エルカの図書棺

Roko(ろこ)

序章

序章 -過去ー

 少女は息を殺して足音を立てないように廊下を歩いていた。

 年端もいかない幼い少女だ。

 少女は自分の身体を抱きしめるようにして歩いている。 


 ガタガタガタ……

 

 これは風が窓を叩く音。

 ビクリと身体が震える。

 窓から見える空は闇色に染まっていた。

 不気味な色だ。

 暗いのは夜中だからというだけではない。

 嵐が近付いているのだとか。

 誰かがそんな噂話をしていたことを少女は思い出す。

 隙間風がビュービューと入り込む。

 それは何者かが侵入する音なのかもしれない。


 少女の脳裏に浮かんだのは黒い影。

 その何者かは姿を消して侵入してきた。

 そして、家中の空気と一体化すると、少女の周囲を急激に冷やす。だから、先程よりも空気が冷たく感じるのだ。 


 いつもはあるはずの月明り。

 それも厚い雲に隠されていて余計に闇の色が濃かった。


 ガタガタガタ……


 強風で窓が割れるのではないだろうか。

 そう思うと、恐怖心が全身に走った。


 窓が割れて、ガラスが飛び散ったら……きっと痛いだろう。

 少女はその痛みを想像する。

 パラパラと舞い散るガラスの破片が己に降りかかる様子を想像する。

 それは痛いだけでは済まされない、赤い血が飛び散りそうだ。


 自分の部屋に引き返そうかと考えて……首を横に振る。

 戻るということは、同じ道を引き返すということ。

 同じ恐怖をまた味わうのだ。

 それでは、何も変わらない。

 ギュッと唇を噛みしめて、小さな歩幅で前に踏み出す。


 ガタガタガタ……


 ようやく辿り着いた扉の前で、少女は安堵のため息を零した。

 傷とシミだらけのボロボロの古い扉。

 それが、とても頼もしく思えた。


 少女は小さな手を握りしめて控えめに扉を叩く。

 程なくして、鈍い音と共に扉が開かれた。

 眩い光が視界一杯に広がり、目を細める。

 扉の隙間から微笑んだのは初老の男。

 その姿に少女は笑みを浮かべた。


 今までの恐怖心が一瞬にして消え去ってしまったような気がする。


「こんばんは、お爺様」

「おや? こんな夜更けにどうしたんだい?」

「本が読みたいの」

「嵐が怖いのかい?」

「うん。怖いから、本を読んで欲しいな」

「やれやれ……仕方ないなぁ。おや? カンテラも持たずに来たのかい」

 こんな真夜中に、この少女は手元を照らすカンテラを持たずに来たのだ。

「カンテラなんて持っていたら、魔王に見つかってしまうの。ロウソクに色んなモノが集まってしまうの。ほら、お爺様の部屋の灯だって危ないわ。魔王に見つかってしまうのよ」

「それは大変だな。散らかっているけれど、おいで」


 招き入れられた部屋。そこは彼の書斎であった。

 書斎というよりも、書庫と読んだ方が正しいのかもしれない。

 壁一面に本棚が並び、隙間なく本が詰め込まれている。机の上にも本が積み重ねられている。机の下にも、棚があって本が並んである。ベッドがあった場所も本が散乱していている。だから寝床になっているのはソファーだった。そのソファーにも本が置かれている。

 どれもこれも古い本で、少女には読めない文字のようなデザインのようなものが描かれている。


 少女は、この書斎なのか書庫なのか分からない、祖父の部屋が大好きだった。

 紙やインクの匂いは心を安らかにしてくれる。


 椅子に身を委ねている祖父の膝の上。

 そこが、少女の定位置だった。

「子供は眠らないといけない時間だというのに、困った子だな」

「だって、眠れないの」

「何かあったのかい?」

 彼は魔法使い。

 だから少女が何も言わなくても分かるのだ。

 心の中に不安を抱いていることを。

 祖父は膝の上に座った孫娘のエメラルド色の髪を撫でまわしながら尋ねる。

「お昼ぐらいだったかな……家の前を歩いている人たちが、この家には魔王が住んでいるって言っていたの」


 古い屋敷だから、通行人たちはそう思っていたのだろう。

 至るところには蜘蛛の巣。雑草は生え放題。玄関先にはゴミが散らかっている。人が住んでいるような雰囲気はこの家にはなかった。

 観光客が心霊スポットのような感覚で訪れていた。

 彼らは住人がいる屋敷の前で話をしていた。

 住人がいるとは思っていないのだ。

 隙間だらけの家の中には外の会話が良く聞こえてくる。

 

