第27話 時間経過停止魔法 *

[*三人称視点]


「わっ!」


 メアリははっとして目を覚ました。急いで手を口元に持っていく。歯に触れると、メアリは安堵の息を漏らした。

 彼女は怖い。黒いケットシーを撫でていると、ケットシーの上にメアリの歯が落ちていって、最後、彼女の歯は全てボロボロになってなくなってしまったのだ。

 夢でよかったと、彼女は安心した。

 

 メアリはそれとなく視線を下に向ける。すると、かなりうろこの少なくなった身体が目に入った。鱗の色も変色している。


「な、な、なに……? なにこれ…?」


 メアリは身体をじっと見つめたあと、肩を震わせながら顔を上げた。全然知らない場所で眠っていたことにも気付く。



「起きたか。具合はどうだ?」


 若い男の声がする。気が動転していたからか、メアリは部屋に男がいたことに気付いていなかった。


「あの……、わたしもしかして……」

「そうだ。ラムズの電撃魔法を浴びたんだ。なんとか一命を取り留めたよ。自分はノアという。エルフだ」


 エルフのノアは、額に落ちてきた髪の毛をき上げた。切れ長の金色の眼は、少しキツそうな印象を受ける。

 彼の耳の先端は斜め上向きに伸びている。尖った長い耳と白い肌、金色の髪と瞳──それがエルフという使族しぞくに共通する特徴だ。


「わたしはどれくらい寝ていたの?」

「大したことはない。ここに着いてから一時間くらいだ」

「そう……。あなたが助けてくれたの、よね?」

「あぁ。自分とアイロスという名の人間が助けた。礼には及ばない。だがその鱗は俺たちでもどうしようもなかった」


 ノアは、すまない、と言って頭を下げた。

 

 メアリは今、銀色の浴槽の中に座っている。水は彼女の腰の辺りまで入っている。その浴槽の底に、げ落ちてしまった鱗が何枚も沈んでいた。落ちている鱗はかなり汚い見た目だ。茶色く焦げていて、欠けたり割れたりしている。

 身体にまだ付いている鱗も、全て赤黒い色に代わり、オパールのような虹色の輝きを失っていた。


 メアリは自分の身体と、沈んだ鱗を静かに見つめた。彼女の涙から、ポツポツと雫が垂れ始める。浴槽の水にそれは落ちて、小さな波紋を作った。



 ノアは何か言おうと思って、重たい口を開いた。


「……鱗は、自然治癒はしないのか?」

「……す、するわ。でもこれじゃあ、いつになるか、分からない」


 涙声をなんとか抑えながら、メアリは答えた。手で水をすくって顔を洗う。水が涙と共に頬を伝っていく。冷たい水が心を洗い流しているような気になった。

 わずかに震える声で、メアリはノアに声をかける。


「着替えるわね。それ、わたしが着るもの?」

「あぁ」


 部屋の隅の机の上に、服が置いてあった。メアリが元々着ていたものも焦げてしまったので、新しい服が用意されていたのだ。


 

 メアリは立ち上がって浴槽を出る。赤い髪の毛から雫が滴り落ちていく。それは浴槽の水の中にも落ちた。彼女はもう一度底に落ちている鱗を見る。青い瞳が海のように揺らいだ。


「鱗……捨てないとね」


 メアリは浴槽に手を入れて、鱗を集める。全ての鱗を机の上に置くと、彼女はじっとそれを見た。

 そんな彼女を見ながら、ノアはぽつりと呟いた。


「もしかしたら、戻るかもしれない」

「……え?」

「時間逆行魔法という魔法を使うんだ。落ちている鱗は、それが使えれば元の状態に戻るだろう。でも君の身体の方は分からない。その魔法は物にしか使えないんだ」

「ノアはその魔法、使えないの?」

「自分も含めて、エルフは40分前までにしか戻せない。君が運ばれてきた時には、もう間に合わなかったんだ」

「そう……」

「だが、ドラゴンなら直せるかもしれない」

「…………ドラゴン」

 

 彼女の表情は、さらに暗く沈んだ。

 ドラゴンに会って頼むなんて、ほとんど不可能と言ってもいい方法だった。

 ドラゴンは他の使族と混じり合うことはなく、孤高を貫いている。そんなドラゴンが、人魚やエルフの言うことを素直に聞くとは考えられなかった。むしろ逆上して襲われる可能性すらあった。


「とりあえずはまだ捨てないでおこう。これに包んで」


 ノアは朱色の布を取り出して、メアリに渡した。メアリは渋々頷きながら、それらを全て布の中に包んだ。



 ノアは魔法をかけて、彼女の身体についた水滴を飛ばす。髪の毛が風でふわりと舞ったかと思うと、それはもう乾いていた。


「これに着替えなさい」

「ありがとう」


 メアリは服を受け取って着替え始める。

 人間の前で裸になることが良くないのは知っていたが、エルフならば問題ないだろう。エルフと人間は違う。ぼんやりとした頭で、メアリはそんなことを考えた。だがすぐに自分の鱗のことで頭がいっぱいになる。メアリは小さく唇を噛んだ。



「他の人たちに、メアリが起きたことを伝えてくるよ。君はそこでまだ休んでいるといい」

「……そうするわ。何から何まで、ありがとう。助けてくれたことも」

「いいんだ」


 背の高いノアは、くぐるようにしてドアから部屋を出ていった。メアリは浴槽の縁に座る。こらえていた涙がどっと溢れた。





 ノアがメアリの部屋を出て廊下を歩いていると、突然走り込んできた何かにぶつかった。ゴロゴロと酒瓶が廊下を転がっていく。

 

「わあっ!」

「ヴァニラか、戻っていたのか」


 ヴァニラのピンク色の髪の毛が目に入る。彼女は背が低いため、ノアはかなり見下げないといけない。

 ヴァニラは「痛てて」と身体をさすりながら、ノアを見上げる。だがその途中で、ノアの手にある赤い布の包みを捉えた。


「あれ、ノア。それどうしたの?」

「あの子の鱗だ。焦げてしまったんだ」

「そっか、そうよの。でも、どこに持っていくの?」

「ドラゴンに会いに行けば治るかもしれないと、ラムズたちに伝えようと思って」

「えっ?!」


 ヴァニラは少し驚いて、ノアを見上げる。彼は至って真面目な顔つきで、彼女を見下ろしている。ドラゴンに頼むのが難しいことをノアが知らないはずはない。

 ノアが本気であると分かって、ヴァニラは悩む素振りをする。


「ラムズの所に持っていくなら、その鱗見せちゃダメなの」

「あぁ、たしかにそうだな。ヴァニラも一緒に行くか?」

「うん、行くの!」


 ヴァニラは転がった酒瓶を拾うと、ぐいっと酒を飲んだ。

 



 ノアとヴァニラは階段を降りた。一階では、ロゼリィ、ジウ、ラムズ、アイロス、怜苑れおんが談笑している。


「メアリが目覚めた。もう彼女は大丈夫だ」


 ノアがそう言うと、皆が──特にラムズが──はっとしてノアの方に顔を向けた。ラムズが口を開こうとしたが、その前にもう一度ノアが声を上げる。


「これはメアリの鱗だ。取れてしまったんだ。色も変わっている。ドラゴンの時間逆行魔法なら直せると思う」

「時間逆行魔法か、ふむ……」

「色が変わった?!」


 老爺ろうじいのアイロスはすぐに何のことか分かったらしく、神妙そうな顔で白いひげを撫でている。

 ラムズはそれを聞いて、少し取り乱しているようだ。ジウやロゼリィが「直る可能性がある」と必死になだめている。

 

 怜苑はアイロスと共に、ラムズたちの隣の机に座っている。彼らの様子を見ていた怜苑は、ふと思いついたように口を開いた。


「俺、時間経過停止魔法なんてのが使えるらしいんだけど、これって関係あるの?」

「自分はノアと言うんだが、君は誰だ?」

「ごめん、レオンって呼んでくれ。俺は殊人シューマなんだけど、その魔法も神力しんりょくなんだ」

「ふむ……。時間経過停止ということは、その物の時間が経過するのを止めるんじゃないかのう?」


 アイロスがしゃがれた声でノアに言う。ノアは布の包みをもって、アイロスと怜苑のいる机へ向かった。



「とりあえずその時間経過停止魔法とやらをかけた方がいいな」


 ノアがそう言って包みを開けようとすると、傍に来ていたヴァニラが止めた。ヴァニラは何とか持ち直しているらしいラムズに声をかける。


「ラムズがいるとこれひらけないから、メアリの所に行ってくるの。きっとメアリは落ち込んでいるの」

「治ったメアリを見れば、ラムズも少しは元気になるかもしれませんわね。ラムズ、一緒に行きましょう」

「……ああ」


 ラムズは低い声で返事をする。まだ彼は落ち込んでいるようだった。


 

 

 ロゼリィとラムズ、ジウの三人が2階に上がったところで、ノアは布を開いた。

 

