第一章 潜行 物語る道の果ては1
いつものように目を瞑ったまま、シュチャクは父が語る創世の話を聞いていた。
何も無かった世界にどこからか現れた女神。彼女は孤独に耐え兼ねて自分の淋しさを癒すものとして自分そっくりの生き物を創造した。しかしまだその当時世界には陸地という物が無く女神のように空へ浮かぶことの出来なかった生き物「人間」は産まれた瞬間にどこかへ落ちていってしまった。
助ける暇も無く目の前から消えていった彼らを見て学習した女神は次に地面を先に創り、そこに次の人間たちを放した。しかし賑やかなことを好む女神によって勝手に増えるように創られた彼らは狭い陸地にどんどん増え、やがて争いが起き始めた。そこで女神は地面を大きくする旅に出たのだった。そしてその後は女神の姿を見た者はなかった。
父の特別高いでもなく、かといって決して低くもない声がシュチャクは好きだった。目を閉じながら聞くとまるで女神と人間たちのやり取りが目の前に浮かんでくるようだ。
女神が去った後の余韻を表すかのように現実にも静けさが漂っていた。いつのまにか話は終わったようだ。シュチャクは名残を惜しむかのようにゆっくり目を開けた。
目の前には十数人の子供たちがいた。歳は様々だろう。手伝いの途中だったのか、籠を背負った者もいたし、ずっと指を咥えているような小さい子もいた。それがみんな同じ方向を向いて座っていて、その皆の視線の先にいるのが父ゴルンだった。
シュチャクとお揃いの黄緑の服は代々一族しか知らない製法で作った植物性の染料で染めたもので、その鮮やかさはどこの村に行っても注目の的だった。頭に被った三角の帽子はこれまた一族伝統のもので数種類の鉱物を砕いた染料で真っ赤に染められていた。これも高さの違いはあれ親子お揃いの物だ。
唯一ゴルンが持っていてシュチャクに無いもの、それは額に描かれた「唇」だった。それはパッと見、まるで本物の唇のように見えるほど立体的な形や色をしていた。一族の後継者として前任者に認められた者だけが描くことを許されるものでシュチャクにとっては憧れの対象だった。
「……はい、これで創世の話はおしまい」
ゴルンの優しい声が改めて物語の終わりを告げた。その瞬間、全員から大きな拍手が起きた。子供たちは大喜びで次の話をねだり始めていた。シュチャクにとってそれはいつ見ても不思議な光景だった。
創世の話は世界で一番有名な話だ。それこそ「勇者ポパパ」の話と同じくらい知られている話で誰かが話し始めれば「今更、その話? 誰でも知っているよ」と言われるのが普通なのに、なぜかゴルンが話し始めると大人も子供もみんなおとなしく耳を傾けるのだった。
自分がまだまだ到達出来ない部分。
父親の凄さをシュチャクは改めて感じていた。
「おおい、旅の方。村長が戻られたぞ」
後ろの方から声が聞こえた。振り返ると中年の村人が手を振っていた。ゴルンは彼に軽く頭を下げ礼をしてからシュチャクの方に歩み寄った。
「じゃあ、ここの村長に挨拶に行ってくる。いつもとは順番が逆になっちまったがなあ。シュチャク、後は頼んだぞ」
息子の返事をろくに聞かずゴルンは足早に去っていった。あっという間に子供たちの視線は残ったシュチャクに集まった。何か言おうとする間も無く彼は取り囲まれてしまった。
「ねえねえ、お兄ちゃんたちどこから来たの? ずっと旅してるの?」
「なんでそんな服着ているの? どうして旅なんかしているの?」
質問攻めにされシュチャクは最初戸惑ったが、大きな溜息を吐くと彼らを大声で制した。
「わかった、わかった! 全部まとめて話すからみんな落ち着いてよ」
ゴルンとシュチャクは自分たちのことを「語りの一族」と呼んでいた。シュチャクが物心ついた時にはもう二人だけで旅をしていたが、実は語りの一族自体が先祖代々ずっとこの世界で旅をし続けていた。
伝説によると一族の初代は女神の去った後に世界の始まりの場所から世界の果てを目指した人物で、子孫たちは代々それを受け継いできたのだ。立ち寄った村の長の許可を取り、食料を貰うために村の子供たち、時には大人たちも集めて物語を聞かせる。その後は逆にその村に伝わる昔話などを聞いて新しい話を覚える。語りの一族はその果てしない繰り返しで旅を続けていた。世界の果てを目指すために歩き続ける。一度通過した村にはたとえ死んでも二度と戻ることがない。それが語りの一族だった。
