第8章 黒の夜(5)

(あの時、「カラメルソースを作ってやる」と言えば良かったのだろうか)


 今更、後悔しても意味がない。

 ソルは頭を振る。これは過ぎ去った記憶だ。


 誰かに褒められたのは初めてのことだった。

 あんな純粋な目で褒められると、嫌な気持ちにはならないのだが、たまらなく恥ずかしかった。


 また作って欲しいという彼女の申し出を断った。

 ソルが拒否をして、作り方も忘れたなんて言い出したからエルカは別の結末を考えようとした。


 彼女にとって、は重要な要素の一つだったのかもしれない。


 プリン王子の物語。

 それは、エルカとソルが過ごした思い出の時間が元となっている。

 それは、エルカがソルと家族になるまでの記録でもあった。


 ソルがエルカと一緒にプリンを作った。

 だから、王子は魔法使いの女の子と一緒にプリンを作った。

 ソルがカラメルソースを作ったから、王子もカラメルソースを作る。


 ソルがカラメルソースを作り、ナイトがプリンを作る。

 そんな未来を想像して、エルカが考えた結末は、王子のカラメルソースで皆の心がひとつになるハッピーエンド。


 しかし、ソルは「カラメルソースの作り方を忘れた」と言った。

 ソルが作れないものを、王子は作ることが出来ない。

 空想なのだから、作らせれば良いのに……そう思ってしまったが彼女独自の法則があるのかもしれない。

 だから、王子はカラメルソースを作らない。

 エルカは別の結末を思案することにした。


 そして……


 あの男が現れたのだ。

 ソルにとっては父親だったがエルカにとっては見知らぬ大人の男。


 エルカの思考はそこで停止した。

 ハッピーエンドが脆く崩れ去る。


 あの男が訪れたことで、彼女の目から光が消えた。

 

 エルカはソルの言葉を信じている。

 カラメルソースの作り方を忘れたという言葉も、それが嘘だと気が付いているのに信じてくれた。


 自分の言葉を嘘でも信じてくれる彼女に頼んだ。

 「暴れたのはあの男ではなくソルなのだ」……と。そんなソルの下手な嘘をエルカは信じてくれた。

 やがて彼女はソルと距離を置いて怖がるような表情を見せるようになる。


 あの日、暴れたのはソルだった。

 だから、物語の中で王子は暴れる。


 エルカの日記の中では、その部分は何度も消されたような跡があって、絵もインクで潰されている為、まともに読むことができない。


 あの日、描いた結末は黒いインクで塗り潰されていた。

 インクで潰されていたのは孤独に佇む王子の姿だった。まるで今の彼が置かれている状況だった。闇の中に、ポツリと自分だけがここにいる。


 ソルは孤独になった。

 だから、王子も孤独になったのだろう。

 

 これは正しい結末。それなのに胸が苦しい。

 この結末をインクで潰した理由は何だろうか。


 それは彼女にとって納得できない結末だからだ。


 それまでの彼女は幸せな結末を目指していたのだ。

 ソルと自分たちは必ず仲の良い家族になれると信じて。

 それなのに最後に悲しい結末に至ってしまった。

 それがたまらなく悔しいのだ。


 王子はソルで、ソルは王子。


 本の中にいたエルカの記憶は曖昧で、物語を完全には思い出せていなかった。

 図書室の本を通して檻の中にいるソルの助言を聞いて、物語を進行させていた。

 だから普段の彼女と比べても明るいし、元の場所に戻ることに対しても前向きな姿勢を示していた。


 本の中のプリン王子にはソルとしての記憶はない。


(無意識だった、カラメルソースを作ったら喜んでくれると思って、俺は………)


 ソルの心の奥底では、また作ってやりたいと思っていた。

 その気持ちが、王子の行動に反映されてしまったのだろう。


 ソルとしての記憶がないまま、王子は作っていた。

 彼女を喜ばせるために作ったカラメルソースを作ることで、物語は


(だけど、あれは俺が嫌がった結末だ……そんなのを押し付けてしまった)


 あれはエルカが本当に描きたかった結末。

 だけどソルが否定した結末。

 カラメルソースを作ってハッピーエンドの話を聞いたとき首を傾げた。

 あんな単純な結末がハッピーエンドなのだろうか。


 そのことを、彼女は思い出したのだろう。


(泣かせるつもりはなかったんだ)


