第65話

 明里は、突然何が起きたのか全く理解できなかった。なぜ自分が吹っ飛ばされているのか、どうして目の前にいたクラリスから距離が離れていくのか、自分がいた場所になぜ突然ベルアが現れたのか。

 修理後の少ない時間とはいえ、戦いの最中に二人の世界に入ったことで、敵に対する感覚がその瞬間だけ鈍くなってしまっていたのだった。その間に、あまりにもタイミング悪く、その介入が成された。

 明里は勢いを付けたベルアの飛び蹴りによって、右腕にもろにダメージを受け、その勢いで吹っ飛ばされていた。

 地面に叩き付けられた明里は、尋常じゃない痛みにもがくように苦しむ。


「ぁぁ……ぐ……か……ぁ……っ……」


 悪魔のたった一撃によって、明里の右腕は酷く砕けるように骨折し、その衝撃の余波で脱臼、右腕に留まらない衝撃は肋骨まで及び、骨折及びヒビが入る。

 叫び声を上げたくても、声にならない呼気、痛いという言葉が出せず、心の中ですら一文字にもならない激痛。皮膚の下から無数の刃が突き出そうな程のそれは、一瞬でか弱い少女の心を折るには充分過ぎる物だった。


「あれ、思ったより飛ばなかったなーオイ。荷物が重てえのか? それとも本人が重いのか?」


 蹴ったボールの飛距離を確かめるように、ベルアは手を額に当てて明里が吹っ飛んだ先を見る。

 その様子は、まさに相手を玩具としか見ていないようだった。


「貴様……貴様ァ!!」


 クラリスの顔が、憎しみ一杯に歪み、ベルアを睨み付ける。

 目の前の悪鬼を反撃しようにも、右腕の動作状況では触れることすら敵わず、足を動かしても、もたつく内に潰されるのが目に見えていた。


「ハハッ、壊れた人形風情の睨み付けなんか痛くも痒くもねーな。おーこわ」


 さらに挑発的な喋りで、クラリスをひたすらに煽り、唾を吐きかける。

 今のクラリスには、ただ右腕がもっと動くことを願って唇を噛み締めるしかなかった。


(頼む! 動け! 動いてくれ私の右腕!! 目の前の外道を殺させてくれ!!)


 明里が修理してくれた右腕、どうか動いてくれと、クラリスは自らに懇願する。

 そんな願いを嘲笑うかのように、ベルアは笑いながらゆっくり回りつつ周囲を見渡す。


「もう粗方片付いたな。さーて、これからどうするか……」


 ベルアの興味はクランへと向いた。廃墟の屋上で無謀にも一対一の舌戦を挑み、ドワーフでないにも関わらずクラリスのような存在を生み出した怖いもの知らずの女博士の事が、ベルアはふと知りたくなった。


「そういやあの女の記憶を見てなかったな。面白そうだ」


 ベルアは、クラリスの右腕が少しずつ動かせるようになり始めている事にも気づかず、興味すら向けずに、ゆっくりと動けない状態のクランへと近づいた。


「無様だな、ひっくり返った亀みてえだ」


「知っているか? 幾らかの亀は自力で起き上がれるぞ」


「てめえは起き上がれねえ方だろ」


 話から反れたような舌戦で軽くぶつかりあってからすぐ、ベルアはクランの顔の目の前で見下ろすように立つ。そして立ったまま身体を曲げて、侮蔑の意味も込めて顔を近づけた。