一度だけシュチャクは父に聞いたことがあった。「母はどうしたのか」と。答えは短かった。「おまえの母はある村の村長の娘で、その村で死んだ」と。それ以上ゴルンは何も言わなかったし、シュチャクも聞かなかった。母のいた村を見てみたいと思ったこともあったが、戻ることを許されない一族の決まりを彼は理解していた。父のような立派な「語り部」になる、それが十五歳のシュチャクの夢だった。
「すげえ、生まれてからずっと旅してるんだあ」
籠を背負った男の子がそう言った。
「シュチャクもお話し出来るの?」
自分と同じ歳くらいの女の子にそう聞かれ、シュチャクは太陽と月が喧嘩して頭をぶつけ星が生まれたという話を身振り手振り交えて演じてみせた。
話が終わると突然小さい拍手が起きた。音の方向に目をやるといつの間にか帰っていたゴルンが手を叩いていた。それに誘われるように子供たちも大きな拍手をしてくれた。初めてのことでシュチャクはちょっと照れ臭かった。
「村長さんが良い人で助かったよ。今日は自宅に泊めてくださるそうだ」
「そう、良かったね。さあ、みんな、父さんの話をお待ちかねだよ」
その後ゴルンがシュチャクと代わり、幾つかの話をした。その度に大きな拍手が起こり、いつのまにか大人たちも集まってきて大好評のまま語りの会は終わった。
みんなが家へ帰っていくとゴルンとシュチャクも村長の家へと向かい歩き始めた。
夕暮れの中、シュチャクは辺りを見回した。両脇にぽつりぽつりと民家がある。その横には畑が広がっていて、そこが夕日を受けてきらきらと輝いていた。「ガラス花」と呼ばれる、花びらが結晶化している変わった花の畑だった。ガラス製品はすべてこの花びらを溶かして造られているのだ。どうやらこの村はかなりのガラス産地であるらしく、二人の歩く道沿いにずっとこの民家と畑の繰り返しが続いていた。
畑の奥には空が見えた。そしてその向こうにも下にも何もなかった。つまり畑の先は断崖になっているのだ。道を挟んで反対側も同じ。つまりこれが世界の幅だ。永遠とも言えるその長さに比べれば極端に幅は狭かった。シュチャクたちは何世代にも渡り世界を縦断するための旅を続けていたが横断ならわずか数百歩で出来てしまう。空中に浮かぶ無限に伸びた一本の細い線、それがこの世界の大陸だった。
ガラス花に見蕩れていたシュチャクはふと前を向いた。
果てしなく続く道。それは村長の家へ行くためだけのものではない。そう、それはこれから父と歩き続ける道だった。どこまでも続いて見えるがずっと先は霞んでいてよくわからない。ひょっとしたらあの霞んだ所には何もないのではないか。
突然そんなことを思い付き、シュチャクはハッとした。寒気を覚えて思わず歩みを止めてしまった。
なんて馬鹿なことを考えたのだろう。そんなわけないのに。
「どうした?」とゴルンが心配そうに訊ねてきた。黙ったままシュチャクは後ろを振り返った。その道はこれまで歩んできた道だった。自分が、父が、そして祖父が、そのまた先祖が、果てしなく旅を続けてきたのだ。それはこれから進む道と同じくらい永遠に続いているように見えた。
「……父さん、なんで世界はこんな細長い線みたいな形なんだろうね?」
「ん? 突然どうした?」
「いや、ちょっとね……」
「父さんにもわからんよ。そういえば『世界に意味の無いことなどない、考えろ』がおまえの爺さんの口癖だったな。おまえも難しいことを考えるようになったもんだ。さっきの話もうまく語れていたし、いつの間にか大人になったな」
「本当に? さっきの拍手、茶化したわけじゃないの?」
「そうじゃないさ。おまえの話し方は子供たちの心を惹き付けていたぞ。自信を持て」
初めて語りの部分で父に褒められシュチャクは嬉しかった。父の顔を見るのが照れ臭く、視線をまたガラス花の畑へと戻すとゴルンも釣られるようにそちらの方を見た。
「ガラス花か。綺麗だなあ。おまえの母さんも好きな花だった」
ゴルンがシュチャクの母について話すのは珍しいことだった。しかしそれ以上その話が続くことはなく代わりに沈黙が続いた。夕暮れが次第に別のものへと変わりつつある、そんな時に不意にゴルンが口を開いた。
