第18章 開かれた未来(1)

■■■


 この世界は不公平だ。


 不条理で優しくない世界。


 こんな世界から逃げ出したかった。


 だけど、


 逃げてしまったら気が付くことが出来なかっただろう。


 私が欲しかった【優しさ】はすぐ側に在った。

 手を伸ばせば届く場所、触れることが出来る場所に。


 私の側には過保護すぎる兄がいたし。

 不器用だけど本当は優しい兄もいた。

 学校には手を差し伸べてくれる友達がいた。

 幼い頃は祖父が護ってくれた。

 母が残してくれた本は私の心を落ち着かせてくれた。


 私は、みんなの【優しさ】に護られていたみたい。


 目に見えているのに、見えていなかった。


 ここは、優しくない世界なんかじゃなかった。


 それなのに……


 私はこの世界から逃げようとした。


 そこに在った小さな【優しさ】からも、


 私なんか、誰も助けてなんかくれないのだと思い込んで

 逃げようとしていた。


 この図書棺の中で私は変われたような気がする。

 少しだけ、強くなれた気がする。


 今まで知らなかったことを知ることが出来た。

 伝えられなかったことを、伝えることが出来た。


 ずいぶん長い時間を図書棺で過ごしたような気がする。

 成長するのには十分すぎる時間を。



■■■



 眠りから目が覚めたエルカが身を起こすと、微笑を浮かべたコレットの姿が目に入った。ナイトとソルの姿は見当たらない。白を基調とした壁に囲まれた部屋は病室なのだろう。


 カチカチ


 聞こえてくるのは、規則的な時計の秒針の音。

 その音を聞きながら自分の置かれている状況を少しずつ理解する。

 ソルによって火事の中から救助された。

 そして、ここに運び込まれたのだ。


「おかえりなさい」

 コレットはそう言ってエルカの頭を撫でる。

 何故だろうか。

 他人に触れられる感覚が嫌ではなかった。むしろ心地がよくてエルカは目を細める。覚えていないぐらい幼い頃にもこうやって彼女に頭を撫でられたことがあるのかもしれない。記憶になくとも身体が覚えているのだ。


「………ただいま」


 だけど、今まで離れていた母親に対して素直に「嬉しい」という感情を見せるのは恥ずかしい。エルカは無表情を浮かべる。

 素っ気ない娘の返事にコレットは満足したように頷いた。


 視線を動かす。

 枕元にはノートと本が置いてあった。どちらもエルカにとっては大切なものだった。それを確認して安堵すると、視線を左右に動かした。


「よく寝ていたわね。三日も」

「え? あの事件って三日前だったの?」

 目を瞬かせる娘にコレットは大きな溜息と共に説明してくれた

と、では時間の流れが異なるのよ」


 図書棺の中で本を読んだ。

 子供の頃に空想した物語の中で過ごした。

 半年前の出来事を追憶した。

 父親の過去を見た。


 それらの出来事は眠っていた三日の間に経験したことになる。


「私、ひと月ぐらいは向こうにいたような気がするのだけど……三日しか経っていなかったのね。もの凄く変な感じ。魔法は理解できないね」

「魔女の娘が何を言い出すのよ。そういう空間だから早く連れ戻したかったのよ。感覚が麻痺して戻れなくなってしまう前に。それにしても、私と別れてからすぐに来るかと思ったけど……時間がかかったみたいね? 

どこで寄り道してきたんだか」


 エルカはビクリとした。あそこで父親マースと会った事を知ったら、彼女はどう思うのだろう。ジッと見上げる。

 コレットがマースをどう思っているのかは分からない。


 そこは知ってはいけないような気がする。だから、父親と会ったことは口にしない。例え彼女にバレているのだとしても、エルカの口からは言わない。


「やり残したことがあったの。あの時を逃したら後悔してしまうことが」

「それじゃあ仕方がないわね……それで、自分のとった行動に悔いはない?」

「もちろん」

「なら、私からは何も言わないわ」


 コレットは小さく頷いて一歩下がる。

 そして、更に一歩下がり身を翻すと背中を向けられた。


 そのまま、部屋から出て行ってしまうような気がした。

 もう戻ってこないような気がした。


 待って!


 その言葉が喉の奥に引っ掛かって出てこない。


 ダメだ……


 エルカは拳を握り、奥歯を噛みしめてから、バッと顔を上げる。


「コレット!」


 ようやく紡ぎ出した声にコレットは足を止める。

 

「………」

「……あのね、そのやり残したこと……まだ、終わってない……」

「そうなの?」


 コレットが振り返り、もう一度エルカに視線を向けた。

 エルカは小さく深呼吸して、マースにしたものと同じ言葉を口にする。


「私が生まれた時、コレットは……どう思ったの?」


 言葉にすることが怖かった。

 だから図書棺の中では、素直になれなくて聞くことが出来なかった。


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