第9章 朱の夜(1)

***


 コツコツという足音が近付いてきた。

 エルカはゆっくりと顔を上げる。

 その足音で、それがナイトのものだと分かる。

 重い足取りで書庫の扉まで移動する。もちろん、読みかけの本を持ったままで。読書に集中しているときは、一分一秒でも惜しいのだ。

 エルカが扉に辿り着いたところで、ナイトが話し始めた。

 ナイトもエルカが扉の向こうにいることを気配で理解できるのだ。


「いるか?」

「今、忙しい所」

「話はすぐに終わる。どうやら、あの二人の間に子供が出来たそうだ」

「ふぅん……」

 エルカは手元の本を捲りながら兄の話を聞いていた。

 パラパラとページを捲る音は兄にも届いているはず。

 話半分にしか聞いていないであろう妹に向けてナイトは言葉を続ける。

「それで、オレたちはそれぞれ独り立ちするように……ということになったんだ」

「……了解」

「了解って……お前、それで良いのか?」

「……私がやることは変わらない、引き篭もって読書……それが出来れば問題ないよ」

「お前なぁ……まぁ……あの人たちが何を言おうと、オレがお前を引き取るつもりだけど……………あと、飯は置いておくから、後で食べろよ」

「今読んでいる本が怒涛の展開……………それどころじゃないの」

 ページを捲る手が止まらない。今、一番盛り上がっているところなのに……

 食事をすることさえ無駄な時間に思えたので、その場から離れようとすると。

「倒れたら続きが永遠に読めないぞ」

 ナイトが低い声で不穏な言葉を発した。


 永遠に読めない?

 それは困る。


 そこでエルカはピタっと手を止める。

「…………わかった。中に入れて」

「おう」

 不満そうな妹の声にナイトの満足そうな声が返される。

 物語の続きが読めないのは嫌だったので、兄に従って扉を少しだけ開く。そして、パンがのせられたトレイを受け取る。

 一瞬だけ兄と視線を交わしてから、ガシャンと扉を閉めた。

 更に中で鍵を閉めた。これは兄に指示されている行為だった。

 彼が居ない間は必ず内側の鍵もかける。


 ナイトはこれからバイトなのだろう。

 昼間も働いているというのに。いくら生活の為とはいえ、働き蜂のように働かなくても良いのに……と思いながら扉を見つめる。


 ナイトの足音が遠ざかるのを確認して、エルカは溜息を吐いた。


 何の話かと思えば……

 あの二人、父親とその再婚相手との間に新しい命が生まれたのだという。

 それは、エルカにとっては実に興味のない話だった。

 非情に迷惑なことに、その影響でエルカたち三人は家を出なければならないのだとか。元々住んでいたエルカがどうして出て行かなければならないのか理解できない。そう心の中で憤慨しながら、階段を降りて再度溜息を零した。


 読みかけの本を机に置いた。

 そして私物を入れている机の引き出しを開く。

 その中には学校に通っていた頃のものが残されていた。

 通うことを放棄して、引き篭もったのはエルカだった。二度と行くつもりなかったのに何でこんなものを残しているのだろう。


 首を傾げる。


 それは数冊のノートだった。確か、クラスメイトの誰かが用意してくれた授業のノート。学生生活は思い出すだけで苦しい。喉の奥から黒い何かを吐き出してしまいそうになる。ページをめくり、その丁寧に書かれた文字を見る。


(……字が綺麗すぎる……)


 ノートを閉じて、机の上の本に視線を落とした。

 なぜだろうか、一瞬にして本を読む気力が失せてしまった。


(本を読むのはここまでにしようかな)


 そう思い読みかけの本を本棚にしまう。そしてノートを机の中に戻して、引き出しを閉じた。パタンと冷たい音を立てた引き出しから視線を机の上に戻す。


 机の上にはナイフがあった。それを手に取った。刃先からは鈍い光が放たれている。このナイフはナイトから貰った護身用のものだった。


「これは必要だよね………」


 怪しく光るナイフに微笑みかける。

 刃に映る少女は不敵な笑みを返した。


 


