを話した。
マリアは、僕の背中に顔をつける。
「かなしいことが、起こり過ぎたわ。
私にも、あなたにも」
背中から胸に回された
マリアの細く白い腕の先の手に
自分の手を重ねる。
「だけど、私は あなたに救われたわ。フリオも。
あなたは それが出来る人よ」
違うよ 救われているのは、いつも僕だ。
父に、母に、ヒスイに。 フリオに 君に
「教会で人々を、神の恵みに導くのね。
あなたが そうなるのを待ってる」
手の下のマリアの指を見つめる
「ジェイド」
すがらないわ と、僕の背中にキスをした。
朝になるまえに、マリアは消えた。
僕のパーカーと 一緒に。
********
「ローマに、行くの?」
ヒスイは、マリアがいなくなってから
ひどく取り乱した。
ぼんやりしてばかりいる僕とは 対照的に。
「どうして?」
「何度も話したじゃないか。僕は、神父に... 」
「どうして ローマなのよ!
イルマと 出会ったのだって... 」
「だからだよ」
ヒスイは この辺りで、いつも泣き出してしまう。
「彼女を捜して」
「無理だ」
すがらないと 言ったんだ。
僕が、家から出ようとすると
「どこに行くの?」と、必ず聞く。
「チロのスタジオ」
「私も行くわ」
僕は、ヒスイを好きにさせることにした。
どうせもうすぐ、ローマに行く。
そのうちに落ち着くだろう。
チロに、コブラの鱗の色を入れてくれと
スタジオで僕が言う前に
ヒスイが「私も入れるわ」と言う。
「やめとけよ。母さんが泣く」
「ジェイドに そんなこと言われたくない」
チロに「私たち 双子なの」と言って
シャツを脱ぎ出す。
「じゃあ、同じものがいいね。
大きさ合わせたいし、ざっと下描きするから
ジェイドもシャツ脱いで」
ヒスイは、下着まで外すと
チロに渡されたバスタオルで前を隠して
背中を向ける。
鱗の色は、次回か...
僕は、もう増やすつもりはなかったんだけど
チロは、僕とヒスイの背中に 片翼ずつを描いた。
チロは先に 僕の右翼を彫り
僕が簡易的な寝台から起き上がると
ヒスイと交代する。
チロが針を交換して、ヒスイの左翼を彫り始めると、ヒスイは 少し眉をひそめた。
僕と眼が合うと「痛くないわ」と言うが
「でも、手は握っておいて」と、手を伸ばす。
椅子を寝台に近づけ、チロの反対側に座って
ヒスイの手を取った。
こうして、以前 僕が ヒスイの手を握ったのは
ずいぶん幼かった時で、もう十数年ぶりだった。
「ジェイド。私、あなたが
消えてしまうんじゃないかと 思って」
ヒスイは、スタジオの壁を見ながら呟いた。
「もう誰のことも、痛くしないで」
黙って 頷く。
「ねえ、フリオが教会で バイオリンを弾いた日
神父様が朗読して下さった話を、覚えてる?」
首を横に振り
教会に注ぐ、午前中の明るい日差しに
ステンドグラスの影が
白い壁に 色を浮かべる様を思い出す。
子供用のスーツを着て
磔の十字架の前で バイオリンを弾く
痩せた子供のフリオ。
その日、神父が朗読したのは
マグダラのマリアだったと、ヒスイは言う。
“... 他の使徒は、主 ジェズに
『何故そのひとにだけ、特別な愛情を注がれるのですか?』と 聞きました...