「ガラス花にまつわる話、まだ聞かせたことなかったよな?」
シュチャクは黙って頷いた。
「地味だった花が美しくなりたいと女神に頼むんだが、花びらが鋭いガラスになったせいで危なくて誰も近寄らなくなってしまったっていう悲しい話さ。その話に裏付けられるように実際のガラス花も他の植物と相性が悪いんだ。ガラス花の近くに他の作物を植えると枯れちまうらしい。だからガラス花の畑の周りには食用の作物が植えられねえんだ」
「えっ、じゃあ、この村の人たちは何を食べているのさ?」
「他の村の物さ。ガラス花を育てている村ではガラスの加工などに専念するしかない。出来たガラス製品を他の村まで持っていって食料に変えてもらうんだ。面倒な話だよ」
「なんだ、僕たちだって似たようなもんじゃないか。話は食えないだろう?」
シュチャクは不機嫌そうにそう言ったのでゴルンは笑い出した。
「あっはっは、そうだな、こいつは一本取られた。お、見えてきたぞ。あれがクタレ村の長の家だ」
ゴルンとシュチャクはクタレ村の村長カールの家に泊まることになった。
そこで二人は村長の孫娘ミナが抱えている問題を目の当たりにすることとなった。
ミナがまだ小さい頃のことだ。この村を飢饉が襲った。そして彼女の母(カールの娘)は病弱だったため、その飢饉の影響を受けて亡くなってしまった。一方、妻を失ったミナの父は娘をだけは守ろうと今まで行ったことのないほど遠くの村に食料を求めて旅に出たのだ。しかしそれから何年経っても彼は戻って来なかった。風の噂で伝わってきたのはある村で彼が物盗りと思われる何者かに襲われて死んだという悲しい話だけだった。
そしてショックを受けたミナの左足は徐々に石に変わってしまったのだ。心に深い傷を負った人間が極稀に引き起こす、この世界の奇病「石化」である。全身があっという間に石になる人間もいる中でミナはどうにか足だけで済んでいたが、心の傷が広がれば更なる病の進行も予想されカールはそれを恐れているようだった。
そんな時ミナに求婚する若者が現れた。元は流れ者だったガラス職人テスである。旅をしながら腕を磨いたという彼は優れた職人で今では村の若衆のリーダーではあったが、意見の合わない者に対しては感情をむき出しにして暴言を吐くような性格で少なからず恨みも買う立場だった。ミナもそんな彼をあまりよく思っていないらしく結婚の話はなかなか進まずにいた。
一方ミナにはブッコという名の幼馴染の青年がいた。ガラス花農家の彼は不器用だが優しく思いやりのある青年であり、彼とミナは少なからずお互いを意識し合う仲であった。しかし農業という家族総出で働かなくてはならない仕事を持つブッコは足の不自由なミナに結婚を申し込むことを躊躇っていた。そしてミナもそんな彼の立場を知っていたので何も言い出せずにいたのである。カールもそんな二人の思いには気付いていたが彼女の行く末を考え、思い切って将来性のあるテスとの結婚を強引に進めようとしていた。
そんなミナの話を聞いた次の日の朝、ゴルンの額にある「唇」がふいに疼き出した。
カールの家に人が集められた。カール、ミナ、テス、ブッコの四人である。その視線はゴルンとシュチャク、二人の「語りの一族」に集まっていた。皆が困惑の表情を浮かべていて、特にテスとブッコはお互いに気まずそうな雰囲気だった。こうした形でミナと二人の男が三人一緒に顔を合わせるのは初めてだった。
「いったい何の騒ぎですか? この忙しい時に」
テスはあからさまに不機嫌な口調だった。
「いや、わしにも何がなんだかわからんのだ。大事な話があるから集まって欲しいと言われてな。ゴルンさん、これは何事ですか? なぜテスやブッコを?」
「あんたら、語りの一族とかいう連中なんだってな。子供に昔話を聞かせて食料を恵んでもらって旅している情けない奴らだと聞いてるぜ。そいつが俺たちに何の用だ? 昔話でも聞かせてくれるのか?」
テスは馬鹿にした感じで笑ったがゴルンは全く動じていなかった。
「ええ、そうです。しかし、ただのお伽話ではない。これから起こることは実は私にも説明できないことなのです。我々『語りの一族』は確かに先程テスさん、あなたが言ったような生活をしています。しかし一般には知られていない不思議な『力』を持っているのです」
