第187話 塞翁が馬
ガラガラ
「やっぱりそうなってるよね」
再度開いた教室の扉からゆっくりと顔を覗かせたのは、教室内で大の大人二人が泣いているという混沌とした状況を予想していたかのような、案の定と言った口ぶりのさくらだった。
「まあ、うん……」
フランさんのような優しさでもない、カイトのように信念があったわけではない、ただ二人に対して行った私的な報復行為を見つかってしまったという心情から、僕はさくらの目を真っ直ぐに見れず、床に向けて逸らすしか他なかった。
その訳は自分が一番分かっている。
いつも真っ直ぐで、誰かのために自分を犠牲に出来る他の誰でもないさくらだったからだ。これが自分の利益を最大限に確保しようとどんな悪巧みも考え、実行するような人だったのならば、僕はその目を一時も離さず真っ直ぐ見る事が出来、その顔に笑いかけられただろう。復讐してやってやったぜ、今までの鬱憤を晴らしてやったぜ、と。
しかし、こうであって欲しいと願う理想と、目の前で起きている現実は、まるでオセロの裏表のように何もかもが違う。
「――――」
僕は叱られるのを待つ子どものようなビクビクとした気持ちでひたすら俯いていた。そして、重苦しい空気のまま数分が経過した頃、僕の方に向かって軽い足音が一つ、徐々に近づいてくるのが分かった。それはおそらくさくらの足音だろうが、僕の耳に聞こえる音は普段聞き慣れてる物よりも、心なしか重厚に聞こえた。
「とりあえず行こ?」
やがて足音が目の前まで迫り、俯いた僕の視界に細くスラッとした足が入ったと同時に、さくらは僕の腕を強引に掴む。すると、この学校という場所にいたくはないが、唯一さくらにだけは顔を合わせたくないとも思っているため足が進まず、岩同然の僕を力尽くで引っ張った。
「――――」
廊下、昇降口、校庭と、足早に進むさくらの背中さえ見ずに、僕はぼーっと眺めている地面がリノリウム、コンクリート、砂地と変わっていくことで居たくはなかった場所から離れていると実感していた。
学校からどれぐらい離れただろうか、もうすぐ家につく頃だろうか、そんな気持ちが芽生え始めた頃、無言かつ早足で僕の腕を引っ張っていたさくらの足が、唐突に止まる。そして、ポツリと僕の名前をいつもでは考えられない程低い声で呼ぶ。
「……真冬」
聞き慣れないさくらの低い声の所為か、視界の大部分を占めるアスファルトの地面がまるで溶岩のようにドロドロと溶け出して、僕の心と体を一緒くたに飲み込もうとしてるかのように思えた。
「あのさ……」
声は聞こえるが今さくらが僕の方を向いているのか、そうでないか、それさえも分からない程に僕はドロドロとした暗闇へと足から順に沈み込む。
「――――」
僕は次の言葉を待った。僕の力はそんなことに使うべきではない、やり返しても誰も得をしない、など至極全うな言葉を。あるいは、僕がしたことに対しての罵倒を。
「まさかあんなことするとは思わなかったよ」
足から徐々に飲み込まれ、首元まで迫ってきていた圧迫感がついには僕の全身を包んだ。
そして、このまま消えてなくなりたい、と僕が異世界に行くことになった状況と奇しくも同じ思いを抱えた瞬間、僕を暗闇から引き抜くように力無く持たれていた腕が上へと勢いよく振られた。
また目一杯上に上げられたかと思えば、今度は下に勢いよく下げられ、その繰り返しが何度が行われたあと、僕の視界が明るく開けていることに気がつく。
「――――」
視界のアスファルトの端の方ではさくらの靴が見えたり消えたりと、そして腕は千切られるほどの勢いで上下に動いている。
さくらは怒っているのか悲しんでいるのか、はたまた呆れたのか、どちらにしろ僕のしたことにネガティブに思っているだろうと、そう予想していた僕は今のこの状況を上手く飲み込めず、振られている腕と一緒に振り上げるように思わず顔を上げた。
「――――!!」
