第175話 木の枝

 深い呼吸を経て駆け出すと、先ほどとは世界の見え方がガラリと変わったのを直ぐに感じた。ごちゃごちゃと雑多な思考が消えた分、入ってくる情報量が格段に増えたのだ。視界はクリアになり、相手の呼吸のタイミング、筋肉の力の入り方、視線の動きまでもが全て見える。


「これはいよいよ気合い入れねーとな」


 そう言って構えた形は身体に余分な力が入っていなく、どの武道のどんな動きをするにしても理想的な身体の置き方だった。おそらくこいつも本気を出してくるということなのだろう。


「――――」


 余計な駆け引きなど一切無い、ただ空いていた距離を詰めるように走り、お互いの間合いに入る。しかし闇雲ではなかった、本能に従って身体が勝手にそうしたのだから。


「――――」


 間合いに入った瞬間、レーダーを搭載しているかのような正確さと機敏さで、右の顔めがけて拳が飛んでくる。その速さは先ほどの一発とは段違いで、構えからの最短距離かつ最高速度で放たれたノーモーションの拳からは気のせいかもしれないがブンと音が出ているような、目にも止まらない勢いを持っていた。


 一般人はもちろんのこと、ボクシングのチャンピオンでさえ手も足も出ずに打たれているかも、という高速の一撃は、筋肉の動きを見て予見していたため身体の外側にズレることで、難無く交わすことが出来た。


 ところが、それは必殺と思わせた視線誘導の囮であり、本命は腕で隠した死角からの今し方突き出した腕の反動を使った左の膝蹴りであった。

 それはつまり、最初の攻撃は威力と速さは凄まじいものの、それでさえ膝蹴りの勢いと死角作りの布石に過ぎなかったと言うことだ。


「――――」


 一発目の殴りが囮であることは、放たれる前から気付いていた。そして、その次に来るであろう本命の攻撃は、実際に繰り出してきた膝蹴りを含め、意表を突いた頭突き、躱したと思わせておいて最後の伸びがある回し蹴りなどなど、実に十種類ぐらいは予見していた。


 そのため作りだされた死角からの膝蹴りとは言え、後ろに下がれば良いだけなので避けるのは大変容易だった。


「……お前本当に人間か?」


「それはこっちの台詞だ」


 二連続の攻撃を軽々と躱された奴は距離が離れたことを確認すると再び構えを整え、疑い深い目で言ってきた。

 しかし、それはこちらも同じ事を思っていた。駆け引きとパワー、どちらも地球とは思えないレベル、もっと言えば異世界でのステータスを所持している者に達していると思えるほど、こいつの力は人間離れしていた。


 喧嘩では相手の土俵のため、素手では勝ち目がない。どうしたものかと考えていると、ふと目に入った。


「なぁ、あれ使って良いか?」


 俺は近くに落ちてある指と同じぐらいの太さの枝を指さす。長さはおよそ二十センチ位しかなく太さが少々頼りないが、喧嘩のプロに対して勝てる方法がこれしか思いつかなかった。


「別に何でも良いけどよ、そんなの使えるんか?」


 リラックスした表情で構えを崩し、子どもがチャンバラごっこするのにも使わないような頼りなさ気な枝を訝しげに見る。


 それも無理もないだろう、野球のバッドや小型のナイフを使うような喧嘩のプロから見れば、大小問わず木の枝はゴミ同然なのだから。しかし、剣術のプロから見れば太さ的にも種類的にも特別硬い訳ではないため不安は残るものの、取り回しには丁度良い長さであった。


「それじゃ次で決着付けるぜ」


 木の枝、もとい現状最強の剣を持ち、構える。


「ああ」


 枝を拾う間の僅かだけ弛緩した空気が、二人が構えたことによって一瞬にして様変わりし、ここが幸せで溢れている住宅街ということを再度忘れさせる。


「――――」


 俺が足を踏み出した瞬間、自分からは攻めずに待ち側だった奴も同時に足を踏み出した。ピリピリとした肌を刺激するような空気が距離が近付くにつれて、ビリビリと肌を突き刺すような張り詰めたものに変わっていく。


 しかし、プレッシャーは凄いが、武器を持った今では何も感じないも同然だった。


「――――」


 先に手を出してきたのは向こうだ。一撃で決めるつもりなのだろう、今までのものを凌駕するほどの威力、スピードを兼ね備えており、ただの右手による殴打つまり右ストレートのはずなのだが、速さからなのかそれとも技術なのかは分からないが、拳が幾重にも重なって見える摩訶不思議なパンチだった。


 避けるのは困難だっただろう、地球にいる人ならば、あるいは武器を持たない素手の俺だったのならば。


「――――!!!」


 おそらくこの技は自分の中で一撃必殺で必中の、もはやこの世界でのチート技のような扱いだったのだろう。この拳で、この技で倒せない人間はいないという絶対の自信を持つほどに。

 だから、この技が通用しないと夢のまた夢にまで思わなかったはずだ。


 ――今この瞬間までは。


「あ……りえね……」


 目の前にいる男の表情は、驚愕、疑問、絶望、ありとあらゆる感情がない交ぜになっており、信じたくない光景を否定するように、ただ闇雲に腕に力を入れ続けることしか出来なかった。


 何故なら、自分の必殺の技が指よりも細い枝に阻まれたことによって、まるでその場所に釘でも打たれているかのようにびくとも動かすことが出来ないのだから。


「どうした?力を入れろよ」


 奇しくもリリスさんにされたことと同じような事をしている俺と、あの時の僕と同じような表情をしているこいつ。


「ッッッッ!!!!」


 顔は今にも破裂しそうなほど紅潮し、首には太く青い筋が何本もはち切れんばかりに立っている。それほどまでに力を入れているように見えるが、パントマイムをしているかのように枝は一ミリも動かなかった。

 

「――――」


 原理は至って簡単だ。枝に掛かる圧力を空気中、地面など色々な場所に向けて逃がしているからだ。剣とは違い、拳はタイミングの違いは多少あるがほとんど面で力が加わる。だから一度止めさえすれば力を逃がすことなど容易だ。


 と言っても、あれこれと頭の中で作戦を考えていたら決して出来なかった芸当だろう。リリスさんがやったのを目の当たりにした、というか自分に向けてされたからこそ出来たに違いない。


「――――ッ!」


 力を周囲に分散することを止めずにさっと枝を奴の拳から離す。すると力を入れていた方向に相手の身体が思いっきり傾いた。前のめりになり倒れそうになっていた身体を飛ばすために、木の枝をバッドに見立ててお腹に打ち込む。


 もちろん、そのままでは木の枝が人間を飛ばす途中で折れてしまうため、力は分散させる。


「ほら、よっ!」


 細い枝は折れることなく、奴の巨漢は軽々しく車に向けて飛んでいった。


「ドン!」


 停めてあった車と飛んでいった奴の身体が衝突し、大きな音を立てて車体は大きくへこんだ。そして、奴は完全に気絶をした。

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