13


ハーゲンティの首を掴んでいた ジェイドの手は、空中で握られている。


その指の力を抜いて腕を下ろすと、アッシュブロンドの髪が、ソファーの背もたれ越しに振り向いている オレの前まで下り、床に落ちた本を拾う。


「ジェイド おまえ、ハティのこと... 」


ルカが聞くと、ジェイドは

「やってないよ」と、答えた。

どうやら、ハーゲンティは自発的に消えたらしい。


ジェイドは、ふう と小さく息を吐き

まだポカンとしている オレに顔を向け

「泰河、すまない。怪我なんかしてないかな?」と、オレと視線を合わせた。

もう いつものやんわりした眼だ。


「あっ いや、全然」


オレが答えると、ソファの背もたれ越しの

薄いブラウンの眼が安心の色を見せ

「よかった」と笑った。


いや、オレも 今 ‘’よかった‘’ だけどな...


そのまま今度は、まだ突っ立ったままの朋樹を見上げる。


「朋樹にも、恥ずかしいところを見せたね」


「えっ? いや、気にしないでくれ」

朋樹が 慌てて言うと

「ハティ自身のことは 黙認してるんだけど

ここは元々、前神父の家だから... 」と。

ああ、そうか...

オレも朋樹も ちょっと納得した。


前の神父は、ハーゲンティの配下の悪魔に呪われて倒れた。それが、亡くなった直接の原因ではないかもしれないが。


「ちょっと カッとしちゃって」


あれで ちょっとかよ。

怒りとかじゃなくて、いきなり殺意だったよな。

やばい眼してたぜ。


「落ち着かないとね。

何か飲み物を持ってくるよ。くつろいでて」


ジェイドは オレらに微笑むと、立ち上がってキッチンへ向かった。


あいつは 切れさせちゃいかんな...

なんせ、ルカがキープした以外の 三枚のピザが床に散らばってるしさ。


「驚いたな... 」と、朋樹がぼそっと呟く。


ピザを食い終わったルカは

「あーあ、マルゲリータの魅力... 」と

リビングの棚の引き出しから でかいゴミ袋を取り出して、自分が食ったピザの箱を入れると

部屋に散らばった箱や ピザの片付けを始めた。


「なあ、ルカ。

ジェイドって、キレると ああなんの?」


オレも 片付けを手伝いながら聞いてみる。


「うん。時々しか... って思うだろ?

結構 見たなぁ。

今日は まだ良い方だったから 止めなかったけどー」


マジか...

祓魔 ってのにも納得したが、ギャング って言われても 納得する。


「扱いに注意が必要だな。

普段 すげぇ のんびり穏やかだから、あの眼で見られた時は 誰かと思ったぜ」


どこからかモップ持って来て、床を拭きながら朋樹が言う。


「なんか、ジェイド自身のことでは ああならないんだけどー。

大切なものを侮辱された って感じると マズイね」


「あっ、ごめんね。掃除までさせちゃって」


うおっ、戻ってきた。


ジェイドの手の上のトレイには、ティーポットとカップ、スコーンが乗っている。


「いいけど。おまえ 今度 飯奢れよな。

マルゲリータにも謝れ」


ルカはジェイドに言って、朋樹からモップを受け取り、片付けに行った。


「Mi scusi, Margherita」


ジェイドは ゴミ袋に向かって言うと、ソファーに座るオレと 朋樹のカップに紅茶を注ぎ

スコーンと 一緒に

「甘すぎたかもしれないけど」と

お手製らしいリンゴジャムも勧める。


気を取り直して、シナモンが効いたジャムぬってスコーンを食ってると

ジェイドは ハッと気づいたように オレを見て


「そうだ、泰河!

