第13章 思い出のハジマリ(2)

 エルカは少しだけ後悔していた。

 本を抱える両手が痛い。一度に持ち運ぶなんて無謀だったようだ。

 一歩進むごとに重みが増しているような錯覚を抱いていた。


 この辞書には鉛でも仕込まれているのではないだろうか。

 エルカがそんな疑いを持ち始めた時、背後から声がかけられた。


「いいかな?」

「……っ」


 図書室は、まだ先だというのに油断をしていた。

 声をかけられたことに驚いて、バランスを崩してしまう。

 積み重ねられた本の数冊が、スッと斜めに落ちていく。


 いけない!

 このままでは床に落ちてしまう。


 辞書はスローモーションのように床に吸い寄せられる。

 落ちて破損してしまったら……


 そう思ったけれど、両手は塞がったまま。

 どうすることも出来なかった。


「……っと」


 本が床に落ちる直前だった。

 声をかけてきた少年の手が間一髪で本を受け止めた。


「大丈夫か? 半分持つよ」


 拾い上げた数冊を持って、微笑む少年をエルカは警戒するように睨む。

 黒い髪に黒い瞳の少年は、どこかで見たことがあるような気がした。

 他人の顔をいちいち覚えていないエルカにとって、自分と家族以外の他人は全て警戒の対象だ。


「ダメ!」

「え?」


 強く拒否された少年が目を瞬かせた。

 エルカは少し考えてから言葉を続ける。

 ここで彼を怒らせて、女王様に告げ口でもされたら大変だ。


 慎重にならなければならない。


「あ……怒らないで……ください。これは私が頼まれたことなの……です。だからあなたが持ったらダメ……って言いたかっただけです。ごめんなさい」


 どうにか声を出して、伝えたい言葉を口にする。ちゃんと伝わっているのかは、分からないが彼を怒らせてはいけない、とエルカは感じていた。


「頼まれたって……どう見ても嫌がらせだろ?」

「………」


 エルカもそれぐらいは自覚している。言われなくても分かっているし、傍から見ても分かりやすいだろう。

 エルカが彼女たちから嫌がらせを受けることは周知の事実。

 周囲は見て見ぬふりをして、何かをしてくれたことはない。

 それが当然だった。

 だから、他人に指摘されたことがなかった。

 こういう時、どう反応すれば良いのか分からない。

 少年は軽く息を吐いて、呆れたという顔をする。


「じれったいなぁ……そんなに持っていたら、また落とすだろ?」

「あ」


 言いながら、エルカの手にあった本をスッと持ち上げる。

 あまりにも素早い動作に驚いたエルカは、茫然と立ち尽くしていた。

 見上げると、彼の苦笑が目に映った。


「あいつらのことなんか気にするなよ」

「で、でも」

「僕が勝手に持っているんだからさ。うわ……こんなの持っていたのか? 重かっただろ?」

「………うん」


 流石に無理に抱え過ぎたとは思う。だけど、借りていた本の続きが気になっていた。それに数冊を教室に残していけば女王様たちから嫌味を言われる気がしたのだ。


「まぁ、一度に持って行かないと嫌味言ってきそうだからな」

「………だから、私が持たないと」

「だからって……君みたいな子に、こんな重いもの持たせられるかよ」

「で、でも……そんなことをすれば……あなたが苛められますよ」

「そんなのは怖くない」


 少年はきっぱりとそう言った。

 そして、こちらを安心させるような笑みを見せる。


「本当に良いの?」

「もちろん」

「あ、ありがとう……」

「いえいえ」


 本は全て彼の手にあった。

 エルカが苦労して持ち歩いていた本を、彼は軽々と持っている。

 これが、男と女の差なのだろうか。


 でも……


(私に優しい人間がいるなんて……信じられない)


 エルカは他人を信じられない性格だった。

 兄のナイトに言い聞かされていたこともある。


「無闇に人を信じるな」と……そう言い聞かされていた。

 だから、油断は出来ない。


(こういう親切も。きっと嫌がらせの一種だよね)


 彼が本を落として、それが破損したら………

 全部エルカの所為になってしまう。

 教師たちに叱られ、あの子たちに笑われる。


(それに、本を傷つけるなんて出来ない)


