アンネの話
ノックされたドア。今までうちの家族がこんな時間に俺の部屋を訪れたことはない。
可能性として今日初めて来たということも考えられなくはないが、その可能性は低いだろう。
つまり、来たのはうちの家族以外、ということになる。となれば答えは一つだ。
「ちょっと待ってください」
俺はそう言うと、寝間着をパッと着替えて、念のため腰の後ろにナイフを差して閂を外す。正面からではなく、扉の脇からそっとだ。
とりあえず向こうからバンと扉が開けられることは無かったので、自分で扉を開けると予想に違わずアンネが立っていた。
大きな体が暗闇の中に佇んでいる。夜間にトイレに行きたくなることもあるだろうと、居間でつけっぱなしにしている魔法のランタンが背後から体を照らしているので、逆光になって表情はよく分からない。
「どうしました?」
俺は他の家族が起きないよう、小声で応対する。すると、やはり小声で答えが返ってきた。
「少しお話しがしたくて……」
家族なら自室に入れるところだが、客を自室に入れるのは憚られる。……色んな意味のあらぬ疑いを後からかけられても至極面倒だし。
「それじゃ、あちらで」
俺は居間の方へ促した。殺気などは感じないが、アンネを先に立たせることは忘れない。結局何事もなく、食卓の椅子にアンネを座らせると、俺はかまどに火を入れる。
こう言うとき魔法のかまどだとすぐに火を入れられるのはありがたい。小鍋に水を張って湯が沸くのを待つ間、話を促す。
「それで、話とは?」
アンネは俺の顔を見たり、よそを向いたりして逡巡していたが、やがて口を開いた。
「……帝国に来ませんか?」
沸き始めた湯の静かな音だけが響く。
「それはできません」
俺は静かにそう答えた。これは別に王国派だから、とかではない。この森の魔力がなければ、俺の鍛冶屋生活はたちいかない。ある程度はカバーできるかも知れないが、そもそもこめる魔力が無ければ特注モデルの生産は無理だ。
俺の返事に、アンネはふぅとため息をつく。
「まぁ、そうだろうとは思ってました」
再び沈黙が場を支配して、沸いた湯がコポコポと音を立てている。俺はかまどの火を落として2つのカップに湯を注ぎ、ほんの少しだけ火酒を入れる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
俺も食卓の椅子に座った。カップのごくごく薄いお湯割りを口に含む。アンネも同じようにして、飲み込む音が聞こえたかと思うくらいの静寂。
突然、クスリとアンネが笑った。
「どうかしました?」
「いえ、エイゾウさんのことではないです」
アンネは再びカップに口をつけた。
「ついさっきまで、来てくれたら良いな、と思ってたんです。でも、断られると、どこかそれに安心している自分がいました」
俺はそれに返事はしない。
「実はですね。陛下……父上からは『力づくでも体で籠絡してでもいいから連れてこい』って言われていたんです」
「ゲホッ!?」
むせた。いやいや、皇位継承順位が低いとは言え皇女だぞ!?そう言う思惑がなけりゃ女性を遣わせたりはしないってことなんだろうが、それにしてもである。
「い、いやそれは」
「でも、できませんでした。部屋に行く前に怖くなっちゃって」
「そりゃそうです。そういうことは大事にしないと……」
アンネが何歳なのかは知らないが、何歳だろうとそういうものを無碍にしてはいけない、と俺は思っている。たとえこの世界、この時代の貴族の婦女子が”そういうもの”であったとしてもだ。
「優しいんですね、エイゾウさんは」
「いえ、そんなことはないですよ」
基本的に家族以外にはそれなりの対応しかしていない。カミロやマリウスは家族ではないが、身内同然くらいの認識にはなりつつあるし、サンドロのおやっさんやフレデリカ嬢もそこに近い状態ではあるが、どこかに打算はある。
それでも、多少の損は覚悟で助けるかも知れない。しかし、侯爵がピンチになっても俺は余裕で見捨てるだろうな。
しかし、力づくか。そっちを期待しての人選だとしたら、納得できないこともないな。世間的には美貌と武力の双方を兼ねる人間はそうそういないだろうが、不思議とうちには複数名該当者がいるからな……。
「とは言え、このまま帰ったんじゃお立場がマズいでしょう?」
「ええ、まぁ」
俺の言葉にアンネは素直に頷く。
「それじゃ一筆したためますかね」
「エイゾウさんは字も書けるんですか?……って、魔法が使えて字が書けないってことはないですね」
少し驚いたようにアンネは言ったが、すぐに自分で納得してしまう。まぁ、魔法が使えると言うことはそれなりの教育を受けてきた証だし、その立場の人間が読み書きできないはずがないのだ。少なくともこの世界では。
俺は自室に紙と筆記具を取りに席を立った。
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