「これだ。魔法をかけてくれ」


 ノアがそう言うと、怜苑は息を凝らすように鱗を見つめた。そしてゆっくりと口を開く。


「【時よ、の物の経過よ、停止せよ


 ── Tempro テンプロ  Hibere ヒベール 】」 


 虹色の光が鱗を包んだかと思うと、空気に溶けるようにして消えていった。鱗の見た目は全く変わっていない。怜苑は小首を傾げて、言葉を投げかけた。


「これでかかったのか?」

「かかったじゃろ。ふむ、おぬしは水の神ポシーファルが依授いじゅに関わっているかもしれんな」

「俺? なんで?」

「フォッフォ。おかしいとは思わんかね? こんなできすぎた偶然、そうそうありはしないじゃろ」

「……ほう、たしかにそうだな。ドラゴンと言っても、1ヶ月も2ヶ月も時間逆行できるとは思えない。人魚に同情した水の神ポシーファルか、なるほど」

「待って待って、俺全然分かんない」


 博識はくしきなエルフと魔導師のアイロス、二人の会話は怜苑にとっては少し高尚こうしょうすぎた。



 アイロスは話を噛み砕いてやろうと、老爺らしくゆっくりと説明を始めた。幼い容姿のヴァニラもあまり分かっていなかったようで、ぼんやり顔のまま耳を傾ける。


「時間逆行魔法というのは、時の属性を持つ使族ならば使えるとのできる魔法じゃ」

「じゃあエルフのノアも使えるってことか。いや、でもそもそも、時間逆行魔法ってなんだよ」


 怜苑は聞きなれない言葉に顔を歪めている。


「そうじゃのう……。よし、これで良いか」


 アイロスはしばらく辺りを見渡していたが、赤い布に決めたようだ。アイロスは鱗の下にあるその布を、ビリリと破った。そして布に手をかざし、呪文を唱える。


「【時よ、の物のみ逆行せよ


 ── Tempro テンプロ  Treach トリーチ 】」


 普段よりも、いくらか強い口調だった。虹色の光が布を包み、それが消えると、破れていた箇所は完璧に元通りになった。

 

「すげえ! 戻ってる! ──あ、逆行って、物だけが時間をさかのぼるのか。そういえば、爺さんは時の属性が使えるのか? 人間は本来使えないよな」

「そうじゃ。使えるようになったのは最近じゃよ。特化していない属性を使えるようにするのは、なかなか大変なのじゃ」

「そうか、俺も頑張らないとな」


 怜苑はそれを聞いて、少し頭を巡らせる。自分の野望について考えているようだ。

 アイロスはそんな怜苑を嬉しく思いながら、話を続ける。


「じゃがな、わしは15分前までしか逆行できんのじゃよ。つまり、布を破ってから15分以上経っていたら、もうわしには直すことができんということじゃ」

「エルフは40分前だ。そしてドラゴンなら、おそらく5時間ほどは逆行できるはずだ」


 話を聞いていたノアが口を挟む。 

 

 怜苑はしばらく考えていたが、突然はっとした顔をして手を叩いた。


「そうか! それで俺の時間経過停止魔法ってことか!」

「そうじゃ。お主がその魔法を使えば、魔法を使われた物はそれ以上時間が経たない。この鱗は、おそらくこのように焦げてから1時間は経っているが、そこで止まったのじゃ」

「分かったの! 鱗は時間が止まったから、あと何十年後でも、ドラゴンが魔法をかけてくれたら直すことが出来るってことなの!」

「そういうことじゃ」


 ヴァニラはツインドリルを揺らしてはしゃいでいる。お祝いなの、と言ってまた酒瓶に口をつけた。




 アイロスたちの話に一息がついた頃、メアリとラムズ、ジウ、ロゼリィが階段から降りてきた。メアリもラムズも、どうやら気持ちは復活しているようだ。

 ラムズはアイロスたちに向かって声をかけた。


「俺たちはドラゴンに会いに行く。爺さん、あんたも来てくれねえか?」

「そうじゃのう……。わしは老いぼれで迷惑をかけることもあると思うが、大丈夫かのう?」

「ああ、もちろんだ。いてくれたら心強い」

「じゃあ付いていくとするかの。わしもドラゴンには一生に一度くらい、会ってみたいわい」


 アイロスはフォッフォと笑いながら、顎をさすった。そして怜苑の方に顔を向ける。


「お主も来たらどうじゃ、レオン。仲間がいないと嘆いていたじゃろう」

「あ、あぁ……」

「仲間?」


 ラムズが眉をひそめて、怜苑の方を見やった。

 怜苑は一度頭の隅に追いやったそれを、再び思い出した。重い気持ちが彼を襲う。


「実は、俺以外にもここに転移した人がいると思うんだ。魔法陣ペンタクルには俺だけじゃなくて、他の友達も乗っていたから……」

「そいつらを探したいってことか?」

「うん、一応そのつもりだった。あと地球への帰り方も」

「お主は足もないんじゃろうし、せっかくの機会じゃ。ついて行ったほうがいいとわしは思うぞ」

「俺もそう思うから、お前はついてこい」


 ラムズは確信を持った声で言った。

 怜苑は決心したようで、力強く頷いた。たしかに何も知らないまま、一人で旅をするのは心細かったのだ。怜苑は近くにいたノアのことを思い出し、声をかける。


「ノア、君も一緒に来」

めろ!」


 アイロスが急いで怜苑の口を手で封じた。もごもごと怜苑が口を動かす。アイロスの手が離れると、怜苑は少し怒ったように話し始めた。


「な、なんだよ! 誘おうとしただけじゃないか!」

「分かってる。だがお前、『一緒に来てくれないか?』とか言って誘おうとしただろ」

「それの何が悪いんだよ……」

「エルフを誘う時はそう誘ったらダメなんだ」

「え? どういうこと?」


 怜苑はほうけた表情でラムズとノアを見比べる。

 また説明する必要があると、一同は深い溜息をついた。

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