 だから聞きたくもないような下賎な話が耳に入る。

 幼い少女にとっては、それは怖い話だったのだろう。

 自分が住む屋敷に見知らぬ何者かが住んでいる、そんなことを言われたのだから。

「魔王? おお……じじぃは魔王だったのか……知らなかったなぁ」

「違うよ、お爺様は魔王じゃないよ。だから、私が知らないだけで、魔王が住んでいるかもしれないの。一人で寝ていたら食べられちゃうかもしれない。この嵐だって、魔王が呼んだのかもしれない」


 少女の空想は膨らんでいた。

 この嵐を呼んだ魔王が、彼女を恐怖で追い詰めて食べてしまうのだとか。


「魔王などおらんよ。この屋敷の主であるじじぃが断言する」

「だけど、冷たい空気と一緒に家の中に何かが入って来たわ。きっと、魔王の部下なの」

「家の中に入って来たそいつは、お前に何もしていないだろ?」

「うん」

「そいつはなぁ……じじぃの結界魔法で消えてなくなったのだよ」

「すごいわ!」

 少女は目を見開いて祖父を見上げた。

 男は胸を張って、ドヤ顔で続ける。

「じじぃの魔法がこの屋敷を守っている。だから魔王も魔王の部下も入ってはこれないから、安心なさい」


「………本当に?」

 少女はまた不安そうに目を潜める。

 余程、「魔王」が怖いのだろう。

「本当だ……いいかい? 噂話に耳を傾けてはいけないよ」

「どうして?」

「噂話は真実ではないからだ。真実は違うだろ? ここに住んでいるのは、じじぃとその家族だ」

「うん……」

「噂話に耳を傾けても、不安になるだけだ」

「不安って、怖いことだよね。怖いのは嫌だよ」

「そうだな。だから、耳を傾けないように」

「……うん」

 祖父の大きな手が少女の耳を塞ぐ。

 少女は目と耳をギュッと閉じる。

 こんなことで、耳を塞ぐことは出来ないだろう。


 ガタガタガタ……


 風が窓を叩く音が遠くで聞こえていた。

 ここは地下だから窓なんてなかった。

 それなのに、聞こえてくる。

 やっぱり、魔王がそこまで来ているのかもしれない。

 祖父には大丈夫だと言われたが……

 それでも少女は祖父の腕にしがみ付いていた。


***


 ガタガタガタ……


 大きな音に少女は眉を寄せた。

 これは何処かで風が窓を叩いている音だ。


 少女が物心つく頃には壊れかけていた窓。

 そのうち壊れるだろうと思っていたが、まだ現役だ。

 なかなか、しぶとい……少女はそう思いながら本に目を落とす。


 ガタガタガタ……


 この地下にまで聞こえてくるのは厄介だと思った。

 読書に集中できなかった。

 かといって、新しい窓を取り付ける余裕なんか、この家にはないのだ。

 大きな屋敷ではあるが、生活は苦しい。

 出来れば、もう暫くは壊れないで欲しいと彼女は願う。


 ガタガタガタ………


 数年前までは、これが魔王が窓を叩く音だと思っていた。

 少しばかり恥ずかしい話である。

 

 今でも、この音は嫌いだった。

 何か恐怖心を掻き立てる音だ。

 少女は読んでいた本を閉じ、ワインレッドの瞳を細める。

 視線の先……木製の椅子に座っていた主は、もう何処にもいない。

 怖がる少女を優しく包んでくれた祖父は、ここにはいなかった。


***

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