第5話
可彦の目に薄い茶色のものが見える。
それが天井だと気が付くのには少し時間がかかった。
背中に柔らかい感触。すこしひんやりとした空気。ベッドの上。部屋の中。
「気が付きましたか」
聞きなれた声が可彦に耳に触れる。
「……よかった……」
続いて聞きなれない声も可彦の耳に触れた。
聞きなれた声はネフリティスのものだ。聞きなれない声は……可彦はそちらに顔を向ける。
犬?
可彦の感じた最初の印象はそれだった。
ただそこに疑問符が付くのは犬に見えたのは首から上の部分。つまり顔だけであって、身体は人間に近い。ただ丈の短いベストからのぞく腕は毛に覆われている。
顔付きは犬種に例えるならハスキー犬に近い。口の周りと目のあたりが白く、他は灰色。瞳は薄いくすんだ青。人間ではないが、その顔つきはなんとなく美人だとわかる。身体も灰色の毛皮におおわれているが胸から腹にかけては白い。声の印象は女性的だったのだが、ベストの下のさらしを巻いた胸は起伏に乏しかった。
「ええと……」
「敵だと思って射てしまったの……ごめんなさいね」
抑揚の少ない静かな声。
しかし可彦はその言葉で状況を把握した。この人物こそあの死体を作った張本人。そして可彦はあの死体たちと同じように眉間を射抜かれたのだ。
また死んで、生き返った。
「まずは名乗らせて……私の名前はミランダ。この国に雇われた傭兵」
「……ええと……」
「コボルトです」
ネフリティスが可彦の疑問を汲んで小さく付け加える。
「コボルト?」
コボルト。
可彦はその名前に聞き覚えがあった。無論ゲームや本などの敵としてだ。犬顔の亜人というイメージは、なるほどそれらで得た知識と合致していた。
「そう……コボルトを見るのは初めて?」
その言葉に可彦はうなずく。
「そうなの……」
コボルトの傭兵……ミランダは少し首をかしげる。
「……私は女よ」
その言葉に可彦はもう一度頷く。
「胸が無くて判り難いだろうけれど」
ミランダの口から付け加えられた言葉に可彦は思わず視線をそらす。
「あと胸が無いのは私個人の資質で、コボルトの資質じゃないわ」
さらに付け加えられた言葉には、なんとなく抑揚が感じられた。
「勘違いしないでね」
念を押すミランダ。頷くしかない可彦。
「それよりも……本当に大丈夫?」
「幸い眉間を掠めただけでしたので」
可彦の代わりにネフリティスが答える。どうやらそういうことになっているらしい。
「……そう……」
相変わらず抑揚の少ない声。しかしこの時はすこし低い声音。
「そういえばバルゥは?」
「彼女の代わりに見張り台に」
おそらく建物の上に見えた櫓だろう。つまりミランダはあそこから可彦の眉間を射抜いたのだ。たぶん弓だろうが、とてつもない技量なのは可彦でも理解できた。
「おや、目を覚ましたかい?」
ドアを開ける音とともに別の声が飛び込んでくる。
「やーごめんねーネフリティス嬢ちゃんがこんな時に来るとは思わなくてねー。そのおつれさんを撃っちゃうなんて。とにかく無事でよかったわ」
闊達な女性の声。可彦が顔を傾けてみれば大柄な女性の姿が飛び込んでくる。おそらくこの宿の女将さん……いや、この国の領主夫人だろう。
ネフリティスよりも背が高く、肩幅も広く、腕も太い。ただ太っているというよりガタイがいいという表現がしっくりきた。
目鼻立ちのはっきりとした顔は豪快そのものの口調と屈強な体型とは裏腹に、こういっては何だが不釣合いなほど美人で、ただ化粧などには興味がないのかくすんだ茶色の髪を後ろで無造作に束ねている。
そして肌の色は焼けた肌色。
おそらくは人間だろうと可彦は予想した。
「どうだい? 起きれそうかい?」
その言葉に可彦は上半身を起こしてみる。特に問題はない。身体が何か死ぬことに、そして生き返ることに慣れてきている気がした。
「もう大丈夫そうです」
「そうかい。そりゃ良かった。しかしそんな痩せっぽちで真昼の砂漠を歩いてくるから掠った程度で倒れちゃうんだよ」