「あの人たちは、私の処遇については兄さんたちには伝えていないみたいだね」


 無意識に天井を見上げていた。

 父親とその再婚相手にはお金が必要なのだ。

 祖父の遺産を食いつぶした彼らがどうやってお金を手に入れるか、考えるまでもなかった。数年前、あの男がこの家に来た時から分かっていたことだから。


「あの人たち、聞こえていないとでも思っていたのかな」


 エルカは手でナイフを弄びながら微笑を浮かべる。

 この地下書庫の真上にはリビングがある。この机の側に居ると、上の会話が筒抜けになるのだ。


 ここで夫婦が客人を呼んで語らうのをエルカは聞いていた。これは祖父がエルカだけに教えてくれた地下の秘密だ。


 兄がバイトの為に出かけた。

 裏口の扉が開いたから、ソルも何処かに行ったのだろう。

 それを見計らったかのように彼らが言葉を交わす。


「貴方の娘だけど、あいつに売っても良いわよね」


 耳障りな女の声が甘えるように父親に囁いていた。

 耳を塞ぎたくなるような気持ちの悪い声。

 今すぐリビングに向かって、あの忌々しい口を糸で縫い合わせてしまいたい。

 そう思っても行動できない自分が情けなかった。エルカは拳を固く握りしめる。


「あまり金にならないと思うが」


 対する父親の声は平坦で感情が見えない。

 感情が見えないから少しだけ怖かった。もっと高値なら快く売り飛ばされるかもしれない。

 乗り気ではない男の反応が気に入らなかったのか、女は猫なで声で続ける。


「だってぇ、邪魔ですもの。私は嫌なの! 前妻の面影があるのが視界に入るなんて」

「そうか……」

「実は話はつけてあるのよ。偉いでしょ。でも、ほら見て。あいつ、思ったより金を出さないみたいなのよ。あの娘が欲しいって言うくせに……これっぽっちなのよ」

「……最愛の娘の価値としては、低すぎるな」

「でしょ……今日も呼んでいるから、来たら言ってやりなよ」

「………確かナイトは朝まで帰らないはずだな」

「そうそう、ナイトくんに見つかると親子関係が悪化するでしょ。彼には、私たちの子供の教育係になってもらわなきゃ。一緒に住まなくても、この子の兄になるのですから」


 何を図々しいことを言っているのだろうか。

 エルカは眉根を潜めた。ナイトと彼らの間に親子関係なんてものはないはずだ。


「そうだな……ソルくんの方は?」

「あいつも引き取ってもらうつもりよ。あの子はあの人に似ているから苛々するのよ! どうせ、一人じゃ生きられないでしょうから、私の生活資金になってもらわなきゃね」


 ゲラゲラと、下品な笑い声が聞こえた。

 この笑い声を聞くだけで心が穢れてしまいそうになる。

 エルカは思わず耳を塞いでしゃがみ込んでしまう。


 もう嫌だ。その下品な口を開くな。

 心の中で悲鳴を上げながら、瞼ををキツク閉じる。


 酷い会話だと思う。

 大人たちは自分の生活の為に、自分の子供を売り飛ばすつもりだ。

 それを何でもないように話している。 


「………」


 あの人たちにとって、自分たちは何だったのだろう。

 エルカは足をふらつかせながら声の聴こえない場所まで移動した。

 そして床にしゃがみ込んで耳と目を閉ざす。


「ねぇ、魔女コレット……貴女にとって私たちは……私は何だったの?」


 姿を消した魔女の名を思い出す。

 彼女は魔女であって、母ではなかった。

 エルカを産むことが彼女の役目で義務だった。その役目を終えたからって姿を消してしまった。エルカを愛してくれたのは祖父と兄だった。


***


 時間がゆっくりと過ぎていく。


 あの二人の会話が信用できるのなら、兄は今夜帰ってこない。

 兄には知られたくなかった。

 だから、兄の不在は好都合だった。

 エルカは立ち上がり、机に歩み寄る。


「やるなら………」


 今だ……

 

 そう思って、呼吸を整えてナイフを握りしめ………


 ドン!!!!


 その時、天井で大きな物音が聞こえた。


「…………っっ」


 こんな夜更けに有り得ない音だ。

 ナイフは握りしめたまま歩き出す。これを握っていないと、狂ってしまうような気がしたからだ。


「様子を見なきゃ」

 エルカは音を立てないように、階段を上り、そっと扉を開けて様子を伺う。 

「………」


バシ バシ バシ バシ

 

 これは何の音だろうか。

 それに視線を向ける。


 視線の先に黒い影が見えた。黒くて大きな影。その黒い影が、あの人たちを殴っている。馬乗りになって、煤だらけの拳を振り下ろしていた。


バシ バシ バシ バシ


 これはあの人たちを殴る音だった。


ゴメンナサイ、ごめんなさい、

タスケテ……ユルシテ………ダズグェ……ガガ


 手を伸ばし、命乞いをする声を、彼は聞いていない。伸ばされた手を踏みつけて、何度も蹴り、何度も殴っていた。飛び散っている赤い血は誰のものだろうか。


 気づかれてはいけない……


「………」

 そう思ったエルカは静かに扉を閉めた。

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