バイトをクビに?
誤解なきように言っておこう。
嫁でもない(だったら最高なのだが)。
前述のように、萌々は竜宮学習塾のオーナーの孫娘である。
俺の元教え子でもある。
俺が塾でバイトを始めたのは一〇年前。
萌々が小学校一年生の頃から教えている。
つまり俺は、「親戚の叔父さん」みたいな存在といえるのだ。
であるからして、この子に手を出そうと考えたことは一度たりともない(嘘こけ)。
萌々は俺のボロアパート「昭和荘」によく遊びに来る。
昭和荘は竜宮学習塾の所有物件だからだ。
萌々にとっては我が家も同然である。
ドアを開けるのにノックも不要だ。
夏の夜の黄金虫みたいに、いきなり部屋に飛び込んでくることもある。
萌々は慌てん坊だからな。
だから今回も俺は思った。
(きっと俺の貸した漫画にコーヒーをこぼしたんだろう)
(いや、単にトイレを借りに来たのかも?)
以前にもそんなことがあった。
大慌てでアパートに駆け込んできたっけ。
ふむ、トイレか。
なら、見ないふりをするのがマナーだな。
俺は独り合点をすると、上体を元に戻して、再びパソコンの画面に目を移した。
ところが萌々はトイレの前を素通りして、ズカズカと六畳間に入ってくる。
そしてコタツをはさんで俺の正面に立ち止まった。
「あれ? トイレじゃなかったの?」
俺はマウスを握ったまま萌々を見上げる。
「トイレどころじゃないのっ!」
「ほぅ、トイレよりも大変なことか。う~む、なんだろう。気になるな」
俺はエロおやじの目つきで言う。
萌々はただちに反撃する。
「ていうかコタローさん、また酔っ払ってるでしょ! 最近飲み過ぎだよ! 健康診断で肝臓の数値良くなかったんでしょ!」
むむっ。
お説教モードか?
俺は年長者らしくクールに、
「そうだ、萌々ちゃん。一瞬で心を落ち着かせる呪文があるんだ」
「呪文?」と萌々は目をぱちくり。
「うむ、せっかちの萌々ちゃんにぴったりの呪文だ。とりあえず、『大変』という言葉を一〇回繰り返して言ってみてくれ」
萌々は、うん、と頷いてから繰り返し始めた。
「大変大変大変大変大変大変大変……」
俺はニヤリと笑った。
「ひどいなぁ、萌々ちゃん。人を『変態』呼ばわりするなんて」
まあ否定はできないがな、グヘヘ。
ドンッ!
萌々はコタツの天板を両手で叩く。
「もぉおおっ! 清純派美少女に何を言わせるのよぉおおっ! このアル中がぁああっ!」
その拍子に、ストロング○の缶が宙に跳ねて倒れた。
缶は、中身の液体をぶちまけつつ、コタツ布団の上を転がっていく。
じわ~っ。
寝小便のような跡がコタツ布団に広がる。
萌々は両手を口に当てて、
「あわわっ、ごご、ごめんなさぁあああいっ!」
「大丈夫だ」
俺はサムズアップをしつつ素早く缶を拾い上げ、手元のティッシュ箱に手を伸ばす。
たいした被害もなく処置完了。
いいぞ、俺。
デキる男だ。
萌々は「ほっ」と息をついた。
☆
「では、用件を聞こうか」
俺は百戦錬磨のスナイパーのような落ち着き払った声で言った。
萌々はコタツの向こう側で、しおらしく正座をしつつ、
「実を言うとね……」
「うむ」
「驚かずに聞いてくれる?」
「ああ」
萌々は間を置いてから、
「コタローさん、塾講師の契約を打ち切られるんだって」
「ほほぅ。そりゃ大変だ。で、誰を狙えばいいんだ? オーナーの竜宮恭志郎か?」
「オーナーを狙撃したら、塾がなくなっちゃうよ」
「だよな」
「……ていうか、コタローさん、酔っ払ってるよね?」
「いいや。俺は素面だぜ」
典型的な酔っ払いのセリフを吐く。
「ねぇコタローさん。バイトをクビになるってのに、どうし平然としてられるの?」
「えっ? 俺、バイトをクビになるの?」
「うん。クビ。解雇」
萌々は自分の首筋を手刀でとんとん叩く。
セミロングの清楚な髪が揺れる。
その仕草を見て、やっと事態を飲み込む。
三秒後、俺は目を見開いて、
「な、なんだってー!」
「あのね、ついさっきね、コタローさんの契約を近日中に解除するって、お祖父ちゃんが言ったの」
「あ、あの爺っ……!」
学習塾のオーナー・
白髪をオールバックになでつけ、プロイセンの将軍みたいに髭をたくわえ、冷ややかな視線をした、人を見下すようなあの顔を。
「ほ、本当に言いやがったのか……?」
俺の表情がよほど恐ろしかったらしい。
萌々は、ヤドカリのように後ずさりをしながら、
「だ、だからこうして、コタローさんに報告に来たんだっちゃよ……」
「そうだったのか……。いやはや、ご苦労さんだぜ……」
俺は振り絞るような声で、萌々を労った。
──だが、俺の認識はまだ甘かった。
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