 慎重に彼を見る。


「………」

「そんなに怖い顔するなって……落とさないから心配するなよ」

「本当ですか? 信じられない」

「本当だから、信じてくれ」

 あまりにも真剣な表情で告げられたので、エルカは静かに頷いた。

「……わかりました」

「それで、これは図書室で良いのか?」

「はい」


 エルカは少年と並んで歩きだした。

 学校の廊下を誰かと並んで歩くなんて初めてだったので、少しだけ緊張する。


 少年の表情も心なしか緊張していた。

 こちらは、女の子と並んで歩くことに対する緊張。

 緊張をほぐそうと考えた少年が口を開く。


「いつも思うけど、下らない嫌がらせだよな? 今回はどうして辞書を運ぶことになったか聞いても良いかな」

「私………放課後は図書室で本を読んでいます。それはみんなが知っていることですよね。だから、図書室に行くなら、ついでに持って行ってって………」

「言われたのか?」

「………うん」


「はぁ? 酷くないか‼」


「……っ」

 強く声を放ったので、思わずビクリとした。

 だけど、それはエルカに向けられた言葉じゃなかった。

 だから、余計に驚いてしまった。

「みんな、忙しいから仕方ないです」

「忙しいって?」

「…………きっと……忙しいから……」

 彼女がたちが何をしているのか、エルカは知らない。

 きっと遊ぶための時間が忙しいのだろう。

 周囲に誰がいるのか分からない。そんな状況で彼女たちを批判する言葉は避けたかった。エルカは慎重に言葉を選んでいた。

「あいつら、校門でバカ騒ぎしていたけど、あれが忙しいのか? 女ってわからないな…………って、君に言っても意味ないか、大声出してごめん。なんだか、驚かせてばっかりで、本当にごめんな」


(この人………あの子たちのことを怒っている?)


(私………謝罪された………よね)


 こんなことは初めてだった。

 この校内で、エルカの前で誰かの悪口を言う人なんて……

 謝罪の言葉を述べる人がいるなんて……


 胸の奥が暖かくなった。

 そう思ったら彼に対する警戒心が急速に溶けていく。


(この人は、大丈夫かもしれない)


 エルカは覗き込むように少年を見上げると、口元に笑みを浮かべる。


「そんなことないです。ありがとうございます」

「………っ」

「うん? どうしたの」

 急に顔を赤くする少年にエルカは首を傾げた。

「……笑えるんだね」

「笑えます。人間だし」

 失敬な。

 エルカは眉間に皺を寄せて、彼を睨む。

「………笑った方が、良いよ」

「え?」

「その………君は笑った方が………良い顔をしているって思う。その顔は好きだな」

「………っ」


 突然、何を言い出すのだろうか。


 そんなことを言い出すものだから、エルカの顔も赤くなる。

 無意識に両手で顔を覆う。


「あなた、目が悪いんじゃないですか? どこをどう見れば、そんな言葉……」

「視力は良いよ。本当のことだ」

「そんなこと………誰にも言われたことが……ないです」

「そ、そうなのか? ごめん……戸惑うようなこと言って……ごめん」

「あ、謝らなくても良い……です。謝りすぎ……です」

「そっか?」

「お、男の子ってもっと怖いのかと思っていました」


 女子生徒たちは、嫌がらせばかりしてくる。

 男子生徒たちは、遠目で見ているだけで何を考えているのか分からない。


「怖いのは女の方だと思うぞ」

「……私も怖い?」

「お前は全然怖くないさ……むしろ…………」

「むしろ?」


 少年は、ジーっとエルカを見る。

 身長は低い。他の女子たちと比べても小柄だと思う。

 外見が幼いから同じ歳とは思えない。


「…………弱そうだ」

「うーん…………間違いではないけど。ちょっと酷いです」

「ごめん、ごめん。あ、図書室についたな」

「うん、ありがとうございます。後は司書さんにも手伝ってもらうので大丈夫です。えっと………」

「ルイだよ。クラスメイトの名前、覚えたらどうだ?」

「クラスメイトの顔は同じ顔にしか見えないです」

「おいおい」

「だって、覚える必要なんてないですから」

「そうだけど、少し寂しいぞ」

「ごめんなさい。でも、大丈夫。あなたのこと……、ちゃんと覚えた……です」


 そう言って、ルイを正面から見る。

 この顏を目に焼き付ける。

 この人は優しい人だから大丈夫だと、心に刻み込む。


「あ……それと、さ……敬語、慣れていないならやめなよ。なんか変な感じなんだよな」

「でも……男の人だし。知らない男と話すときは隙を見せるなと言われてます」

「男だからって敬語にする必要ないだろ。クラスメイトなんだぞ」

「………わかった。ありがとう、ルイくん」


 エルカが名前を呼ぶと、ルイは目を見張った。


 エルカは首を傾げる。

 そしてあることに気付いて口に手を当てた。


(……家族以外の人の名前……呼んだのって……久しぶり)


 そう思ったら、恥ずかしさが膨らんできた。

 一方のルイもあることに気付いて、顔を強張らせていた。


(名前……初めて呼ばれた……クラスの女たちに名前を呼ばれていたけど……やっぱり違う)


(この感じは)

(この気持ちは)


 くすぐったい。


 二人は、ハッとして視線を交わして、そして微笑み合う。


「気にするなって、何かあったらいつでも声かけろよな。エルカ」

「うん。わかったよ、ルイくん」


 それは、初めて言葉を交わした日の記憶。

 二人の心が繋がった、はじまりの日の、いつもよりも暖かい放課後の思い出。


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