第8章 黒の夜(1)

 『……ソル、聞こえる?』


 感情のない暗い声が聞こえた。


 姿は見えないのに、彼女の濁った視線がそこにあるような気がして、背筋がゾッとするのを感じた。


『物語は進んだよ。みんなでプリンを作って、みんなでプリンを食べたの』


 穏やかな声だ。だけど、その目は笑っていない気がする。


『ソルは…………この後、どうして欲しいの?』


 そこにはいない彼女が、探るようにソルを見据える。


『貴方の考えていることは、いつも分からない。教えてよ』


 自分が何を考えているかなんて、自分でも分からなかった。

 だから、ソルは何も言えなかった。


『言わないのか、言えないのか………どちらでも良いけど。このまま私は物語を進めるよ。良いよね』


『………何も言わなくてもいいよ。じゃ、行くね』


 突き放すような声と共に、彼女の気配は消えた。

 

 もしかすると自分は選択肢を誤ったのかもしれない……


 彼女との最後の会話を終えたソルはそんなことを考えていた。




 記憶を取り戻した彼女の声は暗かった。記憶が欠けていた頃は、少しだけ明るかったのに……


 記憶を取り戻すということは、本来の彼女に戻るということなのだから仕方がない。それなのに胸が苦しくなる。彼女にかける言葉が見つからなかった。


 本来の自分たちの間には会話なんて殆どなかったのだから。



***


 

 突然、視界が真っ黒に染まる。


 ちがう、強引に瞼が閉ざされたのだ。


 咄嗟に目を見開いた先に法廷の風景が広がる。


 ソルは再び証言台に立たされていた。自分を取り囲む本棚の視線も先ほどと同じ。正面の裁判長席では小さな魔女が微笑みを浮かべていた。


「さぁ、教えて……事件当日に何があったのかを」


 魔女は問いかける。

 この質問が来ることは予想していた。


 だけど、ソルは眉根を寄せて魔女を見上げる。


「なぜ? そんな質問をするんだ」


「証言台に立っているのは貴方だよ。貴方から私に質問は認めません」


 冷たい声に息を飲む。魔女の表情は真剣だった。切羽詰まっているような、そんな表情を浮かべている。


「事件当日か……きっかけとなった出来事は朝になるよ」


 口元に笑みを浮かべながら、ソルは記憶を呼び起こした。


***


 応接間でソルは食事をしていた。いつものように一人の食事。何だかんだで義兄はソルの分も食事を用意してくれている。感想を伝えたことはないが、美味しい。それを口に放り込んで空腹を満たしていた。


 そこに両親が入って来た。

 そんなことは今までなかった。あり得なかった。逃げようとしたソルを入口で止めたのは、実の母親。


「ソル、大事なお話があるのよ」


 十年前も「大事なお話」を聞かされた。一つは、離婚報告、もう一つは結婚報告。じゃあ、今回は何だと言うのだろう。このまま出て行けば良かったのに、ソルの足は動かなかった。


「ナイトくんも、聞いて」


 廊下側から様子を伺っていたナイトが目を細める。いつからそこに居たのだろうか。顔をしかめた彼の視線は一瞬だけソルに向けられた。


「これからのことを話すから聞いて欲しい」


 そう言ったのはエルカの父親マースだった。初めて聞くかもしれない彼の声には感情がないように思える。作り物のような表情がソルとナイトに向けられる。彼の傍らの女は満面の笑み。この温度差が不気味に感じられた。


 ソルとナイトは不機嫌な表情を浮かべたまま応接間の入口付近に立っていた。

 エルカの父親は作られたような笑顔で、ソルの母親は心底幸せそうな笑顔で、夫婦はソファーに腰を下ろしている。


 そして、弾むような声で、眩暈がするような言葉を吐き出した。


「聞いて、赤ちゃんが出来たのよ。ソル、貴方の妹か弟が生れるのよ。嬉しいでしょ」


 喜んで報告する両親をソルたちは冷めた目で見ていた。この十年、彼らは一度も子供たちに愛情を向けた日はなかった。ずっと互いだけを見て、互いだけを愛していた。別にそれ自体は悪いことではない。


 最後に会話をしたのは、いつだっただろうか。一緒に住んでいるのに、下手すると一年以上言葉を交わしていなかった気がする。


 そんな相手に、満面の笑顔を向けられても戸惑うしかなかった。



「お前たちは立派な大人だ。この家を出て、独り立ちできるだろう」



 マースが平坦な声でそう告げる。どこをどう見れば、そんなことが言えるのだろうか。いや、このマースという男は何も見ていない。男の視線はソルのことも、ナイトのことも見ていない。何もない虚空を見ていた。


「ふ、ふざけてるのかよ!」


「そんなに怒ることなの? 幸せなことなのに」



 怒鳴り散らすソルを不思議そうに実の母親は見ている。



「ああ、幸せだろうね……オレたち以外は」


 珍しく棘のある言葉をナイトが口にしたので、ソルはギョッとして横目で彼を見た。いつになく不機嫌で目がナイフのように鋭い。だけど、この人たちにはナイトの放った棘が見えていないのだろう。



「ありがとう、祝福してくれるのね」


 そんなことを言い出すのだ。


「誰も祝福してないだろ!」


 そう叫んだところで、ソルの声なんて耳には入っていないようだ。


「あの子はまだ引篭もっているの? こんな素敵なおめでたい日なのに」

「……そのようだな」


「でも私たちの子供には関係ないわよね」

「そうだな」


 彼らにはナイトとソルの姿が見えていなかった。幸せな二人の時間に浸っている。ナイトは無言で部屋を出ていった。


「お前たちの幸せなんて消えてしまえばいい」


 ソルはそう呟いてナイトの後を追う形で、部屋を出る。ナイトとソルが立ち去ったことに、彼らは気付いていないし、気にしてもいないのだろう。


***


 自分たちが夫婦と新しい子供での新生活を送る。その為には自分たちの血を引く子供たちは邪魔だった。だから、この屋敷から追い出そうと言うのだ。


 ソルは部屋に戻る為に廊下を歩いていた。無駄に広い屋敷に、初めの頃は迷子になりそうになったものだ。


 幼い頃は、エルカに案内されながら何とか覚えることが出来た。引き篭もりのエルカだが、家の構造は把握していたらしい。いざ逃げる時の最短ルートなんかも教えて貰った気がするが、残念ながら覚えていない。


 この家の地下室には書庫がある。それは亡くなった祖父の趣味だった。今はエルカが引き篭もっている。ソルには理解ができなかったが、インクの匂いが落ち着くのだとか……


 その入り口にナイトの姿が在った。


 どうやら、彼女に今の話を告げているらしい。家を出て行けと言われたのだ。彼女も、地下書庫から出なければならない。


「……ということになったんだ」

「……了解」


「了解って……お前、それで良いのか?」

「……私がやることは変わらない、引き篭もるだけ」


「お前なぁ……まぁ……あの人たちが何を言おうと、オレがお前を引き取るつもりだけど……………あと、飯は置いておくから、後で食べろよ」

「今読んでいる本が怒涛の展開……………それどころじゃないの」


「倒れたら続きが永遠に読めないぞ」

「…………わかった。中に入れて」


「おう」


 そう言ってナイトはパンののせられたトレイを隙間から入れる。エルカがそれを受けとると、ガシャンと扉は閉まった。中で鍵が閉められる音もする。


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