... すると、ジェズは
『わたしは、どうして このひとだけに
特別に 愛情を注ぐのだろう?』と
他の使徒に 答えられたのです... ”
「... 私も、イルマが すきだったわ」
彼女はあなたに、何も求めなかった と
僕の手とバスタオルを握って、ヒスイは言った。
「私は 彼女に
あなたに求めてほしかった。たくさんのことを。
ジェイド。あなたは
自分のために うまく生きられないから」
赤く腫れた、黒い線の翼を見つめていると
やがて それが ぼんやりと曇り出した。
マリア
僕は君が すきだった。どうしようもなく。
********
「で?」
写真のマリアから眼を上げると
ルカと泰河が、じっと僕を見ていた。
「だいぶ黙ってたけど、もしかして
おまえ今、浸ってただけ?」
「ジェイドが、マリアのこと話すのかと思って
ずーっと、待ってたんだけど
当時のエピソードとか 何かないのかよ?」
朋樹が 泰河に「 “イルマ” って呼べよ」と言う。
... これは、霊視 したのだろうか?
隣に座る 朋樹を見ると
「さっき、ヒスイがそう言っただろ」と
ムッとしているが
「彼女は ステキな女性だったわ」と
ヒスイが、朋樹の向こう側から言った。
「清らかで、慎み深い人だった。
私が出会った誰よりも。
彼女の静かな眼が、とても好きだったの」
「なんか、ヒスイの彼女の話みてぇじゃん」
ルカがアルバムに手を置く。
「そうね。単に
普通の友達とは、彼女は違った。
私は 彼女に憧れていたわ。
彼女は 私が泣くと、泣き止むのを待って
私の額に、自分の額をくっつけてくれた 」
「そんなことが あったのか?」
僕が、朋樹越しに ヒスイを見ると
「ジェイド。あなた
この頃の自分のこと 忘れたの?」と 僕を睨む。
忘れちゃいないけど
少し羨ましかっただけだ。
「あなた、この頃は
週の半分も
あなたが楽しんでた悪いことだとか
ケンカの傷だとかを見る度
お母さんは心配して、よく泣いてたのよ。
そのくせ、一人で生きてるような顔して... 」
わかった、と 僕が止める前に
「わかった、ヒスイ」
「ごめん。やめてくれ」と、泰河とルカが言う。
「なんか 聞いててさ、胸 痛くなってきた」
「もうちゃんと、反省してるしよー... 」
「つまり、あなたたちも
ジェイドと似たり寄ったりだったのね」
「あなたは?」と、ヒスイは朋樹に眼を向ける。
「いや、オレは... 」
「ヒスイ。朋樹はオレの幼馴染みだぜ?」
「わかるよな、そりゃあ」
「朋樹は僕と同じで、退屈が嫌いなんだ」
とりあえずは、ヒスイの説教は免れた。
そして、マリアの話も。
********
「あっという間だったよなー... 」
僕の家には 二泊して、今日は もう日本へ戻る。
「オレは、また来月 来るよ」と、朋樹は
ヒスイを喜ばせているが。
今は、ローマの空港の近くのバールで
ピザを食べている。
「ジェイド?」
声を掛けられて顔を向け、僕は 椅子を立った。
「ユーリ!」
すぐに戻る、と 僕は ユーリと外へ出た。
「久しぶりだな」
明るい顔で、持帰りのコーヒーを口にする。
ユーリは変わった。
僕は、あの頃
ユーリが、ブルーノのようになるのではないかと
思っていたが。
「本当に 神父になったんだな」
どうして わかったのかと、不思議だった。
もちろん、
テーブルで 一緒にいたのも
ヒスイ以外は日本人。
僕が、何故わかったのかを聞く前に
「雰囲気だよ」と、ユーリは言った。
「ユーリは?」
「教師」
言葉が出なかった。
嘘だ とまでは思わなかったけど
意外過ぎて、本当か? とも聞けなくて。
「あの頃の俺らみたいのを相手にしてるんだ。
まったく 疲れる」と
ユーリは、明るい顔で笑った。
そして、アロルドは
まだ大学で研究をしているらしい。
「アロルドが研究だって?! 何の?」
「ミドリムシ」
僕らは、あの頃みたいに笑った。
「日本にいるのか... 」
「いつか遊びに来いよ。アロルドと。
僕は、ミドリムシの話が聞きたい」
「まとまった休みが取れればな」と
ため息をついてみせるが、楽しそうに見える。
「しかし、教師になるとは。意外だ」
ユーリは、僕の眼を見た。
「フリオがさ」
左胸の裂目の下で
心臓が少し揺れた気がした。
「言ってたんだよ。先生になりたい、って。
俺は、なりたいものがなかったら
その目標を もらったんだ」
フリオ
僕は まだ、そう口に出すと、声が震える。
教会で ひとり、フリオのことを祈る時も。
「あいつさ、喜んでると思う。
おまえが 神父になって」
僕が、マリアといた間
3人は、あの倉庫でビールを飲んでいた。
“ぼくは、先生になりたいんだ。
先生は 家族と違って、ぼくの話を聞いてくれるから、次は、ぼくが聞く番になる”
“なれると思うぜ”
“俺は、探検家か研究員。何のなのかは 未定”
“ジェイドは、何になりたいんだろう?
