第31話 常識のない世界 後編 *
[*三人称視点]
「なんで海賊なんて、やる必要があるんだ? 普通に生活すればいいじゃないか。働いたりしてさ」
「うん、俺も最初はただの鍛冶見習いだった。色々あって海賊になったんだ」
「色々? 何があったんだ?」
エディスはほっと息をつくと、柔らかく笑った。手で髪を少し掻いて、ゆっくりと話し始める。
「じゃあ順番に話そう。俺の家族は六人でね、食べていくのが大変だったんだ。それが当たり前だし、周りもそうだったから言うほど苦ではなかったけどね」
「食べていくのも大変、って?」
「君の世界では、どれくらいご飯を食べられるの?」
突然話を振られて、怜苑はきょとんとした。彼の真意の掴めないまま、適当に返す。
「え、どれくらいって……。さっきみたいに肉だけじゃなかったな。肉以外にも野菜とか、スープとか、色々ある。それを大体1日に3回は食べているかな」
「すごいなあ。それ、俺たちの世界だったら貴族じゃないと無理だと思う」
「え?」
「俺は今海賊だから、1日3回くらいは何かを食べてる。でもさっきみたいに肉だけとか、硬いパンだけとか、君みたいに色んな種類の食べ物を毎回食べられるわけじゃない」
「うん」
「でも俺が海賊じゃなかった頃は、もっとその量は少なかった。何も食べない日もあったと思うよ」
怜苑はエディスから目を背け、曖昧に言葉を返す。
「そう、なんだ。貧しいんだな」
怜苑は何を言えばいいのか、また分からなくなった。
地球と生活水準が違う、それはなんとなく、この世界に降り立った時に気付いていた。地球ほどの文明は発達していない。魔法はあってもその力はまちまちで、街中に魔道具が溢れているわけでもないのだ。
怜苑は話を戻すことに決めて、彼の首元をもう一度見た。
「最初は平民で、そのあとルテミスになったのか?」
「そう。俺は朝起きたらルテミスになっていて、周りに不審がられた。噂が回ってきてルテミスが
「……でも、ルテミスは力が強いし、色々と助けてくれることだってあるじゃないか」
「そうだよね。でも、怖かったんだと思う。自分よりも強い力を持っている俺たちが。レオンも怖いんだろう?」
赤い髪の毛や赤い目から目を逸らしていたことに、エディスは気付いているみたいだった。赤い血のようなその色は、先程死んだ男やこの世界の生臭さを示しているような気がして怖かったのだ。
怜苑は決まり悪そうに下を向く。エディスはそのまま話を続けた。
「自分とは異質なものって、みんな嫌なんだ。きっとメアリちゃんたちも君のことをそう思ってる。なんで自分の常識を知らないんだろうってね。君はこの世界で異質なんだ。レオンが俺を怖がるように、みんなも君を怖がっている」
「そうなんだ……」
「俺は村を追い出されて、親にも捨てられた。仕事はもちろんなくなった。最初は盗賊になったよ。道を行く商人を襲って、食べ物を奪って食べた。奪ったお金で何かを買うこともあった。奪うことも買うこともあるなんて、変な話だけどね」
エディスは明るく笑った。
「途中で俺は大勢の人間に囲まれて、そいつらに捕まえられてさ、奴隷になったんだ。首にまだ跡があるんじゃないかなあ」
エディスは身を屈めて、首元を怜苑に見せた。たしかに首の周りに、赤くなった跡が少し残っている。
「俺たちの力を縛ることができる、魔道具の首輪があるんだよ。人間が発明したみたいだ。人間ってそういうの、すごいよね」
エディスは感心したように頷いている。本気でそう思っているらしく、彼の顔には怒りも悲嘆も載っていなかった。
怜苑は変な感じがした──自分を縛った首輪なのに、それを褒めるなんて、と。
「で、俺が売られていた時に、ラムズ船長に拾われたんだ。一応金を払っていたみたいだったなぁ。『このまま逃げてもいいけど、俺の船で海賊をやってもいい』って言われてさ、どうせまた捕まるだろうから、俺は海賊になることにした」
「……物を奪うのは嫌じゃないのか?」
「たしかに、俺が物を奪ったらその分必要だった人は困るのかもしれない。でも、俺が奪わなかったら、俺は死んでしまう。君たちの世界では物を奪うことはなかった?」
「た、たしかにあったけど……。でも、命はかかっていないかも、しれない」
「うん、そこが違いなのかもしれないね。俺たちは盗まないと生きていけないんだよ。悲しいことにね」
エディスはそう言ったあと、一息をついた。怜苑は辛そうだ、と思った。罪悪感を押し殺しながらも、自分のために生きる術を見つけなければいけないのだから。だが、そう思ってエディスの顔を見上げると、全くそんな感情は読み取れなかった。
エディスはそんな彼には気付かずに、優しく諭した。
「君が海賊になりたくないなら、ならなくていいと思う。船に乗らないって言っても、船長は怒ったりしないよ。でも、たしかに君は独りじゃ生きていけないんじゃないかな」
「俺は」
