第9章 朱の夜(3)

 エルカは走りながらも少しずつ冷静さを取り戻していた。

 視線の端に見えるのは、炎の欠片。

 まだ小さな塊だが燃え広がれば、確実に全員が死ぬだろう。


 【魔法使いは魔法で人間を殺せない】


 これは魔法使いの掟。

 この掟を破れば、罰として四肢が引き契られるのだとか。

 そう祖父から聞かされてことをエルカは思い出していた。


 魔法で直接殺すことはできない。

 だけど間接的になら、魔法で殺すことはできる。


 だから、父親は魔法で火を放った。

 火事を起こして間接的に男を殺す為に。


 息絶える直前だったのだから、死を覚悟で魔法で殺せば良かったのに。

 彼はそれをやらなかった。おそらく、出来なかった。


(……父さんの力が足りなかったからなのか……分からないけど、続きを私にやらせるつもりだったのね。そうだね、それは私にしか出来ないもの)


 自然とエルカは笑みを浮かべる。

 この男を逃がすわけにはいかない。

 この機会を逃してはいけない。

 父親の置き土産は有効活用しなければならない。


(流石、お爺様の息子だよね。魔法で間接的に殺す………そんなことは私には考えもつかなかった。間接的に………そうだね、父さんが出来なかったことを、果たしてあげる)


 地下書庫の扉は開けたままだ。

 エルカは男の視線を地下書庫の扉に誘導させる。

 男はエルカが地下書庫に逃げるのを防ぎたいはずだ。

 あそこが、エルカにとっての安全地帯であることをこの男は知っている。


(あの女……私が地下書庫に引き篭もることを、この人に教えていた。そのことに感謝しないとね。この人は私の逃げ場を塞ぎたい……だから)


「残念、逃がさないよぉ」


 エルカの逃げ場所は地下書庫だけ。

 だからエルカより先に扉の前に向かう。エルカの退路を断つために。


(貴方は知らない)


 地下書庫の扉の一寸先は急な階段になっていた。


 気を付けて降りないとエルカだって落ちて怪我をする。

 だけど、そんなことを男は知らない。先回りをして、退路を断ったことに勝ち誇った男が嗤って………


「うわぁぁぁぁぁぁ」


 勢い余って踏み留まることが出来なかったのだ。

 けたたましい悲鳴が響いていた。男の大きな身体が大きな音を立てながら地下書庫の階段を転げ落ちていく。


 こうも上手くいくとは思わなかったので、自然に笑みが浮かんだ。


「………」

「なにしやがる……っ」


 階段下から男の醜い声。

 エルカは地上に上がるときに、地下書庫の灯は全て消してきた。

 闇の中だから顔は見えない。

 きっと今のエルカは醜い顔を浮かべているだろう。


「………ここはお爺様の地下書庫。許可なき者が足を踏み入れた場合……罰が下されるの……そういう魔法がかけられているの」

「な、何を言って………ひぃぃ」

「私には見えないものが、貴方には見えているはず。ここはお爺様が私の為に用意してくれたもの。お爺様は言っていたわ、貴方が来たらここに突き落とせって」


 祖父は知っていた。

 あの日からエルカはソルの父親に目をつけられていた。


 ソルは父親の視線からエルカを隠せたと思っていた。

 だけど、男はエルカを見つけていたし、エルカも男を見ていた。


 いずれ、あの男はエルカを買い取りにくる。

 いずれ、あの男が会いにくるだろう。


 男の狂気を危惧した祖父が、死の間際にこの地下書庫を魔法で改造した。

 孫娘に危害を与える存在に対しては、別の姿に変貌するように。


 だから、階段の下で何が起きているのかエルカは知らない。


「た、たすけ………」


 パタン

 

 情けない声は最後まで聞かずに、エルカは扉を閉じた。


 終わった。

 これで終わったのだ。エルカは安心して扉に触れる。


 向こう側でまだ叫んでいるが、知ったことではない。周囲が熱い、父の放った炎が燃え上がっていた。

 その温もりにうっとりと目を細める。


 父の放つ炎で焼け死ぬという結末も悪くないかもしれない。

 それは、今のエルカにとっては最高のハッピーエンドなのだ。


 ふいに、視線を感じて振り返る。

 ゆっくり時間をかけて、瞼を見開いてしまった。


 どうして、そこに彼がいるのだろう。


 炎の中、茫然と立ち尽くすソルが目の前にいる。


 エルカは地下の鍵をかけた。その奥で聞こえる声が彼に届かないように。


「どうしたの?」


 なんで、ソルがここに居るのだろう。どうして、そんなに焦っているのだろう。理解が出来なかった。地下書庫への扉を背にしたままソルの目を見上げる。


 彼の真剣な眼差しをエルカは初めて見る。彼らしくない目だと思った。

 ソルの口から放たれたのは、予想外の言葉だった。


「……逃げるぞ」


 逃げるって何処にだろうか。

 エルカは立ち止まったまま動こうとしない。


「逃げ場所なんてないよ。お爺様の大事な書庫をけがしてしまったもの」


 今までは地下書庫がエルカにとっての逃げ場所だった。誰も近づかない、非力な自分を護ってくれる最後の砦。


 だけど、そこに異物を落としてしまった。あそこは穢れてしまった。あんな穢れた場所になど逃げたくない。


(おかしい。ソルの目が優しいのが、あまりにもおかしい。だけど、昔はこうやって、たまに優しい目を向けてくれた気がする)


 潤んだソルの双眸を見ながらエルカはそんなことを考えていた。


「行くんだよ………っ」


 力強く手を引っ張られたら抵抗なんて出来ない。

 エルカには抵抗する気力なんて残ってなかった。

 抵抗する必要なんてなかった。しばらくすれば、この炎が自分を灰にしてくれるのだから。


 ソルは米俵を担ぐみたいに持ち上げるとそのまま走り出す。


 やるべきことは、やった。あとは、証拠を残して容疑者がいなくなれば全て終わるはずだった。予定では炎の中に残るつもりだった。


 エルカを助けるであろう、ナイトは仕事中だから帰ってこない。

 異変に気が付いても間に合わない。

 エルカを助ける者なんていないはずだった……それなのに、


(何で、彼は私を助けようとするのだろう。私を助けたところで、何も良い事なんてないのに……)


 ザワザワと色んな人たちが集まってくる。外に出たのだということには気付けた。誰かが何かを叫んでいるが、言葉を聞きとることは出来なかった。


 そこで意識は途切れる。


***


 意識が切れる直前に、願った。


 このまま、目覚めたくなかった。


 だから……





――頭の中に、開かれた本をイメージする。


 古い皮表紙の本を頭に思い浮かべて、それを開いた。


――次に、本に描かれていた魔法陣を思い出す。


 黒いインクで描かれた魔法陣。何度も見たから覚えている。

 イメージの中の本。

 開かれたページにその魔法陣が浮かび上がった。


――あとは、本に書かれていた呪文を頭の中に浮かべる。


 この言葉も自然に浮かび上がる。

 

『眠れる魂は記憶の底に、記憶は本に、本は棺に……――開け、棺の扉』


――図書棺への扉は開かれた


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