そう言ってゴルンが指差したのは額に描かれたもう一つの唇だった。
「チカラ? そいつはただの化粧だろ? 確かに気味悪いほど本物そっくりだが、それが何の役に立つ? そんな魔除けの化粧なんて別に驚くほど珍しいものじゃない」
「確かにこれは普段ただの絵に過ぎない。ただ、しかるべき『時』が来た時は『力』を帯びるのです」
「力を帯びる?」
ミナが聞き返した。
「そうです。これは我々の遠い先祖が女神により与えられたものなのです。世界の話を集めながら旅をするという使命を達成するために、語りの一族だけが持つことを許された魔の力」
「そんなお伽話を信じろと? 力というが、じゃあ、おまえに何が出来るって言うんだ?」
「物語によって人の心の力を引き出すのです。それでは始めます」
そう言うとゴルンは突然物語を始めた。話は「ある時……」から始まった。一瞬にしてその場の空気が変わったのを全員が感じた。明らかにそれはこれまでのただの昔話とは雰囲気が違っていた。
ゴルン以外、もう誰も一言も言葉を発せなかった。いや、実はゴルン自身も発していなかったのだ。シュチャクだけは知っていた。ゴルンの本当の口は閉じている。いま喋っているのは単なる飾りのはずの額にある化粧の口の方であった。
ある時、人間が「いつも同じ風景ではつまらない」と女神に言いました。彼女は少し考えて毎日気温や天候が変わるようにしようと思いました。しかしずっと付きっきりで自分が変化させるわけにもいきません。それで女神は自分の代わりをする四人の妖精を創ることにしたのです。女神は彼らにそれぞれ春、夏、秋、冬と名付けました。
春は穏やかだけど、のんびり屋の男の子。
夏は活発で元気な男の子。
秋は知的で冷静な女の子。
冬は小さなおとなしい女の子。
四人はそれぞれ仕事を分担し人間たちが退屈しないように刺激を与えました。
そして幾年かが過ぎた時、あることが起きました。冬が夏に恋をしてしまったのです。でも自分から告白なんておとなしい冬にはできません。そこで冬は秋に相談することにしました。秋は冬の話を聞くと、自分が冬の気持ちを夏に伝えてあげると言ってくれました。
夏が仕事をしている、ある暑い日のことでした。そろそろ一日が終わる頃、秋は夏の所へ行くと、冬があなたのことを好きだ、と言いました。返事を求めると夏は言いました。
「ええっ、困ったな。俺、あいつみたいな根暗な奴は好きじゃないんだ。声もぼそぼそ小さいし、なんか話しているといらいらするんだよな。適当に君から断っておいてよ」
秋は心の中で溜息を吐きました。良かった、自分が代わりに告白して。がさつな夏のことだから、きっとこんなことを言うと思っていたわ。もし冬が自分で告白していたら大変なことになっていた。きっと繊細な彼女は深く傷ついていたに違いないわ。
秋は冬の元へ行くと、こんな嘘を吐きました。
「彼、あなたのことは嫌いじゃないけど、今は仕事が忙しいから、それに専念したいって」
それを聞いた冬は寂しそうに笑いました。
「そう、残念だけど仕方ないわね。私、いつもぎらぎら仕事する彼の明るく熱いところが好きになったの。だから、諦めるわ。私もこれから彼を見習って仕事頑張ることにする」
思ったより冬は落ち込んだ様子もなく秋はほっと安心しました。
次の日、その日は冬の仕事の番でした。冬は昨日宣言した通り、張り切って自分の仕事を始めました。みるみる気温は下がり、辺りは冷気に包まれます。そんな冬の様子を陰からこっそり覗く者がいました。夏です。秋に話を聞いてからなぜか彼女のことが少し気になってきていたのでした。
「なんて寒いんだ。うう、やっぱりあいつは好きになれないな」
夏が改めてそう思い、帰ろうとした時、冬が何かをポケットから取り出しているのが見えました。彼女はそれを一生懸命、空に撒き散らしました。白い何かがとても静かに降って来ます。初めて見る幻想的な風景に夏は驚きました。
「わあ、雪だ、雪だ」
人間の子供たちがはしゃぐ声が聞こえてきます。近くでは人間の恋人たちがうっとりとそれを見つめていました。人間たちは喜んでいるようです。
「へえ、雪っていうのか、あれは。あいつ、ずるいな、あんな良い物を持っていたなんて」
