第5話 HOT SUMMER

古川恵の謎

「この、おバカ!!」


 激しい罵声が生徒会室に轟き渡った。


「自分がやるって言うから任せたのに! 壮行会が台無しになったじゃないの!」

「すみませんでした……」


 激高している河邑撫子先輩が古川恵さんを問い詰めている。古川さんは仕事でよく怒られるけど、これ程厳しい叱責を受ける場面は初めて見た。お調子者の古川さんもこの時ばかりはただ申し訳なさそうに頭を下げてばかりだった。


 事の発端は一学期終業式である。この場を借りて生徒会主体でインターハイに向かうフェンシング部の黒部真矢先輩の壮行会も行ったのだが、そこで生徒の代表が激励の手紙を読むということになり、その生徒を選ぶ役割を古川さんが仰せつかった。


 古川さんは文芸部のとある前期課程の生徒に手紙の作成と朗読を依頼した。しかしこの生徒、大の黒部真矢ファンでいざ読ませてみるとその中身は自分の先輩に対する愛をこれでもかと綴った自己中心的なポエムで、蒸し暑い体育館の空気を一気に冷え込ませてしまったのである。この時の何とも言えない虚無的な表情をしていた真矢先輩を私は多分一生忘れることはないと思う。


 責任を背負った古川さんはただただ、うつむき加減で河邑先輩の怒声を聞いてばかりである。


「カワムー、もういい。後は私から言って聞かせるから」


 あの今津陽子生徒会長ですら止めに入って、そのまま古川さんを控室まで連れて行った。河邑先輩は「やってられないわ!」と捨て台詞を吐いて生徒会室を出ていってしまった。


「あーあ、一学期最後の最後でとんだ大荒れだね」


 美和先輩がため息をつくが、他人事のようだ。私はここぞとばかりに、ずっと前から疑問に思っていたことを聞くことにした。


「河邑先輩が古川さんに話す時って、大概怒るか説教する時ですよね。古川さんもただ『はい』か『すみません』しか言わないし、古川さんの普段の性格からすればこの態度は異常だと思いませんか?」

「うーん……」


 古川さんはよく仕事でミスをする。当然先輩たちは怒る。その様子を幾度か見せ付けられてきた私だが、本人は全く堪えていない。ただし例外がある。それこそが河邑先輩に怒られた時だ。


 今津会長はよく古川さんにパワハラ紛いのことをしているけど、古川さんも何だかんだでまんざらではないし逆に会長を弄り返すこともある。美和先輩や下敷領先輩に対しては面と向かって歯向かわないものの、本人のいないところではよく私達に先輩たちのモノマネをして憂さ晴らしをしている(面白い面白くないは別にしてそっくりではある)。


 しかし河邑先輩に対しては別で、表でも裏でも本人を弄るような真似はしない。河邑先輩とは郷土研究会のメンバー同士でもあるし、本人の家に遊びに行くぐらいだからお互い遠慮げなく弄り弄られる仲であってもおかしくない。しかし現実的にそうはなってはおらず、一方的に河邑先輩が攻撃して古川さんは反撃する素振りすら見せない。これが私の抱く違和感の正体だった。


 美和先輩の目が泳ぐ。


「これ、私の口から言っちゃって良いのか悪いのかわかんないんだけどね」

「何か事情があるんですか?」

「いや、こういうのはやっぱり本人の口から言わなきゃ」

「……?」


 会長と古川さんが控室から出てきた。


「カワムーを連れ戻してくる。クリボーのメンタルケアでもしといてくれ」


 会長は私に押し付けるように、古川さんを引き渡してきた。


「びえーん、御大からも怒られちったよー」


 わざとらしい泣き真似をして私の胸に顔をうずめる。それからグリグリとキノコ頭を動かして「ええ乳しとりまんなあ」とニタニタ笑いながら関西弁でねっとりと語りかけた。うん、いつもの古川さんだ。


