第4部 絆の邂逅

第16章 魂の懺悔(1)


 二人の前に鏡が現れた。

 それは鏡の姿をした扉。

 この扉にはエルカとルイが映っている。

 ドアノブがなければ、それが扉とは思わなかっただろう。


 この扉を開けば……


 この魔法の図書棺から抜け出すことが出来る。

 眠りから身体が目覚める。

 そして、現実と向き合うのだ。


(現実………怖いけど、彼がいるのなら大丈夫)


 エルカの視線は隣に向けられた。傍らに立つルイも同じように扉を見上げている。一人ではない、特別な友達が側にいてくれる。

 過保護な兄と不器用な兄、血は繋がっていない二人の兄だって待っている。唯一の血縁者である母親も多分待っているだろう。


(待っている人たちがいるから、大丈夫)


 エルカは扉を凝視したまま立ち尽くしていた。戻る覚悟は固まっている。


 それでも……

 足を踏み出せない理由は単純だった。


(……無理だよ……)


 視線を本棚に映す。壁一面の本棚、そこにビッシリと収められた本の背表紙がキラキラと輝いていて見えた。


「ハハハ」


 突然、ルイが笑い出した。

「笑わないでよ……何も言ってないのに」

 ルイにはエルカの頭の中が御見通しだったようだ。共に過ごした時間は少ない。だけど、濃い時間を過ごして来た仲だった。

「この部屋にある本が気になるのかもしれない。だけど現実世界にも面白い本はたくさんあるわけだからさ。それを期待して、先に行こう」

 そう言ってルイは手を差し伸べる。

 その仕草にエルカは目を見張る。きっと無意識なのだろう。彼のその行動は、物語の王子様が手を差し伸べるその仕草だった。

 それを言えば、気まずくなる気がしてエルカは視線をそらす。

 その手を取れば自分の心臓が持たない気がした。

 彼の手はそのまま放置された。

「………そ、それは、分かるけど」

「まぁ、気持ちはわかるけどさ」

 ルイは差し伸べた手を下ろして本棚を見渡す。エルカも改めて本棚を見上げる。ここには、今離れたら二度と読めないものもたくさんあるのだ。

「ここに在る本は現実世界には存在しない本だってあるの」

「そうだな」

「未発表のミステリー小説があったら読みたいよね?」

「読みたいけど。それでも我慢しないと」

 探偵小説が好きなルイの気を引こうとしたが無理だった。

 それでもルイは無理にエルカを帰らせるつもりはないらしい。エルカが自分で帰ることを決断するまで待っている。だから、ついその優しさに甘えてしまう。ダメだな、と思いながらもエルカはその優しさに甘えることにした。


「あのね、他にもあるの」


「え?」

 低めの声でエルカはルイを見上げた。

「………誰かが遺した思い……それも、ここに在るの」

「…………え?」

 暗い瞳で見つめられたルイが息を飲む。

「………ここに在って欲しい」

「?」

 エルカはここではない遠くを見ながら呟く。

「私ね、ここに在って欲しい本があるの。人は死ねば本になる、それが本当なら、ここに在るはず。私は、あの人の本が読みたいの」


 その瞬間、バサッと何かが落ちる音がしたので二人は同時に振り返った。


「本? どこから」

 先ほどまで、何もなかった床に本が横たわる。一体、どの棚から落ちて来たのだろう。ルイは本棚を見上げる。エルカは吸い寄せられるように本に近付くと屈んで拾い上げた。

 そして、眉根を寄せる。

「………これって……」

「エルカ?」

 心配そうに覗き込むルイを見上げて、拾った本を見せた。


「本のタイトルは………懺悔」


 落ちていた本のタイトルは【懺悔】。著者はマース・フラン。


「ね、最後に一冊だけ読んでも良いかな?」

「え?」

「これは………私の父の本なの」

「………でも、君の父親は……」

「そうだよ、彼は私を売ろうとしていた。私を愛していなかった。だけどね………私は彼の口から直接、否定されたことはなかった」

 ひねくれた思考だとエルカは思っていた。

 だけど本当のことだった。

 エルカは一度も父親から否定されたことはなかった。

 冷たい言葉だってかけられたことがなかった。冷たい言葉を投げてくるのは義母だった。売ろうとしていたのは義母で、その話を進めていたのも義母だった。


 父親は子供を売ることについては乗り気ではなかった気がする。愛していなかったというのは、ただの思い込み。


 これは都合のよい妄想なのだろう。


「父親の顔を見るのも辛かったんだろ?」

 その言葉にエルカは控えめに頷く。

「でも、私に汚い言葉をぶつけていたのは、あの女だった。もちろん理解はしているよ。本当に彼は私を嫌っていたのかもしれない。言葉を交わしたくないほどにね……その可能性も十分にあるってことぐらいは」

