香鈴の上着も裳も、莉央には少し小さかったが、外套を纏ってしまえば分からない。

 女官に変装している莉央が手配できるのは、買い物用の大きな荷馬車だけということだったが、莉央はそれで良かった。


 道程を横殴りの雨が襲った。

 土砂降りというわけではなかったが、風が強いので、外套の中に冷たい水が浸入してくる。既に香鈴から借りた着物もびしょ濡れになっていた。


(ここは、何処だろう?)


 真っ暗な夜道だ。

 視界は途方もなく悪いし、雨のせいで道はぬかるみ、馬車の速度も出ない。運が悪ければ車輪が泥の中に入り込んで、動けなくなってしまうかもしれない。

 しかし、志雄はこんな最悪の状況でも文句の一つも口に出さなかった。 

 莉央は荷台から、黙って、志雄の背を眺めていた。

 彼は外套すら着ていない。

 雨のせいで体感気温が落ちているのに、着物一枚だ。


「ごめんなさい」

「えっ?」

「私のせいで、志雄が風邪をひいてしまうかもしれません」

「大丈夫ですよ。体は鍛えていますから」


 こちらに一瞬、顔を向けた志雄は、笑っていた。

 この男の笑顔を今まで莉央は目にしたことがない。錯覚だったのではないかと疑ってしまうほどだった。


「私は王英様に拾われる前は、行商をしていたこともあったんです。こんな夜道に荷馬車を飛ばすことなんてしょっちゅうでしたから……」

「貴方も、色々とあったんたですね」

「私の母はエスティア人だと、お話しましたよね……」

「ええ」

「エスティアでは、異国人との結婚はご法度なんですよ。それで父の死後、母は帰る場所をなくしてしまった。私を残せばエスティアに戻ることも出来たのでしょうが、そんなことは出来なくて……。だから、母は身を粉にして働いていました。私も働いて……って、こんな話面白くないですよね?」

「いえ。志雄のお母様がどのような方か知りたいです。私には母がいないようなものですから……」


 懐かしい森の一本道に馬車は入っていく。

 森の木々が雨を吸い、小降りになった感じがした。志雄は申し訳なさそうに言葉を続けた。


「母は子供のような人でした。父にすべてを任せていたから、亡くなった後は完全に孤立してしまいました。口癖のように、エスティアに帰りたいと繰り返し、宋禮の言葉すら理解しようとしなかったので、私はよく面倒ごとに巻き込まれましたね」

「ごめんなさい」

「だから、どうして、斎公が謝るのです?」

「エスティアと戦うことになどなったら、志雄は辛いでしょう?」

「そんなことありませんよ」


 意外なほど、冷淡な物言いに、莉央は逆に心配になった。


「お母様は?」

「随分前に、病気で死にましたよ」


 香鈴にも両親がいないが、志雄にもいないのか。


(みんな、何か抱えている)


 何と声をかけて良いのか、莉央が悩んでいるうちに、志雄は森の奥を指差した。


「あれですね」


 遠目でも、本堂にぼんやりと明かりがついているのが確認できた。

 どうやら、深夜に未海を叩き起こす必要はないらしい。

 莉央は身を乗り出した。

 馬車が山門の近くまで近づくと、察したように入口から、墨色の衣をまとった剃髪の老僧が現われた。

 未海だと、莉央は急いで馬車から降りようとする。

 慌てて、莉央の手を取った志雄が静かに告げた。


「香鈴殿の言う通りです。逃げないのですか? これが最後の機会ですよ。貴方も領主になどなりたくなかったのでしょう……?」

「ずるいですよ。志雄。その言い方は……」

「えっ?」


 みんな、莉央に逃げ道を用意する。

 辛いなら、嫌なら、領主に向いていないのならば……いっそのこと逃げ出してしまえば良いと……。


 だが、それがかえって莉央を追い詰めているということに、まるで気付いていない。

 他の生き方など、莉央には分からない。

 選択の幅は多いように見えて、実は皆無に等しいのだ。

 莉央は冷えた志雄の手に手を乗せて、微笑った。


 そうするしかなかった。

 だって……。

 今、ここで逃げたところで、他に、自分に何があるのか?