夏は初めて見た雪に感動し羨ましくなってしまいました。
次の日、夏は冬の所へ会いに来ました。突然のことに冬は驚きながらも嬉しくなりました。
「ねえ、俺のこと、秋から何か聞いたかい?」
「えっ、うん、仕事が忙しいんですってね」
夏は「しめた」と思いました。頭の良い秋ならうまく言ってくれているだろうと思っていたとおりだったからです。何とかなりそうだと彼は内心ほくそ笑みました。
「まあ、忙しいんだけど、あれから考え直してね。少しくらいなら付き合ってあげてもいいよ」
「まあ、ほんと?」
夏の言葉に冬は大喜びし涙さえ浮かべました。
「その代わりと言ってはなんだけど、君は『雪』って奴を持っているだろう? あれを俺にくれないかな?」
えっ、と言ったまま冬は言葉を無くしました。雪は女神様に頂いた大切な冬の季節の象徴です。他の人にあげるわけにはいかないのでした。
「ご、ごめんなさい。これは私しか使っちゃいけないの。だからあげられない」
それを聞くと、それまで爽やかな笑顔浮かべていた夏の表情が一変しました。
「何だと! おまえしか使えないなんて、偉そうに! 何様のつもりだ?」
「ち、違うの。女神様が『使い過ぎると人間の生活に影響が出るから気をつけて』って」
「知るか、そんなこと。俺が欲しいって言っているんだからよこせばいいんだ!」
すっかり変貌した夏の態度に怯えた冬の眼から思わず涙が零れました。それを見るとますます夏は怒り、今度は冬の肩を乱暴に掴みました。
「なんだよ、俺がいじめているみたいじゃないか! よこせよ、ポケットの中にあるの知っているんだぞ」
夏は嫌がる冬のポケットから無理やり雪を奪って去っていきました。
夏の姿は消え、その場にぽつんと一人取り残された冬はその場に座り込みずっと泣いていました。
やがてそこへ春と秋がやってきました。事情を聞いた秋はかんかんに怒りました。
「なんて酷いやつなの! 私が行って取り返してあげる!」
その時すぐにでも飛び出そうとしていた秋を春が遮りました。春の顔を見た秋はハッとしました。いつも穏やかでぼうっとしている彼が、見たことのない恐い顔をしていたのです。それは決意に満ちた男の顔でした。「僕が行く」と静かに呟いた春の表情を見て秋は彼に全てを任せることにしました。
そして春が夏の所に行くと、彼は何やらブツブツ怒っているようでした。
「くそ、どうなっているんだ、これ!」
どうやら夏は冬の真似をして一生懸命、雪をばら撒いていたのですが、それは全てただの雨になってしまうのです。
「熱い君には雪は降らせられないんだ。さあ、早くそれを返してくれ」
夏は驚きました。いつもはぼうっとした感じで口数も多くない春がはっきりとした口調で話したからです。しかし夏はそんな春の様子にだんだん腹が立ってきました。
「な、何だよ、おまえ! いつも、へらへらしているくせに。生意気な! みてろよ!」
助走をつけた夏は思い切り春に向かって突っ込みました。「どーん」と大きな音がして春は飛ばされ倒れ込みました。しかし彼はすぐ立ち上がりただ静かに「返してくれ」ともう一度言ったのです。
それを見た夏はより強い力でまた突き飛ばしました。豪快に春は引っ繰り返りましたが、でもすぐ立ち上がります。恐くなった夏は何度も何度も体当たりを繰り返しました。その度に春は静かに立ち上がり体中傷だらけで土まみれになりながらも、ただ一言はっきりとした口調で「返せ」と繰り返すのでした。
息が上がった夏はとうとう降参しました。
「ぜえぜえ、わ、わかったよ、俺が悪かった。返すからもう帰ってくれよ」
こうして雪を取り返した春は冬たちの元へ帰りました。傷だらけの春を見て二人は驚きました。しかし彼は平然としていました。黙って春が差し出した雪を冬は大事に受け取りました。
冷たいはずの雪がなぜか暖かく感じました。先程とは違う涙が冬の眼に浮かび、彼女は傷だらけの春にそっと寄り添いました。
春がこんなにも暖かいなんて。冬はその時初めて知ったのです。
それからというもの、冬と春はいつも隣同士にいるようになりましたとさ。
ゴルンの話が終わった。先程までの不思議な空気は収まっていたが、誰も話し出そうとはしなかった。
いったい今のおとぎ話にどんな意味があったんだ?