怜苑は下を向いて、地面を蹴った。土埃が舞い、小石が飛んでいく。辺りの暗さに紛れて、どこに落ちたかは分からなかった。
自分一人では生きていけないと、怜苑はもう分かっていた。
彼の知る物語のように、転移で特別な力を授けられたわけじゃない。魔法の力も大したことはなく、剣術ができるわけでもない。知識があって、それを使って商人になったり、恩義を買ったりすることもできない。
彼は文字通り、なんの力もなかった。生きていく術も常識もお金も──何も、なかった。
白く細い腕で、怜苑の首が絞められている気がした。叫びが潰されたような声が出た。
「海賊になるしか、ないのかよ」
「……冒険者になるっていう手はあるね。でも、そのためには力を付けなきゃいけない。剣術もそうだし、魔法もそうだ。それに鎧や剣も買わないといけないから、お金を集めないといけない」
「そのためには……」
エディスはゆっくり頷く。優しい笑みをのせながら、諭すように話した。
「真っ当に稼ぐ方法も、あるとは思うよ。居酒屋なんかの店員になればいいんだけど、でも、身よりのない君をそう簡単に入れてくれるのかな」
「バイト、なんて、ないのか」
「バイト?」
「手伝うから、お金をくれって感じでさ」
「うーん。そうだね、たぶんそれも同じなんだ。自分たちの知らない異質なモノを仲間に入れたくないんだ。いつその新しく入った店員が、自分たちの店を潰すか分からないじゃないか」
地球にいた頃、怜苑はそんなことを考えたことはなかった。
だがたしかに、この世界ではいつも危険と隣り合わせで、その店員が盗みを働く、店を焼き討ちにするということが、全く非現実的なこととは言えないのだ。家族で営んでいる店に、赤の他人を入れることはほとんどない。高級な店ならば店員を雇っているが、今度は技術やコネが必要になる。
エディスは言葉を付け足す。
「信頼を得て、いずれ働くことはできるかもしれないね」
「……でもそれなら、どうして俺のことをシャーク海賊団の仲間に入れたんだ? 俺に信頼ができたってことか?」
「それは、ほとんどリスクがないからじゃないかな」
「え?」
独りでに頷いて、エディスがにかりと笑った。ルテミスの赤髪には似合わない、爽やかな笑みだ。
「──うん。レオンはたしかにここで、信頼を築いたんだよ。君は無力で何もできないっていう信頼をね。だから、君が船を焼くことなんて想定していないし、仮に焼こうとしてもそれを止めることもできる、船長はそう思ったんじゃないかな。船長はああ見えて意外と強いからね」
「そっか、たしかにそうだよな」
「同じようにレオンが、居酒屋なんかに通いつめて、盗みを働くことなんてない、いい人間だって店主が納得してくれたら、店で働くことも許してくれるんじゃないかな。人間は人一倍警戒心が強いんだよ。人間は弱いからね」
「ルテミスのような力もないし、魔法の威力も小さいし、な」
「うん。弱い者は、余計に異質な者が怖いんだ。自分がさらに脅かされると思うと踏み出せないんじゃないかな。力があればねじ伏せられる。でも、人間は──それが無理なんだ」
人間全員が否定されたような気がして、怜苑は小さな怒りを感じた。自分が地球で生きていた頃、他人に優しくされたことが何度もある。知らない人同士でも助け合うことくらいある。
人間はそこまで非情じゃない、そんな思いが言葉になって放り出された。
「人間だってさ、中には優しい人だっているだろ?! 街で虐められている子供とか、貧乏な人を助ける人だって……!」
怒っているような怜苑を見て、エディスは柔らかく微笑んだ。彼の顔は怜苑がぶつけた言葉を包み込む。怜苑の高まっていた鼓動が、いくらか静まっていった。
「そうだね。その優しい人は、きっと強いんだ。優しくするってことは、相手を受け止めるってことじゃないかな。相手に裏切られてもいいと思えるほどの強さを、その人は持っているんだよ。強さは心の強さでもいい。でも多くは、物理的な強さと比例するんだよ」
「強さ、か……。俺の世界は……」
消え入りそうな声が、怜苑の唇から漏れた。エディスは怜苑をしかと見据え、淡々と話した。
「君の世界では、裏切られても誰かが保証してれる。酷いことが、酷いとちゃんと非難される世界なんだろ。でも俺たちの世界はそうじゃない。"運が悪かった"で済まされてしまうんだ。君の世界と同じだけの優しさを、ここで求めちゃいけないよ」
怜苑は地球のことを思い出した。
虐められる子供がいれば、一応は親や先生が助けてくれる。それが悪いことだと、誰もが知っている。感じてくれる。盗みや殺人も同じだ。辛い目にあえば皆が同情し、助けてくれる。それがおかしいことだと、世間が否定してくれる。
──でもここの世界は。
エディスのように生きるために盗みを働く者がいるように、生きるために殺す者がいる。
メアリは言っていた。「自分以外はみんな敵なんだ」と。たしかに人魚である彼女にとって、陸の人はみんな敵なんだろう。彼らを殺すことは彼女にとって正義なんだ。
この世界に絶対悪はない。怜苑からすれば殺したメアリは悪いけど、メアリからしたらそれは正義だ。生きるために行ったこと。きっとメアリの仲間の人魚たちは、彼女をよくやったと褒めるのだろう。
海賊のエディスもそうだ。怜苑や他の一般市民からすれば悪でも、彼にとってはそれが生きる術なんだ。それを奪う怜苑たちの方がむしろ悪であると言ってもいいのかもしれない────。
怜苑の世界では正義は一つだった。法律が定めたことが全ての正義で、それに反するものが異端なのだ。だが、この世界では違う。怜苑の世界では頼れていたはずの世論がない。それぞれに正義が、常識があるからだ。
だからこそ弱い人間は非情になる。常識が違うから、何が起こるか分からない。
──自分を守るのは自分の力だけ。
エディスは怜苑の肩を叩いた。いつの間にか怜苑の足が止まっていた。
「居酒屋で働くのは、俺たちの信頼を得るよりも大変だと思うよ。それでも、そっちがいいなら俺は止めない。でも、ここじゃ海賊のことを非難したって意味がないよ」
ここは海賊の街なんだから。エディスは冗談交じりに、そう呟いた。
「商人が物を売るように、俺たちは物を奪う。変に思うかもしれないけど、ただこれだけのことなんだ。悪いことかもしれないけど、これが俺たちの職なんだよ」
「うん……。正義が、違ったんだな。俺は自分の正義を押し付けようとした……。俺の常識を。でもそれはもう通じないんだな」
「そうだね。転移してきたんだから、知らなくても仕方ないよ。君の常識だって、一つの正義だろ」
「俺に、この世界の常識を教えてくれよ!」
「そうきたかあ。この世界の常識ね。もう分かってるんじゃない? そんなの、ここにはないのさ」
エディスは顔をくしゃりと歪ませた。暗い道なのに、怜苑は何故か彼の顔を眩しく思った。
エディスはしばらく黙っていた。二人の小さな足音だけが嫌に響く。たまに街灯の下を通ると、二人の影が現れ、伸び、そして消えていく。怜苑は地面を見下ろして、なんとはなしにそれを眺めていた。
何回目かの街灯の下を通った時、エディスがようやく口を開いた。
「普通って、なんだろうね」
「普通?」
「俺たちの世界では、使族によって考え方が違うんだ。常識ってさあ、考え方からくるじゃん。命が大切だとか、愛が一番とか、どこに重きを置いているかで、生き方が変わるだろ」
「そうだな。使族がたくさんいるから、常識も多いのか」
「そうなんだよ。例えばメアリちゃんはね、人間の足に酷くコンプレックスを持ってる。俺だったらそんなこと気にしないのにさ」
「そういえば、メアリは人魚なのに人間の足だよな……」
怜苑は童話の中の人魚の話を思い出した。
その話では、人魚は自ら望んで人間の足を手に入れたという。そして人間が羨ましく、太陽の光を浴びたい、踊りたい、歩きたいと思っていたという話だった。
だが、メアリはその正反対らしかった。
エディスは怜苑の言葉に深く頷く。
「レオンだって変だと思わない? レオンはさ、もしも自分が人魚の下半身になったらどうする? 嫌だって思う?」
「お、俺は……楽しむ、かなあ。人魚ってことは海で思うように泳げるわけだろ」
「そうだよね。俺もそう思うんだよ。自分と違う使族になるなんて、なかなか面白いことだってね。でもメアリちゃんは違うんだよ。人間の世界を楽しもうだなんて、これっぽっちも思ってないのさ。彼女はただ、ひたすら人魚に戻りたいと思っているよ」
「メアリがそう話したのか?」
「ハハ……あの子はそういうの、話さないんだよ。でも聞いちゃったんだ。夜中に泣いてるのをね」
エディスは笑みを作る。それでも、彼の赤い瞳に青がのっていると怜苑は気付いた。一瞬目が遠くなったように見えたが、すぐに怜苑の方へ視線が戻った。
「メアリちゃんに話したらダメだよ。そういうの、隠したい子みたいだからね。とにかくそういうことさ。使族それぞれに常識があって、だから考え方が変わるんだよ。ゆっくり色んな常識を知っていくしかない。俺だって全部も知らないよ。だから、いきなり相手の価値観を否定したらダメだ。それはジウたちにも言えることだけどね」
エディスは怜苑の頭をぽんぽんと叩いた。怜苑はやめろよ、と照れた声で手を払う。
「もう戻ろうか」
「うん」
エディスが先に怜苑に背を向けた。今まで歩いてきた道を辿っていく。怜苑より少し背の高い彼の影が、ゆっくりと伸びて行く。街灯のそばを通ったからだ。
本人よりもずっと長くなったその影を見て、怜苑はぎゅっと手を握った。
エディスと怜苑の実年齢差は、おそらく大してないだろう。だが、文字通り今を必死に生きている彼と、安全な土地でなんとはなしに生きてきた怜苑のあいだに、越えられない壁を感じた。
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