第13章 思い出のハジマリ(1)


+++


 教壇に立つ教師は、手にした教本の内容を読み上げていた。

 生徒たちの中で、それを聞いているのは何人だろうか。


 笑い声が響き渡る。

 裕福な家庭で育つ彼女たちは後方の席に固まっていて、教本すら開いていない様子だ。真剣に読み上げる教師の声が聞こえないぐらいに、五月蠅い声だった。


 誰も咎めないのは、彼女たちの親が街の権力者だから。

 彼女たちを怒らせれば、教師の首なんていとも簡単に切断されてしまう。

 だから、教師は彼女たちを放置して意味のない授業を続ける。


 口から紡ぎ出される言葉は呪詛のように。

 彼らは授業という時間が過ぎ去るのを待っていた。

 

 エルカも授業の内容を真面目には聞いてはいない。

 頭の中にあるのは、読みかけの本の続きだった。あの後、どんな展開が待っているのだろうか。それを考えると胸が高鳴る。


 終業のチャイムが鳴ると、教師は逃げるように教室を出て行った。


(やっと、授業が終わった)


 チャイムの音を聞いたエルカは顔を上げる。

 この音色が校舎に鳴り響く時間を、誰もが心待ちにしていた。

 エルカは図書室に向かう準備を手早く始めた。


 教室は居心地が悪い。

 その理由は、息苦しい空気が充満しているから。

 少しでも早く、この教室から出たかったのだ。

 早く、早く、急がなければ……


(……)


 エルカはふと、手を止めた。


 嫌な感じの気配が近づく。

 ペタペタとした足音が聞こえた。


 その音に、吐き気を感じる。額と背中にジワッと冷たい汗が流れた。


 濁った、生ぬるい気配を感じる。

 何かを悟ったエルカは静かに、振り返る。

 振り返りたくはなかった。だけど、身体は自然に振り返る。


「………」

「ごめんね。図書室に行くなら、これもお願いできる?」


「………」


 そこには女子生徒の微笑があった。この教室の女王様。権力者の娘。その手には分厚い本が一冊。その本を返却してこいと言いたいのだろう。


 彼女の名前をエルカは知らない。知る必要がないから覚えてはいなかった。分かるのは、このクラスで一番のお金持ちで、親が偉いだけの女王様。


「良いわよね?」


 念を入れるように蛇のような笑みを浮かべる。


 彼女から漂う鼻が曲がりそうな臭いは化粧なのか香水なのか。ファッションに興味のないエルカには分からない。はっきり言えることは、色々な臭いが混ざり合っていて、これが良い匂いだとは信じがたいということ。


 化粧も香水も校則違反だった。

 だけど彼女を叱れる教師などいなかった。


「……いいけど」


 拒否権なんて、はじめからないのだ。拒否を示せば、殴られることは目に見えている。早く彼女たちを遠ざけたい。


 その為には、大人しく従う方が賢い。

 彼女から一冊の本を手渡された。それは、辞書だった。


「あ、私のも頼むわ」


 取り巻きの生徒たちが、私も、私もと容赦なく辞書を重ねる。ずっしりとした重みに眉根を寄せると、彼女たちは意地の悪い笑みを浮かべた。


 わかりやすい嫌がらせだったのだが、エルカは無表情で応じる。ここで言い返しても何も変わらないから。


「じゃ、頼んだよ」

「廊下に落としたりしたら駄目だからね」

「……うん」


 頷くのを確認もせずに、女子生徒たちは笑いながら去っていった。

 その背中を静かに睨みつける。


(辞書って貸出禁止のはずだけど……………って言える度胸がないから……………大人しく嫌がらせを受けるしかないね)


 睨んでいることがバレたら、もっと酷い目にあうだろう。

 受け取った九冊の辞書を机の上に乗せる。そこに借りていた本を乗せた。

 この本の続きを早く読みたいのだと思い出すと、先ほどまで抱いていた不快感が薄れる。


 ため息をついてから鞄を肩に下げて、積み上げられた冊の本を持ち上げた。

 少し重いかな、と思いながらエルカはゆっくりとした足取りで歩きだす。本の続きを早く読むためには、一度に運ばなければならないのだ。



*


 エルカは、廊下の端を歩いていた。

 校内では、なるべく気配を消して過ごしていた。なるべく他人と関わらないように。他人と関わっても良いことなんて何もないのだから。


 だけど、持って生まれた容姿までは消せるものではなかった。


 透き通るようなエメラルド色の髪。

 本人は奇妙な容姿だと思っていた。女子生徒たちからも不気味な色だと笑われたから、これは不気味な色なのだとエルカは思っている。彼女にとっては、コンプレックスの一つであった。

