恵と撫子
「お、おう。久しぶりだな」
古川さんはバツが悪そうに言うが、彼女とは最後に会ってからまだ三日しか経っていない。
「北海道に帰ったんじゃなかったの?」
私は訊いてみた。だけど古川さんは歯切れ悪そうに、
「今、河邑パイセンの家に泊めて貰ってるんだよ」
「え、何で?」
「ま、いろいろあって……としか言えんな。悪い、今からこいつの散歩行くから」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
私は古川さんのTシャツを掴んで引き止めた。こんなよそよそしい態度を取られたことはない。何か裏があるとしか思えない。
「チッ、しつこいぞ」
あからさまに不機嫌になっている。舌打ちされて私はムカッときたものの、どうにか抑え込んだ。
「古川さん、おかしいよ」
「何が? 閉寮したら実家に帰らなきゃいけないって校則にあんのか?」
「いや、そうじゃなくて……」
古川さんの眉が吊り上がる。その瞬間、私の手はバシッ、と思い切りはたき落とされた。
「うっせーんだよ!! 何も知らねーくせに!!」
「……!」
私は頭に血がカーッと昇ってしまい、もう抑えることはできなかった。
「せっかく心配してんのにその態度は何よ!」
古川さんを胸をドンと突いたら、たちまち左の頬に鋭い痛みが走った。平手打ちされたのだ。そしてキレてしまった私達は掴み合いになってもみくちゃになった。チャタローがけたたましく吠える。それに呼応するかのように誰かが割って入ってきた。
「あんた達、何やってんのッ!!」
緑色のカチューシャをつけた、河邑撫子先輩が鬼のような顔つきで私と古川さんを交互に睨みつける。
「メグ、一体どういうこと!? 何で菅原さんと喧嘩してるの!」
「メグ……?」
確かに河邑先輩はそう言った。いつもは「古川さん」呼ばわりなのに何故? だけどそれだけじゃない。
「姉ちゃんには関係ないだろ!」
「ね、ねえちゃん!?」
ただでさえ怒り心頭なのに脳みそが余計にグチャグチャになってきた。この二人の関係って何? 親族? いやウチの学校だと恋人どうしもありえるか? でも「ねえちゃん」って……ああ、わけがわかんない。
「菅原さん、理由を説明してくれるかしら?」
河邑先輩が腰に手を当てて問い詰めてくる。私は経緯について要領を得ない説明をしてしまったが、先輩は内容を理解してくれたようだ。
「……わかった。悪いけど、一旦家に帰ってちょうだい。お互い頭を冷やす必要があるわ。メグももう散歩はいいから戻りなさい」
「姉ちゃん」
「戻りなさい」
河邑先輩がもう一度強く言いつけて、チャタローのリードを握らせる。するとチャタローが主人の意図を理解してか、馬鹿力で古川さんを引きずるようにして敷地内に連れ戻して行った。
ピリッ、と腕に何か冷たい感触が伝わる。空を見上げると、雲の色が濃い灰色に変わっていた。
「一雨来るわ。早く帰りなさい、菅原さん」
先輩が私に対しても命令形で言いつけてきたので、私は「すみません、失礼します」と頭を下げて、元来た道を走り出した。
雨足はたちまち激しくなり、家に着いた時には汗と雨水で服がびしょ濡れになってしまっていた。まず自分の服をどうにかする前に外に干してある洗濯物を取りこんだが、一足遅くどれも台無しだ。仕方なく部屋干しにしてクーラーを除湿モードでかけた。その後で私は着ているものを全部脱いでシャワーを浴びた。もしも両親が家にいたら大目玉を喰らうところだ。
ぬるめのシャワーを浴びるうちに、頭の中がクールダウンしていく。古川さんのいつにない攻撃的な態度に腹が立ったとはいえ、私も暴力を振るってしまった。人を叩いたら自分の手も痛いものだ。後で謝らなくては。
だけど河邑先輩と古川さんとの関係が全くもってわからない。学校では先輩後輩として振る舞っていたし、合宿でもあまり特別な関係を匂わせることはしていなかった。私は古川さんに叩かれた頬にお湯を当てながら間柄について考察しようとしたけれど、頭が痛くなりだしたのでやめにした。
