その8:宿縁~あるいは出逢う前から出逢っていたのか・日本に総合格闘技の礎を築いた覆面レスラー

  八、宿縁



 己以外の誰かに打ち明けられないまま身のうちで膨らみ切った焦燥というものはどれだけ汗を掻いても鎮めることができない。何事にも無感情なキリサメ・アマカザリは心の波紋を抑えるすべに不慣れであり、振り払いたかった胸中のもやは余計に濃さを増してしまった。

 故郷ペルーでは残酷とたとえても良いほど

 死神スーパイと化すようなくらい感情に衝き動かされることも、標的の血を浴びない限りは決して晴れない敵愾心に身を委ねることも少なくなかったのだが、それが日本では――否、己を取り巻く状況には全く通じないのである。

 日本ここが法治国家という意味ではない。胸中に垂れ込め、魂まで蝕むドス黒いもやを一振りで薙ぎ払ってきた中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティル――『聖剣エクセルシス』が現在いまは手元にない。それが何よりの証左であろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』第一三回興行の開催地である岩手県奥州市の街並みは長野県長野市松代町と良く似た趣であった。どちらも城下町として栄えた土地であり、名君による治世を風情という形で留めているわけだ。

 〝北のどくがんりゅう〟と畏敬された伊達だてまさむねと同じように戦国乱世を生き抜き、くにしゅう――いわゆる小領主である――から大名へと立身したさな家が明治維新まで治めた松代町は八雲岳が忍術を極めた修行地であった。

 松代町はキリサメにとって人生に関わる決断を下した場所でもあるが、今はその経緯ことを想い出すだけの余裕ゆとりすらなかった。足を止めて周辺まわりの風景を眺めてみれば総合格闘技MMAに挑戦しようと考えた原点に立ち返り、鎖の如く纏わり付く迷いまで振り切ることができたかも知れない。

 夜の神社で見つめ合った顔や相手の丸メガネに映り込んだ己の表情は言うに及ばず、柔らかな唇から心の奥底までつたった愛しい温もりも甦ったはずである――が、そもそも思考あたまの働きが冷静さを保っていたのなら闇雲としか表しようのないランニングへ繰り出すこともなかったのだ。

 雪止め金具が取り付けられた屋根もまた松代町と共通しているのだが、それすらも脳が認識できないくらい動揺が続いていた。つまるところ、気持ちを入れ替えられないまま無意味に体力を浪費つかっているような情況なのである。

 数分に一度という間隔で武家屋敷の一部であったとおぼしき堅牢な門に行き当たる地区を西に抜け、来年――二〇一五年から架け替え工事が始まるというばしの歩道からきたかみがわに目を転じるキリサメであったが、それすらも無意識の行動である。

 奥州市は東にきたかみさん、西におうさんみゃくをそれぞれ仰ぐ広大な盆地に位置している。その中央を流れるのがきたかみがわであり、ばしから遠くに一望できる風景は日本地図に描画されたきたかみぼんを天然の美として地上に映している。

 東北の山々にいだかれた清らかな水の音へ耳を傾けるさら・バロッサは「も旅の醍醐味よね。都心暮らしで疲れた心も洗われるわ」と感嘆の溜め息を洩らしたが、キリサメのほうは比喩でなく本当に左から右へと受け流している。一級河川であることを示す大きな標識すら見落とす有り様であった。

 もはや、当てもなく彷徨さまよっているような状態である。あらかじめ調べておいた奥州市の地図を脳内あたまのなかへ完全に記憶インプットしているというおおとりさと――希更の現場マネージャーによる道案内がなければ、あるいは奥州警察署へ捜索願を提出する事態に陥ったかも知れない。

 ばしを渡り切り、希更が左右の人差し指で示したきたかみがわの土手沿いを走るキリサメの動作うごきはすれ違う人々が思わず振り返ってしまうほど珍妙であった。

 陸上競技の経験もないので徒競走の姿勢フォームでないことは当然であるが、それを差し引いてもどうしようもなく不格好なのだ。「不自然」と表すほうが正確に近い。同じ側の手足を前方に突き出す瞬間もあり、「ナンバの練習かい? この時代にその走り方をしてたら古武術研究家が泣いて喜ぶよ」ととらすけから鼻で笑われてしまった。

 キリサメの身辺警護ボディーガードが述べた〝ナンバ〟とは同じ側の手足――即ち、半身を同時に動かして歩行するという日本の古い所作である。

 と同様の身のこなしでもって運動時の負荷軽減を試みる『ナンバ走り』はマラソン競技でも有効とされている。肉体からだを捻る動作を最小限に留めることで体力の消耗も抑えるというこの技法は江戸時代の輸送業を担い、遠方の届け先まで駆け抜けたきゃくの走り方にも通じるそうだが、それをキリサメが知っているわけがなかった。

 対する寅之助は秋葉原の町を駆け巡ったときと同様に左右の足を一定の速度で動かしつつも腰から上は垂直の姿勢を保ったままである。芯となる棒を背中に通しているのではないかと錯覚する身のこなしであった。

 森寅雄タイガー・モリの系譜を現代に受け継ぐ剣士は一定の〝型〟に当て嵌めた所作うごきが四肢の隅々まで行き届いている様子であり、る意味にいては様式美の領域である。

 姿勢を真っ直ぐに伸ばし続けるさま異郷ペルーでギャング団から包囲された際に八雲岳が披露した走法にも近似している。忍術の奥義を極めたプロレスラーも頭上から糸で引っ張られたように上半身は殆ど揺らしていなかったのだ。

 傍目には上半身と下半身が別々の意思を持っているように見えるほど特徴的な所作うごきであるが、身辺警護ボディーガードと養父の共通点にも現在いまのキリサメは全く気付いていない。

 希更のほうは陸上選手と見紛うほど美しい姿勢フォームで対の手足を交互に振り上げている。勢いよく蹴り出す足はジャージのズボン越しでも判るほどしなやかであり、彼女のファンであったなら野を駆ける鹿の如き姿に見惚れることであろうが、キリサメの耳は風を切る音さえ拾っていない様子である。


「……心ここにあらず――とお見受けしますが、今からその調子では明日の試合が思いやられますね。ここ最近、成績の振るわない城渡さんには願ってもいないチャンスといったところでしょうか? いえ、あの人の性格上、最善ベストの状態を整えることもできなかった腑抜け相手には激怒しますか。いずれにせよ、ご愁傷様です」

「まァた大鳥さんのお小言が始まったし! 別に少しくらい緊張したって良いでしょ。キリキリの場合、格闘技の試合そのものが初めてなんですからっ」

「個々人の抱えた事情は何の言い訳にもならないと、バロッサさんなら他の誰よりもお分かりになるのでは? 特にお父上は自他に甘えを許さない厳格な方でしたよね?」

「こっちが言い返せないよう一個ずつ丁寧に潰してきますよねぇ。……ていうか、うちのお父さん、見た目に反して中身は結構、ユルめなんですけどね~」


 キリサメ本人に成り代わって反論する希更であったが、奇天烈な走り方は大鳥の指摘をそのまま映したものであり、寅之助が重ねた「メンタルの準備なんて、そんな高度なコトをサメちゃんに期待するのがそもそも間違いじゃん」という皮肉も痛烈ながら間違ってはいなかった。


「サメちゃんのトコは――『八雲道場』の皆サマはのサポートはぶっちゃけ絶望的だもん。一番身近なあのコはただ距離が近いだけで色々ポンコツだし、お養父とうさんは言わずもがなでしょ。ちなみに餅みたいな人は最近、『八雲道場』と微妙な距離感あるから余計にムリだったよ」


 餅みたいな人――むぎいずみもんと『八雲道場』の間に穏やかならざる空気が垂れ込めた一番の原因は寅之助が引き起こした秋葉原の一件である。それが脳内あたまから抜け落ちてしまったかのような放言であった。

 〝げきけんこうぎょう〟という名の不祥事が終息した直後であるが、希更の代理という形でに関わった大鳥聡起は『天叢雲アメノムラクモ』主催企業の一員として麦泉がキリサメを叱責する一部始終を間近で見届けている。

 それだけに無責任極まりない言行は看過できず、本来ならばキリサメなど助ける義理もないと心の中で悪態をきつつ寅之助に冷ややかな目を向ける大鳥であったが、効果など望むべくもあるまい。

 め付けられただけで己の過ちを悟るような性情であったなら、そもそも今し方のようなことを口走るはずもないのだ。


「そこまでボロクソ言うならキミがフォローしてあげなきゃでしょ。キリキリのメンタルを守るのだって仕事のうちじゃん」

「ボクの仕事バイトはあくまでも身のまわりの警護だよ? そこまで面倒見るっていうのは違うでしょ。まあ、メンタルの逞しさっていうか、思い切りの良い図太さはサトさんを観察してれば勉強できそうだよね。これだけ面の皮が厚かったら人生、イージーだもん、絶対」

「……自分が何か?」

「バロッサさんに手鏡を借りたらどう? 次にカーブミラーと出くわしたら、それを〝姿見〟の代用かわりにしたほうが手っ取り早いかな」


 大鳥の風貌を「頑強な精神の証左」として寅之助が揶揄した瞬間、希更は腹筋が引き攣りそうになった。

 生真面目という言葉が人間の形を取っているかのような大鳥だが、その出で立ちはすこぶる珍妙である。へ同道しているというのに運動には全く不向きな背広を着込んでいるのだ。

 改めてつまびらかとするまでもなく背広は身体に張り付き易く、高まった体温も逃げないまま留まり続ける。首都圏に比べて初夏を遠く感じるような風が吹き付ける東北でも大鳥のワイシャツは少量とは言い難い汗を吸い込んでいた。