 全ての記憶を取り戻したエルカによって物語は強引に結末を迎えた。

 王子がカラメルソースを作ってしまっては物語がハッピーエンドになってしまう。どうしても阻止させたかったのだろう。


 彼女はソルが歪めた展開を、無理矢理バッドエンドに捻じ曲げた。


「いや………まだ、結末は迎えていない」


 静かに立ち上がる。


 漆黒の闇の中にいるのに、少しも恐怖を感じなかった。


 立ち上がったは華やかな王子の姿ではなかった。


 ここはプリン王子として目覚めたときと同じ部屋。

 目の前の大きな鏡台に向かって微笑む。


 鏡に映るのは情けない表情を浮かべた成人男性のソルだった。



***



 物語は完結を迎えた。


 だからエルカが本の世界から解放された。

 それと同時に、ソルも檻の中から解放されている。


 図書棺に戻ったソルは、棺内を走り回る。気味が悪いほどに静寂に包まれた棺内。聞こえるのは、自分の乱暴な足音だけ。幸いなことに、ここにはソルの野蛮さを咎める人間はいなかった。


 自分が何処に向かって走っているのか分からない。とにかく走っていた。走っていれば目指すべき場所に辿り着くような気がしたから足を止めない。本の世界から解放された彼女はまだ図書棺の何処かにいるはずだ。はやく、彼女に会いたかった。


 やがて、ひとつの扉の前で立ち尽くす少女コレットの姿を見つけた。


「……なかなか、手強いわね」


 コレットの視線の先には固く冷たい扉があった。その背中に駆けつけて、静かに息を整える。


「すまない。あいつの側に行かせて貰ったのに、何も出来なかった。余計なことをして、引篭もらせてしまった……泣かせてしまった」


 ソルは深く頭を下げる。まだ脳裏には彼女の泣き顔が浮かんで離れなかった。


「いいえ、エルカの方が上手うわてだっただけでしょう。ソルくんが歪めた展開を、更に捻じ曲げて戻すなんて……困った子ね」

「………ここに篭ったのか」


 コレットが視線を固定したままの扉を、ソルも見る。重い扉の向こう側からは物音ひとつ聞こえてこない。


「そうね……あの子は何かを隠しているみたいね」

「………え?」


「あの子だけが知っていることがあるのよ。それを隠す為に……あの子はここに篭るつもりね……まぁ、別の理由もあるでしょうけど」


 コレットは意味深な表情をソルに向けた。


「あいつだけが知っていること?」


「事件の真相よ」


「それは、俺が……」

「それは、貴方の言い分よ。あの子が語れば別の物語に変わるのよ」


 コレットの声がソルの言葉を遮る。その先を言わせないように、力強い瞳がソルを見据えた。


「………」

「ソルくん……鍵は持っている?」

「え?」


「お父様……エルカのお爺様から預かっている……御守りの鍵」


 御守りと言われて首に下げている鍵を取り出すと、コレットが「そう、それよ」と笑みを浮かべた。


「でも、これは図書棺に入る時に使った鍵だぞ」

「これは図書棺の鍵ではないわ。魔法の鍵よ」


「………魔法の鍵」

「まず言わないといけないことがあるの。この図書棺はエルカの魔法によるものなの」

「え?」


 ソルは目を見張る。エルカは閉じ込められたのではない。

 閉じ篭ったということなのだろうか。


「あの子の心が生み出した、自分が引き篭もる為の空間と言った方がソルくんには分かりやすいかしら」

「引き篭もる為の?」


「地下書庫を失った彼女は、代わりになる場所を自分の心の中に造った……ってところね。この中に、入ってもらうわ」


 扉を指差してコレットが妖艶な笑みを浮かべる。


「待てよ……あいつの心に踏み込めってことか?」


 これ以上、彼女の心に踏み込むのは危険だ。さっきのように泣かれるかもしれない。それよりも酷い思いをさせてしまう。


 今度は心を壊してしまうかもしれない。

 躊躇するソルの手を、コレットの手が包み込む。


 それは冷たい手だった。


 コレットの手は震えていた。娘を喪うかもしれない、その状況を怯えているのかもしれない。


「あの子が拒まない限りは……その鍵で開けることが出来るわ。今ならまだ、貴方のことは拒まないはず。あの子は誰かが手を引っ張ってあげなきゃ這い上がれないの。だから、お願い」


「貴女がやればいいだろ‼」


「残念ながら私は拒まれる。今のエルカにとっての家族はソルくんと、ナイトくんだけだから……ね。今、ここにいるのは貴方なのよ。あの子の兄として、行ってあげて」


「……わかったよ。俺で出来ることなら」


 視線に押されながら、ソルは自分の意思で頷いていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます