第30話 常識のない世界 前編 *

[*三人称視点]


 宿に着くと、怜苑れおんはからからに乾いた口を僅かに開けた。空っぽな声で言葉を落とした。


「俺、頭の中を整理してくる」


 そのまま店を出ようとした怜苑であったが、隣にいたメアリに腕を掴まれた。同時にキリリとした青い瞳が、彼の心臓を掴む。どくんどくんと心拍が打ち付けた。


「一人で出ていって、襲われたらどうするの? 魔法もまだろくに使えないんでしょ。体もこんなんだし」

「……体は俺だって、鍛えてある!」

「本物の殺気で襲われて、あなたは戦えるの?」


 メアリの言う通りだった。いくら筋肉があっても、先程のように男に襲われたら、足がすくんで動けなくなることは目に見えていた。怜苑も、それを十分に理解していた。

 それでも喉まで込み上がる何かを、怜苑は必死に押さえ込んだ。首をこくりと一度だけ下げる。


「エディ、一緒に行ってあげて。ジウじゃちょっと怖いんでしょ? わたしと会う前、二人に何かあったの?」

「あー。ボクたちで街を歩いていたら、奴隷をぶっている男がいたんだよ。それをみてガタガタ言うからちょっと怒っただけ」

「奴隷ね。使っている人がいるんだから、仕方ないわよね」


 奴隷は必需品と言っても過言ではない。海賊は元々身分が低い者も多く、貧しいという理由もあって、奴隷を買っている者は少ない。だが貴族となるとその数はかなり増える。

 労働力や護衛として買うこともあるし、夜伽や趣味として買う者もいる。ただ拷問されるためだけに買われた奴隷も。

 その奴隷を売りさばく商人がいて、買う人間がいる。そもそもその奴隷を売った親がいる。奴隷に関わっている者は少なくなく、この世からそれが消えたら生活が出来なくなる人もいるだろう。

 そう簡単に変わる話ではなかった。

 


 名指しされて少し戸惑っているエディス・パールは、頭を掻いて怜苑を見た。メアリに返事をする。


「俺が一緒にいくの?」

「うん、ルテミスの中で一番過激じゃないから」

「なにそれ」


 エディスは軽い調子でそう答えると、ケラケラと笑った。

 

 一人で頭を冷やしたかった怜苑は、馴染みのない者と歩くのは不満だった。だが、たしかにエディスは他よりも親しみやすい顔をしている。力の強いルテミス、のような印象が少なく、体付きもルテミスにしては細身である。

 目を引く赤目赤髪は気になるところだが、怜苑はただの護衛だと割り切って、渋々承諾した。


「レオンだっけ? 行こう」

「……おう」




 ◆◆◆




 二人は宿を出てしばらく道を歩いていた。目的もなくトルティガーの街を彷徨う。もう時分は遅く、辺りは闇に包まれている。遠すぎる月の光と、少しばかりの街灯が道を照らしているのみ。また街灯と街灯の間隔は広すぎて、大して意味を成していなかった。

 さすが海賊の街というのか、夜でも歩く人は多かった。酒を飲みながら歩く者、大声で歌を歌う者、楽器を弾いて座っている者──。怜苑れおんに絡んできた者もいた。その度にエディスが止めてくれていたので、たしかに彼がいて心強かったと怜苑は密かに思い始めていた。



 エディスは一歩下がったところで、黙って怜苑についている。今歩くのは、人通りの少ない通りだ。長い沈黙の時間にたまりかねて、怜苑はついに口を開いた。


「エディは、ルテミスなんだろ」

「レオンは他の世界から来たんだって?」

「……おう」

「さっき、メアリたちと喧嘩でもしたの? 何があったの?」


 エディスも何も話さなかったことを、かなり暇に思っていたようだ。湧き出すように言葉が紡がれている。


 怜苑はエディスに話そうか、しばらく逡巡しゅんじゅんした。エディスも地球の人間ではない。つまり話しても同じように足蹴あしげにされるだけかもしれない。だが、一人で考え続けても何も解決しなかったことも、確かだった。

 怜苑は、粘り気のある舌を動かした。 


「さっきメアリが人間に襲われたんだ。それで、その人たちを、ジウが殺した」

「それで?」


 淡々とした声で返すエディスに、思わず声を荒らげた。


「……殺すなんておかしいだろ?! 正当防衛だって、人を殺すのはいけないはずだ」


 エディスは少し首をかしげて、優しい瞳で尋ねる。


「えっとー。人間を殺すのがいけないってこと?」

「え? あ、いや……。人間だけじゃなく、他の使族しぞくもダメだと思う」

「そっか。じゃあ、クラーケンはどう思う? クラーケンも使族だよ」

「クラーケンって、イカ──あ、足がいっぱいあって、大きくて灰色で、なんか吸盤とかが付いてるやつ?」

「そうそう! よく知ってるね。それは殺していいと思う?」

「だってクラーケンは怪物だろ? そしたらいいんじゃないかな」

「でもクラーケンは使族だよ。俺たち人間と同じ、使族。魔物じゃない」

「いや……でも、ほら。知性がないだろ?」

「そうなのかな? クラーケンって、知性がないのかな」


 エディスは、本気で分からないようだった。唇を尖らせて唸っている。うーんと声を出し、首を傾げた。

 怜苑は、いつだったか「クラーケンは知性があるかもしれないが、俺たちには分からない」とラムズが言っていたことを思い出した。


「でも、クラーケンは俺たちを襲うだろ。それなら怪物だと言えるし、倒してもいいじゃないか」

「でも、メアリも襲われたよ? それに魔物はいいの? 君が食べていた肉、殺された魔物だよ。襲ったのは俺たちじゃない?」


 知らないうちに魔物の肉を食べていたことを知って、怜苑はぎょっとした。だがこの世界の全ての動物、植物は魔物らしいので、仕方ないとすぐに諦める。

 

 怜苑はエディスが言ったことを、頭の中でゆっくりと咀嚼そしゃくした。だが考えれば考えるほど、何と答えればいいのか分からない。今までの常識と突き当たる現実が滅茶苦茶に交差して、頭の中が嵐のように混乱している。


 知性がない者は殺していいということにするなら、魔物を殺すのは基本的にはいいだろう。それに魔物を殺すというのは、怜苑が地球で動物を殺して食べていたのと同じだ。生きるために、何かを食べるためには仕方のないこと。


 だがクラーケンはどうだろうか。知性があるかどうかはともかく、襲われたら殺すしかないんじゃないか。いやでも、正当防衛だと言えるくらいの攻撃で済ませればいい。殺すのは間違っている。彼らだって生きているんだから。


 メアリは? メアリは人魚だという理由だけで人間から襲われる。だがさっきの人間だって、殺すまではしなくてよかったはずだ。けれど、もしも殺さなかったら。その時は彼らはメアリを諦めないだろう。実際に彼らは追いかけてきた。

 それに、メアリの正体を知る人間を生かしたままにしておけば、メアリは一生人間に襲われ続ける羽目になる。いくらどんな命も大切だからって、メアリが苦しみ続けるのは正解なのだろうか。

 メアリだって、怜苑が食べるために魔物を殺すように、生きるために人間を殺したのではないか────。


 いくら考えても、答えは出なかった。命を大事にするべきだ、他人の命でも殺すことはしてはいけない、そんな常識がガラガラと崩れ去っていく。それでも、怜苑はそれを認めたくはなかった。



 怜苑は考えるのが嫌になって、投げやりに放った。


「俺だって分かんないよ! 俺たちの世界にはクラーケンなんていない。魔物みたいなやつと、人間しかいなかったんだ」

「人間同士で殺し合いをすることもなかったの?」

「うん、少なくとも俺の身近にはね。殺人事件はあったけど、法律で裁いて、刑務所に入れられてたよ」


 エディスは目を瞬いて、怜苑の言葉を繰り返す。


「けいむしょ?」

「えっ、刑務所もないの? 犯罪を犯した人が入れられる場所だよ。刑務所で何年か暮らすことが罰になるんだ」

「うーん、監獄のことかなあ。でも暮らすことはないよ。一時的に入れておくだけだからね」

「つまり、処刑するかしないかってだけなの?」

「そうだね。死刑か切断刑かな」


 さらっとそう返すエディスに、怜苑はごくりと唾を飲んだ。怜苑にとっては、耳慣れない言葉だった。唇から声が漏れる。


「切断刑……」


 少し態度がおかしいとは思ったが、エディスは何も聞かずに話を進める。


「あとはどんな世界だったの?」

「えっと、あとは。海賊もいなかったと思う、たぶん。そもそも身の危険を感じることなんてほとんどなかったよ。盗みだって起こらない。物を置きっぱなしにしていても、誰かが届けてくれる。殺人なんて……。事故はあったけど、死ぬのはほとんど病気のせいだ」


 少しの沈黙のあと、ぽつりとエディスは返した。


「……平和な、世界なんだね」


 エディスは夢を見るような目で、遠くを見やった。エディスの見つめる先は、街角の古い街灯だ。だが、彼はそのちっぽけな光に魅せられているような顔をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る