二十二章 杜弢の乱

第六十七回 司馬睿は諸賢を招集す

 この頃、華北かほくは大いに乱れてただ江東こうとうのみが安寧の中にあった。瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえい建康けんこうにあって王導おうどうとともに国家の行く末を論じ、王導が言う。

「殿下が社稷しゃしょくを憂慮されるのであれば、糧秣を集めて将兵を練り、賢人を招聘して不測の事態に備えられるよりありますまい」

「仰るとおりではあるが、そもそも孤を訪なう士人は多くない」

顧榮こえい周玘しゅうき陳敏ちんびんを平定した功績により洛陽に召されて官に任じられましたが、北方の乱れを知ると官を捨てて徐州じょしゅうに逃れたそうです。おそらく、東海王とうかいおうは十分に報いなかったのでしょう。すみやかに人を遣って彼らを慰労し、賞を与えるべきです。あわせて勲功のある将兵にも賞を分かてば、人々はみな心を帰しましょう」

 瑯琊王はその言葉に従い、人を遣って顧榮と周玘に加えて甘卓かんたく羊鑒ようかんたちに賞を下し、あわせて武官の夏文華かぶんか夏文盛かぶんせい錢廣せんこう羊奕ようえき夏文かぶん夏正かせいの官を進めた。さらに、陳敏との戦で没した将兵の子孫に職を継がせることとした。


 ※


 甘卓や顧榮は賞賜を辞して職を返上した。それを知った瑯琊王は王導らを連れて慰問するべくそれぞれの宅に赴く。しかし、多くの者たちは口実を設けて謝辞し、迎え入れる者はない。

 落胆する瑯琊王に王導が言う。

「殿下が自ら赴かれては、応対が難しいのです。まずは府にお帰り下さい。彼らとて世事に通じた者たちですから、後日、必ずや答礼するでありましょう」

 瑯琊王は事を果たさず建康の府に帰り、それより数日が過ぎた。

 甘卓、顧榮、周玘は打ち揃って金陵きんりょうに出向き、瑯琊王に恩を謝した。瑯琊王は己を空しくして彼らに接し、仕官してともに晋朝の危難を救うよう説く。

▼「金陵」は『晋書しんじょ王導傳おうどうでんに「導は曰わく、『建康は古の金陵、ふるく帝里たり。又た孫仲謀そんちゅうぼう(孫権、仲謀は字)、劉玄德りゅうげんとく劉備りゅうび、玄徳は字)は俱に王者の宅と言えり』と」との一文があり、建康の古名と解すればよい。

 甘卓と顧榮の二人は出仕を願っておらず、口を揃えて言う。

「臣らはすでに朝廷の官を半ばにして投げ出した身です。どうして軽々しく大王の官をお受けできましょうか」

 傍らの王導が言う。

「あなた方は中原の戦乱を見て職を避けられたのでしょう。瑯琊王を輔けて江東の安寧を守るのであれば、事情はまったく異なります。万一、北方で変事があった折には、大晋の国祚こくそをこの地に保たねばなりません。これもまた一代の忠義であり、固辞されるには及びますまい」

 周玘もまた、王導の言にあわせて甘卓と顧榮に出仕を勧める。ついに二人も出仕する気になったが、甘卓と顧榮はともによわい五十を超えている。任をまっとうできないことを懼れ、撫軍ぶぐん将軍であった祖逖そてき冠軍かんぐん將軍の劉遐りゅうか牙門がもん將軍の戴淵たいえん刁協ちょうきょうを推薦して言う。

▼「牙門将軍」という号は存在しない。『晋書』には「牙門將がもんしょう」という親兵を率いる将校が多く現れるため、それに相当するものと解するのがよい。

「臣らは高齢であれば重任に堪えません。これらの者たちは江東に乱を避けておりますが、才は文武を兼ねます。これらの者たちを用いれば江東の保全に憂えはございますまい」

 瑯琊王はその言を納れて自ら書状を認めると、祖逖を北中郎将ほくちゅうろうしょう豫州よしゅう刺史ししに任じ、戴淵を冠軍かんぐん鎮北ちんぼく将軍に任じ、劉遐を冠軍かんぐん平北へいほく将軍に任じ、軍勢を太山たいざんに駐屯させて北からの敵に備えた。