 背広これを指差して笑う寅之助は紺色のけんどうに身を包んでおり、ジャージ姿で走るキリサメや希更と並んでも〝稽古の装い〟ということで違和感は少ない。そこに頭頂から爪先に至るまでビジネスパーソンとしか思えない男が加わった瞬間、不自然な一団と化してしまうのだった。

 つまるところ、大鳥は己の風貌を省みずに平静とは言い難い様子のキリサメを冷たく扱き下ろしたのだ。寅之助との間に穏やかならざる空気が垂れ込めている希更も今し方の皮肉には喉を鳴らして笑い、「コンパクトを貸しても構いませんけど、痛いトコ突かれた仏頂面と睨めっこするだけかもね」と自身のマネージャーを横目で覗きながら頷き返した。

 たった一人の影響で不揃いな印象となった四人が群れている状態なのだ。一挙手一投足が不自然なキリサメや大鳥の装いは言うに及ばず、寅之助のけんどうも目を引かないわけではない。相対的に希更は他の三人に埋もれ、変装の効果も相俟ってなつめ色の頭髪かみ以外は全く目立たなくなっている。

 計算に基づいて仕組んだことではないだろうが、八雲未稲のような丸メガネを掛け、長い髪を後ろで大きな三つ編みに束ねた女性のことを誰も希更・バロッサとは認識できない状況は現場マネージャーとして最も望ましい筋運びに違いない。

 土手から住宅地へ移り、更に西へと抜けたキリサメたちの周囲まわりには田植えを済ませて間もない水田が広がっている。川向こうの地区ではあるが、色が異なる稲を植え分けて田圃に大きな絵を描くという趣向が有名であった。

 高い場所――奥州市はものやぐらを設置している――から眺めて楽しむという一種の観光名所であり、第七回を数える今年は江戸時代を代表する浮世絵師――葛飾かつしかほくさいが描いた富嶽三十六景の一枚『神奈川沖浪裏』を田圃という巨大なキャンバスに再現していた。

 四人の鼻孔はなに瑞々しい香りを運ぶ水田にはそういった趣向はない。水が張られた田圃は鏡のように青空と白い雲を映しており、鼓膜に染み入る音色を奏でた若い稲は風に揺られるさまを見つめている間に気が抜けてしまうほど長閑である。

 牧歌的な風景であったればこそ不揃いな一団には悪目立ちという表現が最も似つかわしく思えるのだった。

 しかも、その内の一人――ぎこちない走り方のキリサメ・アマカザリは周囲まわりの状況など一つとして拾ってはいない。瞳を優しく楽しませる田園風景さえ心をすり抜けていく有り様なのだ。

 田圃の水鏡が映した双眸は普段と同じように瞼が半ばまで閉ざされているのだが、その奥からは空虚の二字が零れ出していた。都会コンクリートジャングルの喧騒から離れた静寂なる風情へ意識を溶け込ませる余裕ゆとりがないことも明らかであった。


「――アマカザリも俺も、これからリングの上でをやるワケさ。対戦相手が何を秘めて自分の前に立っているのか、どんな思いを拳に握り込んでいるのか。その心にまで触れることができるんだぜ? これってさ、他のどんなスポーツにも真似できねぇ格闘技だけの醍醐味じゃん」


 堂々巡りの如く脳裏に浮かび続けるのは前日の夜に別れたきょういししゃもんの顔であり、初めて出会った日――井の頭恩賜公園で掛けられた言葉である。

 その沙門から教わった東日本大震災発生直後の会合――『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げに至る議論の内容も絶え間なく蘇ってくるのだ。

 東北と首都圏で場所こそ違えども同じ日にプロデビューを迎える沙門は自分たち二人を何一つ違う部分がない存在のように熱弁した。総合格闘技と打撃系立ち技格闘技という競技団体の差異すらも彼にとっては些末なことである。

 だが、空手道場『くうかん』の組織改革へ一生を捧げても構わないと断言できる沙門と同じように熱量の高い志を持てるとはキリサメには思えなかった。ましてや三年前の会合に集った偉大な先人たちと肩を並べられるはずもない。

 〝円卓の騎士〟ともたとえるべき岳の同志たちに対しては気後れを感じることさえ身の程知らずの傲慢であろう。自身が属する『天叢雲アメノムラクモ』とは緊張状態にあるMMA日本協会の理事たちにもキリサメは尊敬の念を抱いているのだ


「貴方のお父上から――八雲岳という男から目を離さないことね」

「災いの種子という前言は撤回しよう。アマカザリくんこそ黙示録を刻むもの。やがては風となって『天叢雲アメノムラクモ』を覆い尽くす。……その真っ白な風は黙示の意味も知らないまま己が起つ土壌に汚染を振り撒くだろう。裏切り者から毒の種を握らされたことも知らずに」


 アメリカ最大のMMA団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の代表を務めるイズリアル・モニワの助言と、『天叢雲アメノムラクモ』の先輩選手であるほんあいぜんの問い掛けがに混ざり合い、キリサメの意識を更に掻き乱していく。


「……よろしいですか? ほんの些細なことであろうとも犯罪と見なされる行為に加担することは絶対に有り得ません。万が一、所属声優が巻き込まれる可能性があるなら、我々は全力を尽くして守ります。あらゆる手段を放棄しないということです」


 次にキリサメの脳内あたまのなかに響いたのは間近に立つ大鳥から以前に突き付けられた言葉だ。秋葉原で起こしてしまった不祥事の直後、彼は声優事務所の立場を強く示したが、その中で「幼稚な屁理屈など社会と法律の前には全く通用しない」とも言い添えたのである。

 希更・バロッサのが脅かされると判断した場合、大鳥たちはあらゆる手段を講じてキリサメ・アマカザリという〝害悪〟を抹殺することであろう。例え彼女の友人であろうとも容赦するまい。


「キミはどうだい? 格闘家としての経歴キャリアを何も持たない現在いまのキミに何ができる? 進学希望だったら喜んで力になったけど、キミはもう総合格闘技MMAの道を選んだハズだ。選び取った以上、キミなりに〝何か〟を掴むまでリングを降りることは許さない」


 くだんの不祥事に対する責任追及の声が――普段は決して腹を立てない麦泉文多の叱声までもがキリサメの意識あたまに割り込んだ。

 それは未成年者の将来を心の底から案じる優しさの発露に他ならないのだが、キリサメ自身のなかでは『天叢雲アメノムラクモ』の試合場リングに足を踏み入れることへの躊躇いがこれまでの比ではないほど膨らんでしまっている。


(……変わらなくちゃいけない――そう思ったハズなのに、僕は……)


 希更・バロッサや空閑電知への感謝で心が満たされたとき、キリサメは友人たちへ報いる為にも『聖剣エクセルシス』に血を吸わせていた頃から変わらなければならないと考えた。それは間違いないのだが、沙門の言葉が次なる一歩をどうしても躊躇わせるのだ。


「――アマカザリだって同じだろう? 総合格闘技を愛しているから『天叢雲アメノムラクモ』に自分の人生、預けられるんじゃないか?」


 『くうかん』空手の為ならば己の命を生贄とすることさえ厭わない最高師範の子息むすことは違うのだ。いつか沙門と同じ域にまで熱量を高めることができたとしても総合格闘技MMAという〝世界〟からとは想像できなかった。

 MMA選手としての闘いを通じて〝何か〟を掴み取るよう麦泉から期待されたにも関わらず、結局は顔も知らないプロボクサーの末路に己が重なってしまうのだ。

 ひきアイガイオン――フライ級のタイトルマッチという栄光の舞台に挑みながらも王者チャンピオンの光を奪うという最悪の反則行為を仕出かし、ボクシング界から永久追放された挙げ句、鬼畜に堕ちた男である。

 空閑電知たちが「格闘技界の汚点」とまで吐き捨てた男と同じ末路を辿るであろうと、キリサメは本間愛染から〝予言〟されたようなものであった。


「私にはキミこそがMMAのアイガイオン――『もく』なのだから」


 本間愛染は『黙示の仔』という独特の表現をもってキリサメ・アマカザリとひきアイガイオンが〝同類項〟であると指摘した。瞳のくらさまでもが重なると突き付けたのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体にとって己が災厄わざわいでしかないことなど先輩選手から指摘されるまでもなく自覚わかっている。〝暴君〟にも近い樋口郁郎の権力ちからによって事なきを得たものの、秋葉原にける不祥事は日本格闘技界を挙げての東北復興支援にまで泥を塗り兼ねなかったのである。

 それはつまり、『天叢雲アメノムラクモ』の同僚選手やスタッフに対する迷惑だけには留まらない事態ことを意味している。力道山の復活を合い言葉として旗頭たる八雲岳のもとに集結した『日本晴れおうえんだん』の同志全員に損害ダメージが及ぶことは間違いなかった。

 キリサメ・アマカザリの名前を『天叢雲アメノムラクモ』の名簿から抹消するだけでは済まないということである。紛れもなく「格闘技界の汚点」であった。


「俺もお前も明後日で運命が変わる。きっと人生がガラリと変わるだろうぜ。三年前のあの日、力道山のスピリットを復活させた八雲岳に恥じない闘いをしようじゃねぇか! 俺の金星はお前の金星! お前の金星は俺の金星ってな! 俺たちだってスピリットを分け合った同志さ!」


 別れ際の沙門から掛けられた一言が不意に甦り、キリサメは誰にも聞こえないくらい小さな呻き声を洩らしてしまった。

 身辺警護ボディーガードの任務を寅之助に引き継ぎ、東京行の新幹線乗り場へ向かおうとする間際の沙門から握手を求められたのだが、そのときに一等熱量の高い激励を受けたのだ。