 

 一方、本人の知らない所では別の感想を持たれていたらしい。


 階段の踊り場で男子生徒たちが小声で談笑する。小声になってしまうのは、女子生徒についての会話だからだ。


「なぁなぁ、女子で一番可愛いのはどの子だと思う?」


「そんなの決まっているだろ?」


「小さいし儚いところが、たまらないね」


「髪も綺麗な色しているし、ああいう神秘的な子は魅力的だね」


「美少女って言葉が当てはまるのは、あの子だな」


「おいおい……そんなこと言ったら、女子たちに殴られるぞ」


「あの厚化粧たちは、自分が美少女だって思っているわけだし」


「そうだな………ルイ、お前はどう思う? あの子のこと」

「え?」

「何だよ、女の事でも考えていたのか……お前はどう思う? エルカのこと」


 突然、親友から声をかけられたのでルイは驚いて顔を上げる。慌ててしまったのは、つい先ほどまで彼らの会話の中心にある少女のことを考えていたからだ。


 エルカ本人は知らないが、男子生徒からの評価はかなり高い。


「愚問だな……」


 顔を上げたルイの視線が止まる。話題の主が、廊下を歩いていた。

 小さな体で、大量の本を運んでいた。


「あーあ、今日もあいつらの嫌がらせかな」


 傍目から見てフラフラとした彼女の動きは危なっかしいと思う。

 誰もが思っていることなのに誰も助けようとしない。


「可哀想だけど………まぁ、俺らは関わらない方が良いよな」

「女子を怒らせたくないし」

「あの子なら、自分でどうにか出来るだろうしな」

「っと、塾の時間だ」

「じゃあな、ルイ」


「…………あ、ああ」


 帰っていく友人たちの背中をルイは睨んだ。


(助けたら、今度は自分が嫌がらせのターゲットになることを恐れているのか?)


 廊下で少女を見ている生徒たちは、そう思っているから助けない。


 女王様からの嫌がらせは悪質だ。本人への嫌がらせならともかく、家族に向けられることが多々ある。


 女王様の靴に泥をかけてしまった男子生徒は、親が突然解雇され、一家路頭に迷い、そして失踪した。


 ルイは視線を彼女から離せなかった。

 いつも、無表情でニコリともしない彼女。だけど、彼らの言うように、クラスの女子の中では一番可愛いだろう。


 彼女は教室の片隅で本を読んでいた。

 だから本以外には興味がないのかもしれない。


 いつの頃からか、ルイの視線は彼女の姿を見ていた。

 最初は興味本位で。

 あの無表情から、他にどんな表情を浮かべるのか気になっただけ。

 それは、ただの探求心。

 本に向けられている表情は相変わらずの無表情。

 いや、違っていた。

 微かに眉間に皺を寄せたり、目を見張ったり、よく見なければ、分からないような感情を浮かべていた。

 

 そして、本を読んでいるときの微笑みを見てしまった。

 微かに見せた笑みが、「良い」と感じた。

 良い表情だった。綺麗だ、可愛いというのではなく、ただ「良い」笑みだと思った。

 

 それは、一瞬だけのものだった。

 その微かな笑みに心臓が跳ね上がった。


 それが恋愛感情なのかは分からない。ルイは異性を好きになったことがなかったのだ。


 次第に、もっとその表情が見たいと思うようになった。


 彼女を笑わせたい。

 その笑顔が自分に向けられたら、最高に幸せのような気がする。


(僕も以前は彼らと同じだった、同情はしても手を差し伸べなかった………)


 開かれた手を見下ろす。


 自分がターゲットになるのが怖かった。学校で苛められているなんてことになったら、両親が困るだろうって思って……。


(でも、今は違う)


 自然に足が動いていた。

 この足は止められなかった。


(嫌がらせなんて、恐れちゃダメだ)


 今、助けてあげられるのは自分だけだ。

 そんな自惚れた思いが背中を押した。


 彼女の「良い」笑顔を見るための、第一歩なのだと自分に言い聞かせて。


 ルイはその手を差し出していた。

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