 私は脳天めがけてチョップをかました。


 「ぐはぁ!!」


 古川さんはこれまたわざとらしい声を出してその場に崩れ落ちる。


「最後の良心のすがちーまで私のことを殴るなんて……信じてたのにっ。がくっ」

「『がくっ』じゃないよ。ほら、たっちしなさい」

「バブー、きゃっきゃっ」

「赤ちゃんプレイだなんてマニアックだねえ」


 私は美和先輩のツッコミを聞きながらも、よっこいしょと古川さんを抱え起こしてやった。


 まあこんな感じで一波乱はあったけれど、河邑先輩が連れ戻されてきて全員揃ったところで今津会長の締めの挨拶が行われた。こうして一学期最後の生徒会活動は終わりを迎えたのである。


 *


 夏休み期間に入って早くも一週間が経った。この間に五年生と六年生は夏期講習を受講した。午前中だけだが大学入試を見据えて、実際に入試で出された問題を解くという実戦的なものらしくかなりしんどいと聞く。特に六年生は受験が控えているから、学校が終わってもその足で塾や予備校に行く生徒も多い。夏「休み」って何だろうと言いたくなるぐらいのハードワークだ。


 私はこの期間を利用して、生徒寮に出入りしてそこで夏休みの課題を片付けていた。寮の一階にはだだっ広い自習室があり、ここだけは寮生じゃなくても自由に出入りできるので、春休みはここで美和先輩と一緒に特別補習の課題に取り組んでいた。本棚には赤本がズラリと並んでいて、今の時期は六年生がよく受験勉強で利用するとのことだが、午前の間は全員夏期講習に出席しているから私以外に五人しかいない。室内は冷房がよく効いており、有線放送でゆったりとしたクラシック音楽が流れている。そのおかげで集中して課題に取りかかることができた。


 時計が十二時半を指しチャイムが鳴った。そろそろ帰ろうと筆記用具をカバンにしまっていたら急に首筋に冷たい感覚が走って「ひゃあ!」と声を上げてしまった。振り返ると古川さんが缶コーヒーを手にニタニタしている。


「すがちーお疲れさ~ん」

「もう、古川さんっ」

「うひひ、この前の仕返しだべ」


 そう言って缶コーヒーを手渡しつつ、


「さっき電話があって、志垣しがき先生が今すぐ職員室に来いってさ」

「志垣先生が?」


 志垣先生というのは最初の特別補習の日、私と美和先輩を引き合わせた教師だった。五年生を担当しているから私とは直接関わりがないはず。一体何だろう?


「何か悪さしただろ?」

「してないよ!」


 私はとりあえず缶コーヒーもカバンにしまって立ち上がり、自習室を出ていこうとしたら「あ、大事なこと言い忘れてた」と古川さんが引き止めにかかった。


「明日は一年生から四年生まで駆り出して朝から閉寮前の大掃除をやるんだ。自習室も使えないからそのつもりでな」

「え、そうなんだ、知らなかった。教えてくれてありがとう」


 明日が夏期講習の終了日で、明後日からが閉寮期間だった。夏期講習が終わったら美和先輩と古川さんに挨拶しようと思ったけれど、今日じゅうにしなきゃいけない。


「じゃあ、今日で顔合わせるの最後だね」

「おいおい、今生の別れみたいに言うなよ」

「はは、ごめん。北海道の土産、楽しみにしてるからね!」


 私が片手をあげて挨拶すると、古川さんも同じく片手を上げて返した。


 *


 職員室に入り志垣先生の机に向かうと、そこには美和先輩の姿もあった。志垣先生が「まあ座りなさい」と空席になっている隣の教師の椅子を勧めてきたのでお言葉に甘えることにした。


「高倉さんから聞いたけど、この三ヶ月で緑葉にだいぶ馴染んだようね」

「はい、先輩のご指導のおかげです」


 お世辞言っても何も出ないよ、と美和先輩は笑った。


「期末テストの結果も赤点は無し、補習の成果がバッチリ出ているみたいで良かったわ。生徒会活動も頑張っているし、もう高倉さんの手助け無しでもやっていけるわね。ということで、高倉さんにはチューターを外れてもらいます」