話せるようになっ て本当に良かった!」と

今さら言った。うん、もう慣れたけどな。




********




「それで、その本は?」と、朋樹が聞く。


ハーゲンティが さっき返却した本が

テーブルの端に置いてある。


「これは、エノク書だよ。

旧約の外典として扱われてるけど」

ジェイドが 本に手を置いた。


「創世記?」


「その 一部 だね」


創世記か... オレには、アダムとエバ とか

ノアの方舟 くらいしか イメージにないな。


「エノクって、天使メタトロンになったんだよな? これ シナモン入れすぎじゃね?」


ルカが 二つ目のスコーンを片手に言う。


「多かったかな? 紅茶に合うと思ったんだ。

そう、エノクがメタトロンに。

そういう説もあるね。

生きたまま神が取られ、神の書記になった、と。

エノクには、他の人たちにあるような 死んだっていう記述がないんだ。

だけど、生まれの記述は 二つある。

カインの子 というものと、ヤレドの子 というもの」


ジェイドが説明しているが、また オレにはサッパリになってきたぜ。

カイン って、弟を殺したってヤツ だっけ?

自分も弟も、神に捧げ物を出したけど

神が、弟の方を手に取ったから... とか。


「カインの子なら、人類初の殺人者の子で

ヤレドの子なら、方舟のノアの先祖になるのか。

エノクって名前で二人いた ってことか?」と

話について行ける朋樹が聞く。


「どうなんだろうね...

エノクという名前は、‘’神に従う者‘’ というような

意味みたいなんだけど」


カインは自分が暮らした町に、息子のエノクという名を付け

ヤレドの子エノクは、神に選ばれて 天使メタトロンになり、またその子孫のノアも選ばれて

方舟で大洪水を逃れた... らしい。


同名の別人ぽい よな。親も違うし生き方も違う。

ただ、どちらも名前は残っている。

どんな環境に生まれても、神に従うべき って ことを言っているんだろうか?

同じヤツが 二回生まれた のか? 違う境遇で。


いや、こういう解釈の仕方は

なんか違う気がする。


ジェイドは、ジャムをぬったスコーンを紅茶で飲み込み

「考えても答えはわからないね。

だから何も感じなくていいってことではないだろうけど。

あまり無責任なことは言えないから、その辺りは置いておくとして

さっき、ハティが出した名前なんだけど... 」と

話を進めた。


シェムハザやアザゼル、というのは

堕天使の名前らしい。


人間を見張る立場の天使達... グリゴリだった

シェムハザやアザゼルと、他 二百人の天使達は

人間の娘を妻にした。


だが生まれた子は、ネフィリムという狂暴な巨人だった。

巨人たちは人間を食べ、争い、共食いまで始め、世界を汚した。


神は怒った。


天使たちが、聖なる霊的な存在から 血肉ある人間と交わって、肉のある存在に自らを貶めたことも。その巨人たちの存在を生み出したことも。


そして人間に、武器や魔術や化粧など、様々な

天の秘密を教えたことも。


神は 大洪水を起こし、世界を 一掃した。


天使たちも 地に繋がれ、炎で焼かれ、天に戻ることは許されなかった。


「そういった記述も、この書の中にあるんだ。

だけど気になったのは、その章の内容の方じゃなくて... 」


ジェイドの言葉に ルカが反応した。


「彼らは見える、ってことか!」


ジェイドが頷く。


「天使は 霊的な存在だから、人には見えないし

触れられないらしいんだよな。

けど、シェムハザやアザゼルたちは違う。

人と交わって、人と同じ血肉を持ったから。

人の眼にも見えるし 触れられる」


ルカが話し終えると、ジェイドはまた頷き

天使が堕ちる ということについて付け加えた。


「大別すると、天使は

嫉妬や慢心によって、神に戦いを挑んで敗れ

追放されて堕ちるケースと

この話のように、自分たちが選んだ結果によって堕ちるケースがある。

そして、自分たちが選んだ結果によって堕ちたケースの場合なら、天使に戻ることが出来る と言われている」


“神の家に 帰りたい”... じゃあ、あの女は


「天使 って、ことか」

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