序章 ー現在ー

***


 十年前、少女の両親は別れた。

 気持ちを切り替えて新しい人生の一歩を進む為に彼らは自分たちの世界を壊したのだ。離婚は、その為に必要な行為。それは華々しいスタートの瞬間。

 大人たちにとっては……の話。


 幼かった少女は何が起きているのか理解できないまま。

 少女の母親は姿を消した。

 魔女と呼ばれていた母親はどこへ行ったのだろう。存在感のない人だった。

 毎朝必ず朝食を作ってくれた。

 朝食を作るだけで、顔を合わせることは殆どなかった気がする。

 覚えている顔は写真に写る姿だけ。

 会話なんてしたことあっただろうか。

 居なくなったと気づいたのは、いつも用意されていた朝食がなかったから。

 手紙も何もなかった。


 そんな魔女と入れ替わるように派手で傲慢な、何の取柄もない女が母親になった。

 少女の兄は一人だけだったのに二人に増えた。

 兄が二人になるなんて、少女は考えたこともなかった。

 そんな少女の戸惑いをよそに父親たちは、幸せそうに肩を寄せ合っている。

 子供たちは、起きたことを理解できずに茫然としていた。

 大人たちは、自分たちが幸せならそれで良かったのだろう。

 子供たちを放って楽しんでいるのだ。

 

 きちんと掃除がされていない家の中は汚くて、庭も荒れ放題。

 子供には、どうすることも出来なかった。

 何から手を付ければ良いのか分からなかったのだ。


 祖父は地下に住んでいた。

 新しい母親が、祖父との同居を反対したからだ。

 気を遣ったのか、関わりたくなかったのかは分からない。

 祖父は地下を書斎として改装すると、そこで暮らすようになった。


 十年経っても、何も変わらない。

 味方だった祖父がこの世にいないこと以外は、何も変わらない……


 この世界は、不公平だ。

 不条理で、優しくない世界。

 こんな世界から、逃げたかった。


 だけど、逃げ場なんて何処にもなかった。

 だから気休め程度にしかならない現実逃避を少女は実行する。

 少女の趣味は読書だった。

 非現実的な世界は少女を傷つけない。物語の登場人物たちは与えられた運命に向かって流れていくだけで、少女に危害を加えることはない。


 その世界を空の上から見守る。

 読み手は見守るだけで、何もしない。

 登場人物が死のうが生きようが、その顛末を見守るだけ。

 その末路に泣いたり、笑ったり、呆れたり……そうやって、他人の人生を傍観していた。


 祖父の地下書庫には、大量の本が収められている。

 埃がかぶった本を開いて、少女は世界観に浸っていた。

 祖父は言っていた。


「人はいつか「本」になるのだよ」

 ……と。

 その本は、この世とあの世の狭間にある巨大な図書館に収められるのだという。


***


 いつの間にか眠っていた。

 懐かしい夢を見た気がする。

 読書に没頭して現実逃避をするのは少女の日常だった。


 この地下はもともと祖父が暮らしていた部屋。

 シャワールームや洗面台など生活に必要な一通りのものは揃っていた。


 少女は着替えを済ませると、淡いエメラルド色の髪を両サイドに結い上げる。

「さて、今日はどんな本を読もうかしら」

 かつては祖父のものだった書棚を見渡す。

 ここには古い物語も新しい物語もある。生きている内に、これを読み切ることが出来たら素晴らしいと思った。


 ギギギ


 扉が開く音がした。


 ギ―ギ―


 床が軋む音がする。

 この足音も、聞き慣れていた。

 近づいた気配は確認しなくても、足音で誰なのかは判断できる。

 だから、少女の視線は開いたばかりの本から離れない。


「また読書か」


 この会話は毎日繰り返されているものだったけど、兄は飽きもせずその問いかけをする。

 答える言葉も繰り返されたものだった。

「うん、読んでいると安心できるの」

 そうすれば、現実から目を背けることが出来るのだから。

 その行為を止める者はいなかった。

 頭の上で、ため息が聞こえた。

「まぁ、無茶はするなよ」

「ありがと、兄さん」

「仕事に行ってくるからな」

「うん、気を付けてね」

「食事はとれよな」

「………善処します」

 兄の顔を確認するまでもない。

 きっと、呆れ顔で心配そうに見下ろしていただろう。

 その顔を見たくないから、少女は本に視線を落としていた。

「じゃあな」

「あ、兄さん」

 呼び止めておきながら少女の視線は本に向けられたまま。

「ん?」

「次からは勝手に入ってこないで」

「……何でだ?」

「着替えが終わったのって今さっきなんだよ。年頃の女の子なんだから気を遣ってよね」

「わかったよ……ただし、五回ノックして十秒以内に返事がなかったら勝手に入るからな」

「了解」

「じゃあな」

「うん」


 視線を合わせないまま、兄との会話は終わり。

 気配がなくなったことを確認してから顔を上げる。


「あれ……今から仕事に行くってことは……」

 ふと、考えて掛け時計を見上げる。

 時刻は夕方の六時を指していた。

「今は夕方だったんだ」

 てっきり朝だと思ったが、違っていたらしい。

 兄が心配するのも無理はなかった。


***


 形式だけの両親は滅多に家に帰らない。何処で何をしているかもわからない。生活費は長兄が稼いでくれる。

 少女は引き篭もり読書に没頭。長兄は仕事で忙しい。もう一人の兄は何をしているかわからないが、毎日フラフラと遊び歩いている。お金は持っていないので、ただ歩いているだけなのだろう。

 そんな、兄妹の住むこの屋敷。

 世間では、【幽霊屋敷】なんて呼ばれているらしい。

 

 長兄は黙々と仕事をこなす人だ。大人に対しては社交的な若者。妹には優しいけど、他人の子供相手には愛想のない態度を取る。無表情で接するからか、子供たちからは人間ではない存在……「機械人間」と思われているそうだ。


 もう一人の兄は暴力沙汰を起こす問題児らしい。いつも何処かで喧嘩をして帰ってくる。それは、屋敷の悪魔に取り憑かれたからだって話は有名。

 彼に近付くだけで悪魔に呪われる、なんて噂もある。

 人付き合いなんてしない彼自身は、この噂をきっと知らない。知らない方が幸せだろう。


 少女の名前はエルカ・フラン。 

 十四歳の引き篭もりの少女は何も起きない日常を、本を読みながら過ごしていた。

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