「行きましょう。志雄」


 うながすと、長い溜息の後、志雄は莉央の後に続いた。


「―――おやおや。珍しい時間にいらっしゃいましたね」


 満面の笑顔で出迎えた未海は、夜分の突然の訪問にも何も言わなかった。

 まるで、莉央が殺されかけた時のように、見事に知らぬふりをしている。


「随分と濡れたようですね。衣を乾かさなければ風邪をひきます。さあ、こちらに……」

「はい」


 志雄は丁重に礼を述べて、未海の後に従う。

 ――が、莉央はその場に立ち止まった。


「祥玲様は、いらっしゃいますよね?」

「…………ああ。あの方は」


 未海はしばらく悩んでから、口を開いた。


「……残念ながら、こちらにはおりません。地下が本で埋め尽くされてしまったのでね。今は離れに移っています」

「では、離れは何処ですか?」

「ここから少し距離があります」

「行きます」

「何をおっしゃっているのですか。莉央様。まずは着替えを」

「急いでいますから。ここで失礼します」


 前髪から滴り落ちてくる水滴を拭い、莉央は顔を上げた。

 志雄を一瞥する。

 彼の母親の祖国と対立しているのだ。

 エスティアが兵を挙げてしまったのならば、戦争は避けられないだろう。けれど、必要最低限の衝突で済む方法を、祥玲は知っているかもしれない。


 未海が細い目を瞬かせている。


「この寺の裏手に小さな建物があります。おそらくあの方は本を読んでいるでしょうから、明かりが皓々としているでしょう」

「有難うございます」


 莉央は頭を下げると同時に、くるりと姿勢を変えて走り出した。


「斎公!」


 志雄が手を伸ばす。


「着物を乾かして下さい。志雄!」


 莉央は言い放つと、再び、闇の中に飛び込んだ。

 本堂の明かりを頼りに裏手に回ると、未海の言う通りだった。

 薄い灯が長く伸びている。橙色の温かい光は、蝋燭だろう。


(あそこか……)


 降り続く雨が体にずっしりと重くなっていたが、莉央は構わず進む。

 淡い光を追って行くと、小さな庵が見えた。

 どの程度老朽しているかは暗くて判然としないが、相当年季が入っている建物のようだ。

 扉を叩こうとしたら、見事に扉が全開して、莉央は薄い男の胸板に頭から飛び込むような形になってしまった。


「――――あっ!」


 男は、草の香りがした。


「一体、何をしているんですか? 莉央さん」

「祥玲様……」


 祥玲の漆黒の瞳が大きく揺れていた。

 心底、驚愕しているのが伝わってくる。

 数瞬、視線が合わさっていたが、祥玲は急に懐に手を入れて訴えた。


「あのー……。本が濡れまくっているのですが」

「わっ! あっ。失礼しました!」


 莉央は逃げるように、祥玲から離れた。

 しかし、何故、祥玲は胸の中に本を仕舞っているのだろうか?

 何から何まで、相変わらず分からない男だった。

 そして、室内はやはり、本だらけだった。

 祥玲はおもむろに背中を見せると、強引に本の山を端に寄せた。欠けた茶碗の中で飲みかけの茶が激しく揺れている。舞い上がった埃が入りこんだのではないかと、莉央は心配だった。


「さあ、どうぞ」

「でも、私、こんなことになっていますし、急いでいますし、立ったままで構いません」

「それは、絶対にいけません。ええーっと。まずは、まずは……」


 祥玲は珍しく狼狽していた。

 部屋の奥に埋もれていた藤の籠をあさって、着物をあさっている。


「祥玲様。それどころではないのです!」


 莉央は水浸しの靴を脱ぎ捨てて、祥玲ににじり寄った。


「それどころですよ。とりあえずは、私の着物でも着て……」


 莉央は、手渡された謎の紅色の着物を力一杯放り投げた。


「聞いて下さい!」

「分かっていますよ」

「えっ?」

「エスティアで王英が消えましたか? それとも、エスティアが攻めてきましたか?」


 みるみる血の気がひいていくのが莉央自身にも分かった。


「その……両方です」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます