第二章プロローグ

すいりゅうさん【雨乞】

 とても渇いた夏だった。大地は涸れ、まだ固い実をつけたまま、稲穂は力なく萎れている。一体幾日雨が降らぬのか、指を折ることにも人々は疲れ果てていた。

 人々は天に祈った。どうか雨を。このままでは皆飢えて死んでしまう。

 その祈りは、もちろん私に届いた。松の木にゆったりと絡めていた身体をほどき、空高く舞い上がる。

 

 水神は、水を乞う民の為に在る者。司るべき水の為に在る者。




     🐉🐉🐉




 遥か上空。幾重にも雲が重なったその上で咆哮する。すると、私の叫びに応えるように風が吹き、雲は厚みを増して乾いた空に稲妻が走った。暗く積み上がった雲にその震えが伝わりしずくが千切れてばらばらと落ちる。私は吠えながら雲間を舞った。硬い鱗に弾かれて、ざあっと飛沫が上がる。それは雨となって地上に降り注ぎ、ひび割れた大地に黒い染みを広げた。

 地を揺さ振る咆哮と絶え間なく走る稲光に人々は恐怖し、家の戸を固く閉じている。人気のない村。その中心にある開けた場所に祭壇がしつらえてあった。かがりが焚かれていたが篠突く雨に打たれて疾うに消えている。真っ暗な祭壇には供物が捧げられている。私はそれを一瞥だけして、空を翔けた。

 既に不足している蓄えの中から無理をして集めたであろうそれを奪ったことなど一度も無い。祭壇の上で独り震える娘になど興味は無い。それでも供物は毎回捧げられる。


 私はその村に一昼夜雨を降らせ、川の流れを満たした。萎れていた草木に艶が戻り、生き生きと空に伸びる。葉に残る雨粒が、雲の間から射す日の光を受けて煌めく。

 家々の戸が開き村人が顔を出した。祭壇でぐったりしている娘に駆け寄る者もいる。彼らのおもてには喜びが満ち、感謝の祈りが雲の上まで届いた。しかしそれが私の心を揺らすことは無い。民草が嘆こうとも、歓喜しようとも、私の心には細波すら立たない。


 ずっとそうだった。

 これからも変わらずそうだと思っていた。


「すいりゅうさん、ありがとう!」


 聞こえる筈のない蜥蜴の子の声が、人々のそれに雑じって私に届いた。

 輝く笑顔が、雨後の虹に重なって見える。

 私の心がそれを受けて震え、馴染みのない充足感が胸の奥に宿る。

 その心地好さに私は瞠目した。あの子蜥蜴との出会いは私に様々なものを与えてくれた。何も持たなかった私が、今では名を持ち、心に温もりを宿している。



 私は空を翔けた。

 雲を呼び無数の氷晶を弾き飛ばすように雲間を往くと、砕けた滴がひび割れた地面に降り注ぐ。世界が潤ってゆく。しかし、潤しても潤しても雨を乞う祈りは絶えることがない。


 幾日も幾日も。数えきれないほどの村を巡った。

 輝く滴に、架かる虹に、あの笑顔を重ねた。


 早く、あの子に会いたかった。

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