風呂場から出て部屋着に着替えたところで、テーブルに置いていたスマートフォンが鳴りだした。河邑先輩からの着信だ。すぐに通話ボタンを押す。
「菅原です」
『もしもし菅原さん? どう、ちょっとは落ち着いた?』
「ええ、どうにか……すみません、ご迷惑をおかけしました」
『謝る相手はメグよ。メグも菅原さんに謝らせるけど。というわけで、メグをお昼すぎにあなたの家に行かせていいかしら?』
「私の家にですか!?」
『私も付き添いでいくから安心して』
「い、いやでも……」
『天気なら心配ないわ。昼からは晴れるから』
そういう意味ではないのだけれど……でもまたこれ以上揉めるのは嫌なので、先輩の言う通り来てもらうことにした。直ちに部屋掃除をしなければ。
*
ドアホンが鳴らされた。モニターを見ると確かに河邑先輩と古川さんの姿が映っている。私はスピーカーを通して「はい」と話しかけた。
『河邑です』
「少々お待ちください」
私は玄関のドアを開けた。河邑先輩は頭を下げて開口一番、
「この度は古川恵が暴力を働いて申し訳ありませんでした」
「ちょ、ちょっと先輩は別に……」
「ほら、メグ」
古川さんが前に出てきた。
「申し訳ありませんでした……」
頭を七十度ほどの角度まで下げる。
「そこまでかしこまらなくてもいいよ、私も手を出しちゃったんだし。こちらこそごめんなさい。喧嘩両成敗ってことで、ね」
私は手を差し出すと、古川さんはそっと握り返した。
「あと、これはほんの気持ち。菓子折りじゃなくて申し訳ないけれど、うちの畑で取れたのを受け取ってください」
河邑先輩がビニール袋を差し出してきた。中にはナスにきゅうりにトマトといった旬の野菜が入っている。母さんがよくスーパーの余り物を持って帰ってくるし隣近所からもおすそ分けがあるので野菜は間に合っているのだけれど、ここは無碍にするわけにいかないので「では、ありがたく頂きます」と受け取ることにした。
「二人とも上がってください。お茶淹れますよ」
「では、上がらせて頂くわ。お話しなきゃいけないことがあるから」
それはきっと、私が知りたがっていたことだろう。
自室に二人を招き入れた後、私は麦茶とお菓子をお盆に載せて持っていった。きちんと正座して待っていた河邑先輩とあぐらをかいている古川さんの対比が少し面白かった。
「どうぞ」
「じゃ、頂きます」
古川さんが麦茶を二口ほど飲んだ後、こう切り出した。
「なあすがちー、親とは仲良くやってるか?」
「え? うん。今のところは」
「そうか、良かった」
一呼吸置いて、続けた。
「私には両親がいないんだ」
「……」
唐突に告白されて、どう声をかけていいかわからない。お調子者でおふざけが大好きな性格なのに、その裏で重たい家族事情を抱えているなんて想像もつかなかった。
「ああ、そんな深刻にならなくていい。正確には両親がいていないようなもん、ってこった」
「どういう意味なの?」
「それを今から説明する。河邑パイセン、いや、撫子姉ちゃんとの出会いも含めてな。すがちーには知ってもらいたいんだ」
「わかった」
無意識的に私は正座していた。
* * *
私は好き好んで緑葉女学館に来たわけではない。
私の家は
継母は牧場お抱えの獣医であり、私のこともよく知っていたので家族に迎えるのに何ら支障は無いと思っていた。ところが、あの人自身の血を引く娘が産まれた途端に冷淡になり、私に対して育児放棄紛いの仕打ちをした。
そして私が十二歳の頃。継母の出身校である緑葉女学館に私の意志を一切無視して入学させられた。
継母が父親にねじ込んで、父親は私よりも後妻とその間に産まれた妹への愛情を優先した結果、私は故郷から千キロ以上も離れた見知らぬ土地へと「売られて」いったのだ。その時から私の両親との溝は一生かけても埋まらないほどに深くなってしまったのである。
私は元々ネアカだったけれど、緑葉に入学した頃はすっかりやさぐれてしまっていた。人を寄せ付けず、人に寄り付かず、一匹狼のような生活を送っていた。このまま無為に六年間を過ごした後どうなるのか想像もつかなかったけど、ろくな人生を送ることはないだろう、というのはこの時点でわかりきっていた。
