第39話
研究所から逃げるように外へと出てきたクラリスと、それを後から追いかける明里とクロム。
空はオレンジ色に染まりつつも、灰色が強い不穏な雲も多く見られ、間もなく日が沈み始める事を伝えていた。
「待ってください! クラリスさん!」
人間以上の脚力を有するクラリスに明里は追い付くことはまず敵うことはない。どうにかして引き留めようと、明里は振り絞った大声で名前を呼ぶ。
それに応えたのか、クラリスは足を止め、二人に背を向けたままの状態で動かなくなった。
「はぁ……はぁ……どこに行く気だったんですか」
「…………」
立ち止まったクラリスになんとか息を切らしながら追い付いた明里と、対照的に息を切らしてはいないものの、どこか心配そうな表情が抜けないクロム。
再び走り出しても良いように、明里はクラリスの手を両手で握る。
その瞬間、明里は握ったクラリスの手に力が込められていくのを感じとる。握り拳を作りながら震えるその手からは、恐怖とも悲観とも言えない複雑な感情を覚えた。
「……明里殿は、どうして私を引き留めたのですか」
「そんなの、あんな顔したクラリスさんを放っておけるわけないじゃないですか!」
今までずっと一緒にいた者の悲しむ姿を見ていられず、どうかいなくなってほしくないという感情を込めて、明里はクラリスに必死にその想いをぶつける。
「……本当に……そう思っているのですか?」
「えっ?」
「明里殿が呼び止めたいのは、『私自身』ではなく、『機械である私』ではないのですか」
沈みきったクラリスの否定的な返しに、明里は図星ではないものの、心に深く突き刺さるものを覚える。
「っ……! そ、そんなことない! 私はどんなクラリスさんも……」
言い様のない痛みを覚えた明里は、なんとか言葉を返そうとしてもどこか詰まってしまう。
確かに明里は、機械の分解が趣味であり大好きなことの一つである。クラリスのことが気になり、ついていくきっかけになったのも、そんな珍しい機械を分解できるかもしれないというところからなのは否定しようのない事実だった。
そのような材料が揃った中で、クラリス本人ではなくクラリスという機械を見ていたと言われれば、明里は何も言うことはできない。
「だったら! どうして最初に出会った時、私をバラバラにしようとしたんだ!」
「そ、それは……」
全くもって弁解の余地も無い過去の行動を引き合いに出され、明里はその後の言葉を言い淀んでしまう。
「あの時私は何を思っていたか……いや、何も思っていなかったんだろう。見知らぬ人を守るために戦っていた。その先がバラバラにされたとあっては、それこそ……」
過去の人間でない自身の記憶を思い出す度に声色に苦しさが混じり、それでもクラリスは思いの丈を吐き出していく。
それに対して、明里は何も言い返す事はできず、黙って下を向き聞き続けるしかなかった。
その様子を心底心配そうな顔をしながら見ていたクロムが、二人の側まで近づく。
「クロム殿、初めて出会った時に言っていた『同じ仲間』というのはそういうことだったのだな」
「……うん。あたし達、たまに、機械の、パーツで、できた、仲間と、出会う。だから、クラリス、さんも、同じ、なのかな、と思って」
近づいてきたクロムを見て、最初に出会ったときに言われた事の意味を理解する。
その認識が正しかった事をクロムの言葉から改めて理解し、過去の自分がどれだけ疑問を持つことが出来ない操り人形であったかということを色濃く自覚してしまう。
顔を下に向けたクラリスはふと、刃が貫通し、隙間から内部が見えるようになっていた左手に視線が移る。その手を真っ直ぐ目の先まで動かし、じっと見つめる。
左手を上に動かしたことにより、明里達にもその傷口が見えるようになる。先程までは意識が回っていなかったこともあり、ほとんど気づくことが出来ていなかったものの、その傷が見えた瞬間に、はっきりとクラリスの身に何かが起きていた事を確信した。
「こんな傷を負っても血の一滴も流れない……まさしく人の皮を被った人形……だな」
自虐の意味を込めた一言を口走ったその瞬間、クラリスは傷口に右手の指を引っかける。指はクラリスの人工皮膚と内部機構の隙間へと滑り込み、人工皮膚がその指の分だけ膨れ上がる。
そしてその膨れ上がりを確認すると、指に力を入れて箱菓子のフィルターを取るように思いっきり剥がした。