 この一言は同行者である女性の心まで溶かしてしまった。呆れ返った様子の未稲を尻目に「二人きりのときにもう一度、言って欲しい」と身悶えていたのである。法事で東京に出掛ける途中であったそうだが、駅の構内で彼と偶然に目が合い、言葉を交わす間に新幹線では隣同士の席に座る約束を取り付けたという。

 甘い溜め息を洩らした女性の気持ちがキリサメには全く解らないわけではなかった。

 強く握り合った沙門の右手は灼熱さながらであり、志を果たす為ならば何者にも決して屈することがない生命力がそのままあらわれている――そのようにたとえることが最も似つかわしく思えたのである。

 相槌を打ちはしたものの、沙門の熱量に気圧されて激励を返すことができなかったキリサメは、戸惑った調子で眉根を寄せつつ空閑電知とも同じような約束を交わしたことを頭の片隅で思い返していた。

 地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の試合を間近に控えていた〝親友〟と互いの勝利を捧げ合おうと誓ったのである。

 おれもお前と一緒に闘っている――勇ましい約束の裏側に秘められた電知の気遣いへ報いるという自信が現在いまのキリサメには微塵もなかった。だからこそ沙門の激励に応じることをちゅうちょしてしまったのだ。

 世界最強という途方もない夢を志し、前田光世コンデ・コマの技を独力で甦らせるほど格闘技を愛するが故、その想いが暴走してしまう〝親友〟と同じようにはなれないだろう。


「……正直、自分はあなたのキャリアに何の興味もありません。当方の損害にならないことが一番です。しかし、バロッサさんは違う。事務所を動かし、危険な橋を渡ってまであなたを――『天叢雲アメノムラクモ』の〝同僚〟を助けたことをくれぐれもお忘れなく。願わくば岩手で再びご挨拶できますように。何よりもバロッサさんの期待を裏切ったりしませんように」


 追い撃ちの如く甦った大鳥聡起の言葉がキリサメの心を更に深く抉った。

 今日の大鳥が羽織っているのは、この一言を発した日と同じ背広である。それだけに両の鼓膜に再び響いた声は脳をも揺さぶられたと錯覚してしまうくらい大きく聞こえた。


「――キリキリ! さぁ、着いたよ! あたしたちの戦場にねっ!」


 キリサメの意識を追憶の水底から引き揚げたのは間の抜けた愛称ニックネームを用いる希更の呼び声であった。

 双眸が再び現実を認識した瞬間、武家屋敷とも田園風景とも異なる〝世界〟がキリサメの前に広がった。

 ず瞳の中央に捉えたのは屋根が盛り上がった巨大な建物だ。何らかの施設であるらしく左右二棟が並立する構造であった。その正面玄関の前に立ち、賑やかな広場を背にしている状況も少しずつ脳に馴染んでいく。

 今し方まで鼓膜の奥に沙門の言葉は今や子どもたちの笑い声によって洗い流されている。そして、それ故にキリサメは瞼を幾度となく開閉させた。

 我知らず瞬きを繰り返してしまったのは無理からぬことであろう。今し方までキリサメの脳裏には此処ここではない場景が気忙しい紙芝居の如く交互に浮かび上がっていたのである。

 三年前の会合の舞台――不死鳥の絨毯が敷かれた老舗ホテルの小会議室やひきアイガイオンによってけがされたボクシングのリングは想像の域を出ないが、黄昏に彩られた井の頭恩賜公園あるいはすがだいら高原の温泉施設、きょうじまやぶ整形外科医院などは強い言葉と共に痛みを伴うほど深く記憶に刻まれているのだ。


「――危機対応能力への懸念は会場設営だけではないわよ。二一世紀にもなって体重別の階級制すら設定しない有り様には『NSBこちら』の副代表も常識として理解できないと腹を立てているわ。前身団体バイオスピリッツの時代より更に悪化している」


 『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体が〝時限爆弾〟のように抱えている問題点を指摘されながら見つめた陸前高田の水平線を忘れられるはずもあるまい。イズリアル・モニワの声は一本の棘であり、未だ心に突き刺さったまま抜けていなかった。

 無論、青空そらを映してまばゆいばかりに輝く海も網膜に焼き付くほど美しかった。

 内陸部から吹き降ろしてくる山風が千里とも万里とも知れない海路を旅してきた潮風と混ざり合って波紋を起こし、その間隙を滑るようにして星屑ともたとえられる数多の光が舞い踊っていたのである。

 海とは生きとし生ける全ての存在ものが分かち合う起源である。そのように物語る光の乱舞は比喩ではなく本当にキリサメは心が洗われたのだ。

 初夏のいろが芽吹きつつある平野を抜け、イズリアルたちと共に辿り着いた海の風にてキリサメも一度は鬱屈を拭われた――そのはずであったが、偉大なる先人たちが放つ光にてられ、彼の心は水底が見えないほど淀んだ〝闇〟に再び引き寄せられようとしていた。

 迷走するのみであった追憶を断ち切ったのが「キリキリ」という希更の呼び声である。

 彼女の母親――ジャーメインも三年前の会合にいて行き詰まった状況に風穴を開け、議論の趨勢を大きく変えている。伝統武術ムエ・カッチューアの名門・バロッサ家の一族ひとびとは誰もが潮目を変える宿命さだめを握り締めているのかも知れない。


「明日から格闘大会を開催る場所とは思えないくらい寂しいねぇ~。看板も何もないし。例の復興支援事業の――『日本晴れ応援團』の横断幕もない。ボクも『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント衛星放送テレビでちょっと観たくらいだけど、主催企業サムライ・アスレチックスってこんなにやる気ないの?」

「学校の校庭で開催する運動会ではないのですよ? 半日程度で全部すべてのプログラムが終わる興行イベントの為に大きな施設を何日も独占しておけません。費用という点でもまるで合理的ではない。選手の皆さんが会場入りするまでに設営を済ませて、試合が終了おわったら、その日の内に撤収する段取りなのですよ」

「さすがはマネージャーさん、催し物には詳しいねぇ。その辺りは剣道の大会ともあんまり変わらないわけだ」

「秋葉原のド真ん中で、それも竹刀を暴力沙汰に使うような方が出場できる大会など日本にあるのですか? ……資格云々を言い出したら、アマカザリさんも体育館に立ち入ることは許されないハズですがね」

「長野で開催った興行イベント撤収完了まで見届けたのかい? ボクの恋人かわいコちゃんや電ちゃんがそちらの声優さんをボコろうとしたとき、確かサトさんは一緒じゃなかったんだよね? 主催企業サムライ・アスレチックスも選手の安全を最後まで面倒見てあげたら良いのに。サトさんもそう思うでしょ? ねぇ? 視察に来たっていう『NSB』の代表さんどころか、全世界に恥を晒すの間違いナシってくらいセキュリティ脆弱ガバガバだよねぇ~」

「藪先生の医院ところでも絶好調でしたが、では敵いませんよ。ご友人を巻き添えにした上、ネットで全世界に恥を晒した方はさすがに何枚も上手ですね」

「なんならボクたち二人でコンビでも組む? センパイから言わせて貰うならネットで注目されるのなんて楽勝でね、凶器の竹刀を肩に担いで甲冑格闘技アーマードバトルの試合に乱入したら一発だよ。ボクとサメちゃんの〝げきけんこうぎょう〟に割り込んだときと一緒の要領さ。サトさん、才能あると思うんだよなぁ、案外」


 寅之助と大鳥の間で交わされる皮肉の応酬が鼓膜を打ち、キリサメの記憶も脳内あたまのなかでようやく繋がった。

 希更の言葉が示した通りである。うちより響く数多の声に幻惑されていたこともあって如何なる経路で辿り着いたのかもおぼえていないが、奥州市の中心部に所在する大型総合体育館――『天叢雲アメノムラクモ』第一三回興行が開催される場所にキリサメは立っているのだ。

 まさしくキリサメ・アマカザリという〝MMA選手〟にとって初陣の地である。

 翌日のデビュー戦に備え、その初陣の地へ下見に出掛けようと希更から提案されたことまではキリサメも辛うじて記憶に留めている。しかし、そこから先の成り行きがあたまから完全に抜け落ちていた。

 相応の距離を無意識の内に走ったという事実は、衣服に染み込んだ汗と四肢の疲労感が伝えている。

 物思いに耽っている最中に瑞々しい香りが漂う田園風景まで通り過ぎてしまった次第である。周囲まわりの人々から何事にも無感情と見えるほど冷静な思考を保つ平素であったなら、どうして脇にスケッチブックを抱えていないのかと歯噛みしたはずだ。


(……調子が狂った――って一言で済ませるワケにはいかないよな。今頃、メッタ刺しにされて、……母さんみたいになっていても不思議じゃない)


 尤も、現在いまのキリサメの心に湧き起こった後悔は余人の想像が及ばないものである。地球の裏側では五感から第六感に至るまで全てを研ぎ澄ませ、周辺の情報を漏らさず見極めていなければ比喩でなく本当に命取りなのだ。

 故郷ペルーでは物陰からナイフや銃が狙っている。だからこそ睡眠の間にも気を張り詰めていたのだが、生命を脅かされる危険性が皆無に等しい日本へ移り住んで以来、が明らかに緩んでおり、キリサメは自らの軽率さを嘲るしかなかった。

 賑やかな広場を背にした巨大な建物――と、瞳の中央に捉える体育館を読み解いたつもりであったのだが、辺りを見回してみれば瞭然の通り、実際には多目的運動広場をも有する広大な公園内の施設の一つである。つまりは認識がさかさまであった。

 正面玄関を挟む形で左右に並立する二棟はどちらも競技場アリーナである。改めてつまびらかとするまでもなく『天叢雲アメノムラクモ』がMMA興行を開催するのは大きな側――メインアリーナだ。