しかし潮目が再び変わったのは秋のことだった。日曜は特に何をするでもなく寮の自室に引きこもっていたが、この日たまたま気まぐれを起こして散歩に出かけたのだ。
そうしてグラウンド横を通りすぎて、大きな家に差し掛かった。敷地内には柿の木があり、鮮やかなオレンジ色の果実がたわわに実っている。北海道では柿が育ちにくい気候にあるため、今までに実物の柿の木を見たことがなかった私にはとびきり鮮やかに見えた。まだ私には綺麗なものを綺麗と思える程度には心が残っていたのだ。
もう少し間近で見てみようと生け垣の前まで近寄ってみた。その時、
「ワウワウワウワウワウ!!」
「うわあああっ!!」
何の心の準備もできていなかった私は、あえなく尻もちをついてしまった。
生け垣からはゴールデンレトリバーがニョキッと顔を突き出して、舌を出してハッハッハッと笑うように呼吸している。いたずらに成功して喜ぶ悪ガキのようで無性にむかついたが、
「こらーっ! チャタロー!」
「キャイン!」
生け垣の向こうから甲高い声がして、ゴールデンレトリバーは顔を引っ込めた。まだ心臓がドキドキしていたが、少し落ち着いたところで、下半身に不快感を覚えた。
「えっ、ウソだろ……」
緊急事態にどうしようかとうろたえていたところ、深緑色のパーカーを着た少女が駆け寄ってきた。
「すみません、うちの犬が……あっ」
私はこの時、もういっその事殺してくれとさえ思った。犬の鳴き声に驚いて失禁してしまったのを飼い主に見られたのだから。
私は直ちに家に上げられて、替えのパンツとジャージに履きかえさせられた。居間の隅っこの方で縮こまっていると、少女が入ってきた。
「夕方には乾くと思うわ。これでも食べて元気出しなさいよ」
少女が携えた皿には柿がたくさん載せられている。その一つを取って「ほら」と勧めてきたので、私は仕方なく少女に近づき、受け取って口に運んだ。今まで味わったことのない、とろけるような甘みが口中に広がる。
「……すごく美味しい」
「そう。良かったわ」
少女は顔を綻ばせた。
「時にあなた、緑葉の一年東組の子よね?」
私は柿をかじろうとしてやめた。
「なんで知ってるんだ?」
「体育祭の時、同じチームだったでしょ。私二年東組だもの」
緑葉女学館の体育祭では東西南北のクラスごとにチーム分けされる。本番以外に六学年が同時に顔を合わせる一番の機会は応援合戦の練習の時で、その時に少女は私の顔を覚えていたという。
「いつも不機嫌で陰気な感じだったから印象に残ってるのよ」
「あっ、そう」
私はぶっきらぼうな態度を取り、再び柿をかじった。大恥をかいたから早く帰りたかった。
「あなた、名前は何ていうの?」
「……」
自分の名前が良い年して失禁したという黒歴史とセットで覚えられるのかと思うと、教えたくもなかった。黙りこくっていたら、少女の方から名乗った。
「私は河邑撫子っていうの」
「え……?」
撫子という名前が、私の心をズシンと揺さぶった。
「どうしたの?」
「死んだ母ちゃんの名前と一緒だ……」
「そうなの? まだ若かったでしょうに……」
家族事情をポロッと漏らしてしまい、しまった、と私は思った。深く突っ込まれると厄介なので、質問に答えてやることで有耶無耶にしようとした。
「古川。私の名前は古川恵」
すると今度は撫子が口を押さえた。
「恵……今年亡くなった私のいとこと同じ名前だわ。こんなことってあるのね」
「え?」
ウソをついているようには思えない。撫子の目が潤んで、一筋の滴が頬を伝い落ちるのを見た私はそう確信した。
「ごめんなさい、つい思い出しちゃって」
「愛してたんだな。いとこさんのこと」
「ええ」
私は運命の出会いなんか信じているわけではない。しかし、お互いの名前がお互いの失った愛する者の名前であることは果たして偶然の一言で片付けられるものだろうか。
「どんな人だったんだ? いとこさんって」
私は緑葉に来てはじめて他人に興味を持った。
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