 ああ、確か先輩はそういう役割を与えられていたなあということをすっかり忘れていた。何せ生徒会に入ってから役員・サブの上下関係の中に組み込まれていたから。


「これで千秋も一人前の緑葉生だね」

「いやあ……これからも精進します」


 私はただ、照れて笑うだけだった。


 その後、私は先輩と一緒に下校した。二人きりで下校するのは意外にもこれが初めてだった。


「私は明日の朝には実家に帰るけど、千秋はいつ東京に?」

「お盆前には。きっちりお盆に合わせると帰省ラッシュに巻き込まれますから」


 ちなみに東京のお盆は実は七月十五日前後だったりする。本当は連休の間に墓参りをするべきだったけど、父さんの仕事の都合もあるし、菩提寺の宗派がお盆に特別なことをするわけじゃないのできっちり合わせなくてもいい、ということになったのだ。大切なのは先祖を想う心だ、と父さん曰く。


「やっぱ東京のお土産といえば、『東京ばな奈』とか『ごまたまご』とかが定番だよね」

「買ってきて、ということでしょうか?」

「ふふっ、そういうこと」

「両方とも帰りがけに買っても休み明けまでに賞味期限が切れちゃうんで、日持ちするせんべい系にしておきますね」

「ありがとう、楽しみにしてるから」


 美和先輩が頭をわさわさと撫でてくる。周りに下校している生徒を見かけなかったのは幸いだった。ここでちょうど、岩彦橋に続く分かれ道に差し掛かった。


「じゃあね千秋、お元気で。気が向いたらLINEするからね」

「先輩のお土産も楽しみにしてます。お元気で!」


 美和先輩は手を振って、私は頭を下げて。しばしのお別れとなった。


 課題はだいぶ片付いた。厄介な読書感想文と小論文が残っているけれど、時間はたっぷりあるのでじっくり料理していこう。その後はたっぷり休んで英気を養って二学期に備えるのだ。


 得も言われぬ開放感に浸る私だったが、後日、また一波乱が起きるとはこの時露ほども思わなかったのである。


 *


 八月一日。朝から読書感想文を片付けにかかっていた私だったがどうも筆が乗らなかったので、気分転換に外に出ることにした。


 とりあえず歩きで緑葉女学館の方まで行ってみる。普段は自転車通学で徒歩でも通えないことはないが、半時間かかるので往復するだけでも結構いい運動になる。曇りで風が吹いているとはいえ、猛暑日の予想通りちょっと動いただけでも汗が出るからタオルでこまめに拭き取る。


 岩彦橋を越えて市道に入る。普段は登下校では生徒で賑わう道も今は誰一人とていない。とりあえず正門まで歩いてみたけれど、やっぱり門扉は閉ざされていた。


 このままとんぼ返りするのも味気ないので、グラウンドの方に行ってみた。当然、ここにも誰もいない。風の音とそれに揺らされる草木の音だけしかしない、全く静かな空気に包まれた学校周辺もなかなか趣があって、これがびというものなのかなあと考えてみる。


 もう少し歩みを進めると、河邑先輩の住む大きな家に差し掛かった。生け垣を見て私は四月末の生徒会合宿のことを思い出した。この生け垣を曲がったところ、タンポポに見とれていたら先輩の飼い犬であるチャタローが生け垣からニョキッと顔を出してゼロ距離で吠えられて、びっくりして尻もちをついたというろくでもない記憶があるのだ。


 それなのに何を思ったのか、いや、一種の「怖いもの見たさ」に囚われたのだろう。私は生け垣の角を曲がった。すると、ゴールデンレトリーバーの大きな体が目に飛び込んできて、


「アォンッ!!」

「うわっ!!」


 ひと吠えされた私はまた尻もちをつきかけた。チャタローが散歩に出ているというのは想定していなかった。だけどもっと驚いたのは、チャタローのリードを握っている人物にだった。


「すがちー?」


 北海道に帰っているはずの古川さんが、目の前にいた。

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