第六十二回 汲桑は曹樽を斬って東平城を奪う

 劉霊りゅうれいとともに漢主かんしゅ劉淵りゅうえんの命を受けた曹嶷そうぎょくは、山東に向かった。

 襄國じょうこくの境界に入って石勒せきろくと軍勢を合わせ、東平とうへい瑯琊ろうやを奪うことがその任務である。

▼「東平」は『晋書しんじょ地理志ちりし兗州えんしゅう條に東平國として記載とされており、兗州には諸郡とともに東平國があった。治所は須昌しゅしょう、黄河の南、巨野澤きょやたくの北岸一帯にあたる。兗州、南武陽なんぶようを抜けて瑯琊にいたる道がある。黄河を委粟津いぞくしんから渡ると考えると、山東を南下する際にぎょうに鎮守する苟晞こうきが進軍を阻む可能性が高く、現実的には考えにくい進軍経路である。襄國との位置関係は以下の概念図の通り。


 ◆襄國           ┏━━海

             ┏━┛

 ◆易陽   清河◆   ┃ 臨菑●

             ┃(青州)

 ◆邯鄲    平原◆ ┏┛  ◆済南

          ┏━┛  

 ●鄴(相州) ┏━┛◇   ▲泰山

      ┏━┛ 碻磝城

 頓丘◆  Z委粟津

  ┏黄河━┛   ◆東平

 ┏┛◆濮陽  ┌┐ 

━┛     ┌┘│ ● 南武陽

 ◆  巨野澤└─┘兗州  ◆

白馬             瑯琊◆  

                

 詔を受けた石勒はそれを張賓ちょうひんに示して言う。

「先に段部だんぶの軍勢を破った際にはさすがの王浚おうしゅんも軍勢を退いた。そのことから王浚は深く怨んでいよう。軽率に軍勢を動かせば、必ずや虚を衝いてこの襄國を奪おうとする。そんなことで根拠地を失うわけにはいくまい」

都督ととく(石勒、都督は官名)のお言葉の通りですが、君命に違うわけにも参りません。王飛豹おうひひょう王彌おうび、飛豹は綽名)も軍勢を平陽へいように返し、吾らは襄國を離れられません。曹都尉そうとい(曹嶷、都尉は官名)が主帥に任じられておりますから、汲民徳きゅうみんとく汲桑きゅうそう、民徳は字)を先鋒として吾が子の張雄ちょうゆうをその輔佐に任じ、趙文翰ちょうぶんかん趙染ちょうせん、文翰は字)に中軍の進退を委ねて刁膺ちょうよう呂律りょりつ逮明たいめい劉景りゅうけい孔萇こうちょう桃豹とうひょうたちを統べさせ、四万の軍勢を先行させます。後詰は吾が弟の張敬ちょうけいに進退を委ね、呉豫ごよ趙鹿ちょうろくたちとともに三万の軍勢を配すれば、総勢十万の軍勢となります。この軍勢でまずは東平を落とすのがよいでしょう」

▼「都尉」は『晋書しんじょ職官志しょっかんしに「武帝は亦た宗室、外戚を以て奉車ほうしゃ駙馬ふばの三都尉と為す」とあり、無任所の官と扱われていたらしい。『明史みんし』職官志によると、武官階に「正三品、上輕車じょうけいしゃ都尉とい 。從三品、輕車けいしゃ都尉とい 。正四品、上騎じょうき都尉とい 。從四品、都尉とい。」とあるため、高位の武官に都尉という官名が用いられていた。おそらくはこちらの理解で使われたのであろう。

 石勒は張賓の策を容れることとし、汲桑をはじめとする諸将は襄國を発して東平に軍勢を進めた。


 ※


 襄國より漢軍が発したとの情報は、斥候により東平に知らされた。

 東平の守将は、曹杯そうはい曹樽そうそんといい、曹操そうそうに仕えた曹仁そうじんの孫にあたる。漢軍の進攻を知ると、僚佐を集めて方針を諮った。

▼曹仁の子は曹泰そうたい曹楷そうかい曹範そうはんの三子、孫は曹泰の子の曹初そうしょの名が伝わっている。

 曹樽が言う。

「この東平は苟青州こうせいしゅう苟晞こうき、青州は官名)の管轄下にある。すぐさま文書を認めて報せよ。また、軍勢を整えて州境に布陣し、漢賊どもが百姓を騒がせぬようにせよ」

 曹杯は裨将ひしょう何深かしんに城の守りを委ねると、曹樽とともに一万の軍勢を率いて州境に軍営を置く。

▼「裨将」は副将の意、この場合は何深が曹杯と曹樽の副官に近い立場であったと考えればよい。

 汲桑は東平に備えがあると知ると軍勢を止め、後に続く曹嶷と張雄の到着を待った。二人が到着すると、進退を定めるべく軍議を開き、その席で張雄が言う。

「東平の軍勢は一万に過ぎず、曹杯と曹樽の兄弟が州境に布陣して吾らを拒もうとしております。必ずや、城の防備は手薄になっておりましょう。曹都尉(曹嶷)と孔都護こうとご(孔萇、都護は官名)が二万の軍勢を率いて城と陣の間を断ち、汲民徳と呂正音りょせいおん(呂律、正音は字)、刁膺が陣に正対するのがよいでしょう。吾と趙文翰(趙染)が両翼となって臨機に応じれば、一戦に曹杯を破って東平を陥れられましょう」