領主夫人はそういって豪快に笑う。
「まぁ大丈夫そうなら下に降りてきな。日が高いうちはおそらく大丈夫だから、今のうちに飯にしよう。皆もおいで」
そういうと部屋を出る。可彦もベッドから降りると後に続く。ネフリティスとミランダもそれに続いた。
部屋を出るとそこは小さいながら吹き抜けになっていた。その吹き抜けを囲むようにいくつかのドアが並んでいる。部屋は上にもう一階あるようだ。ここは二階で、建物は三階建てらしい。
手すりから下を覗くと水をなみなみと湛えた大きな丸い水盤が見える。その水盤には一方から水路がつながっており、そこから絶えず水が流れ込んでいるのか、水盤のふちからは水があふれ、周りに掘られた溝に流れ落ちている。
空気がひんやりしているのは、あの水盤のおかげなのだろう。
「オアシスから引いてるのさ」
下を覗き込んでいた可彦に領主夫人が答える。
「おかげで涼しいだろ。さ、おいで」
呼びかけに応じて階段を降りていく。
そこは広間で、テーブルがいくつか置いてあり、そこのひとつにバルゥと男が座っていた。
「目ガ覚メタノカ」
バルゥはコップを傾けながらくつろいでいる。
「見張りはどうしたんです?」
「日が高いうちは来やしねぇよ」
そういったのは男のほうだ。
背は高くない。可彦よりちょっと高いぐらいだ。肩幅は広いがどちらかといえば痩せ型。しかしひ弱な印象はない。
無精ひげを生やし、白いものが混じった黒髪はうっとうしくない程度に整えてますといった感じ。ただ眼光は鋭く、精悍な顔つき。
男はこちらも手にしたコップを傾けてからテーブルに置くと、テーブルに手を添えて立ち上がる。
「俺がこの宿の……違った……この国の領主のアギルマールだ。こっちが妻のベラルダ。うちの守備隊長が迷惑をかけたな。ま、非常時だったんだ。許してくれ」
差し出される手を可彦は握った。守備隊長とはミランダのことだろう。ただ見たところ守備隊は隊長一人のようだった。
「いえ。大丈夫です」
「そりゃ良かったよ。さて、悪いが座らせてもらうよ。今日はちょっと痛むんだ」
握手を交わすと男はすぐに座った。
「俺も昔は方々旅をしていたんだが、膝に矢を受けちまってなぁ。たまにこうやって疼きやがる」
そう言って右の膝をさする。
「それまでに貯めた金とコネでここを手に入れたんだが、そろそろ潮時ってことか」
「本当、悪いときに来ちまったねぇ」
ベラルダは人数分のコップをテーブルに置くと、皆に座るよう薦める。皆がテーブルに着くと自分もアギルマールの脇の席に腰を下ろした。
「ジョサウーンが攻めてくるとはなぁ。あそこの領主とは昵懇だったんだ……弟も悪いやつじゃないんだが、計算高いからな」
「まぁ好意に甘えすぎたってことだね」
「まったくだ」
アギルマールが笑う。屈託はないがどこか寂しそうに可彦は感じた。
「そんなわけで戦争の真っ最中でな」
「だから来たんです」
ネフリティスが告げる。
「そうだったの?」
「タタードツで聞きつけて」
「だから日が高いのに歩いてきたのか、そりゃ悪いことしたなぁ」
「いえ、間に合って良かったです。何かお力になれれば……」
そこで領主夫妻は顔を見合わせ、それから笑った。
「気持ちは嬉しいよ。本当に」
「ミランダのおかげで昨日はしのいだし、これに懲りて昼間に来る心配もなくなったが、まぁ……そろそろ潮時かな」
「まだ勝負はついてないわ」
そう告げたのはミランダだった。
「今夜をしのげばおそらく停戦。そうすれば有利な条件を引き出せる」
「そうは言ってもなぁ」
アギルマールとベラルダは顔を見合わせる。
「俺たちにとっちゃ願ってもないことだが……あんたは本当にそれで良いのか?」
ミランダはアギルマールの問いかけに静かに頷いた。
「今のうちにみんなで逃げちまったほうが良くないかい? あんたのおかげで時間は稼げそうだしさ」
ベラルダの言葉にミランダは首を横に振った。
