第百五回 張賓は謀って廩丘を奪い取る

 石虎せきこは夜通し逃げる張平ちょうへいを追い、劉啓りゅうけいを擒とすると軍勢を頓丘とんきゅうに返し、ふたたび廩丘りんきゅうの包囲に戻った。

 翌日、石虎の副官を務める陳光ちんこうは命を受けて襄陽じょうように入り、劉啓を石勒の前に牽き出した。かつて劉琨りゅうこんは石勒の養母である石老夫人せきろうふじんと養子の季童きどうの身柄を返し、さらに王浚おうしゅんを討つ際にも石勒の願いを容れた。

 石勒はそれを徳としており、劉啓の縛を解くように命じると、席を与えて劉琨の起居を問う。その後、儒官に任じて襄陽に邸宅を与え、安楽に暮らせるよう計らった。


 ※


 石勒は張賓ちょうひんに問うて言う。

許昌きょしょうぎょうで兵民を安撫しても与する者は少なく、廩丘は包囲しても落ちぬ。これほど長く軍勢を駐屯させて何の勲功もなく引き下がれば、世人は哂うことであろう。右侯ゆうこう(張賓、右侯は右長史にして侯爵に封じられたことによる敬称)を煩わして廩丘の攻略に加わって欲しい。どれくらいの軍勢があれば足りようか」

「下官が自ら向かうのでしたら、精兵が五千もあれば足りましょう」

 石勒はその言に従い、張賓を廩丘を包囲する石虎の許に遣わした。


 ※


 頓丘の糧秣を焼かれた石虎は、兵の士気が下がったために元帥の張敬ちょうけい親軍しんぐん将軍の孔萇こうちょうと方策を諮っていた。

「報告によれば、劉琨の麾下より姫澹きたん楽陵がくりょう駱文鴛らくぶんえんが救援に遣わされたらしい。この二人は武勇で知られ、吾らが糧秣を欠くと知れば持久に持ち込んでくるに違いない。そうなると、糧秣が払底して軍勢を留められぬ。廩丘を捨てて軍勢をぎょうに返して援軍が退くのを待ち、再び攻めるよりない。奔走すれば兵は疲弊しする。それを突いて破るよりあるまい」

 石虎の言葉が終わる前に、斥候が戻って言う。

「張右侯が自ら五千の軍勢とともに参られました。おそらくは良策を授けて頂けましょう」

 張敬は喜び、石虎と孔萇に五千の軍勢を与えて出迎えを命じる。一同が軍勢に入ると、張賓はおもむろに言う。

「廩丘を落とすなど容易なこと、包囲を続けていれば吾が一計を案じて陥れてみせよう」

 そう言い放つと、張賓は諸将を前に言う。

「それぞれが二千の兵を率い、石季龍せききりゅう(石虎、季龍は字)は軍営左の山中に伏せ、張敬は軍営右の路傍に伏せ、孔世魯こうせいろ(孔萇、世魯は字)は軍営背後の左に伏せ、刁承眷ちょうしょうけん刁膺ちょうよう、承眷は字)は軍営背後の右に伏せよ。それらの動きは秘して覚られるな。その後、石虎の軍旗を掲げた輜重を軍営に置き、軍勢は鄴に引き上げるよう見せかけよ。劉勔りゅうべん呼延莫こえんばくは元帥張敬の軍旗を掲げて殿軍にあたれ。その際、輜重はすべて軍営に残す。兵士に命じて鬨の声を挙げさせ、晋兵の追撃を迎え撃つ構えを示せ。劉演りゅうえんは間諜を放って吾らの動静を見張っているが、吾が計略を知らぬ。おそらくは姫澹と駱文鴛に追撃を命じるであろう。攻め寄せた晋兵どもは軍営に輜重が残されているのを見れば、必ずや先に軍営を押さえた後に追撃をはじめる。晋兵が攻め込んでくれば、砲声を挙げて逃げ出せ。砲声を聞いて四方の伏兵を発すれば、晋兵は容易く打ち破れる」

 石虎が謝して言う。

「右侯は計略の中に計略を仕掛けられ、鬼神であっても知りえますまい。まして、劉演に分かろうはずもありません」

 諸将が配置に就くために退き、張賓も悠然と軍営を離れた。


 ※


 廩丘から遣わされた間諜は、石虎が撤退の準備をしていると知って劉演に報せる。その急報は姫澹と駱文鴛にも伝えられた。劉演は報告を聞いて信じず、城壁に挙がって敵の軍営を見遣る。昨日まで城下を囲んでいた石虎の軍勢はすでにない。

 劉演は田青でんせいを呼んで姫澹と駱文鴛への命令を伝える。

「石虎は将軍らが加勢に来たと知って内外より攻められることを怖れ、鄴城に軍勢を返そうとしている。明日、その後を追って追撃する。将軍らも追撃に加わって誤られぬよう」

 田青が馬を馳せて駱文鴛に伝えると、駱文鴛は懸念して言う。

「退く敵を襲うことは兵法の禁忌、戦わずして軍勢を返すとは、何らかの計略を企てていよう。劉文守りゅうぶんしゅ(劉演、文守は字)は軽率に軍勢を動かしてはならぬ。将軍は城に戻って将軍に伝えられよ。どうしても出兵されるのであれば、吾と姫澹将軍が先鋒となり、劉文守は後詰を務めて頂きたい。追撃の目的は輜重を奪ってその後軍を乱すことにある。埋伏の計略がなければ、敵は乱れて逃げ出すだろう。それに乗じて追撃すれば、後軍は容易く破れよう」

 田青は駱文鴛の許を去って劉演の許に引き返した。


 ※


 翌日早朝、石虎の軍勢は撤退を始めた。駱文鴛たちは間諜から確報を得ると、追撃するべく軍勢を発する。軍営に近づけば、遥か先に張敬の軍旗が翻り、二万ほどの軍勢が遠ざかりつつある。晋兵は勇みたって軍営に攻め寄せた。

 廩丘の城からは劉演、田青、韓弘かんこうが軍勢を率いて打って出る。軍営に残って輜重をまとめていた兵たちが、崩れるように軍営の背後に逃れる。軍営にあった副将の劉膺りゅうようは二千の軍勢を率いていたものの、抵抗もせずに逃げ出した。

 劉演たちは軍営を蹂躙して輜重を奪うべく、軍営の門を駆け抜ける。

 その時、砲声が挙がって張敬と石虎の伏兵が発する。さらに軍営の背後から孔萇と刁膺の軍勢も姿を現した。先ほど逃げ出したはずの劉膺も軍勢を返して攻め寄せてくる。

 計略と覚った姫澹と駱文鴛が叫ぶ。

「落ち着いて軍列を乱すな。死力を尽くさねば生きて出られぬと思え」

 百戦練磨の二将に率いられる晋兵たちは善戦し、一時ばかり過ぎても崩れない。そこに劉勔が率いる二萬の軍勢が攻め寄せた。さすがの二将も支えきれず、軍列は蹴散らされて潰走が始まる。


 ※


 石虎と孔萇は勝勢に乗じて逃げる晋兵を追撃する。

 劉演が廩丘の城に近づけば、張賓が城外に軍勢を並べ、叫んで言う。

「楼閣に翻る吾が軍旗が見えるか。すみやかに馬を降りて投降し、お前の伯父との誼を損なうような真似は慎むがよい」

 城を奪われた劉演は、駱文鴛とともに楽陵を指して落ち延びていった。

「劉演を逃がせば、必ずやこの城を取り返しに来る。災いの根を断つには、劉演を擒とするよりない」

 石虎はそう言うと、先頭に立って追撃に向かう。孔萇と刁膺がそれに従い、張敬は後詰として軍勢を進めた。

 四十里(約22.4km)を過ぎたところで、石虎たちは劉演に及ぼうとした。その時、前から一軍が現れて石虎の軍勢を迎え撃つ構えを見せる。それは張儒ちょうじゅが救援を求めた、段文鴦だんぶんおうの軍勢であった。

 張敬は段部の軍勢が現れたと知ると、石虎を止めて言う。

「すでに日が暮れた。右侯の命に従って廩丘に引き返さねばならぬ」

 石虎も張賓の命を無視できず、軍勢を止めた。

 姫澹は張敬と石虎の武勇は熟知している。さらに張賓が出張ってきたとあっては、廩丘を奪い返すことは容易ではない。そう考えると、軍勢を率いて西北に転じて退いた。駱文鴛も楽陵に退き、段文鴦は本拠地の幽州に引き揚げる。

 張賓と石虎は廩丘を安撫すると、刁膺に鎮守を命じて自らは許昌から鄴の間の郡縣の巡察に向かったことであった。

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