第39話 崩壊の足音
およそ拘束されているとは言えない快適な状態で、ティアレシアは一応捕えられていた。
勝負服である真っ青なドレスに着替え、口元には薄く紅を塗り、銀色の髪は完璧に結い上げている。逸る気持ちを抑えるように深呼吸を繰り返し、にっこりと笑みを作る。
鏡に映る自分は、非の打ちどころがないほどに美しく微笑んでいた。
「お姉様。私はずっと待っていました、この時を」
すべてを信じ、愛していた心優しい王女クリスティアン。父を奪われ、信じていた者に裏切られ、大切なものが踏みにじられ、心も身体も傷だらけになってはじめて憎しみを覚えた。
「私は、ティアレシア。お人好しのクリスティアンではないわ」
目を閉じ、ティアレシアは大切な人の顔を思い浮かべる。何もできなかった十六年前とは違う。大切なものを守ることができるはずだ。
そして、シュリーロッドに奪われたものを取り返し、復讐を遂げるのだ。
「準備はいいか」
ルディが現れて、にやけ顔で問う。答えなど、決まりきっている。
「えぇ、もちろん。さて、私を連行してもらいましょうか」
微笑んだティアレシアの視線の先には、フランツとブラットリーが立っている。二人は目の前で跪き、ティアレシアが差し出した手を取った。
両側に騎士を従え、ティアレシアは歩き出す。十六年間、待ち続けた瞬間のために。
「ティアレシア・バートロム。重要参考人として連行する」
扉の外に控えていた騎士に硬い声でそう告げられ、ティアレシアは笑みを殺して暗い廊下を進んで行った。
◇◇◇
半円形に広がる階段席に座る者はおらず、審議を一目見ようと集まった人間たちは数百人を超えていた。もう一人も入る隙間がないほどに埋め尽くされていたが、不満顔の者は誰一人おらず、皆の視線はすべて審議が行われる中央に向けられていた。今か今かと審議の開始を待つ者たちの前に、ようやく王立騎士が現れた。
そして、赤いドレスを身に纏った女王が優雅に入場し、その後ろから王立騎士団長ヴァルトと、法務官の男たちが続く。女王が最高位に用意された椅子に腰かけ、ヴァルトが手に持った書類を台の上に乗せると、一番に入ってきた騎士が声を上げた。
「これより、公開審議を開始する」
すべてが自分の思い通りになるはずだった。
シュリーロッドは、笑って罪人に死刑を宣告するはずだった。
十六年前、腹違いの妹の首を刎ねた時と同じように。
しかし、彼女の予想に反して、審議の間に現れた罪人である銀色の髪の少女は自分こそが世界の中心であるかのように青いドレスを翻し、両側には騎士を伴って現れた。その青は、女王の赤とは対照的だった。
(この娘は、自分が死にに来たことをまだわかっていないのね)
この少女の登場が、これまで築き上げてきたものが崩壊する第一歩になるとは思わずに、シュリーロッドは笑みを浮かべていた。
「皆様、この女はわたくしの夫セドリックを誑かし、毒を盛った、このわたくしに刃向う反逆者です。この者の未来はただ一つ。わたくしに懺悔し、その首を差し出すことですわ」
声高らかにシュリーロッドが傍聴席にいる者たちに言うと、まさか、と人々は顔を見合わせた。銀色の髪の少女がバートロム公爵家の令嬢であることは、ほとんどの者が知っている。傍聴席は半分以上を貴族が占めており、彼女が女王の侍女として登城していたことも知っている。
「ヴァルト、これから言うことがすべての決定です。ティアレシア・バートロムは、セドリックを暗殺しようとした殺人罪とわたくしへの反逆罪で死刑。そして、父親であるバートロム公爵も死刑。バートロム公爵家の爵位は剥奪し、領地も没収。今後、バートロム公爵家にゆかりのある者たちは社会の底辺で生きてもらうわ」
真っ赤な唇に笑みを浮かべて、シュリーロッドは何の力も持たない公爵家の娘に残酷な未来を聞かせる。
十六年間、シュリーロッドに逆らう者はいなかった。生意気な小娘が身分も立場もわきまえずに刃向ったところで、シュリーロッドには痛くもかゆくもない。
しかし、セドリックに手を出したことは許せなかった。簡単に殺してはおもしろくない。シュリーロッドはにっこりと笑って、どうこの娘を絶望させようか、と思案していた。シュリーロッドに恐怖してか、ティアレシアは言葉もなく俯いている。無理もない。この王国で最高権力者に逆らったのだ。無事でいられるはずがない。
(愚かな娘……)
シュリーロッドが優越感に浸っていた時、どこからか笑い声が聞こえてきた。シュリーロッドはその声の主を見つけ、驚きに目を見張った。心底おかしそうに笑っていたのは、絶望しているはずの罪人、ティアレシアだったのである。
「女王陛下、面白い冗談をおっしゃるのですね」