▼「都護」は『晋書』職官志によると、「驃騎ひょうき車騎しゃきえい將軍、伏波ふくは撫軍ぶぐん都護とご鎮軍ちんぐん中軍ちゅうぐん四征しせい四鎮しちん龍驤りゅうじょう典軍てんぐん上軍じょうぐん輔國ほこく等の大將軍、左右さゆう光祿こうろく光祿こうろく三大夫さんたいふの府を開く者は皆な位を公に從うとなす」とあり、将軍号として都護将軍が存在したと分かる。ただし、武帝紀ぶていき泰始たいし三年(二六七)條には、「秋八月、都護將軍をまかりて其の五署を以て光祿勳こうろくくんかえせり」という記事があり、将軍号を廃して任命されていた者を光祿勳に遷したと見られる。光祿勳は武賁ぶほん中郎將ちゅうろうじょう羽林郎將うりんろうしょうなど宮城の警護にあたる官や東園匠とうえんしょう華林園かりんえんの管理にあたる官を統括する。よって、都護将軍も宮城の警備にあたる官の一つと考えられる。

 曹嶷はその策を容れて軍勢を分かつ。孔萇と桃豹の二将が二万の軍勢とともに東平に直行し、汲桑は曹杯の陣に戦を挑む。曹樽はそれを見ると、軍勢を率いて陣を布き、汲桑が率いる漢兵に相対した。

 漢将の張敬が中央に馬を立て、その左には趙染、右には張雄が並ぶ。鎧兜を着込んだ汲桑はさらにその前にあり、開山かいざん大斧たいふと呼ばれる大斧を地に突いて陣頭に立つ。その姿は金甲で飾った門神のようであった。

▼「門神」は邪気の侵入を防ぐ神。古くは桃の枝のような魔よけを門に挿したが、唐代から後は尉遅うつち敬徳けいとく秦叔寶しんしゅくほうのような武人の絵姿を貼るようになった。これを門神と言う。文中の「門神」は唐代以降の習俗に従うものと解され、厳しい武人姿であったと理解すればよい。


 ※


 汲桑が叫んで言う。

牧馬帥ぼくばすい見参けんざんである。吾に敵うという者があれば、馬を出して来るがよい」

▼「牧馬帥」とは、汲桑が蜀漢では趙統ちょうとう趙雲ちょううんの子、趙染や趙概の父)の征西府で軍馬の管理を委ねられていたことによる自称と解するのがよい。

 その言葉に応じて晋の陣に砲声が響き、金鼓が一斉に鳴らされる。雷鳴のような音の中で晋陣の軍旗が披いた。馬を進めた曹杯が陣頭に立ち、長鎗で張雄を指して言う。

「お前たちは胡人の中でも獣と同じく礼法を守らぬ。無闇に吾が境を侵すとは、死に場所を探しているとでも言うつもりか」

 張雄が応じて言い返す。

「お前は何様であればそのような大言を吐くのか」

「吾は大魏だいぎ金枝きんしに連なる曹杯である。お前は吾を知っているか」

▼「金枝」とは高貴な血筋を言う。

「それならば、お前は魏の宗室、今や晋は曹氏の国ではあるまい。一族の恨みを忘れて仇に仕えるとは、父祖の名を辱めることに他ならぬ。吾が身を顧みてじるところはないか。『怨みをかくして仇を友とする行いは、左丘明さきゅうめいの深く恥とするところである』という言葉を聞いたことはないか。ましてや、帝位を簒奪さんだつした逆臣に仕えるなど、言うにも及ばぬ。一朝の栄爵を求めて逆臣に甘んじて使われるつもりか」

▼「左丘明」は、『史記しき』によると魯国の歴史書である『春秋しゅんじゅう』に注して『左氏さし春秋しゅんじゅう』を著した人物とされる。『左氏春秋』が現行している『春秋しゅんじゅう左氏傳さしでん』と同一であるかは不明。この一文は『論語ろんご公冶長こうやちょう篇からの引用、怨みを隠して人と親しくする行いは左丘明が愧じるところであり、それは孔子も同じく愧じるところとする、という文による。すなわち、仇敵に仕えるなど許されないという同族優先の価値観を示す語と解すればよい。