ぼくは、神父が似合うと思うけど”
その時は、ユーリもアロルドも
大笑いしたようだ。
「子供の時に、教会で
おまえが 詩編を朗読したのを
聞いたことがある って言ってて」
“ヨハネの手紙だった。
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちを
お捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです... ”
... ですから私たちは、兄弟のために
いのちを捨てるべきです。
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に
どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。
私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず
行いと真実をもって愛そうではありませんか...
“ぼくは、教会の神父の話を
いつもは あまり聞いてなかったんだ。
まだ子供だったしね。
でも この ヨハネの手紙は、ジェイドの声で
ぼくに届いた。
ぼくは この時に、兄弟が欲しいと思ったんだ。
弟はいるけど、君たちみたいなさ... ”
僕らは、今よりずっと 子供だった。
言葉は、言葉の通りに受け止めていた。
「まっすぐなヤツだったよな。
だが、それでいい。俺も そう生きる」
バールのドアが開いて、朋樹が出て来た。
「ジェイド、そろそろ... 」と、僕に言い
ユーリに会釈している。
「またな」
ユーリは、僕と朋樹に手を振り
通りを歩いて行った。
懐かしい背中を見送っていると
「ジェイド」と、朋樹が呼ぶ。
朋樹は、通りの向かいに視線を向けていた。
その視線の先には
どこかへ出掛けた帰りといった風の
白い風船を持った 小さな男の子を抱く マリア。
マリアは、腕の中に抱いた男の子に
優しい笑顔を向けて
向かいの通りを歩いていく。
「いいのか?」
朋樹が 僕に聞く。
「いいんだ」
ダークブラウンの髪の後ろ姿。
思えば僕は、マリアの背中を
ちゃんと見たことがなかった。
マリアは、僕の背中ばかりを抱き締めたけど。
風船を持ったまま、マリアの首に両手を回して
抱きついている男の子が、僕の方に視線を向けた。
男の子の指を離れた風船が
夜の空に舞い上がる。
男の子もマリアも、僕も朋樹も
風船を見上げた。
「あーあ... 泣いてるな」
マリアの肩に顔を埋めた男の子を慰めながら
マリアは、通りの角を曲がって行った。
「おい、ジェイド、朋樹ー!」
「もう空港に向かおうぜ。自分の荷物持てよな」
騒がしいことだよな と
バールから出てきた ルカと泰河に
朋樹が ため息をつく。
「だが、僕らは兄弟だ」
ヒスイに眼を向け
「そうだな」と、僕の肩に手を置く朋樹に
「それは まだだ」と答えると
「心の準備が出来たら言えよ」などと言って
肩の手を離し、ヒスイの手を取った。
「行こうぜ。オレ、飛行機 乗り遅れて
空港で寝る とか イヤだしさぁ」
ルカが 僕にスーツケースを渡す。
「そうだな、行こう」
見上げた風船は、もう空の星ほどの大きさだ。
フリオに届くといい
僕も、通りを歩き出した。
******** 「罪の女」 了
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