 補助席の設置まで含めて収容人数はおよそ五〇〇〇人であり、日本を代表するMMA団体の興行としては小規模とも思えるが、今回は岩手県内数ヶ所の公会堂などで場外観戦パブリックビューイングを実施する為、観客の総数は冬季オリンピック関連施設を利用した長野興行と比べても遜色のない規模になるという。

 即ち、格闘家が引き受ける〝持ち場〟ひいてはMMAの試合を通して被災地を元気付けたいという岳の想いが隅々まで行き届いた興行イベントになることを意味しているわけだ。

 それ故に岩手大会は前回よりチャリティー興行イベントとしての意義が強くなる。

 パブリックビューイングの観戦希望者も東北各県を対象にして抽選を行っており、戦後日本に復興へ向かう勇気を与えたりきどうざんを手本とする岳は「でこそ『天叢雲アメノムラクモ』の本懐を遂げられるってもんだ!」と左右の握り拳を天に突き上げていた。次いでその両拳を腰に宛がい、〝日本プロレスの父〟の定番とも呼ぶべき『アーム・アキンボー』の仕草ポーズまで取ったことをキリサメは麦泉から教わっていた。

 それは『日本晴れ応援團』の本懐と言い換えることこそ正しいのかも知れない。加えて『天叢雲アメノムラクモ』は復興支援を掲げて結成された団体である。東日本大震災で激甚な被害を受けた土地にける興行イベントには選手・スタッフとも並々ならない想いがあるのだ。

 日本格闘技界の誰よりも早く被災地へと急行し、そこで見聞きしたことに基づいて〝自分たち〟にしかし得ない復興支援を呼び掛けた岳にとっては感無量としか表しようのない筋運びである。


「……会場の設営と撤収を短時間で終わらせるという段取りは分かったけど、どう考えても人手が足りないような……。僕が行ったとき、『サムライ・アスレチックス』の本社には社員スタッフが一〇人も居なかったハズだし……」

「まだ新人と言い逃れもできないレベルでアマカザリさんは勉強不足では? 開催先の企業と提携するのですよ。現場スタッフには大勢のアルバイトも雇われますが、それも同様です。今回なら岩手県内で広く募集を掛けたのではないかと。……どうして部外者の自分が当事者のあなたに説明しているんですか……」

「成る程、地方の皆様をアゴで使おうってハラね。そんなコトやってるから都会のヒトは嫌われるんだよ。ボクを身辺警護ボディーガードに雇って正解だったね、サメちゃん。『田舎モンをナメんじゃねぇっ』とかなんとか言って逆恨みをぶつけてくる人に出くわしそうだよ」

「瀬古谷さんはどうしてそう……、物事をいちいち捻じ曲げて受け取るんでしょうね。おまけに偏見も酷い。あなたのほうこそいつか逆恨みで刺されますよ」

「恨みを買うのに慣れているから全然平気だよ。実力ちからの差を自覚わからせてあげれば済むハナシだもん。サトさんが凶器扱いした竹刀や木刀でね」

「……この人を身辺警護ボディーガードに雇っているほうが却って危険を引き寄せるのでは?」

「寅之助の妄言はなしに付き合っていると疲れるだけですよ。……でも、確かに逆恨みされるような状況だったら、サイクロプス龍氏と手を組むこともできないはずですよね? 何とかビューイングという催しにも協力を頼んだとか……」

場外観戦パブリックビューイングね。サイクロプス龍さんは会場の一つで司会進行を務めるって聞いてるわよ。キリキリが一緒に合宿を張った地方レスラーの――『まつしろピラミッドプロレス』の人たちにも長野大会のときに力を借りたんじゃなかったかな」

「それは初耳です。……そうだったんですか」


 交互に皮肉を飛ばし合う寅之助と大鳥とは比べるまでもなく、希更の解説こそMMA興行そのものについて甚だ不勉強なキリサメにとっては傾聴すべきものである。

 『天叢雲アメノムラクモ』は全国各地の運動施設を経巡る〝旅興行〟の形態を取っている。本拠地ホームグラウンドともたとえるべき会場と業務提携を結び、定期的に興行イベントを開催していれば意思疎通も速やかであろうが、同団体の場合は大会ごとに新天地を〝開拓〟しなければならないわけだ。

 前身団体バイオスピリッツ時代に培った地方大会のノウハウも活かされてはいるだろう。統括本部長の八雲岳はプロレスラーとして数々の地方巡業も経験している。しかし、から外れた土地に関する情報など絶無に等しいのである。


「分からないことを身勝手な想像で誤魔化すのが一番ダメなんだよね。は簡単に見破られちゃうし、相手がバカにされてると思ったら一発アウトだもん」

「興行は許可しないと突っ撥ねられたら、団体としての信頼もお終いですね。……僕にはこんなこと、言う資格もありませんが……」

「あたしもさ、『イシュタロア』のファンイベントで初めて宮崎に遠征したときはしくじりそうになったもん。立地的には熊本と近いんだよ、宮崎。何とかなるかな~って気楽に構えていたら勝手がまるで違ってね~。共演者一同、真っ青になったっけ」

「希更氏でもそんなことがあるのですか? ……想像できないな」

「イベントってホント、生き物みたいなモノなのよ。その土地その土地の気風まで調べて計算を組み立てるっていうか――県を一つ二つ跨ぐと同じ作品のファンでも好みの傾向が結構、違ってくるのよね。トークショーでもどういう話が好まれるか、探り探りでやってるもん。はMMAの興行イベントにも置き換えられるんじゃないかな?」

「……分かるような、分からないような……」

「同じ格闘技の試合でも関東では純粋な強さをひたすら追い求めるストイックな姿勢が好まれるけど、楽しんでナンボな関西では劇的な盛り上げ方が持て囃される――みたいな。これはあくまでもあたしが勝手に捏ねた仮定だから真に受けないでね。こんな傾向、実際には一ミリも当てはまらないと思うし」


 声優業にける経験則はキリサメの思考を半ば素通りしていったものの、その直後に続けられた「会場の勝手が分からなきゃ、リングの設置以前に機材の搬入だってまごつくのよねぇ~」という解説ことばは心許ない想像力でも補うことができた。

 先ほど大鳥聡起が述べた段取りを不明点ばかりの運動施設で完遂することなど不可能に近いはずだ。例えば車輛に積載した必要資材の搬入経路は管理者に問い合わせることで確認できるだろうが、の会場設営に求められる実務はそれ相応の知識や経験がないと全く捗らないのである。

 メインスポンサーにして世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』から最高品質のリングを提供されようとも組み立てることができなければ宝の持ち腐れでしかない。

 広い意味ではも「土地勘」の三字に含まれるのだ。会場利用の規約上、作業時間も限定されてしまう現場のスタッフには運動施設の特徴まで把握している人間こそが一番の頼りとなるのだ。

 その土地に根を張り、町の体育館などで巡業を行ってきた地方プロレス団体へ協力を要請することこそ最善の手立て――それが『天叢雲アメノムラクモ』の判断であったと希更は解説を続け、これに耳を傾けながらキリサメは『まつしろピラミッドプロレス』と関係かかわりの深い岳による提案に違いないと推察していた。


、あの日――電知と戦ったとき、カリガネイダー氏は例の仙人みたいな方と一緒に居たんですね。岳氏の応援というだけじゃなくて大会の関係者だったのか……」

「現地のイベンターよろしく厄介事を引き受ける感じになっちゃうけど、全国規模の興行イベント名称なまえを呼ばれたら、それだけでもプロレス団体の知名度も上がるし、互恵関係ウィンウィンってトコかな。勝手知ったる地方プロレスは地元の業者にもツテがあるし」


 希更による解説を反芻しつつ、キリサメは脳内あたまのなかで前回の長野興行を振り返っていく。

 今回のイズリアル・モニワと同様に『天叢雲アメノムラクモ』の視察を目的として『NSB』から訪問してきた台湾の仙人――こうれいと『まつしろピラミッドプロレス』の花形レスラーが行動を共にしていた理由にも今更ながら得心が行ったのだ。

 あかぞなえ人間カリガネイダーはMMAファンである以前まえに運営スタッフの一員として冬季オリンピック関連施設の多目的運動アリーナにてわけである。

 改めて考えてみると全ての辻褄が合うのだ。一度、MMAのリングを去った後、八雲岳は『まつしろピラミッドプロレス』の外部コーチを務めており、両者は強い信頼で結ばれている。彼らの地元ホームグラウンドである長野県で『天叢雲アメノムラクモ』の興行を開催するのであれば協力を打診するのも当然といえよう。あるいはカリガネイダーのほうから〝恩返し〟を買って出たのかも知れない。

 岩手県と並ぶ東日本大震災の被災地――福島県にも『天叢雲アメノムラクモ』は〝旅興行〟で訪れたと聞いているが、おそらくは同地のプロレス団体との提携を取り付けたはずである。

 岩手興行を実現させるべく『天叢雲アメノムラクモ』が岩手県で最も有名な『奥州プロレスたんだい』と連携することはキリサメも把握していた。

 訪問先の陸前高田市まで岳のことをわざわざ迎えにやって来たサイクロプス龍は同団体の花形レスラーである。寅之助が揶揄したような事態に陥るのであれば〝北の独眼竜〟を彷彿とさせる覆面プロレスマスクの男が一行の前に姿を現すはずもあるまい。

 キリサメたちは同席しなかったものの、陸前高田市から奥州市へ移動した後、岳と麦泉はサイクロプス龍を交えて場外観戦パブリックビューイングの実行に要する打ち合わせを行い、次いで酒を酌み交わしたそうである。

 ここでキリサメは我知らず小首を傾げてしまった。

 統括本部長に先んじて奥州市へ入り、くだんの会合にも同席したさいもんきみたかは『サムライ・アスレチックス』にいて渉外活動を一手に引き受けているのだが、希更から教わった解説はなしを咀嚼する限り、開催地との提携という点にいて地方プロレス団体の役割が彼の職域にも抵触しているよう思えてならなかった。


