第47話 女神目覚める




 女神オリフシはコタツに籠もりながら深く溜め息をついた。


「はぁ。」


 女神の先輩、ヒトトセから聞かされたデッカイドーに迫る危機。

 心配しなくても大丈夫だと何度も言われたものの、そう簡単に暗い気分は吹き飛ばない。

 泉の女神に何かを出来る事はないのだが、何も出来ない事に憤りを感じながらオリフシはコタツの上に置いたクッキー缶からクッキーを拾いひとつ齧った。


 表の泉から誰かの呼ぶ声が聞こえて、オリフシは暗い顔を上げる。

 

 ふらふらと覚束ない足取りで家から出ると、パン!と手を一打ちして、泉の底へと続く道を開いた。

 現れた階段を早足で降りてくるのは勇者ハル。

 その顔を見て、オリフシは浮かない表情を僅かにほころばせた。


「女神様、こんにちは。」

「来てくれてありがとう、ハルちゃん。」

「夢の中で呼びましたよね?」

「うん。上がって。」


 女神オリフシはハルの夢枕に立ち、彼女を呼び出した。

 導かれるままにハルは女神の家に踏み入った。部屋の中央にはコタツが一つ。


「お茶を淹れるから座ってて。」

「ありがとうございます。」


 オリフシは既に準備していたお茶を淹れて、慣れた様子でコタツに潜っていたハルの元に持ってきた。


「そこのクッキーも食べていいからね。」

「はい。ありがとうございます。」


 オリフシはハルに向かい合うようにコタツに入り、頬杖をついてじっとハルの顔を見つめた。

 オリフシがハルを呼んだのは、特に深い理由がある訳ではない。

 気分が浮かないので、お気に入りのハルを呼び付けただけであった。

 夢の中では「来られたらでいい」と遠慮気味に誘ったものの、ハルは素直に来てくれた。少しだけ気分が晴れた一方で、女神の頼みという事で無理をしているのではないかと不安にもなる。


「このクッキー美味しいです!」

「それは良かったわ。」


 笑顔でクッキーを頬張るハルを見て、オリフシはにこりと笑った。

 その笑顔を見ると愛らしいと思う一方で胸が締め付けられる思いになる。

 この愛らしい娘が勇者であり、これから訪れるであろう恐ろしい何かと対峙すると思うと怖くなる。

 そして、たとえハルが立ち向かわなくとも、恐ろしい何かは世界を壊してしまうのだと、この子を奪ってしまうのだと思うと怖くなる。


 そんな事を考えているオリフシに、ハルは不安げな顔を向けた。


「女神様、何かあったんですか?」

「え?」


 ハルの質問にぼんやりとしていたオリフシが思わずびくりと肩を弾ませる。

 オリフシは抱いている恐怖や不安が顔に出てしまっていたかと、頬に手を当て無理矢理笑う。

 ハルに話す事はできない。知らせてしまう事で何かが起こりかねないから。そして、何より自身には何もできないから。


「別に何もないわよ?」

「私の思い過ごしだったらいいんですけど。夢で聞いた声が不安そうで寂しそうだったから、心配して今日は来たんです。何かお困りの事があったら言って下さい。私は女神様にたくさんお世話になってるから、お返しくらいさせて下さい。」


 夢枕に立った時から不安がバレていたらしい。

 人間に心配されてしまうなんて、と己の情けなさに呆れつつ、オリフシは笑う。

 ハルは最初から心配してきてくれたという。色々とズレていておかしなところのある子だけれど、優しくて素直なところが愛らしいとオリフシは思う。


「困ってはいないわ。でも、最近ちょっと疲れちゃっててね。お返しさせてくれるというなら、髪の毛弄らせてくれないかしら?」

「えぇ……またお洒落ですか。恥ずかしいから嫌なんですけど……。」

「お返しさせてくれるのよね? 別に気合いを入れて弄る訳じゃなくて、そのままにしてくれてたらいいから。ちょっとだけ、ね?」

「うぅ……分かりました。」


 いつもの調子に戻る為に、いつものようにハルと接する。

 コタツから出て部屋の奥から櫛や紐を取り出す。そして、ハルの後ろに回り込み、乱れた髪に指を通す。

 髪をとかし、手入れし、弄っていくと、ハルはむずかゆそうに肩を揺らした。

 その様子を見て微笑ましく、愛おしく思い、それと同時に心配と不安が込み上げてくる。


「ハルちゃん、髪は大切にしなきゃダメよ。女の子の命なんだから。たまにはきちんとお世話してあげてね。」


 オリフシは髪を弄りながら優しく語りかける。

 その言葉を聞いたハルは、顔を動かさずに声を出す。


「女神様はやっぱり何か不安に感じてないですか?」


 オリフシは手を止める。内心を見抜かれた動揺が思わず出てしまった。


「そ、そんな事ないわよ?」

「声色がいつもよりも高いし、手が前よりも震えてました。今も聞いたら手を止めましたよね。」


 動揺は完全に見抜かれてしまったらしい。

 ごくり、と息を呑み、オリフシは再び手を動かし始めた。


「気のせいよ。」


 問い詰められても答えられない。何も出来ることはない。

 心苦しく思いながらもオリフシは誤魔化す事を選んだ。


「私じゃ頼りないかも知れないけれど、女神様の助けになりたいんです。」


 ハルは振り返らずに言う。

 その気遣いが優しさが、余計にオリフシの胸を締め付ける。

 どうしても顔が見たくなって衝動的に声を掛けてしまった。しかし、会ってしまったのは失敗だったかも知れないとオリフシは思い始めていた。

 手が覚束ない。それでも誤魔化す様に手を震わせながらも髪を弄る手を止めなかった。


「頼りないなんて事ないわ。でも、本当に困ってないのよ。心配してくれてありがとう。」


 くすり、と苦笑するフリをしてオリフシは誤魔化そうとする。

 ハルは少しだけ肩を震わせたものの、尚も振り返らずにオリフシに身を任せていた。


「分かりました。しつこく聞いてごめんなさい。」

「いいのよ。心配してくれただけなのだから謝ることなんてない。ありがとうね。」


 ハルはこれ以上何かを聞こうとするつもりはないらしい。

 諦めてくれてオリフシはほっとした。震えていた手は少しだけ楽になった。

 しばらくの沈黙。黙々とハルの髪を結っていく。


 静かな時間が流れる。

 そんな中で、ふとオリフシの耳に聞き慣れない声が聞こえた。




 ゆぅら、ゆるりら、ゆぅり、ゆら。

 ふぅら、ふるりら、ふるり、ふぅら。




 それは透きとおった澄み渡るような美しい声だった。

 思わずオリフシは手を止めた。

 不思議と強ばっていた身体の力が抜けたような感覚がした。

 心にあった不安や恐怖が、その歌を聞いていた時だけふっと忘れられたような気がした。

 その声の主が目の前のハルである事にオリフシが気付いたのは、少し時間が経って自身が固まっている事に気付いた時だった。


「……ハルちゃん、今のは?」


 手を下ろしてオリフシが尋ねる。


「小さい頃にお母さんに歌って貰った歌です。この歌を聞くと不思議と悲しい気持ちや辛い気持ちが和らぐんです。」


 ハルは振り返らずに言う。


「不思議な、素敵な歌ね。ハルちゃんのお母さんは素敵な人なのね。」

「小さい頃しか一緒に居られなかったから、あまり覚えてないんですけどね。」


 ハルの言葉を聞いてオリフシはああと察する。

 恐らく既に彼女の母親は他界しているのだろうと。

 オリフシはそれ以上の事を深く聞くことも、下手な同情をする事もしない。


「女神様の気分が少しでも晴れたらなって。」


 悲しい気持ちや辛い気持ちを和らげる歌。

 それをハルが歌ったのはオリフシの為である。

 何か話せない事情があると察しつつ、自分の出来る範囲で少しでも気分を和らげようとしてくれているのだ。

 実際、歌を聞いた瞬間は不思議とオリフシの気分はぱっと晴れた。夢見心地な幸せな気持ちになれた。歌を聞いた後も不思議と先程までの不安は和らいた。

 そして、そのハルの心遣いを聞いて、オリフシの頬が緩んだ。


「私、最近思うんです。私はお母さんの事をあまり覚えていないけれど……。」


 少し言い淀んでから、ハルは振り返る。


「もしも、お母さんが生きていたなら……料理を教えてくれたり、髪を整えてくれたり、どんな服を着たらいいのか教えてくれたりするのかなって。」


 ハルは頬を赤くする。


「女神様ってお母さんみたいだなぁって。……ごめんなさい、失礼ですよね。忘れて下さい。」


 照れ臭そうに頬を掻いて、ハルは再び前を向いた。


 ハルの言葉と顔を見たオリフシの中で何かが弾けた。


 オリフシは後ろから覆い被さるようにハルを抱き締める。

 思わぬ抱擁にハルはびくっとした。


「め、女神様!?」


 何も言わずに抱きつくオリフシ。慌てたハルだったが、声を掛けても何も返さないオリフシに身体の力を抜いて身を委ねた。

 先程までハルが感じていたオリフシの緊張はすっかり抜けていた。

 少しでも悩んでいる女神の助けになれたのであればよかったな、と思いながらハルはその温もりを受け入れた。




 


(女神の掟に背こうとも、たとえどんな手を使おうとも、私がこの子を護るのよ。)


 女神オリフシは決意した。

 その目にはかつてない炎が宿っていた。


(私がハルちゃんのお母さんなのだから……!) 


 オリフシは母性に目覚めた。


 それが女神界を揺るがす事件に発展する事になろうとは、誰も思わなかった。



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