▼「冠軍鎮北将軍」と「冠軍平北将軍」の号は存在しない。それぞれ、「鎮北将軍」、「平北将軍」の誤りかと思われる。

▼「太山」は通常であれば兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐんを指すかと思われるが、北に過ぎる。『晋書』地理志によると「明帝は郗鑒ちかんを以て刺史と為し、廣陵こうりょうに寄居せしむ。濮陽ぼくよう濟陰さいいん高平こうへい太山たいざん等の郡を置く」という記述があり、後年に建康から長江を渡った廣陵の付近に南兗州なんえんしゅうが置かれており、このあたりを指すかと思われる。

 賀循がじゅんもまた刁協を挙げ、瑯琊王は親軍しんぐん長史ちょうしに任じた。刁協は字を玄亮げんりょうといい、渤海ぼっかいの人である。若い頃から経学に通じて博覧強記で知られ、頭脳は明敏であった。成都王せいとおう司馬穎しばえいが招聘しても応じず、世を避けて廣陵こうりょうに隠棲していたのである。

▼「親軍長史」という官職は晋代には存在しない。護衛兵の指揮官と考えるのがよい。

 その刁協はさらに庾亮ゆりょうを挙げ、瑯琊王は西曹に任じた。庾亮の字は元規げんきといい、容姿が麗しく談論に秀で、時の人は非常な期待を寄せていた。

▼「西曹」は『晋書』職官志によると司徒しとに属する。司徒の下には左右の長史が置かれ、さらに主簿しゅぼ左西曹させいそう掾屬えんぞくが一名ずつ置かれた。その下には令史れいしをはじめとする書記官が置かれているため、文書を扱う部署の長と考えればよい。

 また、庾亮は深謀遠慮に秀でて文武の才を兼ねる周訪しゅうほうを推薦した。周訪の字は士達したつといい、汝南じょなんの人である。沈毅にして知識に優れ、孫子呉子の兵法に通じている。幼い頃から戦に出て仁義に篤い人柄である。瑯琊王は周訪を招聘して揚烈ようれつ将軍に任じ、長江上流の要衝である尋陽じんようへの駐屯を命じた。

▼「揚烈将軍」は『宋書そうじょ』百官志によると、「揚烈將軍は建安けんあん中に以て公孫淵こうそんえんに假さる」とあり、魏より始まった将軍号とする。

 その一方、王導は書状を認めると、王澄おうちょう王敦おうとん陶侃とうかんに遣って言う。

「瑯琊王は賢人を敬して士人を礼遇し、公らとともに江東を保全して北漢に対峙せんとされています。宗廟そうびょう社稷しゃしょくのことを思われるならば、瑯琊王が後から江東に赴任されたからといって避けられてはなりません」

 この書状に接して陶侃は荊州けいしゅう交州こうしゅう廣州こうしゅうの軍勢とともに瑯琊王の統制に従い、糧秣を建康に送ることと決めた。

 これより江東の体制はようやく整いはじめるのである。


 ※


 祖逖もまた、周顗しゅうがい劉琨りゅうこんに大才ありと推薦し、瑯琊王は彼らをも招聘する。

 紀瞻きたん劉隗りゅうかい桓彝かんい郗鑒ちかんを推薦し、任用された劉隗と桓彝は野の遺賢を余さず推薦した。第五錡だいごき趙誘ちょうゆう劉徹りゅうてつ郭逸かくいつ華譚かたん顧颺こよう衛玠えいかい謝鯤しゃこん戴邈たいばく桓宣かんせん荀崧じゅんすう平廙へいい虞譚ぐたん王彬おうひん陶梅とうばい范逵はんき周筵しゅうえん淳于伯じゅんうはく王惇おうとん王含おうかん韓漬かんせきといった者たちが推挙され、いずれも任官された。

 江東の王府はこれより俊才が集うようになり、甘卓、顧榮、卞壷べんこ、賀循の諸人に加え、任用された者は百六人に上る。彼らを世人は百六掾ひゃくろくえんと呼ぶようになった。

▼「掾」は官名の他に「補佐役」という意味もあり、ここではそのように解するのがよい。

 この時、衛玠が上奏して言う。

「辺境を固めて賊徒の跋扈を許さず、将兵は軍律に遵って糧秣と装備は整えられ、軍船を揃えて有事に備えるのが肝要です。ついで、賢人を職に任じて政事を行い、練兵を欠かさず学問を振興する一方、遊宴のような奢侈を禁じねばなりません。それでこそ、江東を保全して華北の有事に備えることができるのです」

 瑯琊王はその言を納れてより政事に意を用いたことであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る