第191話 蛇眼



 暗い、どこまでも暗い岩場。

 うだるような熱気のそこは、二十五年前の記憶によく似ている。

「ここは……」

 忘れたことなど一日たりともない。あの時サァリが立っていた坂とこの場所はよく似ている。

 やはり「灰」はあの坂に近しい心界を持っているのだ。

 シシュは急いで辺りを見回す。

 暗く、ほんのりと赤い世界。

 どこまでも広がるその中に、一か所だけ青白く発光している場所がある。

 遠く離れた崖の下から天にまで漏れ出す澄みきった光。

 ――見紛うはずがない。あれは、妻の放つ光だ。

 彼女が己を杭として打ちこんだ、その光。


「サァリーディ……っ!」


 名を口にする。思考が痺れる。

 己の全てが煮立ってしまうような、焦りと憧憬の混濁した激情。

 考えるより先にシシュは光の見える方へ駆け出す。

「サァリーディ…………サァリ…………」

 気ばかりが急いて、自分が本当に走れているのか分からない。

 まるで水の中を走っていくかのようだ。体が重くて本当に前に進んでいるのか分からない。

 悪夢の中のような、それでもこれは自分自身が望んでいた夢だ。

 光がほんの少し近づいた気がする。

 喉が渇いて張りつきそうだ。

 崖の終わりが見えてくる。あと少しで光の根本が見えてくる。

 あと少しで――

「駄目ですよ」

 少女の声が聞こえると同時に、光が消える。

 否、消えたのではない。見えなくなっただけだ。


 ぶ、ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶ


 耳障りな音。

 それは丸々と太った黒い虫たちの羽音だ。

 数千にのぼる虫たちがいつのまにか宙を旋回している。黒い渦となってシシュの前を遮るそれらの中心には、やせ細った黒い猿が立っていた。

 その猿は「灰」の本性だ。心界は人外の真の姿を暴き出す。

 今は猿となった少女は金属めいた声で嗤った。

「【天の理】も【地の気】もおそろしい神なので。自由にすると人のためになにません」

「……何を言っている」

「あの神々は、あそこで膠着していてもらった方がいい、ということです」

「は……」

 激発するには、シシュの抱いた感情は大きすぎた。

 彼は乾いた息を零すと、刀の柄を握る。

「もういい。そこをどけ」

「ここはわたしの心界です。わたしが死ねば消えますよ」

「退いてもらうだけだ」


 ――ゆっくりと撫でるように。

 刀を振るう。

 実際のところ視認できぬほどの速度となった斬撃は、「灰」を囲む虫群を半分以上削ぎ落とした。


 猿はそれでも、にっと笑う。

 消し飛んだと思った虫が、耳障りな音を響かせて復活する。


「な……」

 それだけではない。

 虫の数はより一層増し、気づけばシシュ自身が四方を虫の渦に囲まれている。

 何も見えない。ぶぶぶぶ、と神経に触る音がシシュを圧してくる。

 猿の笑う声だけがその中を抜けて届いた。

「死者の魂を消滅させたとしても、代わりはいくらでもいるのです。地上の戦場でとめどなく死んでいますからね」

「……そのために戦争を起こしているのか?」

「さあ、どうでしょう。どちらがいいですか?」

 笑いを含んだその声は、指摘が的を射ていた証拠だ。

 シシュは溢れ出しそうな怒りを抑えると、もう一度刀を振るう。

 青白い光が暗闇と虫たちを焼き……けれど生まれた亀裂はすぐに元へ戻った。

 それだけでなく、虫の渦はじりじりと輪を狭めてくる。姿の見えない猿が言う。

「ここは深き地底で数多の死者の居場所。【天の理】の神配たるあなたは、十全に力を振るうことも難しいでしょう」

「そんなことは理由にならない」

「試さなければ分からないから、人は死ぬのですよ」

 ぶぅん、と。

 羽音が、暴力そのものとなって迫る。



 ぶ、ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶ

 ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶ



 耳の奥へ、頭の中へ、入りこもうとする異物。

 シシュはそれでも構わず踏みこもうとして――


『無理です。ここは退きましょう』


 その声と同時に世界が切り替わる。

 虫の羽音が消え、周囲に光が戻ってきた。

 明らかな景色の転換は今までに数百回と経験した心界からの帰還だ。シシュは己を引き戻した声の主を足下に見つけると、声を荒らげた。

「何故!」

『あれは無理です。あなたの力が弱まる場所の上に、数が多すぎる』

 黒蛇の指摘は、おそらく事実だ。

 それをシシュも分かっていて、だがそれがなんだというのか。二十五年大陸を回って、ようやく掴んだ端緒だ。我が身可愛さで離すことなどありえない。

『落ち着いて。あなたが失われたら彼女が悲しみます。仕切り直しましょう』



 ――『愛してる。あなたが大事、あなただけを愛している』



 懐かしい声が脳裏に甦る。

 それは、片時も忘れたことがない彼女の最後の言葉だ。

 サァリは己の街であるアイリーデを深く愛し……そしてそれ以上に、シシュのことを愛してくれた。

 その彼女を嘆かせることはあってはならない。次の機会があるなら尚更だ。

 煮えたぎった思考がほんの少し冷える。シシュは乾いた喉を鳴らす。


 前を見ると、「灰」の少女は黒い砂となって床に溶け消えていくところだった。

 受けた攻撃が大きすぎて逃げ去ったのだろう。二つに斬ったレノスの体だけがその場に残っている。

 相手の撤退に、シシュは左手で顔を覆って大きく溜息をついた。口を開けば心無い言葉が出てしまいそうで、彼は肩を落とす。

「……すまない、かっとなった」

『いいのです。あなたが時間を稼いでくれたおかげで追跡をかけられました』

 驚いて黒蛇を見ると、蛇は尻尾の先を振って見せる。その先はいつもと違って断ち切られたように短い。

『あの「灰」の中にわたしの一部をまぎれこませています。いつでも追えますので、先に虫の対策を考えましょう』

「ありがとう……」


 いつもいつでも、周囲が助けてくれる。その厚意があったからこそここまで旅ができたことを、時に忘れそうになる。未熟の証拠だ。


 シシュは己を恥じて反省すると、着ていた外套を脱いでレノスの遺体にかけた。

 そしてようやく残された二人を見やる。

 腕を斬られた女に、子供が駆け寄ってしがみついている。子供は涙声で女の名を呼んだ。

「ごめんね、ごめんねカミナ……今治すから……」

「駄目です、蛇様……」

 制止を聞かず、子供は女の額に手を当てる。

 そこからの変化を、シシュと黒蛇は唖然として見やった。

 床に落ちている腕はそのままに、女の失われた腕が新しく生えていく。

 それと同時に五歳くらいに見えた子供の体が膨らむ。否、成長しているのだ。

 カミナと呼ばれた女は泣き出しそうな顔で子供を見つめる。

 やがて数秒を置いて彼女の腕が完全に戻った時――子供は三歳ほど成長した姿になっていた。

「これは一体……」

 シシュが思わず漏らした言葉に、子供は振り返って彼を見上げる。

 彼女の目は、美しく澄んで青い、蛇眼だった。

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