第1部 少女の物語

第1章 扉の向こう側(1)

―――っ 


 それは突然の覚醒だった。


(……何? この扉……私、知らない)


 エルカは見知らぬ扉の前で立ち尽くしていた。

 それは、所々が薄汚れた鉄の扉。

 いつから、いつの間に、そこに居たのだろう……考えても思い出せない。


(ここは、どこだろう……ダメ、わからない)


 確認するために周囲を見渡して………諦めた。


 暗闇で何も見えなかった。

 試しに足踏みをすれば、コツコツという音が響き渡る。

 足元には木の床の感覚。

 だけど目には床らしいものが映らない。

 どんなに目を凝らしても、そこには黒一色の空間があるだけ。

 黒い床、そう考えるべきだろうか……と首を捻る。


 もう一度、扉を見る。


 鮮明に見えるのは目の前の扉だけだ。

 それ以外は、足元と同じ黒一色。暗闇の中に、エルカと扉だけが浮かんでいるようだった。でも、エルカには床に足をつけて立っているという感覚がある。


 近付いて扉に触れてみる。


 冷たく硬い鉄の感触と、フワッとした綿埃が指先にまとう。


(うわ……汚いかも)

 いつのものかも分からない埃。

 慌てて手に付いた埃を落とした。舞い降りた埃は、床に落ちることなく、そのまま闇の中に消えた。


「ここは、どこなの?」


 誰かに問いかけてみる。


 当然、誰も答えてはくれない。

 だけど、これで声が出せることは確認できた。他に誰もいないことも確認。

 次に確認することは……


 自分が何者なのか。


(私の名前……)


 考えるまでもなく、すぐに浮かんだ。

 だって、それは自分の名前なのだから。


 少女の名前はエルカ・フラン。年齢は十四歳。

 家族は父親と父親の再婚相手の女(母とは呼びたくない)、あとは過保護な兄と、少し怖い義兄(再婚相手の連れ子)。両親は滅多に帰ってこない。祖父の遺産を削って遊び暮らしている。

 好きなものと趣味は読書。

 好きな食べ物と嫌いな食べ物、特になし。

 職業は引き篭もり。学校には一応は在籍していたけれど、色々あって休むようになった。色々あって、そのまま不登校になった。

 住んでいる場所はご近所では有名な幽霊屋敷と呼ばれる古い屋敷。

 蜘蛛の巣と雑草に囲まれた、隙間風だらけのボロボロの屋敷。

 幽霊屋敷に住んでいることで、幼い頃からからかわれていた。

 それだけなら良かった。

 成長するにつれて酷い噂が立って、嫌な思いをたくさんして、そして、そして……もう嫌になった。


(あれ? 何が……あったんだっけ)


 何があったのかは思い出せない。

 だけど、とても嫌なことがあった気がする。

 きっと、嫌なことを言われたのだろう。

 身体を傷つけられたことはなかった。だけど、心は散々傷つけられた。

 子供は残酷な生き物だ。

 本人たちには悪気のない一言。

 それらが鋭利な刃となって相手の心を傷つける。

 それが複数にもなれば、それは無数の刃だ。

 【悪気がなかった】【ふざけていた】だなんて、ただの言い訳。傷つけられた心は、簡単には癒せない。教師の上辺だけの優しさなんて、ただ傷口に塩を塗るだけだってことなのに、それすらも彼らは気付かない。

 泣くことも許して貰えなかった。

 だって、泣いたら、また、言葉の刃を向けられる。

 教師は裕福な親を持つ子や、将来有望な子たちの味方になる。

 最終的には誰もが自分の保全を優先する。


(嫌なことを言われて、誰も助けてくれないことを知って……学校に行くのは嫌だから、ここに引き篭もっていた)


 それが不登校の理由だったはずだ。

 そのはず……

 何か大切なことを忘れているような気がして、胸がモヤモヤする。

 エルカは胸に手を当てて考える。

 思い出す。


(他にも理由があった気がするけど……何だったろう)