「プロレスとは別の団体を相手にする交渉がさいもん氏の専門ということでしょうか。『サムライ・アスレチックス』ではそのテの仕事を一人でこなしていると以前に伺いました」

「みたいだね。その辺はあたしも詳しくないんだけど、地方プロレスの皆さんは〝場内〟の業務がメインで、柴門さんのほうでは〝場外〟の交渉事を分担してるって具合かな?」

「――概ね、そのような理解で間違いないかと。自分も人伝ひとづてに聞いた程度しか存じ上げませんが、例えば公営の体育館を借り切って興行を打つ場合には地方自治体との折衝が欠かせません」


 改めてつまびらかとするまでもないことであるが、類例を交えて希更の解説を補足したのは大鳥だ。声優事務所のマネージャーという立場からさいもんきみたかの職能を誰よりも深く理解している様子であった。


の運動施設は確か一般財団法人が管理していたはずです。当然ながら、それに応じた交渉が必要となりますね。……良くも悪くもビジネスライクな樋口社長には不向きなやり取りがね」

「だからこそ柴門氏は欠くべからざる人材――と? 確かに本社で挨拶したときの立ち居振る舞いにもがありましたが……」

とは? 抽象的で偏った物の見方は感心しませんね」

「希更氏、手鏡のような物をお持ちではありませんか? それを大鳥氏に貸してあげてください」

「……あなたまでその台詞を……ッ!」


 キリサメのなか主催企業サムライ・アスレチックスと地方プロレスの連携に対する理解が大きく捗った。

 場外観戦パブリックビューイングは岩手県内の公会堂などを借り切って実行することになるが、それは公共施設の利用に該当するわけだ。地方自治体との交渉など必要な段取りを柴門が整え、興行イベントの進行はサイクロプス龍たち地方レスラーに委ねる――企画運営と実務は一組の歯車さながらに噛み合っていくのだろうと腑に落ちたのである。

 その一方で寅之助と希更が急に腹を抱えて笑い始めた理由は分からない。キリサメに察せられたのは「手鏡」という一言に対するであったことのみであった。初陣の地に到達するまでの道程が殆ど記憶から抜け落ちているキリサメには無理からぬことであろう。


「サトさん、抜群の仕事しましたねぇ。電ちゃんと一味違う童顔ベビーフェイスとは裏腹の知恵袋っぷりだったねぇ。ここに『ヘヴィガントレット』さん――愛しのカノジョがいたら絶対惚れ直してたよ。自分から墓穴を掘る茶目っ気もギャップ萌え丸出しだもん」

「……そこで依枝さんのコトを持ち出すのはやめて頂けませんかね……」

「あっ、『愛しのカノジョ』って部分は否定しないんですね。今のヤツ、携帯電話スマホで録音しとけば良かったなぁ~。色々イロイロ、面白いコトができるかもなのに」

「バロッサさんもノらないでください……」


 先程も大鳥は公共施設の利用に要する折衝を例に引いたが、地方プロレス団体との協力体制を整えるだけでは〝旅興行〟は成り立たないのである。

 観客の為に駅と興行会場を往復する臨時シャトルバスの手配も柴門の役目であった。地元事業者と交通事情も含めた折衝を重ね、送迎の体制を整えていくのだ。


「実際問題、大鳥さんと同じレベルで有能でなきゃ柴門さん、仕事なんか回せないと思うわよ。会場のロビーでお客さん向けに軽食を販売してるでしょ? パブリックビューイングの開催場所ではその規模を更に大きくして、ちょっとした屋台村をやるって聞いたわ」

「ヤタイ……ムラ――語感から察するに色々な露店を集めるようなもの……ですか?」

「うんうん、そんな感じ。あたしたちの試合と一緒にその土地その土地の名物を味わってもらおうっていう取り組みなんだってさ。店の選別から依頼まで柴門さんが一人で全部取り仕切ってるらしいね」


 より先に『天叢雲アメノムラクモ』と契約し、MMAのリングに挑んだ親友の女性選手――名前をマルガ・チャンドラ・チャトゥルベディという――から教えられた話である旨を前置きした上で、希更ははちめんろったとえることこそ最も相応しいであろうさいもんきみたかの〝実務〟を明かしていった。

 一口に「数多の屋台を集める」といっても飲食物の場合は人気の有無が極端なほど二分されてしまう。奥州市であれば肉質等級にいても高水準と認められたブランド牛肉が全国的に有名であり、これをサイコロステーキとして提供すれば瞬く間に売り切れることだろう。しかし、真隣にずんだ餅を振る舞う屋台があったなら、肉の焼ける音に引き寄せられた長蛇の列と売れ残りをくらい瞳で交互に見つめるような事態に陥り兼ねなかった。

 この催しは総合格闘技MMA場外観戦パブリックビューイングの食べ物を広く知らしめる物産展ではない。観客たちも限られた時間と予算の中で腹を満たそうと考える為、東北を代表する和菓子といえども選択肢から外される可能性が高くなってしまうのだ。

 そうした偏りを最小限に抑え、出店した誰もが利益を得られる采配こそ柴門公任の神髄である――と、希更は親友マルガから聞かされたという。


「あたしもそうだけど、若い人って『祖父母おじいちゃんおばあちゃんの家にありそうでダサい』みたいな理由から和菓子そのものを敬遠しちゃうでしょ? 柴門さん、そういうのを解消する為にいつも知恵を絞ってるんだって。今回の屋台村でもずんだ餅の餡に注目して、和洋折衷のコラボレーション的な新商品を提案したみたいだよ」


 ずんだ餅の歴史は古く、東北全土に武勇を轟かせた伊達政宗がじんを調理器具の代わりに用いて豆を刻み、これをすり潰して餡を拵えた――とも言い伝えられている。往時の呼び名である『陣太刀餅』が時代を経て『ずんだ餅』に転じたというのだ。

 その一方、シカゴ市制一〇〇周年を記念して一九三三年に開催された万国博覧会で振る舞われて以来、全米で定番の甘味スイーツとなったフローズンカスタードというものがある。

 アイスクリームの一種バリエーションであるが、その材料にずんだ餅の餡を生かすことを柴門公任は奥州市内の和菓子店に提案したそうだ。

 二〇一四年六月現在の日本にけるフローズンカスタードの知名度は余り高いとは言い難い。その珍しさは和菓子と縁の薄い人々にこそ抜群の訴求力を発揮するというのがさいもんの見立てである。

 そもそもさいもんきみたかは貿易会社を経営していた人間である。国際規模といっても過言ではないほど広い知識と流行トレンドを捉える着眼点を兼ね備えており、その頭抜けた商才は格闘技と関連する経済活動にいても有用と自ら証明しているのだった。

 長野興行を開催した多目的運動アリーナのロビーでもブランド豚のカツカレー弁当やましやきの容器ごと提供される釜飯など何種類もの飲食物が販売されたが、いずれも均等に売り切れていた。これは伝聞ではなく希更本人が実際に確認している。


「食の好き嫌いは確かに分かれてしまいますね。故郷ペルーでも何人かの『ハポネス』――日本人と知り合いましたが、誰もクイの串焼きに手を出そうとはしませんでしたよ。柴門氏ならそういう食わず嫌いまで引っ繰り返してしまいそうです」

「クイ~? 串焼きってコトは屋台で売ってる食べ物なのよね? 可愛い名前だけど、焼き鳥みたいなの?」

「食用のテンジクネズミですよ。一匹そのまま串刺しにして、腹に香草ハーブを詰めて丸焼きにするんです。丸焼きといっても小さなモノですが、見た目に抵抗を持ってしまうと、どうしても受け付けないみたいで……」

「今、初めてキリキリとの間にカルチャーギャップを感じてるッ!」


 地球の裏側の食文化に希更は口元を引きらせてしまったが、この反応リアクションもまた彼女自身が紐解いていきた柴門の手腕を測る材料となるだろう。


「会場で販売する記念品も柴門さんがご自身で手配していると聞き及んでいます。ベースとなるデザインは『サムライ・アスレチックス』や『日本晴れ応援團』が管理しているマスターを使いつつ、そこから先のグッズ製造は開催地の工場に発注しているとか」


 岩手大会に際して地元の甘味スイーツであるずんだ餅に注目したのと同じように柴門は開催地の伝統工芸とも協力体制を整え、興行イベント当日しか手に入らない限定グッズも作成していた。

 大鳥当人はインターネットで紹介されている写真でしか見たことがないものの、福島県会津若松市で開催された第二回興行では『天叢雲アメノムラクモ』や『日本晴れ応援團』のロゴマークを描いた絵蝋燭が会場の物販コーナーに並んだそうである。

 〝会津絵蝋燭〟はその歴史を近世まで遡る民芸品の一つであった。壁に掛けて飾れるほど大きな凧や同地の代表的な郷土玩具〝赤べこ〟も共同開発コラボレーション商品が用意されたそうだ。


「それも柴門氏が一人で手配している――と? ここまで来ると格闘技団体の範疇を超えてしまっているような……。沙門氏が所属はいった『こんごうりき』もチャリティー活動に力を入れているそうですが、それと同じくらい事業しごとの幅が広いのですね。いや、広過ぎる」

「この場で感心することですか、新人選手のアマカザリさんが……。ご自分の契約した団体のことはもっと調べておくべきでしょう」

「今のイヤはお門違いでしょ。電ちゃんが聞いたら『ンなコトまで格闘家に押し付けるんじゃねぇって』ってブチギレたね。確かにサメちゃんは無知丸出しだけど、ルールの確認不足はともかく、ど~ゆ~ルートで記念品を製造つくるかなんて、他の選手も知らないよ~。試合と一ミリだってカスらない部分だもん」

「あたしだって熊本の実家が道場やってるし、大きなイベントに参加する機会も多いから興味を持っただけだもん。身近なトコに接点でもなかったら、親友マルガにも話をこうと思わなかったわね。……は大鳥さんも負けを認めたほうが良いんじゃありません?」

「……皮肉を飛ばしながら自分でも道理に合わないと感じていましたよ、正直。お好きなだけ批難して頂いて構いません」

「いえ、あの……僕は純粋に勉強になりましたから」


 大鳥が付け加え、その矛盾点を寅之助と希更が揃って指摘した解説はなしは『天叢雲アメノムラクモ』が興行イベントの開催地へ利益を還元する方策とも言い換えられるだろう。

 柴門の〝実務〟が雇用の創出まで促しているとは想像できようはずもあるまい。東日本大震災の復興支援を掲げているとはいえ、『天叢雲アメノムラクモ』は地方再生を至上目的としているのではなく、あくまでも総合格闘技団体なのだ。


「今、お話ししたようにとてつもなく広範囲の経済活動をたった一人で回しておられるのが柴門さんです。そんな段取りをこなせる自信など全くありません。アマカザリさんには手鏡を勧めて頂きましたが、自分とあの方では比較になりませんよ」

「サメちゃん、気付いた? この人、醜態の帳尻合わせを自分でやっちゃってるよ」

「何とでもどうぞ。……万が一、樋口社長が柴門さんと喧嘩別れでもしたら『天叢雲アメノムラクモ』は興行イベントの開催自体が立ち行かなくなりますよ。それだけ深い部分まで食い込んでいる」

「あ~、成る程ねぇ。今のは大鳥さんの逆転ホームランね。樋口さんがジョブズなら柴門さんはウォズニアックってカンジよ」

「あのですね、バロッサさん。〝二人のスティーブ〟という例えは絶対ににしておいて下さい。本人どころか、『天叢雲アメノムラクモ』の関係者の前でも厳禁ですよ。そういう風になぞらえられて激怒する人も少なくないのですから」

「あたしが他人ひとに野球の話を振るトコ、大鳥さんは見たおぼえがあります? デリケートな話題を見誤るような間抜けと思われてるのはショックだなぁ。この剣道少年じゃないんですから」

「ボクのほうこそ一緒にされたら心外だよ。それだけでも喧嘩売られてると思うよね。揉め事の火種タネはうっかりじゃなくてわざとバラ撒いてるのにさ」

「キミは『デリケート』って英単語ことばを辞書で調べなさいよ。可及的速やかに」


 名実ともに日本を代表するMMA団体『天叢雲アメノムラクモ』を率い、日本格闘技界すら実効支配していると言い表しても差し支えのない〝暴君〟だけに樋口郁郎は『ハルトマン・プロダクツ』の会長トビアス・ザイフェルトのような〝巨人〟とも互角に渡り合う大器うつわの持ち主である。

 余人を置き去りにする規模の構想を掲げ、独裁にも近い権力ちからもってして誰もが抗い切れない〝流れ〟を作り出すことにも長けているのだろうが、それは天上から盤面を見下ろす振る舞いにも等しく、影に隠れて見えないような〝実務〟の完遂まで意識が行き届くとは想像し難い。

 「大は小を兼ねる」ということわざもあるが、少なくとも樋口郁郎はさいもんきみたかと同等に立ち回る器用さなど持ち合わせていないだろう。自身が率いるMMA団体の所属選手が秋葉原で引き起こした不祥事は様々な裏工作によって切り抜けたものの、当事者が〝現在いま〟の家族に隠しておきたかった過去を暴き立て、自分の半分も生きていない少年の心を何の感情も持たずに踏み躙っている。

 『天叢雲アメノムラクモ』の〝旅興行〟は開催地の協力なくしては成り立たない。その土地に根を張る人々が大切にしているモノへ寄り添い、双方の恩恵となり得る可能性を掬い取ることでもあるのだ。本来は身を挺してでも守らなければならない選手キリサメ・アマカザリを深く傷付け、そのことに罪悪感すらない〝暴君〟が他人と気持ちで結び付く可能性など絶無に等しいだろう。

 地方企業との多角的な提携を短時間の内に取りまとめることができるのは『天叢雲アメノムラクモ』ひいては主催企業サムライ・アスレチックスいてさいもんきみたかただ一人である。それはつまり、大鳥が懸念を示したように替えが効かない人材ということだ。


(今、ここにモニワ氏が居たら、きっとまた例のオリンピックばなしを持ち出すよな……)


 『サムライ・アスレチックス』渉外部の職域が明確化する内、キリサメの意識は前日に訪れた陸前高田市の追憶へと再び巻き戻っていった。

 『三・一一』以降、分断の恐れがあった地域交流を促進している喫茶店コミュニティカフェを訪れた際、二〇一二年から年に一度、同地で開催され続けているサイクリングイベントのことを店主マスターから教わったのだが、その際にいばらけんおおあらいまちとアニメシリーズの提携タイアップにまで話題が及んだのである。

 大洗町の商工会が協賛するイベント――あんこう祭りには同作の放送以来、県内外から何万というファンが詰め寄せているそうだ。それ自体が貴重な文化交流であり、アニメの舞台となった〝聖地〟を巡礼めぐり、住民たちの人柄へ触れる内に誰もが大洗という港町そのものを愛するようになったという。

 くだんのアニメシリーズをきっかけとして大洗町へ移住した人間も少なくない――店主マスターたちの話をキリサメは地方再生の効果と併せて記憶に留めていた。同作は東日本大震災の翌年から放送されている。つまり、未曽有の天災によって後退せざるを得なかった経済を劇的に活性化させたわけである。

 アニメシリーズと総合格闘技MMAでは引き受ける〝持ち場〟こそ異なるものの、震災復興を実効的に支援するという点にいては同じ〝道〟を歩んでいる。柴門は『天叢雲アメノムラクモ』の領分で為すべき事業ことの総合的な調整役を担っているわけだ。

 〝旅興行〟という形式で手を組む地方の財政を奮い立たせ、そこに互恵関係を築くのである。陸前高田市や大洗町が好例だが、イベントの開催期間中に訪れた観光客の飲食・宿泊による経済効果は計り知れないのだ。を〝絵に描いた餅〟ではなく具体的な計画として成り立たせることも柴門の〝実務〟である。

 一時的とはいえ、MMA興行イベントは開催先に雇用まで創出するのである。こうした地域振興の実現には地方自治体と良好かつ適切な関係を保つことが不可欠なのだ。巨額の予算カネが投入される事業でもある為、樋口自ら陣頭指揮を執ろうものなら間違いなく不穏当な事態に発展するだろう。


「――創業者は独裁者による戦争特需を食い物にしていたそうだから、ザイフェルト家は〝罪滅ぼし〟の意識が根っこにあるんでしょうなァ。我々の狙い目はそこですよ、慈善活動。先代の頃にチョビ髭の独裁者に与していたっていう後ろめたさで〝罪滅ぼし〟に衝き動かされているんなら、それをこっち側に誘導しちまえば良いって寸法です。向こうは罪悪感の埋め合わせができて、こっちはその分だけカネが降ってきて大助かり。誰も損しないプロジェクトは一企業としても興味をソソられると思いますよ」


 第二次世界大戦のなか――独裁政権下のドイツで戦争捕虜が強制労働に追い立てられた事実と、これにくみしたという『ハルトマン・プロダクツ』の汚点まで利用し、『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げに引き入れようと樋口郁郎は画策したのである。

 くだんの会合に同席していたきょういし沙門による伝聞と、樋口が発したという背筋の凍り付く言葉がキリサメの脳裏に甦り、誰の耳にも拾われないほど小さく呻いてしまった。

 尤も、反響それは一瞬のことであった。またしても希更の声が左隣から鼓膜を打ち、キリサメの呻き声さえも吹き消していったのだ。


「――貸し切り? メインアリーナが? 明日、『天叢雲あたしたち』の試合を開催るのにっ?」


 素っ頓狂としか表しようのない声によってあたまが揺さぶられ、キリサメは追憶から引き剥がされた次第である。

 尤も、今は先程のように意識の深淵まで埋没しておらず、希更たちと共に総合体育館の正面玄関エントランスへ足を踏み入れた過程も鮮明におぼえている。『天叢雲アメノムラクモ』の選手という自分たちの身分を受付の係員に明かした上で興行イベント会場となるメインアリーナの見学を申請したのだ。

 それ故にキリサメも希更と同様の訝るような表情となり、右隣に立つ寅之助と互いの顔を見合わせたのである。


「柴門さんのお仕事ぶりで盛り上がった矢先にこのザマとはねぇ。お膳立てだけしっかりやっておいて肝心の会場を押さえていないってどんでん返し、ボクくらいしか笑えないんじゃないかな」

「幾らなんでもそんなことは有り得ないだろう。……万が一のときには城渡氏が黙っていないとは思うけどな。あの人も――つるぎ氏もバイクで体育館ここに突っ込んでくるはずだ」

「ひょっとしてサメちゃん、プロデビューできないんじゃないのぉ~? ウワサの〝最年少選手〟から一転して最速無職に落ちぶれちゃったりして? 〝ゾク車〟で乗り付ける恭ちゃんどころか、電ちゃんも自転車チャリで殴り込むよねぇ~。それはそれでワクワクかな!」

「い、一時間ほどでは引き払うと仰ってますから! 『天叢雲アメノムラクモ』による利用予約もきちんと通っておりますのでご安心ください!」


 主催企業サムライ・アスレチックスの不手際を勘繰ってせせら笑う寅之助を遮るようにして説明を続け、明らかに当惑している『天叢雲アメノムラクモ』出場選手たちへ「明日の興行には何一つ影響ありません」と強く訴えたのは正面玄関エントランスの受付で対応に当たった女性の係員である。

 彼女は何も書かれていない真っ白なサイン色紙を恐る恐るといった調子で持っている。申請者の一人が『かいしんイシュタロア』の主演声優であることに気付き、総合体育館へのを頼もうとしていたのだ。それだけに希更の動揺を和らげたかったのだろう。

 「個人情報を外部に漏らすのは良くないのですけど……」という控えめな前置きを挟んで続けられた説明によれば、翌日に『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行が開催されるメインアリーナを個人で借り切った者がいるというのだ。

 使用申請の用紙に記された住所によれば、予約もなく飄然と現れたその人物は岩手でも日本でもなくアメリカに居を構えているそうだ。思いも寄らない筋運びに目を丸くしていると、今朝ほど海から県内に入った旨を係員に語ったという。


「ボートに乗ってきたようなことをお話しになっておられましたが、密航ではないかというセンも捨て切れませんで……。勿論、失礼に当たることですから口に出して確かめることはできませんでしたが……っ」


 サブアリーナでは奥州市内から集まった〝ママさんバレー〟のチームが練習に励んでおり、心の底から愉しそうな掛け声やボールを弾く甲高い音が正面玄関エントランスまで届いている。全国規模の競技大会の会場として同施設が選ばれることもあるが、基本的には県内・市内の団体や近隣住民による利用が多く、冬季には室内雪合戦も開催されるそうだ。

 事前予約もなく当日にメインアリーナを利用申請する人も珍しい――と、係員は希更にサイン色紙を手渡しながら言い添えた。

 キリサメにとって初陣の地ということになるメインアリーナは、正面玄関エントランスを挟んで向かい側に位置するサブアリーナと喧騒まで正反対であった。高い位置に設けられた窓から差し込む光を聖なる洗礼と感じるような静寂に包まれている。きょういし沙門に教わった『東洋の魔女』の記憶が引き出されそうになる〝ママさんバレー〟の掛け声が飛び込むと、天井と壁に跳ね返って讃美歌のように反響するのだ。

 特別な仕掛けがあるようにも思えない〝普通〟の屋内運動場アリーナである。『CUBEキューブ』と呼称される最先端技術によって彩られた『NSB』の試合場オクタゴンとは比較にならなかった。

 それは当然であろう。この場所は市民の運動こそが第一の目的なのである。係員の説明によれば学校の部活動も支えているという。そもそもアメリカ最大のMMA団体と比べること自体が公平ではあるまい。求められる設備からして全く違うのだ。

 競技用コートは九人制のバレーボールで換算すると三面分もあり、二階の固定席は東西南北からこれを見下ろす形で設置されていた。二階席そこだけでも三〇〇〇人は収容できるのだが、一階に可動席・補助席を並べれば最大五〇〇〇人まで迎え入れることが可能となるのだった。

 現在いまは壁際にさえ一脚の椅子も置かれていない。それどころか、MMAの試合に必要な機材は一つとして運び込まれていない。何しろ開催前日である。設営作業が行われていない理由などつまびらかとするまでもないだろう。

 長野興行が開催された多目的運動アリーナにはセレモニー用の特設ステージや稀代の映像作家――おもてみねが手掛けたプロモーションビデオを映す為の大型モニターも組み立てられていた。出場選手が到着する頃には完了させる段取りで早朝からスタッフが設営に取り掛かるそうだが、整然と片付けられた状態はコートの広さが物寂しく感じられた。

 最後にメインアリーナを使用したのは中学校のバスケ部であったが、清掃も隅々まで行き届いており、バスケットシューズが蹴り付けた余韻すら残ってはいない。

 『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦から現代の総合格闘技に至るまで闘魂が灼熱の如く燃え滾り、血潮をも沸騰させた戦場リングが設置されるべき中央――清められた静寂のただなかに一人の男が胡坐を掻いているのみであった。

 身の丈はキリサメと大して変わらないようだが、四方より光を受けて陰影かげは濃さを増しており、大地を食い破る巨岩の如き体躯が鮮明というほど強い輪郭を伴って表れていた。

 いわゆる禿頭スキンヘッドであるが、頭蓋骨の丸みが露となったかのような有り様から察するに加齢などを原因として髪の毛が抜け落ちたのではなく自ら剃り落としたのであろう。


「この時間の利用者はご覧の通りです。あの一人きりですよ」


 正面玄関エントランスに面した扉を僅かばかり開き、メインアリーナの様子を覗き見るキリサメたちの背中に向かって説明を続けたのはくだんの係員である。振り返った大鳥から「は体育館への寄贈であって、あなた個人への贈り物ではありません」と冷たい視線で突き刺されようと微塵も気付かず、人気声優のサインが書き込まれた色紙に相好を崩していた。

 それでも己の職務が頭から抜け落ちてしまうほど無責任ではなかったようだ。「曰く付きの不動産物件はテレビでも良くやってるけど、体育館もその中に入るんだね」という寅之助の悪趣味な冗談をすぐさまに否定したのである。


「除霊して頂いているワケではありません! あのお坊さん、念仏だって唱えていませんよね⁉ ついさっき、ご予約頂いた利用者様と申し上げましたばかりですっ!」

「切れ味鋭いツッコミ、どうも。でも、それ以外に見えないくらい怪しいじゃん。どうしたって運動は危険が付き纏うし、口外できない事件が起きても不思議じゃないでしょ」

「正直に申しましてわたくしどもも戸惑っているくらいです。正規の手順でご申請頂き、施設使用料も受付でお支払い頂きましたので、ご自由にお使い頂いて構わないのですが……」

「じゃあ、ずっとあんな感じなの? ピラミッド状の建物で瞑想すると効果的ってオカルト紛いの話が大昔に流行ったらしいけど、それと勘違いしてんじゃないのぉ? お坊さんと見せ掛けておいてカルト系のアレだったりして」

「ハッキリと言わないでください、ハッキリと! ……念仏を唱えておられるわけでもなさそうですし、一体全体、何が目的なのか……。ミステリー漫画でしたら今頃は主人公の探偵から『妙だな。あんな瞑想法は聞いたことがない。本当は別の意図があるのでは』と言い掛かりを付けられている頃ですよ」


 呆れ返ったように肩を竦めた寅之助に続き、大鳥も受付時にける奇行の有無をたずねたものの、係員は眉根を寄せながらかぶりを振るのみであった。「そうと言うんでしょうか。お坊さんがのお召し物で入って来られたので、それは面食らいました」と来訪時の印象を付け加えた程度である。

 広い意味ではも奇行の範疇に入ることだろう。〝ママさんバレー〟の喧騒と綯い交ぜになって静寂を引き裂く話し声は間違いなく左右の耳まで届いているはずだが、その男は微動だにしないのである。瞑想どころか、居眠りでもしているのではないかと訝ってしまうほどであった。

 物言わぬ岩の如く座した男の傍らには薄い竹を編み込んで拵えた物とおぼしきじろかさが置かれていた。わざわざ係員に確かめるまでもなく、これを被ったまま正面玄関エントランスに現れたことは間違いあるまい。

 キリサメたち四人が縦に並ぶような恰好で顔を覗かせている位置から巨岩の如き男が座した中央までは相当に離れている。しかも、くだんの係員に「お坊さん」と呼ばれた相手は扉に対して背を向けており、その出で立ちを正確に把握することは難しい。

 洋服とは構造が違うように見える――少なくともキリサメの双眸はそれ以上の情報を読み取ることができなかった。

 間近で目にしたという係員が説明を付け足さなければ、ぶっそうの纏う装束――そうであることなど分からなかったはずである。判然とはしないものの、おそらくは宗派に合った数珠も左手に握り締めていることであろう。

 僧衣に身を包んだ後ろ姿は同じ禿頭スキンヘッドでも俗世を離れて剃髪したほったいであることを意味しているわけだ。「胡坐を掻く」というその体勢に対しても見方を改めなくてはなるまい。競技用コートの中央という状況こそ珍妙ながら、巨岩の如き男は一人静かに座禅を組んでいるのだった。

 彼自身は天井南側に設置された大型モニターと向き合う恰好であるが、何も映していない画面にうつしの一切を〝くう〟とする仏の教えでも見出しているのだろうか。

 両耳の向こうに覗いているのは敢えて残したもみあげであろう。人並み外れて豊かであるらしく、プロペラの先端としかたとえようのない形で横に飛び出していた。模様の如く入り混じった白い筋はこの仏僧が壮年の範囲に入らないことを表している。

 四方の光が集束する一点でもある為、離れた位置から完全に確かめることは難しいのだが、皮膚が剥き出しとなった頭部あたまには横に走るきずあとが無数に刻まれており、まるで大きな螺旋でも描いているようであった。


「電ちゃんが居たら大喜びだったろうなぁ。あんな大数珠付けてる人、日本中を捜してもほんへいはちろうただかつ以外に有り得ないハズだったもん。変わり者ってのは居るもんだ」

「忠勝の大数珠は玉の一つ一つに金箔が押されていたとも聞きますがね。時代劇もそういう風に再現されていますし。……バロッサさんに危害を加えようとした例の少年がハイテンションになる姿は簡単に想像できますよ。秋葉原から京島の病院まで移動するとき、新撰組の池田屋事件を持ち出すような性格ですしね……」


 寅之助が語り、大鳥が不承不承としか表しようのない調子で頷き返した名前にキリサメは聞きおぼえがなく、電知の興味を惹くであろうという言葉から日本史上の人物であろうと推察できたのみである。