誰もが銀色の髪の娘に注目した。怪訝そうに見つめるシュリーロッドの目の前で、ティアレシアは顔を上げた。その顔には完璧な笑顔が浮かんでおり、紺色の瞳には絶望の色は一切なかった。
「私は女王陛下に逆らおうなどとは思っていませんわ。だって、あなたは本物の女王陛下ではありませんもの。どうして忠誠を誓えましょう」
何を言われたのか、理解した途端にシュリーロッドの頭の中は沸騰しそうなぐらい熱くなった。
「黙りなさい! ベルゼンツ、今すぐあの娘を殺して!」
感情のままに叫び、命じる。しかし、ベルゼンツをはじめとするシュリーロッドの騎士たちは動かない。仕方なく、シュリーロッドがティアレシアに近づこうとすると、腕が誰かに掴まれた。振り返ると、そこにいたのは自分を守るはずの騎士ベルゼンツだった。
そして、口を噤んでいたヴァルトが声を上げた。
「セドリック様に毒を盛り、暗殺を謀ろうとした罪人たちをここへ」
騎士たちに連れられて罪人の席に着いたのは、エイザック侯爵、アルゼン侯爵、ゼイレン伯爵だった。
「私は女王陛下のために、セドリック様の指示で動いていただけです!」
女王を見るなり、油ぎった顔を必死で歪ませて叫んだのはゼイレン伯爵だった。その言葉に、シュリーロッドは眉をひそめる。
「どういうことですか。ゼイレン伯爵」
淡々と訊ねたのは、ゼイレン伯爵の息子であるヴァルトだ。今度は、ゼイレン伯爵が息子に救いを求めようと愚かにも言葉を重ねた。
「シュリーロッド女王陛下の治世を平和に保つため、私はセドリック様に言われた通りに動いただけだ。それなのに何故、セドリック様が毒に倒れているのか。裏切ったのですか、エイザック侯爵」
「黙れ、ゼイレン伯爵!」
エイザック侯爵が制するよりも先に、ゼイレン伯爵は早口でまくしたてた。
「あなた方が、本当に毒を盛ろうとしていた人物は、もしかするとこちらの方ですか?」
ヴァルトがちらりとティアレシアの方に視線を向けると、彼女の脇に控えていた大柄な騎士が前に出てきた。誰だ、という声が聞こえる中、シュリーロッドもその男を見つめ、どこか既視感を覚えた。いつ、どこで、見たのか、思い出そうとした時、男が名乗った。
「元近衛騎士団団長、ブラットリー・ヴェールド。アルゼン侯爵が死亡診断書を偽造してくれたおかげで、俺は監獄を出ることができた」
顔は忘れても、自分に逆らった者の名は忘れない。死んだと報告を受けたはずの男が目の前で笑っているのを見て、シュリーロッドの憤りが増した。アルゼン侯爵を見ると、彼もまた驚いた顔をしていた。
「ゼイレン伯爵が言うように、毒殺するのはセドリック様ではなかったようですね。しかし、そもそも、毒殺を計画していなければセドリック様が毒に倒れることもなかった。女王陛下が罪人だと言うバートロム公爵令嬢は、この件に何の関わりもありません」
きっぱりとヴァルトが言った。シュリーロッドが反論しようと口を開く前に、ヴァルトは言葉を続ける。
「今回使用された毒ですが、エイザック侯爵の屋敷から見つかりました。不思議なことに、発見された毒は十六年前エレデルト国王に使用された毒と酷似しています。それについては専門家に話を聞きましょう」
ヴァルトが合図し、騎士たちが連れてきたのは、身なりを整えたカルロだった。セドリックのために解毒薬を作っているはずの彼が何故……シュリーロッドは怒りで目の前が真っ赤になる。
「カルロ医師、説明をお願いします」
「セドリック様に使用された毒と、十六年前エレデルト国王に使用された毒は、同一のものといって間違いないでしょう。神経麻痺、呼吸困難、全身に激痛を伴う非常に強力な毒です。カザーリオ帝国内で兵器として研究されていた毒で、このブロッキア王国内で出回ることはまずない代物です。また、十六年前ならまだしも、今はカザーリオ帝国でも毒兵器の研究は禁じられており、手に入れることは困難でしょう」
審議の間にいる全員に聞き取れるよう、よく響く声でカルロが言った。その言葉に、誰もが息を呑んだ。
「つまり、今この毒を手に入れられる者はいない。ただ、十六年前にエレデルト国王に使用するために毒を手に入れた犯人なら、持っていてもおかしくはないということですね?」
「間違いなく、この毒を盛っていた者が十六年前カザーリオ帝国から毒を手に入れた人物でしょう」
カルロのその言葉で、人々の視線はエイザック侯爵に注がれた。
十六年前の悲劇は、未だに人々の心に根付いている。心優しい王女クリスティアンが父である国王エレデルトを何のために毒殺したのか、人々は理解できなかった。ほとんどの者が何かの陰謀に巻き込まれたのだと信じていた。
その陰謀の真実が今、目の前で明らかにされようとしている。
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