眩しいほどの世界で僕が見た光景は、予想していた物とはまるっきり違い、さくらの身体はぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「…………え?」
そして、恐る恐るゆっくりと視線をさらに上へ上げると、さくらは子どものようなとびっきりの笑顔でこちらを見ていた。
「――――」
頭の回転が完全に止まってしまったためぼーっとさくらの笑顔を見ていると、さくらは跳ねるような動きを止め、怪訝な顔で僕を見た。
「そんな豆鉄砲食らったみたいな顔してどうしたの?」
目をぱちくりとさせ、僕の顔を覗き込む。さくらは怒っても悲しんでも、呆れてさえもいなかった。それどころか、その表情はスッキリとした感じさえ見受けられる事が出来るのだ。
「さくら、怒ってないの?」
「何で私が怒るの?」
余りにも見当外れなことを言われたのか、少し笑いながらさくらは答えた。
「それじゃあ悲しんだり、呆れたりは?」
「ううん、全く……むしろ逆かな」
「逆……?」
今度は僕が怪訝な顔で聞き返す。それに対してさくらはニコニコと楽しそうに話し始める。
「ステータスのおかげだと思うんだけど、真冬たちのクラスの声が耳を澄ませば聞こえてきたんだよね」
確かに、ステータスは肉体的な運動機能に関してはもちろん、聴覚や視覚など五感の身体能力も底上げされる。そのためある程度のステータスを持っていて意識を集中すれば、結構な距離離れた場所でも木の葉が落ちた音を聞くことが出来る。もちろん聞きたいと意識しなければ入ってこないし、あるいは入ってくる情報を意識的に遮断することも可能だ。
「どこからどこまで聞いてたの?」
さくらよりも純粋な数値的には僕の方が高いため、今更ステータスの凄さにはそこまで驚きもしない。しかし、僕たちのクラスの音を聞けること自体には驚かないが、さくらが聞いていたこと自体には驚きを禁じ得ない。そして、どこからどこまで聞いていたのか、気になった。
「私はおかげさまで時間に間に合ったけど、真冬は間に合ったのかなって思って耳を澄まして聞いてたら、間に合っただろうなーって音が聞こえてきて、そこからさっき私が真冬の教室に行くまで」
「つまり全部って事?」
さくらはコクンと頷いた。
「それなら僕がしちゃったこと知ってるんだよね?怒らないの?」
ぴょんぴょんと笑顔で跳び跳ねていたのを目の辺りにしたこの状況から、怒られることはさすがに考えづらいが、一応念のためのだめ押しで確認する。
「うん、むしろその逆……真冬のあれ、スカッとした!」
さくらはそう言って、爽やかな笑顔を見せた。
「す、スカッと?」
僕は再度意図せず豆鉄砲を喰らったような表情になる。まさか僕のした行為が、もっと詳細に言うならば、高尚な正義も理由も何もなく、只単に今までされたことに対しての報復みたいな行為、そんなことをしてさくらが喜んだりするはずがない、そう思っていた。
「確かに真冬がしたことは手放しで褒められる物じゃ無いと思うし、本来なら見て見ぬ振りとか相手にしないとかが正しい選択かなーってのは思うよ」
さくらは顎に手をやりながら首を傾げて、至極正しいとされる一般論を述べた。
それに対して僕は口には出さないものの同意する。何故なら喧嘩両成敗という言葉があるように、何か被害を与えてきた人に対して同じような事で返すのは、周囲からは同等と見なされるため、さくらが言う通り相手にしないのが最良の選択と言えるからだ。
もっと分かりやすく例えるなら、道端で犬が吠えてきたから、自分も四つん這いになって吠え返すような行為、と言っても差し支えないだろう。
「でもさ、正しい事がいつでも最善って訳じゃないんだよね」
さくらは悲痛な顔をしながら話した。
自分の所為で僕がいじめられていたかもしれない事。それを聞いたさくらは、僕を遠ざけることでいじめをなくそうとした事。その所為で僕が目の前から忽然と姿を消した事。そして、そのおかげで今の僕たちがいる事。