 考える、

 考える、

 考える、

 でも……


(……思い出せない……)


 ただ、頭が痛いだけで何も見えなかった。

 エルカの趣味は読書だった。

 学校に行くより、地下書庫で過ごす方がより多くの知識を得ることができる。


(あの時だって、そうだった……)


 エルカは、いつものように、祖父の地下書庫に引き篭もって本を読んでいていた。そして、それから、どうしたのだろう。


 自分の名前は憶えていた。

 だから、記憶が全くないわけではないようだ。

 だけど、肝心なことを忘れている。そんな気がする。

 記憶はあるのに、何かが抜けている。


 次第に不安になってきた。

 エルカは両手を胸の前でギュッと握りしめる。

 声は出せるから、助けは呼べる。

 だけど、助けてくれる相手がここにはいない。

 助けてくれる相手なんて、居ただろうか。


***


 暗闇に目が慣れてきた。

 何もない黒一色の世界だと思っていたが、目を瞬かせるとそこには壁があった。机のようなものも見える。エルカは不安を紛らわす為に周囲の確認を続けた。


(ここの雰囲気には見覚えがある。きっと、お爺様の地下書庫ね) 


 記憶がぼやけているから、はっきりとは断言できない。

 だけど地下書庫は、こんな感じだった気がする。

 歩くと軋む床。壁や天井の汚れにも見覚えがあった。

 そう思うと、少しだけ安心できた。


(だけど………何かが違う)


 不安な気持ちはまだ残っている。

 それは目の前の扉が見たことのないものだからだろう。

 エルカは地下書庫のことを家族の誰よりも知っていた。

 だけど、この扉を見たことがなかった。

 自分は、どうしてこの扉の前に居るのだろう。


「………」

 目覚める以前の、直前の記憶がスッポリと抜けたような感覚がある。


「……痛い……」


 最後の記憶を思い出そうとすると激しい頭痛が襲い掛かった。

 頭が何かで締め付けられるような感覚。思い出してはいけないものがそこにある……そんな気がする。


 ――ゴメンナサイ ごめんなさい


 誰かが繰り返し叫んでいた。謝罪の声が頭の奥に響いている。

 その声は、誰のものだったろうか。

 最後の記憶を思い出そうとすると激しい頭痛が襲い掛かる。


「……痛い」


 目をきつく瞑ると、その声は遠くに消えていった。

 エルカは無意識に扉に手をかけていた。

 埃が汚いなんて、どうでもよかった。


 開けなければいけない。

 進まなければいけない。


 根拠はないけれど、そんな気がしたのだ。



 ————開けなければ……行かなければ



 ドアノブを回して、静かに押せば、扉は簡単に開くだろう。

 ドアノブに手をかけた、

 その時だった。


 ガタン!!


「っっっ」


 背中に何かが落ちる音が響く。

 それは重い何かが落ちたような音。


 反射的に振り返ると、そこには見覚えの暖炉が在った。


(暖炉?)


 さっきまで、そこに在ったのかどうかは分からない。

 立ち上がる綿埃と砂埃を見れば、もう何十年も使われていないことがうかがえた。砂埃と綿埃が視界を覆う。

 その煙の向こうに人影があった。


ゲホ、ゲホ

「なんだ、これ、」


 激しく、その人物が咳き込んだ。


(ソル?)