「小僧っ子めが妄言を抜かすな。すぐに生きながら擒としてその身を微塵に砕いてくれる。それでもお前の罪は償い切れぬぞ」

 曹杯は怒って叫ぶと、長鎗を振るって漢の陣前を斬り抜ける、それに応じて張敬が馬を出そうとしたところ、すでに張雄が馬を拍って陣前に出ていた。

「叔父上がたはしばらく控えておられよ。この甥めが父祖の仇めを生きながら擒といたします」

▼「張雄」は張賓の子であり、張敬にとっては甥にあたる。この言は張敬に述べられたと解するのがよい。

 曹杯は向かってくる張雄が年若いと見て意に介さない。しかし、五十合を過ぎて張雄の鎗先はいよいよ鋭く、戦意はいや増すばかり。晋漢両陣の兵士たちは喚声を挙げて軍威を張る。


 ※


 曹樽は戦が続くのを見ると苛立ち、ついに叫んで言う。

「兄上は大将の身、このような豎子じゅしに手こずってはいられませんぞ」

 言うや否や、張雄を挟み撃ちにするべく馬を拍って戦場に向かった。それを見た汲桑が目を怒らせて叫ぶ。

「吾は先鋒の身でありながら、此処に留まってまだ一戦もしておらぬというのに、賊めが抜け駆けをするか」

 汲桑は大斧を振るって走り出し、それを見た曹樽は馬を返して汲桑に向かう。長鎗を退いた曹樽は、駆けつける汲桑の胸を狙って鎗を突く。汲桑は体を開いてその鎗先を楽々と交わすと、大斧を振るって曹樽の馬頭を斬り落とした。

 馬とともに曹樽は地に倒れ、ふたたび大斧を振りかぶった汲桑はその頭蓋を狙って振り下ろす。曹樽は避けることもならず、一斧を受けて戦場に露と落ちた。曹杯は弟が殺されたと見ると、馬頭を返して東平を指して逃げ奔る。

 張敬は兵を差し招いて一斉に進み、逃げる晋兵を追い討ちに討つ。晋兵が逃げ奔ること二十里(約11.2km)を過ぎたところ、まさに日が落ちようとする。夜陰に乗じて逃れようと晋兵たちが企てるところ、一斉に砲声が挙がって三人の猛将が東平に向かう途上に姿を現した。

 曹杯は陣を破って逃れようとするものの、曹嶷と夔安が大斧を振るって進むを許さない。ついに諦めて他の道に逃れ去る。漢兵たちは二軍に分かれて晋兵の後をさらに追い、五千にも及ぶ人馬を討ち取った。

 曹杯は漢兵に追われて東平を捨てて逃れ去った。曹嶷が軍勢を収めたところ、曹杯は間道から瑯琊ろうやに逃げ込んだという。

▼原文では曹杯は東平を捨てて洛陽に逃れようとしたとするが、後文では瑯琊に逃げ込んだとする。「洛陽」は「瑯琊」の誤りと見て省いた。


 ※


 張敬が追いついたとき、孔萇がちょうど軍勢を返そうとしていた。曹嶷と夔安が曹杯を阻んで東平の城に入れず、二十里も追って軍勢を返したと聞くと、張敬はその場に軍勢を止めて張雄を呼び寄せ、軍議を開くこととした。

 到着して事情を聞いた張雄が言う。

「すでにこのような事態であれば、東平の城を囲んで陥れるのが上策です。城に入れば苟晞の援軍もにわかに手を出せますまい」

 ついに軍勢を四つに分けて東に向かい、東平の城に攻め寄せた。守将の何深はちょうど西門を巡検していたところ、桃豹が投げた標槍ひょうそうを左目に受けてあえなく討ち取られた。

▼「標槍」は投げ槍の一種と考えればよい。通常の鎗とは異なり、投げつけて敵を攻撃する。

 曹杯の子の曹炳そうへいが慌てて防ぎに出たものの、何深の戦死により兵士たちはすでに混乱していた。そこに汲桑と夔安が斧を振るって城門を斬り開く。すぐさま漢兵が潮のように攻め入り、孔萇は付近の建物に火を放って混乱に拍車をかけた。

 すでに一更(午後八時)にもなろうかという時刻であり、城内の民は逃げようにも隙間なく包囲されて逃げ道がない。

 守兵を指揮して抵抗していた曹炳はついに私邸に逃げ戻り、張敬と張雄は兵士に消火を命じて延焼を抑える。漢軍はすべての城門とそれにつづく路の封鎖を終えた。

 曹嶷はそもそも曹爽そうそうの一族に連なる身で曹杯や曹炳とは同族の間柄、投降させるべく兵士を率いてその私邸に向かった。到着した頃には、すでに汲桑が討ち入って老若男女を問わず殺戮をほしいままにしており、生き残る者は一人もなかった。

「汲桑の野郎、先鋒の任を受けたってのに仁義を施しもしねえで、好き勝手に罪もねえ人間を殺しまくりやがった。善い死に方ができると思わねえ方がいいだろうぜ」

 そう嘆息すると、曹嶷は曹杯の一族の屍を手厚く葬ったことであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る