剥がそうとするその一瞬、クラリスの左手に痛みのようの感覚が走るが、それはすぐに治まった。人間ならば度が過ぎた苦痛で叫び苦しむような行為を行っても、似せて作られた感覚を覚えるだけで平気であるという事実は、ボロボロになったクラリスの心に更なる追い討ちをかけた。
手首から先の人工皮膚が剥がされ、そこから姿を表したのは、筋肉や白い骨や出血等ではなく、金属で作られた骨格と何本かのケーブル、そして皮膚の下に隠れていたシャッターと特殊な攻撃を行うために装備されたギミックだった。
「……こんな体たらくで、偽物の涙さえ流すこともできない。そんな私が、今まで自分自身を人間だと疑わず動いていたなど、滑稽にも程がある……」
自暴自棄が入り始めた自身の行動で、クラリスはさらに自分を追い詰めていく。
その様子を、何と言えばいいのか分からない二人はただ黙って見守るしかなかった。
「…………」
しばらく露出した左手を眺めた後、人工皮膚が無くなったことにより丸聞こえになった駆動音を鳴らしながら左手を握り腕を降ろす。そして目を閉じ、二人がいる方向とは反対側へと歩き出す。
「どこに行くんですか!」
「……しばらく私を一人にしてほしい」
どこか遠い場所に行ってしまうのではないかという不安が襲い、明里は一歩踏み出してクラリスを引き止めようとする。
しかし、心の中に芽生えた自分にはクラリスを止める権利は無いのではという感情と、原因の一端を作り出してしまったであろう罪悪感から、強く踏み出せずにいた。
「でも……」
「お願いだ、どうか私に関わらないでくれ。こんな意思も無い人形と共に居ても、何の意味もない」
二人の方へと振り向いたクラリスは、今までに見せたこともなく、それまでのイメージからは絶対に見られないような儚げな表情を見せて、自分を追いかけないように促す。
その表情を見て言い知れぬ感情を覚えた明里は、数秒の沈黙の後に、真っ直ぐクラリスに視線を合わせて口を開く。
「……わかりました。でも、これだけはどうか覚えていてください。私は確かに機械であるクラリスさんが大好きです。それと同じく、私はこれまで一緒に過ごしてきたクラリスさん自身も大好きです。その時間に、嘘はありません」
「…………」
「……それと、あの時、勝手にクラリスさんをバラバラにしようとした事、本当にごめんなさい」
明里は謝罪の言葉と共に深々と頭を下げ、クラリスの意思を尊重した。
明里からの答えに、クラリスは何も言わず背を向け、その場を立ち去って行った。
明里はその時頭を下げていたため見る事は出来なかったが、クロムは、クラリスが振り返るその直前に、僅かながら口元に笑みを浮かべるのを見た。
それが何を示していたのか、どのような意味だったのかまでを想像するのは難しかったが、二人の間に入りかかっていた亀裂が大きくなるような事はないだろうと、クロムは少しだけ安心した。
* * *
クラリスと一度別れ、二人はそのまま研究所へと戻る。
二人の前に待ち受けていたのは、帰ってくるのを待っていたかのようにソファーに足を組んで座り、氷を入れたグラスにソーダを入れて飲むクランと、その側で待機するリリアとエステルだった。
「おうお帰り二人とも」
「あの、クラリス様は……」
気にも留めていないような態度と雰囲気で軽々しく迎えるクランとは対照的に、不安げな顔でリリアは姉の安否を二人に聞く。
「……クラリスさんは大丈夫です。でも、しばらく一人にしてほしいって……」
申し訳なさそうに、明里はクラリスの意思を二人に伝える。
リリアは姉が無事であったことに安心したのか、表情に若干の明るさが戻るが、クランはほとんど気にしていないような顔で、明里の報告に簡単な返事を返していた。
「なるほどなるほど。まあそれなら、しばらくは気が済むまで待つしかあるまい」
「……なんだか、淡白な反応ですね。私の家の時と違って」
「そうか? 私はこれでも心配しているぞ。まああの時は想定外の事態ではあったし、状況が状況だったからな」
どこか薄情にも感じられるクランの反応に、明里は疑問を持つ。
そのすぐ後、クランはクラリスの今の状態に対して小さい声で口に出しながら考察を始める。
「やはりあの核を使った素材を使ったからなのか……だからあんな自我が芽生えたような状態になったのか……? 明里くん、クラリスと話をした時はどんな感じだったかな?」
今クラリスに起きている現象の考察を進めるため、クランは直接対話をした明里にその時の事を難しそうな顔で質問する。
「え、ええと、そうですね」
妙な違和感を覚えながらも、明里はクラリスを追いかけた後で行われたやり取りを一通り説明した。
「……なるほど、ならば本当に本物の感情が生まれたということなのか」
「クラリスさん、ものすごく苦しそうでした」
「無理もない。もし本当にクラリスに感情や自我が芽生えたならば、今はまだ赤ん坊の状態だ。今までは私が作ったプログラムや設定、演算装置等から作られた反応だったからな。その赤ん坊とある程度成熟した設定済みの擬似人格と合わさって今回のような事になったんだろう。なにしろ、形を成さんとする不定形であるはずの未熟人格、予め作られた人格に無理やり押し込まれているんだ。そりゃ苦しいだろう」
今までの全てのクラリスの反応をキッパリとデータと計算で作られた物と言い切るクランに、明里はまるで喋る人形遊びを楽しんでいたと言われたかのように思え、どこか不愉快な引っ掛かりを感じた。
ソーダを飲み終えたクランは、ソファーから立ち上がり、両手の指を交差させて大きく背伸びを行い、調整室へと歩き出す。
「クラリスがそう言うならば、今はそっとしておくしかあるまい。私がどうにか出来る問題とも思えんしな」
「……本当にそれでいいんですか? ずっとクラリスさんが戻らないかもしれないんですよ?」
「もし戻らなくても、何れバッテリーが切れるだろうし、その時に回収すればいい。クラリスの中には発信機も搭載してあるから最後に信号が送られた場所を探せば――」
「そうじゃなくて!!」
クラリスという『人物』ではなく『物』に対してばかり意識が向いているとしか思えないクランに痺れを切らした明里は、拳を握り、苛立ちを込めた大声を閉じた空間の中に響き渡らせる。
明里の怒りに満ちた声を初めて聞いたクランは、呆気に取られた表情で目を丸くしながら明里へと視線が固定された。
「クランさんは、クラリスさんのことが心配じゃないんですか!」
「もちろん心配だとも。 しかし、これは私が介入してどうにかなる問題でもないだろう。私は精神科医でもカウンセラーでもない。機械を作り修理するのが専門分野の一つだ」
「クラリスさんを物としか見てないんですか……!」
「それはクラリスの内部にばかり興味を示していた君が言える事なのか?」
「っ……!!」
クランに痛いところを突かれた明里は、同じように自身を分解しようとした事で嘆いていたクラリスの表情と声を思いだし、声を詰まらせてしまう。
明里はそのまま黙り込み、口をつぐんで下を向いた。
口論が途切れたところで、クランは溜め息をついて再び明里達に背を向ける。
「まあともかく、今日はちゃんと休みたまえ。これ以上沈んでいたら精神が持たんぞ」
クランはポケットに手を入れ、その中から携帯を取りだして何か操作するような動作を行う。そしてその携帯をソファーの上へと放り投げ、そのまま調整室へと去っていった。
今にも泣き出しそうな表情でもやもやとした感情を残したまま、明里は早歩きでソファーへと向かい、クランの携帯が乗った側に足を乗せて倒れ込んだ。
その様子を、クロムとリリアは居たたまれない表情で見ており、エステルはクランがいなくなってからすぐに動き出し、浴槽の掃除へと向かっていった。
(どうしよう、私はどうすればいいんだろう……?)
ソファーの背もたれに身体ごと顔を向け、黒い視界を前にしながら、今自分が何が出来るか、何をするべきか、クラリスに対してどう顔を合わせればいいかを考え続けた。
今から探しに行けばクラリスを見つけて話せるかもしれないが、つい先程意思を尊重したばかりでそんな事が許されるのか。時間帯ももう既に暗い時間であり、外にはモンスターが溢れていることもあり、見つける前に殺されるのではないか。しかしそればかりを気にしてクラリスのバッテリーが切れてしまったらどうするのか。などと、明里の頭の中で、ぐるぐると思案が渦巻き交差していった。
「浴槽ノ清掃ガ完了シマシタ。ドウゾオ入リクダサイ」
エステルの無機質な声が、清掃の終わりを告げる。
エステルは一礼をした後、調整室の扉の側まで移動し、両手を前に重ねて待機状態に入った。
「ねえ、明里、さん、お風呂、入る?」
クロムが気遣い溢れる優しい声色で、寝転がった状態の明里に入浴するかどうかを聞く。
「ううん、今はいい」
明里は振り向かずに首を横に振り、後回しにする意図を伝える。
それを受け取ったクロムは、どこか寂しそうな顔で立ち上がり、一人で浴室へと向かっていった。
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