「箱庭に雨は降らない」番外編

市井一佳

日曜日の浴室

 猫足のバスタブに向かい合うかたちで入っていた。

 勿論それは足を伸ばして入れるような広さではないので、ダニエルもフィネも膝を立てている。

 ダニエルの足は、フィネの足の間に収まっていた。

 湯の表面を覆う泡が互いの裸身を隠している。皮膚の下に押し込めた、口に出せない言葉も。

 ——これが夢であることを、ダニエルは承知していた。

 あの無機質な部屋に閉じ込められるようになってから、よくフィネのことを夢に見る。

 機械人形たちを作る間には殆ど見なかったのに、どうして今になってフィネは夢に現れるのだろう。

 あるいは、ダニエルの意識が機械人形から離れたから、ようやくフィネがに出てこられるようになったのか。

「ついにきたね」

 泡を両手ですくい上げて、フィネがそこに息を吹きかける。小さなシャボン玉がいくつもダニエルの方に飛んできた。

 虹色のそれを眼前で払いのける。

「なにが?」

「ダニエルの命日」

 事もなげにフィネが答える。

 明日の天気でも伝えるような調子だった。

「……そう」

 体をより深く、バスタブに沈みこませる。

 ダニエルの足に触れているフィネのそれは、そのくせ温かいのか冷たいのか分からなかった。

「驚かないの?」

 フィネが手を伸ばして、ダニエルの膝頭に触れる。

 触れられている、とうのは見ればわかるのに、不思議とその感触はなかった。

 温度も感じ取れない。まるで幽霊の手みたいだ。

 そんなものの実在なんて、ダニエルは信じていないのだけれど。

「人間はいつか死ぬだろ」

「らしくないこと言うなあ」

 からからと笑う声が浴室にこだまする。

「じゃあ、」

「うん?」

「やっとだなって思った」

 むき出しの本音が口をついて出た。

 だってここは、ダニエルの夢の中なのだから。何を言ったって許されるはずだ。

「やっと解放されるって思った」

 きっとダニエルの死因は、テュランによるものだろう。

 想像を絶する苦痛がそこにはきっとあって、けれどそれだって永遠には続かない。

 ようやく、何もかもが終わるのだ。

「そう言うだろうと思った」

 いつの間にか底抜けに明るい笑い顔は引っ込められていて、かわりに少しだけ困ったような、おおよそフィネのものとは思えない微笑がその顔に浮かんでいた。

「でもそれはだよ」

「……駄目ってなんだよ」

 やっと死ぬことが出来るって言ったことか。

 だとしたら、フィネにそれを言われる筋合いはない。

 不満が顔に滲んでいたのか、フィネがおかしそうに笑った。

 歌うように言う。

「謝ったって、許してなんかあげない」

「なんで僕が、フィネに赦しを乞わなきゃならないんだ」

 むしろ逆だろう。フィネの方こそ、ダニエルに赦しを乞うべきだ。

 勝手にひとりで死んでいったくせに。

 言い返すも、フィネは微笑んだままだ。

 微笑んだまま、ダニエルの言葉には耳を貸さず、一方的に告げる。

「だからね。ダニエルはまだ——生きなくちゃ」



 気付けば足下には、が転がっていた。

 ——まさかこんな風に自分の体を見ることになるとは。

 思わずしゃがみ込んで、ダニエルは遺体をまじまじと見つめた。

 喉元に手をやり、苦悶の表情を浮かべるそれは、到底自分だと思えなかった。

 こんな顔ができたのか、と他人事のように思う。それに、相当苦しかったんだろうな、とも。

 その苦しみは今し方身をもって知ったはずなのに、不思議と思い出すことができなかった。

 続いてを検分する。

 半透明のそれは、目の前に手をかざしても、向こう側が見えた。

 試しに遺体の脇に転がっていたペンに手を伸ばしてみる。

 予想はしていたものの、やはりペンを拾い上げることは出来なかった。

「……これで満足か、フィネ」

 半透明の、物を持つことさえ叶わない体で、それでも生きろと言うのか。

 答えはなかった。

 そもそも、今の自分の声は人に届くのだろうか。

 そんな疑問が頭をもたげて、考えるだけ無駄だろうと頭から追い出す。

 耳が痛くなるような静寂の中で、不意に玄関の戸を開ける音が響いた。

 近づいてくる足音を聞きながら、ダニエルは目を閉じて、自分の膝に触れた温度のない掌を思い出していた。


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