第57話『せっかちな子だね』
マリンが連れて来られたのは、学園内の一室だった。
幾つかの身体測定器が設置され、壁際には簡単な薬が並べられた薬品棚。端には仕切りが立てられており、その奥にはパイプベッドが並べられた、どこにでもある普通の医務室だ。
「さあ、お座り」
アドリックが窓際の執務机に腰掛けると、部屋に置かれた丸椅子に促してきた。マリンは闘技場に行った二人の安否を気にしながらも促されるままに丸椅子に腰を下ろす。
二人が全力で争ったとしても、どっちもそう簡単には負けたりはしないだろうし、怪我をしている今、駆けつけても止めることはできない。それどころか、医務室を出る前にアドリックに捕まってしまうのが関の山だ。
アドリックに傷を治してもらってから、万全な状態で二人を止めに行くのが最善だと、ここはアドリックに従うことにした。
「お願いします」
丸椅子に座ったままでアドリックを見返すと、マリンは小さく頭を下げた。
アドリックはマリンを見つめたままでゴマのような瞳を細めて微笑むと、大きく頷いた。
「うん。いいオーラをしているね。まっすぐで力強く、それでいて優しい。
生活の環境と親御さんの教育が良かったのだろうねぇ。綺麗に育っている」
「え? ああ……、そうです……か……? ありがとう……」
父親を思い浮かべると少々複雑な心境になるが、確かに育ってきた環境は悪くないと思う。その父親も性格にかなりの問題はあるものの、外では英雄として扱われている。
夫婦仲はいいし裕福である。良く友達に羨ましがられていた。
教育らしい教育はされていないが、決して放任ではなくいつも見守ってくれている親だった。
アドリックの過剰過ぎる賛嘆は少々照れ臭かったが、もしもその通りなのだとしたら、それは両親のおかげだ。
マリンへの賛美を両親や家族への賛辞と受け取り、心の底から喜びが込み上げてきた。
だが、今は感傷に浸っている場合ではない。早く二人を止めに行かなければならない。そのためにはこの体を蝕む傷が邪魔だ。
マリンは感情を押し込めると、まっすぐにアドリックを見つめた。
「すみません。治療をお願いしてもいいですか?」
「おやおや。せっかちな子だねぇ。あの二人なら大丈夫だって言っているのにねぇ……」
アドリックは苦笑を浮べながら小さく肩を竦めると、マリンの足に右手を翳し、ゆっくりと深呼吸を始めた。するとアドリックの身体が金色に近い赤い光に包まれ、柔らかく温かな力で傷口を撫でられるのを感じた。
例えるなら、麗らかな春の日に、そっと頬を撫でる静かな風だ。
「おやおや。これは随分と深い怪我をしちまったもんだねぇ。痛かっただろう?
すぐに治してあげるからねぇ」
傷口がチクチクとした痛みを発して、熱くなって行くのが分かる。
傷が疼いているのに不思議と拒絶感はない。寧ろ心地良ささえも感じる。針治療やお灸とはこんな感じなのかも知れない、とぼんやり考えていた。
「おや? あんたはまだなにか力を秘めているねぇ? 波動もかなりいい段階まで高められている。フフフ。これからが楽しみだよ」
「力なんて中和以外はないですよ。波動も……、その、挫折しちゃいましたし……」
アドリックの言葉に、マリンは溜息混じりで溢すと苦笑を洩らした。
マリンの父親は、弟子になりたいと心願するものが後を絶たないほどの高名な波動術者だ。その父親に一対一で習ったにも関わらず、マリンはついに術を使いこなすことができなかった。
父親は想像力が足りないだけだと言っていたが、肝心なことも思い描けないのなら、素質がない証拠だとマリンは自分なりの結論を出して、諦めた。
父親は培った時間は確実に自身を育てていると言っていたが、マリンは自分から放棄した。
そんな自分の中で波動が高められているとは到底思えなかった。アドリックの話を素直に受け取れず、マリンは否定の意を込めて小さく頭を左右に振った。
アドリックは小さく笑みを漏らすと、マリンをまっすぐに見つめて微笑んだ。
「おやおや。どうやらあんたは自分を信じられていないようだねぇ。
それとも未知の世界を恐れているのかい? なんにせよ、その気持ちが波動の成長を阻んでいるのだろうよ。
とは言え、変革を拒むのは今が幸せな証拠さ。悪いことではないさね。
だがね、進化の可能性は捨ててはいけないよ?
今は必要ないようだから煩くは言うつもりはないけど、本気でこのままではダメだと言う壁にぶつかったとき、簡単に諦めたりしないで自分を信じて一歩踏み出して御覧?
きっと悪い結果にはならないさ」
アドリックは穏やかな微笑みを浮べて、柔らかな声音の言葉が耳朶を撫でてくる。
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