SNSがめんどくさい
Facebookやツイッターなどをやってるんですが、リアル友がほとんどいないので、カキコが見れません。
Facebookは、親戚がやっていて、「○○さんが投稿しました」 なんて通知が来ます。
それで、見に行って、○○さんが雪遊びをしていたり、庭の木に積もった雪の写真をUPしているのを見て、
「いーなー、うちの近所は雪が降らないよー」
とよだれを垂らして イイネ をつけたりするんです。
自分では滅多に投稿しなかったんですが、なぜか友だち申請が何人も増えてきましてねえ。
どこでわたしのことを知ったのやら。
だって知らない人だよ?
そのひとの 投稿も読まなければならなくなる?
共通の話題がなさげなのに?
「冬はさむいねー」 「風邪ひいちゃったよー」
ふつーの話したって意味ないじゃん!
それに、わたしのことをよく知った上で申請しているとも思えない (だって投稿してないんだよ?)
営業目的かもしれません。
さっさと申請を削除したけど、そういうことは多々あるんです。
『ごぜん様さま』 のMC、横山アナウンサーは、「自分もFacebookやってるけど、
友だち申請の顔写真が自分の顔じゃない人の場合、
いちいちそのひとのページのプロフィールを見に行く手間をかけなきゃならない。
それが、めんどくさい」 なんて言ってました。
そもそも彼がFacebookをはじめたのは、イベントや商品の告知をするためだったらしい。
わたしは自分の顔がネットに載るのがいやなので、Facebookではネコ写真をUPしています。
交流する人がたくさんいて、有益な話がいっぱいあるんだったらFacebookも楽しいんだろうけど、どうでもいい日常の話ばかりだからなー(それを言うなら、わたしも日常系のエッセイ日記、書いてるけど)。
わたしのほうが、有益な話を書くようにしなければ、向こうもやりようがないのかもしれない。
受けるより与える方が幸いである、と聖書にもある (らしくないが わたしは いちおう、キリスト教の家庭で育ったのだ)。
しかし、30年前の技術しか持たず、3年も経たずに病気で会社を辞めたわたしに、どれだけ有益な話ができるのやら。
むしろ主婦として日頃どうしているのかを書いた方がよくないか?
まあ、どれだけひとが興味を持ってくれるかは疑問だけれど(ふつうのおばさんのふつうの日記なんて、読む価値ないに違いない)。
なかよしこよしのSNSは、めんどくさいばかりでちっともネタになりません。
どうせなら 過激にやれ! とものの本には書いてあったけど、愛嬌をウリにするなら 過激というのは対極にありますからね。
ウケるような思考パターンができりゃいいけど、それは素質がなさげだな。
それに、SNSで、○○さんが投稿しましたとか、誕生日ですとかくるたびに、
「ああ、めんどくさい」
と思っちゃうのは、もともとそんなにネットを信じていないからかもしれない。
ネットに発表するのは文章です。文は人なり、て言うし、夫は、「見かけがフレンドリーで愛嬌があって、うちの嫁さんは世界一」と臆面もなく言うわけですが、パソコンの画面に向かって愛嬌を振りまくのって、なんかびみょー。
たしか、角野光代が、
「機械に話しかけるのは恥ずかしい」
ってエッセイで書いてあったけど、それに似た恥ずかしさがあるね(つまり、スマホとかグーグルホームとか、音声認識装置に話しかけるのが、なんとも微妙な気分になるのと同じ)。
わたしにとってふつうの文章が、傲慢で冷たく感じるとしたなら、それがわたしの本質なんだと思う。
愛嬌のある文章って、わたしの本質じゃないから、難しいね。
SNSがめんどくさいのは、なんということもない会話で友情を深めることが、わたしには難しいからでしょう。
雑談って、ほんとは苦手なんです(特にネット上のは)。
というわけで、今日はちっとも愛嬌のある文章ではなかった話でした。
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