……結局

 莉央は王英が旅立つ時まで、義務的な会話以外、話すことはなかった。

 何となく避けていたら、出立の挨拶もなしに、王英は隣国に旅立ってしまったのだ。


(普通は、形式的にも領主には、挨拶するものではないのか?)


 だが、文句は言えなかった。

 莉央は、朝早くから城を開ける機会が多くなっていた。

 寺に通うことが出来なくなった莉央は、率先して、いろんな所に顔を出すようになっていた。


 何より、エスティアの情報を集めるためだった。

 町で買い物をしたり、役所がどのような場所なのか見学したり、庶民が勉学に励んでいる小さな塾を覗いてみたり……とにかく莉央には常識がなく、知識も乏しい。

 そのために王英の政治に意見することが出来ないのだ。

 領民の間には、エスティアが攻めてくるかもしれないという、恐怖心が根強く芽生えていた。

 切実に伝わってきた思いに、王英よりも、領主の莉央が直接エスティアに行ったほうが良いのではないかと、思った時には、王英は宋禮にはいなかった。

 心の底では、王英の言っていることは嘘で、演技なのではないかと、疑っていたのだが……。

 しかし、王英はあっさりと旅立ってしまった。


 そうして……。

 莉央は、とうとう名目上の領主ではいられなくなってしまった。


 王英がいなければ、すべての職務を莉央自身がやらなければならないという当たり前のことを、莉央は失念していた。

 王英がエスティアに旅立った翌日には、慣れない領主の仕事に追われて、何が何だか分からなくなっていた。

 王英べったりの官吏や、前領主を信奉していた重臣などからの冷たい視線の矢面に立たなければならなくなり、だからといって、王英の時と同じように、仕事を放棄して、外出するわけにもいかなかった。


(一体、王英は何を考えているのだろう?)


 莉央が領主として、振る舞うのを避けるために、王英一人で政治を独占していたのではないか?

 それが……。


 すべての重責が莉央の肩に乗っていた。

 知らない、分からないでは済まされない、重要な決断が次々と莉央のもとにやって来る。

 私的な時間など工面できないと悟った時、それならば、最後に一ヶ所だけ莉央にはいっておきたい場所があった。


 王英が旅立って、二十日後のことだった。

 ようやく半日だけ自分の時間を確保することに成功した莉央は、早朝から城を出た。


 ――向かった先は、以前訪れた農家だった。


 阿沙あさと名乗った老婆は、当初は、なぜ莉央が畑に現われるのか怪訝な顔をしていたが、少しずつ畑仕事が何なのかを教えてくれるようになり、翠塾についても話してくれるようになっていた。

 聞いた話によると、翠塾というのは、勉学だけではなく、畑仕事や、武術など幅広い分野を学ぶことによって、己の心を磨くことを目的としている思想集団らしい。


「あんたと初めて会った日の前日だったかね。先生に会ったんだよ」

「祥玲様ですか?」

「祥玲……。確かそんな名前だったかねえ。まあ、私達に言わせれば先生は先生。あえて言うのなら若先生かね?」

「先生……」


 塾頭と名乗っていたのだから、人に教える立場なのだろうが、あの容姿を思い出すと、何故か笑ってしまう。

 まだ私塾の生徒であってもおかしくないくらい、彼は若かった。


「色々と話していてねえ。翠塾の生徒さんには、よく農作業を手伝ってもらったからね。だから、お前さんに会った途端、翠塾の話をしちまった」

「何故?」

「貴族の娘さんなんぞが畑に来るなんて、翠塾関係者しか考えられんじゃろう?」


 莉央はためらうことなく、阿沙の後に続いて草叢に腰を下ろした。

 最初は着物を汚してしまうことに抵抗があったが、今はそんなことは考えなくなった。

 むしろ、阿沙の薄汚れた着物。汗まみれの茶色の頭巾を誇らしく感じていた。

 毎日身を粉にして、農作業をしていなければ、こんなふうに、ぼろぼろにはならない。


「祥玲様は、貴方が私に翠塾のことを話すよう仕向けたんだと思います。策士ですから」

「ふん」


 阿沙は、鼻を鳴らすと、ぶっきらぼうに言い放った。


「じゃあ、そんな回りくどいことすんなって、次に会ったら言っておきな」

「回りくどい……。確かに」


 そうだ。

 回りくどい。もっと、直接的なやり方だって、あったはずなのに……。

 莉央は大笑いした。

 本当にその通りで、自分の悩みがまるで瑣末なことのように感じられた。

 穏やかな時間だった。

 一迅の風が莉央の体を突き抜けて、少し黄色く色づいてきた麦畑に下りていく。


「こんな風景が、宋禮領内では、ずっと続いているんでしょうね」


 祥玲が農作物を心配する気持ちが分かるような気がした。


「私はここから出たことがないから、分からんが、先生はそうおっしゃっていたかな。一度空中から見てみたいものだと、おっしゃっていたよ」


 祥玲らしい一言だ。

 本当は、莉央は祥玲に会いたかった。

 彼の他に、あんな独特の性格の人間がいるとも思えなかった。


 だけど……。

 今、それは出来ない。

 

(祥玲様は、私に話してくれなかったし、まだ隠し事もしている)


 自分のことを信じろと祥玲は言うが、結局、祥玲自身が莉央のことを信用していないのではないか? 