ミナたちがそう思い、お互いの顔を窺い始めた、そんな時だった。突然誰かが急に奇声を上げた。
驚いて振り返った彼らが見たものは頭を抱えて震え出したテスの姿だった。
心配して駆け寄ったミナの顔を見たテスは化け物でも見たかのように恐怖の表情を浮かべた。
「うわああああ! ゆ、許してくれよ、頼む、許してくれええええ!」
その絶叫と共にテスの体に変化が起きた。音も無く左手が指先から灰色に変色していく。その場の皆が呆気にとられる中、あっという間に鎖骨辺りまで色は変わった。
石化だった。
「うう、許してくれ、ポル……」
テスの眼に涙が溢れた。
「えっ、お父さん?」
父の名を聞いたミナはさらに驚いた。テスは涙をボロボロと零しながら苦しそうにこう呟いた。
「俺が……、俺がやったんだ、ポルは」
その場の全員に衝撃が走った。カールの顔色が見る見る変わった。
「な、なんじゃと! おまえがポルを?」
「お、俺はここから歩いて数ヶ月離れた村の出身なんだ。そこはここ程じゃないがガラスの産地だった。そこへ食料を求めたポルがやってきた。まだ俺の村には食料があったから、あいつは自分の作品と食料を交換して欲しいと願い出てきた。ガラス職人の端くれだった俺はその作品の技術に衝撃を受けた。そこで物の代わりにその技術を教えろと頼んだ。だが奴はどうしても教えてくれなかった。それで俺は頭にきてしまって……。遺体を密かに村の外へ転がして置いて、物盗りに襲われたように偽装した。俺はどうしてもその技術を自分のものにしたくて奪い取ったあいつの作品を研究したが、ガラスに色を付ける技術だけがどうしてもわからなかった。ポルのガラスは見たことがない独特の色をしてやがったからな。それで俺はこの村までやって来た。村にポルの娘がいることがすぐわかった。それで……」
「それでミナに近づきおったのか! ポルの技術目当てに。だがそんなものここにはないぞ? あいつは元々孤高の職人じゃった。人には絶対仕事の秘密を明かさなかった。心を開いていたのはミナの母親、死んでしまった、わしの娘にだけじゃ」
「ああ、薄々わかっていたよ。ミナに会うという建前で密かに色々調べさせてもらっていたからな。それらしいものは何も見つからなかった」
自嘲気味にテスは薄ら笑いを浮かべ、石となった自分の左手を見つめていた。
「もう職人は出来そうにない。罪は償う。煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「……もういい。あんたなんか見たくない。どこかに消えて」
搾り出すようにミナが呟いた。
「そうじゃな。テス、村を出て行け! ここには二度と現れるなよ!」
ふらっと立ち上がるとテスは深々と頭を下げ、よろよろと出て行った。バタンという扉を閉める音だけが虚しく皆の耳に残った。
暫くの間、すすり泣くミナの声だけが辺りに響いた。
「すまん、ミナ。わしが全部悪いんじゃ。まさか、おまえの父を手にかけた男をおまえと結婚させようとしていたとは。わしを許してくれ」
カールも後悔の涙を浮かべていた。誰もが無言になった。
すると泣いているミナの様子をじっと見ていたブッコが意を決したように突然話し出した。
「こんな時に言うことじゃないかもしれないけど……、ミナ、僕と結婚してくれないか? 村長、駄目ですか?」
「ブッコよ、おまえがミナを好いているのは知っとったよ。だがな、わしもガラス農家じゃ。ミナの不自由な足じゃ農家の嫁はとても務まらないだろうと想像がつく。お互い大変な苦労になるぞ」
