第12章 本の蟲(2)

 +++


 その老魔法使いは安楽椅子に身を委ねながら本を開いていた。

 その隣で幼い少女も本を読んでいる。


「エルカ、お前は本が好きなのだな」

「大好きだよ」


 嬉しそうに答えながら、その視線は開かれた本に釘付けだった。

 余程、物語の内容が気になるのだろう。


「その内、【本の蟲】に取り憑かれそうだな」

「【本の蟲】?」


 聞き慣れない言葉だったので、エルカは視線を上げて聞き返していた。好奇心で満たされた瞳に老魔法使いは微笑みを深める。


「ああ、お前のような本好きに取り憑く霊だ。害のあるものじゃないが、気をつけなさい」

「どうして、本が好きな人に取り憑くの?」

「【本の蟲】も、本が好きだからだ。【本の蟲】は誰かに取り憑いて、その取り憑いた誰かが読んでいる本を一緒に読む」

「そこまでして読みたいなんて、とんでもない執念ね」

「そうだなぁ……取り憑いた誰かが本を読まなければ、本を読めない。彼らは、取り憑いた誰かが本を読むように、言葉巧みに誘導するだろう」

「………それでも、本を読まなかったら?」

「諦めて、他の誰かに取り憑くだろうな。だが、本が好きな人間はそうはいない。【本の蟲】となる魂は、相当の本好きだからな」

「それって、【本の蟲】に取り憑かれるような魂?」

「その通りだ。【本の蟲】の殆どが、かつては【本の蟲】に取り憑かれていた魂だ」

「じゃあ、私が取り憑かれたら……私も【本の蟲】になるの?」

「そうとは限らない。もっと、本を読みたかった……そういう心残りを残して死なない限りは……な」

「私は本を読みながら死ねれば幸せだな。それで満たされると思うの。本の山に埋まって一生を終えたなら幸せの絶頂だよ。この書庫の本が一気に崩れ落ちてその下敷きになっても幸せかもしれない」

「怖いことを言わないでくれよ。お前のような娘が本に押しつぶされて命を落とすなんて」

「……ごめんなさい」


 その命を終えるその瞬間まで本に触れていたい……その気持ちを伝えたかったのだけど、少しばかり危ないことを口にしていたらしい。

 本に埋もれて命を落としたのは、先日読み終えた本の主人公の結末だった。

 やりたいことを全うした主人公の、それはとても理想的な人生の終わり方だったのだが、祖父は共感できない様子。

 珍しく祖父が目を吊り上げ、口をへの字にして怒っていた。


 エルカは少し考えてから、上目遣いに祖父を見上げる。


「………実は……もう取り憑かれているかもしれないのよね。たまに、誰かの声が聞こえるから」

「そうか! 嫌ならば、そんな蟲は排除するが」


 突然、彼は立ち上がる。そして魔法の杖を勢いよく振り上げた。

 その先端に雷のような光がチリチリと光っているのをエルカは見ていた。


「そこか‼」

<待ってくれ! 我はもっと本を読みたい>


 それまで黙っていた【本の蟲】が悲鳴を上げる。エルカがいつも聞いている【本の蟲】の声だが、いつもよりも上ずっているように思えた。


「だからって、幼い娘に取り憑くとはな」

<ひぃ!>

「大丈夫だよ」

 エルカは背伸びして、祖父の腕を掴んだ。

「……エルカ?」

「害はないんだよね。だから、今は放置しても良いと思う」

<ありがとう、エルカ>


 【本の蟲】が涙声で感謝する。

 害のある霊でないことぐらいエルカは知っている。

 ずいぶん前からエルカは【本の蟲】と共にいるのだから


 ナイトは本については全くの無関心だ。エルカが興奮して読んだ本の感想を告げても微笑むだけ。

 どの本の感想を告げても「それは、よかったな」ってばかりで……会話にならなかった。


 だけど【本の蟲】はちゃんと聞いてくれて、自分の感想も教えてくれる。話を聞いてくれる彼女の存在はエルカにとって必要なものだった。


「その代り、私が読んでいる本が貴方にとって駄作であっても口出ししないでね」

<もちろんだ>


 エルカと【本の蟲】が目と目で約束を交わす。

「フフフハハハ」

 その姿を見た、祖父が盛大に笑ったのでエルカはキョトンとした瞳を浮かべる。

 笑われるようなことを、したつもりはなかったのだ。

「我が孫娘は本の蟲をも支配するというのか」

「えー………支配なんてしてないよ。私の目を通して読むのなら、勝手に読めば良いって思うだけ」

「だがな……エルカよ……おまじないだけはかけておこう」

「おまじない?」

「【本の蟲】が、お前を傷つけないようにする、おまじないだ。じじぃにはこんなことしか出来ないからな」


 そう言うと、杖をクルリとまわした。

 何が変わったのかは、わからないけど。

 きっと、何かの魔法がかけられたのだろうとエルカは思っていた。



 +++



 そこで物語は終わった。


 氷の中を凝視していた。懐かしい祖父の姿がそこにあった。


 手を伸ばしても、触れることが出来ない。

 伸ばされた手は氷に触れるだけ。

 それが少し寂しく思えて、エルカは眉を潜めた。


 隣に立つルイが静かに口を開いた。


「この人がエルカのお爺さん?」

「うん、優しい人だった」

「見れば分かるよ。愛情にあふれている」


<エルカ……この時の、おまじないがある以上、我はお前に手は出せないよ>

「そうだったね」


 【本の蟲】は口端を上げて笑った。


 その時だった。


 パリン


「……氷が」


 氷が割れた。

 懐かしい光景を映したまま、粉々に砕け散る。

 まるで過去が砕けてしまったようで怖くなる。

 身体を抱きしめるエルカの背後で【本の蟲】が甘く囁く。


<怖がることじゃない。物語が進行されるからだ>

「そ、そうなの……?」

<これは図書棺の本だ、物語は問答無用に進行される。これは次の物語に進行するために、氷が割れただけ。過去が破壊されたわけじゃない。これらは、お前たちが氷漬けにした記憶の氷だ>


「記憶の氷?」


<忘れていた、隠していた、閉ざしていた記憶の氷さ。この氷が割れたことで、氷に閉じ込められていた過去はお前たちの記憶に戻る。忘れていた記憶が蘇る>


「何で、【本の蟲】とのことが見えたの? の出来事には関係がないはずだよ」

<お前に我の存在を思い出させるためだな>

「………私が、貴方に取り憑かれているってことね」

<そうだ……我の存在を忘れていただろ。だから事前に拒まなかったのだろ?>


 エルカはこの闇の世界を訪れるまで【本の蟲】の存在を忘れていた。

 これは、それを思い出させる為に見せた、過去の記憶。

 【本の蟲】、それは大切な隣人だった。


「ごめんね、忘れてしまって」

 エルカに頭を撫でられると、【本の蟲】は照れるように視線を反らした。


<とりあえず、ここから先が本番だ。あの日の物語を見に行くぞ>

「わかっているよ」

<面白い物語を見せてくれよ>

「面白いかどうかは、分からないけど……見守っていてね。それで、次の氷はどこかな」

<次は………ん?>


 【本の蟲】の顔色が変わった。顔色なんてものはないはずだが、先ほどよりも青くなっている。


「どうしたの?」

<氷の破片が>

「破片が?」


 エルカの視線は、先ほどの砕け散った破片に向けられた。


 その、氷の破片がパラパラとうごめきはじめる。


「……なっ」

「な、何だよ」


 エルカとルイは同時に声を上げる。


 破片が集まり、それは巨大な蛇の形に変貌していく。

 そして、そいつは……


<来るぞ……走れ>


 突然、追い駆けてきた。


 二人の足は、反射的に動き出していた。



 走って、

 走って、

 走って、


 どれくらい走っただろう。

 何処へ向かって走っていたのだろう。

 後ろに迫る恐怖から逃げる為に、ただひたすら走る。

 エルカもルイも走ることは得意ではなかった。


 だけど、自分たちでも信じられないほどの速度で駆け抜ける。

 火事場の底力というやつなのか、本来の実力かは分からない。


 視線の先に氷の塊が見えた。


「あ、あったぞ」

「……あの、氷だね」


 さすがに息切れがしてきた。

 それでも背中に迫る恐怖から逃れるために、足は止まらない。


 暗闇の中にぼんやりと浮かぶ氷の塊がある。

 先ほどのものと類似していたので、間違いないだろう。

 そこに辿り着いてから振り返った。


「………っ」


 先ほどまで背中に迫っていたはずの、蛇が姿を消していた。

 初めから何もなかったかのように、静寂が漂う。


「今のは?」

<物語を進めないから急かされたんじゃないのかい?>

「そんな……横暴だよ」


 膝をついて息を整えるエルカと違い、【本の蟲】は涼しい表情を浮かべていた。 ルイは軽く息を整えてからエルカに手を差し出す。


「この氷の中にも、映像が映っているんだな。大丈夫か?」

「平気だよ。多分、これが……私たちの物語だから……一緒に観よう」


 心配そうなルイに視線を向けてからエルカはそれを凝視した。


 氷の向こうに影が浮かび上がる。

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