間章
自宅デート
もしも生まれた家が違っていたら、窮屈な学校生活を送らずに済んだだろうな、といつも思っている。
僕の母校、麗泉女学院の教育方針は明らかに時代から取り残されていた。丘の上の閉鎖空間の中で六年間、ただひたすら良妻賢母となるための教育を施されるだけ。生徒の大半は在学中に良家の子息と婚約し、卒業後には家庭に入る。戦前ではなく、平成の時代も終わりになろうとしている学校の話というのだから驚きだ。
この僕も高等部に上がる頃に、父親の経営している会社の、業務提携先の企業の子息のところに嫁入りを決められてしまった。まだ二、三回しか顔を合わせていない相手と結ばされるのだ。
女性観が戦前で止まっている両親へのせめてもの反抗として、男のような格好をして「僕」という一人称を使っているけれど、学校ではそれがあだになってしまっている。麗泉では僕と同じように不本意な婚約を結ばされている生徒は少なくない。短い学校生活で親の目を盗んで恋愛をしたいと願う彼女たちは、その相手として、男性の代用品として僕にすり寄ってきた。当然全て突っぱねてきたものの、それでも遠巻きに見てくる「ファン」は絶えなかった。
こんな有り様だったから、まともな友人といえば生徒会の人間たちしかいない。会長の愛宕雅はかつて僕に恋愛感情を持っていて告白してきたことがあったが、僕はその気になれず断った。しかしファン連中のとはひと味違う本気の恋だったし、彼女自身もファンを抱えてしんどい思いをしていたから、共感するところがあって仲良くなった。双子の唐橋佑奈、佐奈は自由奔放な性格だが、最初から友達感覚で接してくれた。
もう一人友人がいる。馬術部の相棒、スノーフレークだ。元競走馬で、僕が入学した年に馬術部に寄贈されたから同級生とも言える。馬の乗り方はこの子から教えてもらったし、この子と一緒に大きな大会を優勝することができた。プライドが高いのが玉にキズだが賢くて良い子だ。
生徒会室にいる時と馬術部にいる時は比較的心が楽になる。とはいえ麗泉は全寮制で、二十四時間学校生活を送るのと同じだから息が詰まりそうになる。それでも週に一度、基本的に土曜日は外出許可が下りるけれど他のお嬢様にとっては麗泉が温室に思えるらしくて、外出する生徒はかなり少ない。だけど僕はいつも、外の空気を吸いに桃川市に繰り出した。特にアテもなくブラブラするだけでも気が紛れた。
しかし十月七日の土曜日は特別な礼拝があったので、代わりに翌々日の体育の日が振替の外出日に指定された。もちろんその日も市内に繰り出したのだが……今思えば、彼女と出会うために神様が取り計らってくれたのかもしれない。無神論者の僕でも、そう思える出会いだった。
*
団六花さんと恋人関係になってからちょうど一週間後の土曜日に、彼女から「家に遊びに来てよ」とお誘いが来た。特に予定もなかったから、僕は喜び勇んで「行く」と返事した。
バスで学校から桃川駅まで行ってから、徒歩で駅西口を横切る大通りの小道の一つに入った。ここで変質者に襲われかけた六花さんを助けたのはつい昨日のことのように思い出される。その先を進んでいくと、彼女の住んでいるマンションが見えた。
五階まで上がって、一番端の部屋のドアホンを押す。表札がかかってないので万が一間違っていたらどうしようかと思っていたけれど、六花さんの声がした。
『開いてるから上がって、上がって!』
興奮しているのがまるわかりで、可愛い。ドアを開けたら六花さんが満面の笑みで出迎えてくれた。
「お邪魔します」
「どうぞっ」
招かれて入った六花さんの部屋は清潔感にあふれていた。特徴的だったのは白色を基調にしている点で、カーペットはシミや髪の毛が一切見当たらない程に綺麗で真っ白で、本棚や机もホコリ一つなく真っ白、本棚の上にちょこんと置かれているぬいぐるみはシロクマのキャラクターだった。