「鬱陶しいその口も、今じゃバカにしか見えねえな」


 罵倒を一つ吐いた後、ベルアはクランの頭へと手を置いた。

 どのような過去があれば、このような体勢を築く事が出来るのか、ベルアをそれを記憶から読み取ろうと考えた。


「なるほど、そうやって人の記憶を読むのか。悪趣味な力だな」


 頭を掴まれても消えない減らず口を無視し、ベルアはクランの記憶を読み取り始めた。

 そして十秒ほどで、ベルアは手を離す。何か違和感でも覚えたかのように、ベルアは自身の右手を疑問符が浮かぶような表情で見つめる。

 この様子を、クランは見逃さない。


「どうした、何か不都合な事でもあったか?」


 クランはすかさず、ベルアに揺さ振りをかける。

 ベルアはそれを無視し、馬鹿にするような笑みで再び罵倒を投げ掛ける。


「はっ、何言ってんだ。お前の方がよっぽど悪趣味じゃねえか」


「……何がだ?」


 クランは自分の揺さ振りを無視して一方的に話を始められた事に、若干不満げな顔を表し、大人しく言葉を返す。


「とぼけんなよ。お前の過去なんだから自覚があんだろ」


「昔の事はたいして考えない主義でね」


「……チッ」


 自身の罵倒に動じる気配すら無い様子に、ベルアは分かりやすく顔を顰める。


「てめえと話してても何にも面白くねえ」


 捨て台詞を残し、ベルアは身体を捩らせて悶え苦しむ明里の方へと歩き出した。


「…………」


 クランは、一連のベルアの動作や言動から様々な可能性を考察する。

 明里やクラリスから聞いた記憶を読む力の概要、対象のほぼ全ての記憶を読み取れるらしいという物、ベルアの性格、そして右手を一度見た時の様子と、最後に吐いた『面白くない』という一言。

 これらを総合し、クランは一つの可能性に行き着いた。


「……ようやく来たか。おそらく最後で最大のチャンス」


 クランは、黙々と攻撃の準備を開始した。

 ベルアは途切れ途切れに苦しみの声を漏らす明里の目の前に立つ。

 眼前でのたうち回る姿に、ベルアは快感に満ちた笑みを浮かべる。


「よう、性懲りもなく出てきて痛い目に逢う気分はどうだ?」


「かっ……は……ぁ……ぅ……」


 嘲笑うという言葉が非常に似合う煽りを投げ掛ける。

 くしゃくしゃに苦悶の表情で顔を歪めた明里は、そんなベルアの顔を精一杯に睨み付ける。


「まだそんな元気があんのかよ。やっぱてめえはイラつくんだ……よォ!」


「あああああああぁぁぁぁ!!!」


 ズタズタになった右腕を、ベルアは爪先で蹴り飛ばす。

 この一撃に明里は耐えきれずに、とうとう苦痛の叫び声を上げた。明里は涙を零し、痛みの反動からか全てを諦めたような放心状態となる。


「初めてお前を見かけた時から嫌なモンが見えてたんだよ。お前の中から吐き気がするようなモンがな」


 ベルアは明里を蹴り転がし、頭を踏みつけ、耳によく届くように身体を屈ませ、溜め込んでいた逆恨み同然の不満を混ぜた罵倒をひたすら吐きながらぐりぐりと足を動かす。


「気に入らねえんだよ……てめえが一番弱え癖に、一番諦めてねぇ。この後に及んでまだ俺を倒す気でいやがる。弱え癖に抵抗を止めねえ。あの人形を直してまだ戦おうとしてやがる。てめえみたいな! 雑魚の癖に! 弁えねえで! 抗おうとする奴が! 俺は! 本ッ当に! 不愉快なんだよ!!!」


 頭から足を離し、再び蹴り飛ばす。

 激痛と絶望感から、ベルアの罵倒は殆ど明里の耳に届いていなかった。しかし、失意とどうにもならない無力感が胸中に渦巻き、明里は力無くなされるがままの状態になっていた。


(ああ……駄目だったんだ……私、みんなと一緒ならなんとかなるって……でも、駄目だった……足を、引っ張って……ごめんなさい、お父さん、お母さん。私、なんにもできなくて……ううん、みんなにも、あやまらなきゃ……わたしの、せいで……)


 呆然と意識が途切れそうな中で、明里はぼんやりと悔しさと無念に苛まれる。結局何も出来なかった、巻き込んだせいで酷い目に遭わせてしまった。

 風前の灯火同然の今、明里が想うのは悲しみだった。


「そうだよそれだよ。俺が見たかったのはそれなんだよ。本当に不愉快だったテメエの面が全てを諦めて絶望する瞬間。それが見たかったんだよ!」


 ベルアはとても楽しそうに高笑いを響かせる。

 そして、興味が失せたように見下ろし、足を大きく上げて踏み潰すような予備動作を取る。


「やっとスッキリしたし、あとはお前を殺すだけだ。それじゃああばよ」


(なさけないなあ……わたし……)


 ベルアの足が明里の頭を踏み抜こうとしたその時、ベルアが突如熱がるような叫び声を上げる。

 仰け反りふらつくベルアは、足を明里の頭から退け、着いた火を振り払うように身体を動かす。


「チィッ……誰だ邪魔しやがったのはァ!!」

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