 それに……。

 塾の塾頭というだけで、若輩の祥玲に頭を下げる王英ではないはずだ。

 祥玲は身分のある男だと考えるべきだ。領主に匹敵するほどの地位を持っているのであれば、一体誰であるのか?


 もしも、祥玲が莉央の考えている立場にいる人間であるのならば……。


 次に会う時は自分が決断をする時だと、莉央は心中で固く決意していた。


「阿沙さん、私今日はお話があって……」

「何だい?」


 きつい口調だが、眼差しは穏やかだ。

 莉央は膝を付け合せるような形で、阿沙に向き直った。


「実は、私……。しばらくここには来られなくなりそうなんです」

「そう。別に私は構いやしないが、お前さん、麦の刈り入れを見たいと言っていたじゃないか。一体、どうしたんだい。急に」

「色々と実家で、ありまして」

「これも噂で聞いたんだけど、近く蛮国と戦争になるというのは、本当かね?」


 莉央は、絶句した。


 もう、そんなところにまで、噂が出回っているのか……。

 すべて知らないのは、莉央だけなのかもしれない。


「ま、まさか」


 上擦りながら、莉央は何とか答えた。

 阿沙は、肩を叩きながら、安穏と言う。


「なら、良いけれど。戦争なんて、たまったものじゃないからねえ」

「そうですよね……」


 エスティアは、宋禮の何が気に入らないのだろう。

 莉央が即位してから、何か迷惑でもかけたのか……。


「でも、もしも、エスティアが攻めてきたら……」

「そしたら、仕方ない。やるしかないじゃないか?」

「はっ?」

「蛮国の奴隷になんぞ、むざむざとなってたまるかい」

「結構、簡単に言いますね」


 莉央は肩を落とした。そんなことにならないために、莉央がいるのだろうが、何も方策が思い浮かばない。


「何をあんたが困っているんだい? 不思議な子だねえ」

「……阿沙さんは、今の領主のことをどう思いますか?」

「今度はまた唐突に、おかしなことを訊くね」

「自分でも、そう思います」


 莉央が真剣な目で縋ると、阿沙は困惑した顔で頬をかいた。


「私なんざが、語れるはずがないじゃないか。下手したら死罪だよ」

「ああ、それは大丈夫だと思います」

「はっ?」

「あ、いえ。その、今ここには私しかいないし」

「まあ。じゃあ、正直に言うけれど……」


 阿沙は腕を組み、農作業のせいで汚れていた顔を着物でぐいっと拭った。


「実際、良いも悪いも分かりはしないんだよ。税金のことは何とかして欲しいけどね。会ったこともない領主のことなんざ、下々の者にとってはどうでも良いことなのよ。ただ、この世の平安を保ってくれるお方なら、誰が領主だろうと、構いやしないんのさ」

「そっ……か。そうなんですよね……」


 ………………そういうものなのだ。


 ――貴方らしくなさい。


 多分、祥玲はこれが言いたかったのだ。


 罪悪感など、覚える必要はない。だって、領民は。


(領主が誰であろうが、関係ないんだから……)


「おばば~!」


 遠くの方から、高い大声と共に小さな影が近づいてきた。


「まったく……」

「お孫さんですか?」

「私に似て、落ち着かない子だよ」


 腰に手を当てて、立ち上がった阿沙の横顔。目尻の皺を深くして、瞳は優しく細められていた。歯は数本抜けていたが、笑顔に愛情が溢れている。


「斎公……」

「志雄ですか」


 影のように、背後に現われた志雄が膝をついて、頭を下げた。


「良い景色ですね。志雄。風は気持ちよくて、手入れをした畑はきらきらと輝いていて、心の澄んだ人達が楽しそうに笑っている。きっと……それが幸せいうものなのでしょう」


 前を見据えたまま、莉央は告げる。

 阿沙は孫娘に抱きつかれて、こちらのことはまったく気付いていないようだ。


「志雄?」

「あっ。…………も、申し訳ありません」


 しばらく沈黙していた志雄がはっとして、再び叩頭した。


「気が動転していたもので」

「何があったのです?」

「それが……」


 普段、感情が掴みづらい志雄が眉を寄せて苦悶の表情を浮かべている。


 それだけで、莉央は嫌な予感を覚えていた。

 志雄は、大きく息を吸って、早口で告げた。


「――……エスティアが宋禮に向けて兵を挙げたとのことです」

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