第12章 本の蟲(1)

 エルカが瞼を開く。

 その視界は黒で覆いつくされていた。


 黒


 それ以外、何も見えない漆黒の闇の中にいるのだと理解する。

 視線を下に落としても、黒い闇が広がっているだけ。

 足元の感覚はフワフワとしていて、変な感じがする。立っているというよりも、浮かんでいる感覚に近いのかもしれない。

 一歩、一歩、前に踏み出してみた。

 そのはずなのに前に進んでいる気がしなかった。


 足音も聞こえない。聞こえてくるのは自分の呼吸だけ。


 本を開けば過去が見えるはずだった。

 その過去が黒い世界だというのはおかしい。


 の光景なんて、どこにも見えなかった。

 何度、瞬きをしても、何も変わらない。


 闇が広がるだけ。


 エルカは冷静に頭で考える。ナイトが嘘をついていたのだろうか。

 この本は良くない本だったのかもしれない。開いてはいけない本だったのだ。


 いや、兄を疑ってはいけない。

 

 彼の行動の根源には、エルカを優先することが掲げられている。

 だから、嘘をついてエルカを何もない闇に閉じ込めるようなことはしないはず。

 

 考えられる可能性……現実世界で身体が死んでしまったのだろうか。


 身体が死んでしまったのだとすれば。

 今のエルカは魂だけの存在ということになる。


 魂だけとなった後は、どうなるのかエルカは知らない。


 今の状況がそれなのかもしれない。


 死を迎えた魂は、闇の中で永遠を過ごすというのだろうか。


 死んだら本になると祖父は言った。

 それでは、本になるとは、どういうことなのだろうか。


 そこまで考えたら、背中に一筋の汗が流れた気がする。 


 自分は死んでしまったのだろうか。

 そんなのは嫌だった。


「………」


 エルカは己の死に関しては恐怖を抱かなかったはず。


 自分の死を利用して母親に自分の存在を思い知らせたいとか、我ながらずいぶん歪んだ思考を抱いていた。


 それなのに、闇の中に一人でいることが、怖いと感じた。

 今は死に対する恐怖も抱いている。


 孤独は、こんなにも怖いものだったろうか。

 闇は、こんなにも恐ろしい世界だったろうか。


(このまま、ずっとここにいるの?)


 身体の震えがおさまらない。


(そんなのは、嫌だ。ひとりは、嫌だ)


 幼い頃から一人だった。

 だから、一人で過ごすことは苦ではなかった。


 だけど、本当は怖かった。


 図書棺の扉を開いたときはソルが一緒だった。

 ソルが現れたとき、心の奥底ではたまらなく嬉しかった。


 プリン王子の世界に迷い込んだときは、ナイトがそばにいた。

 あの時のエルカは彼が兄であることに気付いていなかった。

 それなのに、何者かもわからない彼を疑いながら、同時に安心感も抱いていた。


 現実世界でも、二人の兄は近くに居た。


 だから、一人ではなかった。


 だけど、今は一人だ。

 きっと、この先もずっと。


 そう思うだけで、手が震えてしまう。


「………っ」


 ふいに、誰かに腕を掴まれた。

 エルカは反射的に肩をビクリと跳ね上げて、静かに顔を上げる。


「………」


 そこに居たのはルイだった。


 最初は、ぼんやりと……しだいにその姿が鮮明に見えてくる。

 人の中に容易く溶け込んでしまうような地味な少年の姿が目に映る。


 彼は気遣うような視線を向けてきた。


「ルイくん……」

「ぼんやりしていたけど、大丈夫?」

「うん……私、一人なのかと思っていた」

「おいおい………君が言ったんだろ? 一人じゃないって」


「………あ」


「最初は暗闇で何も見えなかった。けど、エルカが側にいるって思ったら、そうしたらエルカのことも見えたんだ」


 ルイはそう言って微笑んで見せる。

 エルカはハッとしてルイを見上げた。


 確かに、一人ではないと彼に告げていた。


「私の言葉を信じてくれたの?」

「君の言葉は信じるよ」


 その言葉で、気が付いた。

 エルカは自分の言葉を信じていなかった。


 一人ではない。


 そう彼に言いながら、自分は一人なのだと思ってしまった。

 だから、何も見えなかった。

 すぐ側にいる彼のことも見えなかった。


 危うく闇に飲まれるところだった。

 ルイが一緒だということを忘れてしまったから。

 一人ではないということを忘れてしまうところだった。


 ルイが微かな笑みを向けてくる。


「エルカが自分を信じられなくても、僕は君を信じているから。だから、一人にはさせないよ。

 …………でも、一人にさせたのは僕だったね」


 そう言って苦笑するルイの横顔を見上げる。

 苦しそうな表情を浮かべていた。


「……どうして、そんなことが言えるの?

 ………そうだった、その答えをこれから見るんだよね」


 似た者同士の二人は、言いたいことを伝えることができなかった。


 それを知る為に、ここにいることを思い出す。


「それで……ここは?」


 ルイは周りを見渡した。二人の目に映るのは闇ばかり。

 お互いの姿が鮮明に見えるようになっただけで、他に変化はなかった。


 それだけでも、エルカは十分だった。

 一人が二人になったことで、不安と恐怖はどこかに消えてしまった。


「本の世界だと思うの」


 それ以外は想像もできない。

 何度目を凝らしても、お互いの姿以外は何も見えなかった。

 

 だけど、何も見えないはずはない。

 二人の物語を一冊にまとめた特別な本だ。

 だから、読み方も他とは異なるのだろう。


(……ここに物語があるはず……よく見れば)


 エルカは目を凝らす。視線の先に人影のようなものが見えた。ぼやけた光が人の影を作る。その姿にルイも気付いたらしく目を大きく見開いた。


「……誰か、いるのか」

「………あれは」


<………ヤァ……私はだぁれでしょうか?>


 その影はニンマリと嗤った。


 女の姿をしている。が、その声は男のような女のような不思議な声質だ。不快な思いを抱いたルイは顔をしかめるが、エルカはつまらなそうな視線を女に向けている。女のニヤニヤとした笑みに、エルカは応えた。


「…………【本の蟲】ね」


<セ・イ・カ・イ>


 エルカの解答に、【本の蟲】は満面の笑みで手を叩く。

 大袈裟な拍手喝采に、圧倒されながら困惑したルイの視線がエルカに向けられた。


「【本の蟲】?」

「本が大好きな霊だよ。【本の蟲】は自分と同じような本好きの人間に取り憑くの。そして、取り憑いた人間を通して本を読むの」

<そういうこと>

「彼女は私に取り憑いている【本の蟲】」

「え?」

「おかしいことじゃないよ。本が大好きな私には、当然憑いているから……そんなに驚くことかな」


 驚愕するルイを見てエルカは不思議そうに首を傾げる。その仕草にため息を零したのは【本の蟲】だった。先ほどまでのニヤニヤと人をバカにするような笑みから一転、呆れ顔を浮かべている。


<幽霊が憑いているなんて言ったら普通の人間は驚くでしょ!>

「………考えてみれば、そうだね。えっと……害のある霊じゃないから大丈夫だよ」

「そ、そうか……」

 エルカは、未だに驚いているルイから、視線を【本の蟲】に向ける。


「……貴方は私たちの過去の本まで読むつもりなの?」

<何を言っている? お前の目は我の目。お前が見る物語は、我の目でも見ることが出来る>

「……そうだけど……」


 過去の物語は、エルカとルイだけが読める物語。


 【本の蟲】には、そんな法則は通じない。彼女はエルカの目を通して本と呼ばれる全てを見ることが出来るのだろう。

 【本の蟲】は大袈裟に溜息をつく。


<嫌だったら本を開く前に我を拒めば良かったのだよ。取り憑いている間は我の瞳はお前の目に映る本の全てを見るのだからな。お前が拒まない限りは同じ本を読む。我には拒むことが出来ない>


「…………そうだったね」


 エルカは、思い出していた。図書棺では本を開いたら最後、他の本が読めない。それと似たようなものだ。【本の蟲】は強制的に持ち主と同じ本を読まされる。


<ああ……諦めて我に見せろ。ああ、可哀想だから良いことを教えてやるよ。そこに氷があるだろ?>


 二人は【本の蟲】の指さす方向を凝視する。


 先ほどまでは、そこには何もなかったはず。


 漆黒の闇の中に、いつの間にか氷の塊が宙に浮かんでいた。


「あれは何なの?」

<その氷の中に、お前たちの過去が映る。それを見たら氷を割って前に進めば良い。それが、この本の進め方>

「この本について、詳しいのね……コレットと取引でもしたの?」

 【本の蟲】はうっとりと甘い笑みを浮かべた。

 それが答えだった。

<最高の物語を見せてやると言われたよ。だから、お前に協力することにした>

「そう…………」


 物語を読むことが、【本の蟲】にとっての至福の時間。

 他人の過去に何を期待しているのだろうか。それもエルカに取り憑いている彼女は大体のことは把握しているはずなのに。

 ルイ側の事実に興味があるのだろう。

 あの過去は、エルカだけの物語ではない。ルイの視点が加わることで完成される。【本の蟲】は求めている。完成された真相が語られることを。


<さぁ、見せてくれ>


 【本の蟲】は嗤う

 舞台役者のように、両手を広げて目を輝かせた。


「ルイくん、行くよ」

「え?」


 エルカはルイの腕を引っ張ると、氷の塊の前に立つ。

 ゆっくりと、氷を見据えた。

 氷の向こうに映るのは………

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