六花さんの服もセーター、スカートともにクリーム色だが色合いとしては白っぽい。対して僕は黒の男物の黒のパーカーと黒のジーンズ、上下とも黒尽くめだったから、白く清潔な空間の中では異質に見えるかもしれない。だけど六花さんは、
「レン君、黒の服がすっごく似合うね」
と褒めてくれた。
「そう?」
「うん。かっこいいというより、言葉で説明できないけれど何て言うんだろう? とにかくすっごく似合う」
「ハハッ、ありがとう。逆に六花さんは白系統が好きなのかな?」
「うん。特に理由はないけど好き。お菓子持ってくるね。飲み物は何にする? コーヒーと緑茶とオレンジジュースがあるけど」
「コーヒーで。砂糖とミルクはいらないよ」
「ブラックで飲めるんだ! いいなー」
黒色が好きだからというわけではないけど、コーヒーはブラック党だ。
すぐに六花さんが飲み物と一緒にクッキーを持ってきた。以前、緑葉女学館にお邪魔したときに食べた柿入りのクッキーだった。
「まだ柿がたくさん残ってたから作っちゃった」
「これ、本当に美味しいよ。お金取ってもいいぐらいに。お世辞じゃないよ?」
「ありがとう!」
クッキーとコーヒーを頂きながら会話を交わすだけでも楽しい。その中で一番盛り上がったのは、六花という名前の由来についてだった。六花は雪の異称であり、父の名前である「
僕の愛馬、スノーフレークという名前には雪の結晶という意味がある。思わぬところで雪という接点を見出したが、果たして偶然だろうか。
「ちなみにお兄ちゃんは『吉六』で弟は『六也』っていうの」
「キチロクにリクヤか。きょうだい全員に『六』の数字が入っているんだね」
「お父さんがどうしても『六』を入れたがってたの。でもお兄ちゃんは自分の名前を古臭いって嫌ってるし、弟は次男なのに六男みたいだってやっぱり嫌がってる。私は自分の名前を気に入ってるけどね。レン君はきょうだいいるの?」
「うん、兄が三人」
団家と違って名前は上から
ひとしきり談笑した後に六花さんが「何か漫画読む?」と勧めてきた。
「どんな漫画があるの?」
「少女漫画ばっかだよ」
六花さんが押入れを開けると、たくさんの収納ケースがあった。その中にぎっしりと漫画が詰め込まれていた。
「レン君は少女漫画好き?」
「実は、漫画自体あんまり読んだことがないんだ。親が厳しくて漫画買えなかったし、学校でも寮に持ち込める冊数が限られてるし」
「えー、そうなんだ。私の学校だと校内に漫画を持ち込んでも何も言われないけどなあ。さすがに授業中に読んでるのがバレたら没収されるけど」
「緑葉って自由でいいよねえ」
校則でガチガチに縛られている麗泉と大違いだ。なにせ、去年までは漫画どころかケータイの所有すら一切認めていなかった学校なのだ。だけど保護者たちが遠い地にいる娘と連絡するために持たせて欲しいと懇願してようやく認められた。とはいえ僕は必要性を感じなったけれど、心配性の母親の勧めでスマホを持たされている。もちろん今は六花さんとのやり取りのために必要不可欠なツールだ。
それはさておくとして、僕は収納ケースに収まっている漫画の中から『パウダースノー』というタイトルの漫画を取り出した。「スノー」という単語が目に入ってすぐにこれ、と決めた。
「あ、それは……」
六花さんが言いかけるのと僕がページをめくるのと同時だった。
「うっ、こ、これは……」
僕の顔が熱くなる。一応、未成年の女子を対象としているであろう漫画なのに、露骨で過激な性描写が目に飛び込んできたからだ。気が強そうで顔立ちの良い男子が、いたいけな女子と体を重ねているシーンだった。
今まで僕が送ってきた生活環境のために、ここまで過激な性描写を受け入れるだけの視覚的な免疫が自分の体にはできていなかった。あまりにも刺激的が強すぎて頭が茹だるようだった。