 それは居るはずのない人物だった。

 ソルはエルカの兄だ。十年前に在る女に連れられてやってきた義兄。血は全く繋がっていない。兄妹らしいことをした記憶は殆どない気がする。

 エルカは彼を兄とは呼べなかった。


「ソル? どうして………降って来たの?」

「え………エルカ?」


 ソルはエルカを見た瞬間、目を見開いて……再び咳き込んだ。

 全身埃だらけで、何だか不憫すぎる。

 埃とススと色んなものを纏いながら、ソルは暖炉から這い出てきた。


「きっ………気付いたら落ちたんだよ」

「え? どう……いうこと?」


「俺が知るかよ!!」


 大声と共に視線を反らされる。これ以上の追及は出来なかった。よくよく考えればエルカも直前の記憶がないのだから。


 やっと誰かと会えたのに、その相手がソルだなんて。少しだけ残念に思ってしまった。


 エルカはソルが苦手だったのだ。

 何だか常に怒っているみたいで怖いから。

 だけど、この状況では無視も出来なかった。


「えっと……ソル?」

「はぁ?!」

 睨まれると、条件反射で身体が縮こまってしまう。

 喉の奥から何とか言葉を出そうとするが、上手く言葉にならない。

「………ごめんなさい。私も、どうしてここにいるのか………わからなくて……」

 いざ、ソルを目の前にすると言葉が震えてしまう。

 怒られたらどうしよう、殴られたらどうしよう、そんな思いがエルカの声を震えさせた。


「分からない? 地下書庫はいつもいるだろ……それより」


 ソルはドンっと壁を叩く。


 天井から土がドサッと降り落ちる。

 やっぱり怒っているのだ。


 エルカの視線はソルが叩いた壁に向けられた。パラパラと何かが落ちている。

 一瞬、壁が壊れるのかと思った。壁が壊れたら、崩れて、そのまま生き埋めになる……それを想像したエルカは息を飲む。


「……っ」

「お前には何もしないから、普通に話せって……怯えられると……困る」

 そんなに睨まれては、信じることが出来ない。


 エルカは知っていた。

 ソルは知らないだけなのだ。大きな声を出されたら、大きな音を立てられたら、こっちは怖くて仕方がないと言うことを。


「何もしないって……大きな音立てたよね。今のは……少しだけ、怖かったよ」

「あ、そうだよな……ごめん。イライラしていたから」

 教えないと、彼は分からないのだ。不器用な人だから。エルカは呼吸を整えてから、ソルを見上げる。


「こういう状況だから仕方ないよ。でも、壁……落ちるかと思った」

「そこまで強くやったつもりは…………いや、悪かった」

「落ち着いた?」

「大丈夫だ。落ち着いている」

「本当?」

「ああ……それで、ここは地下書庫だろ? ここが分からない……ってどういう意味なんだ」

「ここは地下書庫だよ………多分」

「多分?」

 エルカは扉を指さす。

「これを見るのは初めてなの。こんな扉はなかったよ。あと、そこの暖炉だって」

「暖炉って……?」


 二人が振り返ると、そこには机があった。


「あれ? 暖炉がない」

 エルカは目を瞬かせた。


 先ほどソルが落ちてきて這い出てきた暖炉が、なくなっていた。

 エルカとソルが話をしている最中に消えていたのだ。

 視線の先には、机がいつも通りにそこに在った。

 それは見慣れた光景だった。

「消えてる?」

「消えてるね」

「だけどさ……暖炉なんて、地下書庫にあったか? 見間違いじゃないのか」

「でも、ソルはそこから出て来たよね?」

「あ……」


 見間違いではない。


 そこに暖炉があったこと、それが消えて机に姿を変えたことを確認する。

「……とりあえず、こっちだね。ソルはこの扉に見覚えはある?」

「俺がここに来ていたのは、じいさんが生きていた頃だぞ。お前が見ていないものを、俺が見ているはずない」

「だよね……この扉の先には何があるのかな」

 二人は扉を見上げる。

「開けたいのか?」

「……うん。わからないけど、開けなきゃ……って思うの」

 ソルは先ほどエルカが開けようとした扉をペタペタと触った。埃が手について、不機嫌そうに顔を歪ませる。

「ただ立ち止まっていても仕方ないからな。開けるか………………ん?」

 ドアノブに触れたソルの表情が曇る。

 何度か力を入れて回そうとするが動かないらしい。

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