すいりゅうさん【独り】

 不思議なものだ。

 私は泉のほとりで蓮の花がぽこんとはじけて開くのを頬杖を突いて眺めている。


 スイレンが眠っている泉には、暫くすると蓮の葉が顔を出し、可憐な淡い桃色の花が咲き始めた。それが不思議なことに、花が開く度に淡い残像が浮かんでは消えるのだ。


「すいりゅうさん!」


 ほら、今も。花がはじけて、薄茶色の小さな蜥蜴が両手を広げてこちらに微笑みかける。


「だあいすき。明日もきっと、ここにいてね」


 お前は誰だ。すいりゅうさんとは誰だ。そう思う一方で、私の心はその声に勝手に応えるのだ。


「もちろん。私はずっとここにいる」


 私はきょろきょろと辺りを見回し、発した憶えのないそれが私の言葉だと認識する。そうして首を捻る私の目の前で、嬉し気に頬を染めた蜥蜴が消えてゆく。

 像が結ばれるのはほんの僅かの時間で、声は聞こえないこともある。私はそれを見逃したくなくて、夏の間はこうやってずっと泉の辺に陣取っているのだ。


 泉はとても深いが、水が澄んでいるので水底まで見通すことが出来る。蓮の細長い茎を辿れば、その根元に小さな白い卵が見える。


「おーい、スイレン。早く起きてこいよ」


 スイレンが美しく崩れてから、もう随分時が経った。一体いつまで寝ているつもりだろうか。


 ぽこんと花が咲いた。


「ずーっとずっと、一緒にいてね」


 藍色のみずちがこちらを見つめる。


「ああ」


 私は応える。


「待っている。だから早く起きてこい」


 私はいつまでも泉の蓮を見つめ続けた。




     🦎🦎🦎




 何度も夏が通り過ぎた。幾つもの蓮の花が開いて、幾つもの思い出が甦った。


 スイレン。私は、私たちは、どれ程多くの時間を共に過ごしたことだろう。どれ程心を通わせたことだろう。

 今では薄桃の花びらが開く度、私はお前の残像に話し掛ける。私自身の言葉で。

 私は何もかもを忘れてしまっていたが、記憶も思い出も消えて無くなった訳ではなかった。ちゃんと、私のなかに眠っていた。


 なあスイレン。きっとお前もまっさらになって起き出してくるのだろうな。

 私のことも忘れてしまっているだろうか。

 初めて会ったあの日のように、私に腕を伸ばしてくれるだろうか。

 もう美しくはない私のうす茶の躯にがっかりするだろうか。


 なあスイレン。たとえ全てを忘れていても構わない。私を求めなくても構わない。

 声を聞かせてくれ。日向ひなたのような笑顔を見せてくれ。

 季節は巡り、時は流れる。


 そこにお前がいないことが、こんなにも寂しい。

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