「正しいって時には過ちに変わるし、反対に過ちだって正しさに変わる場合もあるんだよ」
さくらも虐められていた真冬と離れたのはその虐めが自分の所為だったからで、それならば自分が離れれば全てが解決すると思った。でも、それは違った。正しさは時には過ちになることもあると学んだ。
そして、今回僕が行なったことは、何も事情を知らない世間一般からすれば悪いことに変わりない。しかし、僕が虐められていたこと、それを助長する行為を仮にも指導者と言われる立場の人たちが行なってきたことを知っている人たちからすれば、同意こそしないだろうが納得は出来る物だと、さくらは言った。
「…………」
それでも僕は頷くことも否定することも、そのどちらも言えなかった。それは自分の中でまだ折り目が付いていなく、ふつふつと罪悪感を抱えているからだ。
そんな僕を見てさくらは怒りも呆れもしなく、ただただにこやかに話す。
「まあ今すぐ納得するのは難しいと思うけど、真冬がしたことは多分良い方に転がると思うよ」
「ね、ナビー」とさくらは僕のスキルに尋ねた。するとナビーは待ってました言わんばかりに若干興奮気味で、
「まず真冬さんがしたことで確実に上の人たちが動き始めます……私も少し細工したので間違いないです」
ナビーがそう言うや否や、携帯が震えた。
「どうぞ、開いてください」
イタリアでのあの事件を思い起こすような同じ種類の嫌な予感が過ぎりながらも、言われるままに携帯を開くと、ネットのニュースには顔は伏せてあるものの、今回教室で醜態を晒すこととなった先生が僕に対して行なった愚行が映像で流れ、そしてその末路までが大々的に乗せられていた。
ネットニュースに載っていることはもちろん驚いたのだが、更に驚くべきなのは、その映像のほとんどがいじめを助長する言葉を発せられた側や、虐められる方にも理由があるなど心ない言葉を掛けられる側である一人称視点、つまり僕からの視点で載せられていたのだ。
「まさかとは思うけどさ……」
「そのまさかです。余りにもむかついてちょっとやっちゃいました」
悪い意味で予想していたまさかはどうやら当たりだったみたいで、ナビーは過去に僕が体験した先生らが虐めを肯定する記憶を引っ張り出し、顔を消す加工を施しながら映像化し、それを今日教室で醜態を晒した映像と共に、ネットに流したのだ。
古人の言葉を借りて言うなら、因果応報。それをこれでもかと言うほど分かりやすくなった記事となって、世に発信されたのだ。
「しかしこれでいじめをする人、そしていじめを許す人、それらが徐々に減っていくと思います」
ナビーは一転、真面目な口調と声音でそう締めくくった。そのことからナビーがふざけたりちょっとした遊び心でやったことでは無いと分かったため、僕は感謝こそすれど攻めるような事をする気にはならなかった。
対するさくらは苦笑いと主に、
「まさかここまで早く結果が出るとは思わなかったけど、まあそんな感じで真冬がしちゃったと思っている悪いことは、誰かの為にもなるかもしれないって事だよ」
「……そっか」
形はどうであれ、やりかたはどうであれ、万事塞翁が馬と言うように悪いことが全て悪いままで終わることが無いと、良いことに変わるかもしれないと僕は改めて学んだ。
その後ナビー情報によると、あっという間に拡散されたネット記事によって学校にはたくさんの記者が砂糖に群がる蟻の如く瞬く間に集まり、僕に対して虐めをしていた全ての人たちが、その蟻の餌食となった。
そして、その中でまだ誰も解いたことがない数学の問題の完璧な解が書かれた紙が見つかるも、それを数学界の人たちにまで知れ渡るのは僕たちが異世界に旅立ってからのことだった。
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