「わかっています。でも気付きました。どんなに大変でもミナの分まで僕が働けばいいんだって。腹をくくったんです。覚悟は出来ました。だから結婚させて欲しいんです」
顔をくしゃくしゃにしたミナがブッコに抱きついた。
その時、静かにゴルンが囁いた。
「ミナさん、足を見てごらん」
そう言われて下を見たミナは絶句した。着物の下から現れた左足は他の部分と同じ温かい血の通った肌色をしていたのだ。それは奇跡だった。
ミナは立ち上がり、感触を確かめるように何度も何度も足踏みをした。その軽やかな音は歓喜の音楽を奏でる打楽器のようだった。
「おお、ミナの足が! 奇跡じゃ!」
「お爺ちゃん! ブッコ! 見て、私の左足、動くわ!」
「ミナ! 良かった……」
ミナ、ブッコ、カールは三人でしっかり抱き合った。それはすでに一つの家族の姿だった。
「あなたには石化を跳ね除ける心の力がまだあった。私の物語はその手助けをしただけです」
ゴルンも嬉しそうだった。その時、一緒に側で喜んでいたシュチャクが何かに気付いた。
「あれっ、ミナさん、それ、何?」
その視線はミナの治った左足のふくらはぎ辺りに注がれていた。今まで石になっていた皮膚の部分に何かが描かれていたのだ。それは複数の記号のようなものと文字だった。
「これは……、そうだ、思い出した。父さんが旅に出る前にお守りだと言って描いてくれたものなの。『これは人に見せちゃいけないよ。おまじないの効果が無くなるからね。おまえも描き方を覚えなさい』って言われたっけ。私、父さんが早く帰ってくるようにって願掛けのつもりでずっと自分で描き続けていたのよ。でも足が石化してからショックですっかり忘れていたわ」
「おお、そうか、魔除けのおまじないじゃな。どれどれ、どんな図柄をポルは選んだのだ? 病除けか、厄除けか、そんな感じだろうが」
カールはミナのふくらはぎに描かれた記号を覗き込んだ。
「……ん、何じゃ、これは? 魔除けの模様ではないぞ。待てよ、こ、こりゃ、まさか!」
「どうしたの、お爺ちゃん?」
「間違いない! これは一部のガラス職人が使う暗号じゃ。溶かしたガラスに混ぜて色を決める時の鉱物の種類や量、その配合を示す独特の文字なんじゃよ。おそらくこれがテスの言っていた秘密の技術という奴なのだろう。まさか、おまえの体に書き遺してあったとは」
「そういえば、『これはおまえの未来を守ってくれる』って、父さんが言っていたわ!」
「おや、調合についてだけでなく他にも暗号で文字が書いてあるようだぞ。えー、なになに、『この色の名はアイナとする』か。……あいつめ」
「アイナですって! お母さんの名前だわ!」
ミナはそっと自分のふくらはぎに手を触れた。涙を浮かべてはいたが、それでも笑顔だった。
その手は久し振りに父と母に触れていた。
「本当にもう行ってしまわれるのか?」
「ええ、お世話になりました」
旅支度を整えたゴルンとシュチャクは丁寧に深々と頭を下げた。
「とんでもない。頭を下げるのはこっちじゃよ。ミナを治してもらい、さらに廃れていたポルの技術も復活出来た。この技術は村のみんなの宝とすることにしたよ」
ゴルンは満足そうに頷いた。そしてわざと大袈裟に大きく手を広げてみせた。
「では皆さん、さようなら。私たちは世界の終着点を目指し旅をする語りの一族。もうお目に掛かることはないでしょう。お元気で」
シュチャクには聞き慣れた一族決まりの別れの挨拶だった。
いつまでも手を振る三人に見送られ、ゴルンとシュチャクは旅を再開した。
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