麗泉でこんな本が見つかったら口うるさいシスターから説教を受けるどころか、停学も免れない。それでもページをめくる手が止まらなかった。麗泉では絶対味わえない禁断の果実を、僕は次々と味わってしまった。
「六花さんって、こういうの読むんだ……」
「ごめん、引いた?」
「いや、引いてはないけどその、やっぱり、こういうことをしたいって欲求があるの?」
「うん、まあ……」
「じゃあ、僕とも?」
「え゛っ!?」
六花さんの目が大きく見開いた。
「いっ、いやごめん。変なこと聞いて。でもこういうのは好きな人どうしがするものじゃない? だから六花さんがするとしたら、必然的に相手が僕になるわけで、その、何と言うかな……」
思考回路が熱を持ってきて、自分でも何を言っているのかどんどんわからなくなってくる。こんな経験は初めてだ。
六花さんが顔を赤くしながら、体をすすっと寄せてきた。
「レン君はしたい、って思ってる?」
「したいも何も、まだ十七だし……」
「私の周り、もう済ませている子が結構多いよ? 同性相手だけど」
彼女の声色が心なしか甘ったるく聞こえる。これはもしかして誘いをかけているのだろうか? 僕の胸の鼓動がどんどん大きく、早くなっていく。こんな展開になるなんて全く予想していなかった。
僕が今開いているページには、別の男子がさっきの女の子にキスをしているシーンが描かれている。ストーリーの内容が頭に入っていなくて、何でこんな場面になったのかはわからない。
僕は漫画をそっと閉じた。
「いやでも、まずはキスだけなら……」
「うん、わかった」
この前のお化け屋敷では衝動的に唇を重ねてしまった。そのやり直しというわけではないけれど、込み上げてくる性衝動と親や学校からの教育で植え付けられた倫理感がせめぎ合った結果の妥協点としてキスという行為を選択した。
「じゃあ……」
六花さんが目を閉じて僕の唇を待つ。しかし僕は情けないことに踏ん切りがつかず、六花さんの赤みかかった顔を間近で見ているだけだった。あのときは勢い任せだったけど、百パーセント自分の意志でやろうとするこんなに勇気がいるなんて。
六花さんが薄目を開けた。
「は、早くしてよ。何も初めてするわけじゃないんだし……お化け屋敷のときみたいに」
声が震えている。僕は一度、大きく深呼吸した。
「ごめん。じゃあ、行くよ」
「うん」
六花さんはもう一度目を閉じると、手を僕の後頭部にやって引き寄せてきた。唇と唇の距離がどんどん近くなっていき、僕も目を閉じて、持っている勇気の全てを搾り出した。
「んっ」
柔らかい感触を覚えると同時に、電流が血流に乗って全身を駆け巡るような感じがした。お化け屋敷のときとは全く比べ物にならない感覚だった。しかしそれで終わりではない。
「!」
生暖かいものが僕の口をこじ開けて入っていく。六花さんの舌だ。僕の舌と触れ合った瞬間、僕の中でブチッ、と何かが弾け飛んだ。
「んんっ……!」
僕は自分から舌を絡ませた。クッキーよりも甘いようで、ブラックコーヒーよりも苦いようで、何とも不可思議な味がした。
「ぷはっ」
お互い酸欠になるまで絡み合ってから唇を離すと、唾液が糸を引いた。
トロンとした目つきの六花さんが、息も絶え絶えにささやく。
「今日は、夕方まで誰もいないんだ……」
彼女の言いたいことは明らかだった。理性というダムが決壊してしまった僕は言葉での返事に代えて、もう一度淫らなキスをした。
*
「勢い任せにしちゃったけど、どうにかなるもんだね」
「うん」
僕たちは一糸まとわぬ姿のままベッドの上で横たわり、顔を見つめ合う。
「私、今までよく一人でしてたけど、相手がいるとこんなにも違うんだ……」
「凄い声出てたけど、隣にまで聞こえてないよね?」