「本当に嫌っていたのだとしたら……大丈夫なのか」

「大丈夫じゃないかもしれない。だけど、こんな曖昧な気持ちのまま生きていくのも辛いから。ずっと、分からなかったの。父さんの心が……それが分かるのなら……」


 本を持つ手が震える。

 きっと、何も知らないままの方が良いのだ。ルイが心配そうな視線を向けているのがわかる。


「でも……」

「だって本のタイトルが【懺悔】なんだよ。これは、私を傷つける本ではないかもしれない」

「誰に対する懺悔なのか……分からないのに大丈夫なのか」

「わからないよ。だけど、このまま目を背けたら、きっと後悔するから……読みたいの。後悔はしたくないの」

 ルイのように、エルカも後悔はしたくなかった。そう告げれば優しい彼はエルカを止めないだろう。

 これは、きっと父親と向き合う最後のチャンスなのかもしれない。

 ルイはしばらくの沈黙の後、エルカの頭に手を乗せて微笑した。

「わかったよ。どうなっても、僕は味方だから…………頼れよな」

「ありがとう。じゃあ、早速だけど……隣にいてもらえるかな? 一人で読むのはやっぱり不安だから」

「了解」

 再び、並んでソファーに座る。

 彼が隣にいるだけで安心できた。温もりが側にあるだけで勇気が少しだけ湧いた気がする。エルカは両手で本を持ち、その表紙をジッと見ていた。


 深呼吸をしてから、表紙に触れた時、

 

「え?」


 誰かが本を取り上げた。


 誰が?


 エルカが静かに顔を上げると、有り得ない人がそこにいたのだ。


「ちょっと待った!」


 男の声にエルカはハッとした。

 その声はずっと昔に聞いた声だった気がする。


 突然現れたその人物を、思わず頭から足の先までジッと見てしまった。

 ボサボサの深緑の髪に、青い瞳、眼鏡、ヒョロッとした頼りない体系の優男が立っている。その人の正体は……


「……父さん?」

「ああ、久しぶりだね」

「………お、驚いた。そんな爽やかな笑顔が出来たのね」

「え? 驚くところ、そこかな」

 エルカの知る彼には表情らしい表情がなかった。

「声ももっと低かった……気がする」

 小さくて聞き取れないような声だった。

「そうだったかもしれないね。でも、これが本来の姿だ。君の知るボクは……すでに組織に毒されていたからね。本当のボクを知らなくて当然だよ」

「組織?」

「ああ悪い組織だ」

「………」

 知らない単語に首を傾げると、苦しそうな視線を向けられた。エルカはその声に耳を傾ける。その声が少しだけ、祖父に似ているから懐かしいと思った。

「さて……謝罪しても許されないことを君たち家族にしてきたね」

「……そうだね。子供を放って、女と遊んで、お爺様のお金を使い尽くして、血の繋がらない形式上の息子の収入を当てにして、挙句の果てに自分の子供を売ろうだなんて最低最悪だよね」

「ああ……酷いことをしてきた」

 エルカの告げた事実に対して、マースは苦虫を噛みしめたような表情を浮かべた。少しも否定はしなかった。

「………」

「さて、この本が語るのは、君が生まれる以前の話だ。だから本当なら知る必要のないことだ」


 それはエルカが幼い頃から抱いていた疑問。どうして、マースとコレットは娘を捨てたのだろうか。愛し合ってもいなかったのに、どうして娘を授かったのか。

 何の為に自分が生れたのか。


「………それは、貴方が私を捨てるに至った経緯ってこと?」

「そういうことになるかな。君が知れば、君はボクを許さないだろう」

「許すか、どうかは私が決めることだよ。知る必要がなくても、私は知りたい。何も知らないままだと、恨むことも許すことも出来ないから」

 エルカは拳を握りしめて、まっすぐ父親の目を見る。娘の強い瞳を受け、マースは大きく頷いた。

「……人は死ぬと本になる。親父の言う通り、ボクは本になったらしい」

「………じゃあ、本になって私の手元に現れた理由は?」

 本になるだけなら本棚の中に大人しく収まっていれば良い。それなのに、マースの本はわざわざエルカに気付かせるように現れた。

「………」

「知って欲しいのね。その閉ざされた過去を。だから、貴方の本は存在をアピールした。私が気付くように」

「ああ、そうだね。このまま終わらせたくなかった。でも、この事実は重い。無理にとは言わない」

「教えて!」

 エルカは改めてマースを見上げる。

 やはり親子なのだろう、目が祖父に似ている気がした。そう思うと、その瞳を顔を見ることが苦しくない。

 義母の顔は睨まれるのが怖くて見れなかった。だけど、マースの顔はどんなに見ても目を合わせてくれなかった。ようやく見ることができた。その瞳をみつめる。

「辛い話になるよ。君に知って欲しいというのはボクの望みだ。その望みを君が叶える必要はない」

「私の望みは真実を知ることだよ。大丈夫……私には味方がいるから」

 それまで黙って父と娘の会話を見ていた友人が力強く頷いた。エルカの手はルイの手を握っていた。そうしなければ不安になってしまうのだ。

「わかったよ。それを見ながら聞いてくれ」

 マースは持っていた本をエルカに手渡すと両手を広げた。高らかとした声で彼は

命じる。


「さぁ、開いて。ボクが語る。これは過去の物語だ」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます