第9章 朱の夜(2)

 地下に戻ったエルカは机に移動する。

 そこからリビングの音を聞いていた。


 ここなら、よく聞こえる。

 何かの呻き声、悲鳴、怒鳴り声が聞こえてくる。


 大きな物音に耳を塞ぐ。


 何かが潰れる音が聞こえる。


 耳を塞いでも、嫌な音が入って来た。


「………」


 エルカは呼吸を整える。

 そして、机から離れて本棚の前に座り込んだ。

 ここならば不快な音は聞こえてこない。

 気を紛らわそうと、読みかけの本をパラパラと捲る。兄に呼ばれたときに読んでいた本。


 あれから気になる展開だった。

 このまま、ここで本を読んでいるのが一番良いことかもしれない。


 だけど、


「……ダ、ダメ。内容が入ってこない。こんなことしてちゃ、ダメなんだ………私が、あの人たちを…………」


 


 それは、既に固まっている決意だった。

 

 もう溶かすことも、砕くこともできない、エルカの決意。

 エルカはこれを遂行しなければいけないのだ。

 何者かに先手を打たれてしまったが、逃げることはできない。


 祖父から貰った地下書庫の合鍵を首に下げる。これは御守り代わりにもなるし、きっと必要になる。

 そして、握っていたナイフを握り直す。


 静かに振り返り、地下書庫の入り口を見やった。


「行かなければ………」


 既に物音は止んでいる。

 周囲には静寂が漂うだけ。

 コッコッと時計が規則的に秒針を鳴らす音だけがエルカの胸に響いた。

 心臓の鼓動の方が速い。


 落ち着け、落ち着け。

 言いようのない衝動が背中を押した。

 呼吸を何度も、何度も整えてからエルカは、静かに地下書庫の扉を開く。

 

「……っ」


 開いた瞬間、鼻を突くような異臭が漂う。物音が消えてから、どのくらい時間が過ぎたのだろうか。秒針の音ばかり気にしてしまったが、時間を見て置けばよかったのかもしれない。


 物音を立てないように歩いてリビングに辿り着いた。


 目の前に横たわる影が二つ在る。


 赤い炎が燃えていた。それは、まだ小さな炎。だけど屋敷中に燃え広がるのは時間の問題だろう。どうやら襲撃者は火を放っていたようだ。


 動かない二人の前に立つ。

 エルカを見下していた女の顔は潰れていて、醜い姿を晒している。襲撃者がどれだけ女を憎悪していたのかが伺えた。


「哀れだね、でも丁度良いね……必要なのは状況証拠」


 この遺体にナイフを突き立てれば良い。そうすればエルカが犯人だという証拠が残るだろう。エルカの指紋のついたナイフで殺害されたということになる。

 ニュースになって世界に広まれば、母であるコレットの耳にも入るかもしれない。


 父親を見る。

 女と違い顔は綺麗なままだったが足が変な方向に曲がっていた。父・マースはエルカが生まれた瞬間だけは、かなり愛してくれたそうだ。それが、どうして「興味をなくした」のだろうか。わからないし考えたくもなかった。


 考えても意味はない、まずはこのナイフを突き立てることから。

 そこから、エルカの物語の終わりが始まるのだ。


 エルカは持っていたナイフを振りかざす。

 さぁ、ひと思いにやってしまおう。


「そこに居たのか」


 ナイフを振り下ろそうとした瞬間、男の声がかかって手が止まる。


 誰だろうか。


 時間をかけて、ゆっくり振り返ると男の顔がこちらに向けられた。


 ソルの父親だった。荒波のような恐怖がエルカの背筋に襲い掛かる。


「……………どうして」


 気配がなくなったから、もういないのだと思っていた。

 迂闊だった、確実に居ないことを確認すべきだった。

 後悔しても手遅れだ。足が震えて動けない、でも動かなければ死ぬより辛い目にあうだろう。悔しかった。這い寄って来た黒い気配に気付けなかったなんて。


「くそ……そいつ虫の息なのに、いきなり手から火を出しやがって。でも……よかった……無事で。魔法使いは子供の内から調教しなければな。男が良かったが、女でも問題ない」


 安堵する男の笑みが怖かった。


「………っ」


 この男は危険すぎる。逃げなければならない。

 頭の中で警鐘が鳴り響いた。エルカは動かない足を叱咤して、リビングから駆け出した。


 途中でナイフを落としてしまったけれど、取りに引き返す方が危険だ。


 あの男は、想像以上に危険だ。


 振り返り確認すると、男は嬉々とした表用で足を引きずらせながら追いかけてきた。傷を負っているのか、思うように動けないらしい。ズルズルと引きずられる足からは赤い血が筋を作って流れ出ていた。


 あんなに血を流しながら走っていられるなんて異常だ。

 エルカは蔑みの視線を男に向けた。


「いや、さ……お嬢ちゃんをいくらで引き取るかって話で揉めてさ………俺が育ててやるよ……良い父親になる自信はあるよ」

「今更、父親なんていらないわ」

「俺と手を組んで金儲けだってできる……」

「意味がわからない」


 エルカは逃げながら、場所を移動する。

 この屋敷の構造を把握しているが、あの女が至るところにガラクタを捨てるものだから思うように走れない。


 だけど、それは追い駆けてくる男も同じ。

 ガラクタが障害物になってくれる。


 怪我をしている彼にとって、この障害物は不愉快でしかないだろう。


「お嬢ちゃんの容姿なら、数年後には男を騙せる……騙し方を教えてやるよ」

「興味ないわね」

「興味ないだと? 目は気になって仕方ないって顔をしているだろ? さ、一緒に」

「そんな、勝手なこと……こちらから願い下げ」

「反抗的だな、父親と同じだな」


 舌打ちをしながら、言い放つ。

 そんな男にエルカは冷笑を向けていた。


「………………当然でしょ……あの人の娘だもの」

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