「ここ、建物の一番端だし。あ、だけど外まで聞こえてたらどうしよう。上の階と下の階にも……」
でも、もう済んだことだからどうしようもできない。隣近所に噂を立てられたら僕の責任だ。
自身の体や口の中にはまだ六花さんの感触が残っている。僕と違って知識を仕入れていた六花さんに言われるままに動いて、それでもお互いぎこちなかったけれど、最後まですることができた。その瞬間は気持ちいい、というにもあまりにも陳腐すぎるレベルの快感に、頭の中がホワイトアウトしてしまった。
僕は六花さんの頭を撫でながら、付き合うにあたって言っておかなけれいけないことを告げた。
「僕が卒業した後の進路のことだけどね」
「うん」
敢えて結婚という言葉は使わなかったけれど、六花さんのトロンとしていた目つきが引き締まる。
「親にワガママを言って先延ばししてもらうつもりでいる」
「どういうこと?」
「大学に進みたい。もっと上のレベルで馬術をやりたいし、勉強もしたいし。というのはもちろん名目だけどね」
「結婚はしたくない、よね? やっぱり」
「当たり前さ。好きでもない相手なのに」
「どこの大学に行くの?」
「さあそこまでは。でも都会にある場所が良いな。それでいて実家から遠くはなれた所。でも寮はイヤだ。アパート借りて一人暮らしして、いや、できれば六花さんと一緒に住みたいな」
「一緒に……!」
六花さんの目がらんらんと輝き出した。
「でもさすがにワガママだよね。六花さんは進学校に通っているんだから、もっと良い大学に行かないと」
「ううん、絶対にレン君の後を追いかける!」
六花さんがしがみついてきて、彼女のふくよかな胸が僕に当たる。
「ふふっ。でもまずは、親を説得しなきゃだな」
とは言いつつも、実は家族でまだ比較的仲が良い母親にはそのことを伝えている。案の定難色を示したけれど「今どき良家の子女が大学を出ていないとか世間体が悪いよ」と軽く脅したら少し理解を示してくれた。もう何度か説得すれば折れて、父親も仕方なしに認めてくれるだろう。
「でも仮に説得できて、大学行くとするじゃん。大学卒業したら?」
「その時はその時で考える。今はまだ心配しなくて良いから」
「うん」
六花さんの手が僕の頬に触れる。
「うちの学校ってね、女子どうしで恋仲になるのが多いんだけど卒業したら仲が自然消滅して結局異性とくっつくケースが多くてね。そういうのを見聞きしているうちに何だか虚しいなって感じて、私は違うぞって言い聞かせてきたんだ。今思うと恥ずかしい考えだよね」
「六花さんは卒業しても、僕のことを好きでいてくれる?」
「当たり前でしょ! 例えレン君が結婚しちゃったとしても、ずっと好きでいるんだからっ」
「ありがとう」
僕たちの禁断の関係はこの先どうなるかまだ不透明にしろ。まだ始まったばかりでもある。今はもっともっと愛を深め合いたい。
僕は六花さんの髪の毛を触っていた手を体の方にすすっと滑らせると、六花さんの手も僕の体に触れた。
「じゃあ、もう一度……」
「うん、来てよ」
キスを合図に行為を再開しようとしたところで、外から車のエンジン音がした。途端に六花さんがパッと身を離して、起き上がった。
「やばっ、お母さんの車だ!」
「えっ」
「もうっ、夕方まで帰らないって言ったのに! ごめん、いそいで服着てくれる?」
僕たちは仕方なしに、床に脱ぎ散らかした服を拾い上げて身繕いした。やがて玄関のドアが開く音がした。
「じゃあ、お楽しみはまた今度ということで。一緒にお母さんに挨拶しに行こう」
「うん」
軽いキスを交わした。そのとき六花さんが浮かべた無邪気な笑顔はとても愛おしくて、独り占めしている自分は何て幸せなのだろうと、心底思ったのだった。
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