「話がよく見えないんだけど……」
可彦はネフリティスに小声で問いかける。
「相手の兵力はどのくらいなんです?」
ネフリティスは問いかける。おそらくその中で可彦の疑問に答えるつもりなのだろう。可彦も黙って答えを待つ。
「……多くてもあと五十ぐらいか」
アギルマールが告げる。
「ジョサウーンもそう多くは兵力を割けないだろうしな。ここで目が眩んで踏み誤れば自分が餌食になるのもわかってるだろう」
「今夜をしのげばって言うのは?」
「昼間はミランダの弓があるからな。狙い撃ちを恐れて夜襲を仕掛けてくるだろう」
アギルマールが可彦の疑問に答える。
「そして今夜落とせなければ、これ以上長引くのは外聞が悪くなる。一旦和平を持ち出してくるだろうな。そうなればこっちに有利な条件を引き出すことも出来る」
「外聞?」
「不文律にひとつです」
ネフリティスが答える。
「『都市国家は互いに協力し合う』との不文律があります。なので都市国家同士の戦いは禁忌です」
「それじゃなぜ?」
「手早く済ませる分には『淘汰』として黙認されるのさ」
ベラルダが後をついで答えた。
「ただどの程度が『長引いている』と見られるかはわからない。わからないけどここ大砂漠では『外聞』は重要なのさ。悪評が立てば大都市だってただじゃすまないぐらいにね。小さな国なんか砂漠に落とした水滴みたいにあっという間になくなっちまうよ」
「逆に良い評判が立てばうちみたいな小国でも何とかやっていけるってわけだ」
アギルマールはコップを掲げてから口に運ぶ。
「ジョサウーンは弟が継いだばかりで、力量を認めてもらうのに必死なんだろうな……兄貴のほうにはずいぶん世話になったし、ここを譲ってやっても構わないんだが」
しかしその声はやはりどこか寂しそうだ。
「また一からってのも悪かぁない」
「この時期に?」
アギルマールの言葉に答えたのはミランダだった。
「……身重よね?」
ミランダの視線はベラルダに注がれていた。
「本当ですか!」
ミランダの答えにネフリティスが反応する。ベラルダは優しく微笑みながら自分の腹に手を当てる。
「半分諦めてたんだけど……やっとね。生まれるのはまだまだ先だけど」
「気づいてたのか」
頭をかくアギルマール。
「それでここを出るのに躊躇したのは確かなんだが……これ以上はもうなぁ」
「ここ、綺麗よね」
ミランダは唐突に、静かに、やはり抑揚の少ない声で話し始める。
「私、ここが気に入ったの。ここにずっと居させてもらう。その約束で戦うことにしたの。忘れた?」
「しかし……」
アギルマールがミランダに視線を向けて言い淀む。
「私一人でも、やるわ」
アギルマールの言葉を遮り、ミランダは相変わらず静かに、しかしはっきりとした口調で告げる。
「それなら僕たちも手伝おうよ」
ミランダの言葉に続いたのは可彦だった。
「力を合わせれば乗り切れるよ!」
「……そうですね」
ネフリティスはミランダに目をやる。ミランダは静かに頷く。ネフリティスもそれに応えて頷く。
「元より助力するつもりで来た訳ですし……やりましょう」
ネフリティスはもう一度力強く頷く。
「ウラハ雇主ニ従ウダケダ」
バルゥは耳を上下に動かしながら、いつものようにそっけなく告げる。
一同がアギルマールを見る。一同の視線を受けたアギルマールは黙って一同を見据える。代わって口を開いたのはベラルダだった。
「ここまで言われちゃやらないわけにはいかないね。あんた」
「まったくだ」
アギルマールも大きく頷いた。
「これでも若いころは大砂漠にアギルマールありと言われた俺だ。ひとつ目にもの見せてやろうか」
「そうと決まればまずは腹ごしらえさね」
ベラルダは立ち上がる。
「とにかく食べて、力をつけないとね。今日は一晩中戦うことになるよ!」
ベラルダは笑いながら、厨房へと歩いていった。
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