第9章 伯爵閣下の結婚指輪編

”いつも”の朝

 俺とアンネが帰ってきたその日は皆が用意してくれた夕飯を食べて(腕が上がっていた)、早々に寝た。疲労感が凄かったからだ。

 帝国の皇帝に相対していた時間はほんの一瞬だったと言ってもいい時間だったと思うが、それでも精神的にはくるものがあったのだろう。ほとんど倒れ込むようにベッドに横たわると、意識は速やかに闇に落ちていった。


 翌朝、ぐっすりと眠った俺の体はすっかり調子を取り戻していた。まぁ、元々疲れていたのは精神の方で、肉体的にはさほどだったしな。

 グッと伸びをして肩をぐるぐると動かす。そのまま外へ出ると、クルルとルーシーがパパとのお出かけを待っていた。


「よしよし、水を汲みに行こうな」


 2人を撫でてやってから水瓶を用意する。今はクルルにだけ持たせているが、そのうちルーシーにも持たせる日が来るんだろうか。その日が来るときまで、皆無事に暮らせると良いのだが。


 4つの水瓶を携えて、ブラブラと森の中を行く。今朝は良い天気で、暁光が森を満たして、気持ちも心なしか晴れやかになる。

 それに合わせてくれているのか、クルルもルーシーも機嫌が良いようで、クルルは跳ねるように歩いているし、ルーシーは俺とクルルの周りをわんわんとテンション高く吠えながら走り回っている。

 俺はそれにほっこりしながら、朝の森の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。まだ気温が上がりきらない間の、ひんやりとした爽やかな空気が肺を満たす。

 それでほんの少し残っていた眠気もすっかり頭から追い出された。追い出された眠気のスペースを埋めるがごとく、頭の中を今日の予定が駆け回るが、水汲みを終えるまではこの時間を最優先にしたい。俺はそっと頭を振って予定を追い出し、頭の中を空っぽにした。


 やがて湖に辿りつき、頭の中に負けず劣らず空っぽの水瓶を満たす。その間にクルルが先導してルーシーと湖につかっていた。彼女達には風呂のようなものだ。

 この湖はあちこちで水が湧いているからなのか、結構水が冷たい。まだこの世界に来て1年経っていないから全ての季節を体験してはいないが、どの季節でもこれくらいの温度なら暑くなる時期には重宝するだろう。一方で寒い時期は考える必要があるかも知れないが……。

 俺が水を汲み終えるまでバシャバシャとはしゃぎ回っていた2人の体が冷え切らないうちに、持ってきていたタオルで水を拭いさる。

 遠出でもしていなければ、体につく汚れはほとんど土埃で、油脂性のものはあまりない。全くつかないわけでもないから、頃合いをみてぬるま湯で拭いてやるなり、女性陣が髪の手入れに使っているものを使ってやるなりしないといかんかもなぁ。


 一方の俺も素っ裸にはならないものの、顔を洗ったり体を水で拭ったりはここで済ませていく。量で言えば大したことはないのだろうが、家で使う水の量は少しでも節約しておきたい。

 人数的にはここ最近と変わらないが、家族としては1人増えているのだし、急場しのぎの対応では駄目だからな。


 一通り終わったら、水をたっぷり抱えて重くなった水瓶をクルルと手分けして担ぎ、家に戻る。

 1人手持ち無沙汰なルーシーが持たせろとでも言うように辺りを走り回っているが、いかに彼女が魔物になっていると言っても、自分の体より大きいものは持ち運べまい。


「わんわん!」

「クルルルルル」


 騒ぐルーシーをなだめているのだろう、クルルが優しい声で鳴いている。クルルもルーシーが来てからこっち、すっかりお姉ちゃんが板についてきた。

 こうして散歩やなんやかやを兼ねた、朝一番の日課はのんびりと終わった。


 水汲みが終わるころには大体みんな起きてきている。行って戻ってくるまでに、それなりに時間もかかっているし。

 ”大体”と言うのは起きてきてないのもいるからだが、それがアンネであるのは言うまでもない。


「朝弱いって言ってたわね」


 ディアナは特に気にしたふうもない。いや、あんまり気にしたふうでないのは他の家族もだが。


「昨日の今日じゃ起きれないだろ。エイゾウじゃあるまいし」


 そう言うのはサーミャだ。


「いやいや、俺も十分疲れてたんだぞ」

「元の体力が違いすぎるんだよ。アタイにひけをとらないくらいだぞ」


 反論した俺にかぶせてきたのはヘレンだった。うちに来て――つまり前線に出なくなって少し経つが、それでも名うての傭兵である彼女に言われたら、ぐうの音も出ない。


「そのうち遅くなりすぎない時間に起きられるようになりますよ、きっと」


 これは俺を除いてはうちで一番早く起きるリケだ。元から職人の彼女は起きるのが早い。次は森暮らしだったリディ(今は俺たちのやりとりを見てクスクス笑っている)で、サーミャとヘレンが同じくらい、最後がディアナだった。


 今後は最後がアンネになるのかな。まぁ、正確な時計を持って生活をしているわけではない。多少朝の時間が延びたところで、それが”いつも通り”になるのであれば、それはそれでうちの家ではそうなのだ、ということだろう。


 めいめい朝の準備を始めるのを横に、俺は朝食の準備をしにかまどへ向かった。

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