 ほんなかつかさのたいただかつ――通称、平八郎忠勝。江戸幕府初代将軍・徳川家康を若き頃から支え続けた天下無双の猛将である。敵としてあいまみえた甲斐武田家の武将が「家康に過ぎたるものが二つあり。からかしらに本多平八」なる狂歌を詠み、武勇を惜しみなく讃えるほどの豪傑であった。

 キリサメがその本多忠勝について詳しかったなら〝からかしら〟――即ち、ヤクの尾の毛で装飾された兜を想像し、「キリスト教のロザリオを大きくしたような物ですか」と、二人の会話に質問でもって割り込んだかも知れない。

 まことしやかな風聞の域を出ないものの、織田信長から〝日本のちょう〟と呼ばれた本多忠勝は合戦へ赴く際に金箔押しの大数珠を甲冑の上から襷掛けにして帯びたそうである。

 穂先に留まった蜻蛉の身が真っ二つに裂けるほど切れ味の鋭い名槍でもって敵兵を蹴散らし、生涯に一度も手傷を負わなかったとされる徳川家最強の猛将はいくさに散った命への弔いを込めてその大数珠を提げたという。

 仏僧もまた菱形の玉を束ねた大数珠を本多忠勝と同じ様式――右肩から襷掛けに帯びている。こちらは金箔といった塗装が施されておらず、木を削り出して拵えたことが遠目からでも分かった。

 てんびととよとみのひでよしをして〝東国一〟と言わしめた猛将の逸話とは真逆であるが、禿頭あたまに刻まれた無数のきずあとは「歴戦」の二字を表す碑文にも等しい。巨岩ともたとえられる彼の体格は陣羽織の上からでも見て取れる八雲岳プロレスラーの屈強さに重なるのだった。


「大数珠まで身に付けて除霊の類いでないのなら、いよいよ不可解の極みですね。瀬古谷さんに同意するのは甚だ不本意ですが、一九八〇年辺りのオカルトブームに悟りの近道でも見つけたのでしょうか。普通に考えれば〝お坊さん〟がピラミッドパワーにあやかるとは思えませんが……」


 キリスト教が広く信仰されているペルーに生まれ、日系人社会との接点こそあれども仏教とは距離のある環境で育ったキリサメであるが、それでも大鳥が首を傾げた理由は察せられた。

 答え合わせを求めるように寅之助の顔を覗き込むと、眼差しの意図に気付いた彼も大仰に肩を竦めてみせた。運動施設で座禅を組むという修行は同じ日本人でも聞いたことがないようだ。


「黒や紺しかイメージなかったんだけど、焦茶色の僧衣もあるのね。大鳥さん、どの宗派の〝お坊さん〟か、分かります?」

「自分は別に〝知恵袋〟ではありませんから、装束の色だけで宗派を読み解くことはさすがにちょっと……」


 希更が口にした疑問はこの場の誰もが共有するものである。その僧衣が儀式に用いる物ではなく作業着と同じ用途の〝略服〟であることを区別できた者は一人もいない。

 腰回りに目を転じてみれば、長年に亘って使い古されたものとおぼしき縄を帯の代わりとして僧衣の上から締めているようだ。想像の中で両手を伸ばし、掴んでみても五指が余るほど太く、角界の頂点が用いるような綱と表すほうが正確に近いことであろう。

 胴が抉れて骨身も軋み、呼吸すら困難になるほど強く強くを締め込むという苦行をもってして悟りの道を求めているのかも知れない。


サンタロサも腰に鉄の鎖を巻いていたと聞いたが、……神や仏を信じる人たちも大変だな。苦痛を代償にしないと降りてこないんだから神秘体験とやらもラクじゃない――)


 キリサメが心の中で呟いた『サンタロサ』とは一六世紀のリマに生まれ、死後半世紀を経て『列聖』の名誉を授けられたアメリカ大陸最初の聖人である。その肖像画は紙幣にも刷り込まれている為、信仰とは無縁の世界で生きてきたキリサメもペルーという国家くにを形作る二つの民の血を引いていることまで知っている。

 聖書にも記された受難劇を巨像によって表現し、これを大勢で担ぎながらリマ市内を練り歩く『聖行列プロセシオン』はサンタロサの『聖体』が安置された教会から大聖堂カテドラルへ出発するのだ。キリサメも幼い頃から・ルデヤ・ハビエル・キタバタケと――今はもう体温を感じることの叶わない幼馴染みと何度も見物していた。

 この聖人に由来する祝日にはバラの冠で美しく飾られた巨像が敬虔な信徒たちによって担がれ、詰め寄せた市民に見守られながらリマの町を進んでいく。伝承によるとサンタロサはイバラを模したであろう鉄の冠を被って己に〝試練〟を与え続けたそうだ。

 視線の先で座している仏僧は信仰の在り方こそ異なるものの、リマのサンタロサと同じように敢えて険しい〝道〟を求めていく高潔な精神を身に宿しているのだろう。


(――安上がりといかないのは僕のなかに眠っているモノだって一緒だけどな……)


 キリサメはキリスト教にける〝受難〟と照らし合わせることによって仏僧の〝苦行〟を理解しようと試みた。サンタロサに倣わんとする敬虔な信徒は現代にも多い。『聖週間セマナ・サンタ』には食事を絶ち、十字架刑の再現という〝儀式〟へ臨む者は実際に手足を釘で貫くそうだ。

 無論、仏僧の背中に正答こたえたずねるほどキリサメも無神経ではない。他人に野球の話題を向けることはないと希更も述べていたが、信仰もまた禁忌の一つであると亡き母から強く教えられている。


「ていうか、アメリカからふらりとやって来た人なのよね? それじゃ、あの人、〝向こう〟のお坊さん? 体格的に欧米系にも見えないけど――そもそも向こうでは仏教ってどんな感じなのかしら」

「お住まいはロサンゼルスだそうですが、おそらく日本のかたで間違いないかと。以前、当施設に日系アメリカ人のお孫さんという方がお見えになられたこともありますが、あちらのお坊さんは日本語の発音イントネーションというか、喋り方もと全く一緒でした。しかも一人称が『しょうせい』だったのです。現実リアルに使っている人を生まれて初めて見ましたよっ」


 『せっそう』ではなく『小生』――仏僧は自らを指して『小生』と称したというが、どうやらが係員を何よりも昂揚させたようだ。小一時間前の出来事を振り返る声は裏返りそうになるくらい上擦っていた。


「ロサンゼルス在住の日本人僧侶ってコト? ……頭の中がこんがらがっちゃうわね」

「ご両親ともアメリカ人でありながら熊本県出身の日本国籍。おまけにミャンマー伝統武術の使い手というバロッサさんの経歴プロフィールのほうが強烈に混線するのでは? その上、父方のお祖母ばあさんに至っては女性初の統合参謀本部議長。はっちゃけた設定の多い『イシュタロア』でもこれはやり過ぎと採用されないレベルではないですか」

「西洋剣術を極めた声優事務所のマネージャーっていうのも十分にアニメの設定っぽいコト、大鳥さんは一秒でも早く自覚したほうが良いと思いますよ。〝バトル系〟な上に常時鎧装備っていう濃い口設定の幼馴染み持ちってトコもねっ」


 日本人離れした容貌の希更・バロッサが口にすると滑稽に思えてしまうものの、大鳥が述べてくだんの係員が「ロマン増し増し特盛おかわりですっ!」と前のめりに相槌を打った通り、彼女は起源ルーツこそアメリカに持ちながらも祖国は紛れもなく日本なのである。

 アメリカは〝両親の出身地〟に過ぎず、祖父母や『バロッサ・フリーダム』の支部道場を訪ねる〝旅行〟以外には滞在経験もない。それ故、アジアを発祥とする仏教と〝海の向こうの国〟が脳内あたまのなかで結び付いていかないのだ。


「僕にも『ブッディズム』は全然分かりません。ペルーの〝日系文化〟も多少は知っているつもりですが、両親が日本人というだけでは接点があったところで馴染むものでもありませんし……」


 小首を傾げて理解が及ばないことを示した希更を受け止めるようにキリサメはすぐさまに頷き返した。

 希更が持て余した疑問に関しては、現場マネージャーとして行動を共にしている大鳥聡起よりもキリサメのほうが理解が深いといえるだろう。

 日系ペルー人とはいえ、キリサメの両親は純粋な日本人である。故郷ペルーに根差した日系人社会については悲運と表裏一体の歴史も〝現実〟として把握し、亡き母の教育によって日本語も習得しているが、〝両親の出身地〟のことは養父にいざなわれて移住するまでは無知にも等しかった。未だに知らないことばかりで、下北沢の町でさえ一人では道に迷ってしまう。

 生まれ育った国と〝血〟の起源は分けて考えるべきと、実感を伴って知っていればこそキリサメは「かくいう僕も良く分からずに死んだ母を火葬したくらいですから」とも言い加えたのである。


「ボクが調べた限りじゃペルーは土葬が一般的だったよね? しかも、ロッカーみたいな集合墓地に亡骸を葬るっていうヤツ。小部屋が縦横に並んでるからカプセルホテルにたとえたほうが合ってるかなぁ」

「さっきも話しただろう? 『ブッディズム』は分からないけど、〝日系文化〟を全く知らないワケじゃない。毎年、夏には日本の祭りを再現した『マツリ・アエル』という催しもあるんだよ。死んだ母も神輿とやらに生まれ故郷の血が騒ぐと話していたんだ」

「夏祭りの再現……ねぇ。それはボクのチェックから漏れてたなァ。サメちゃんが映り込んでいそうな動画ばっか見繕ってたから仕方ないか――わざわざ今みたいな話を持ち出したってコトは、お母上の火葬もってワケかな?」

「……故郷ペルーから日本こっちへ持ってきた数少ない物の一つだよ、……母さんの遺骨は」

「そりゃまた貴重な身の上話に心から感謝ってトコだけど、今の話とは一ミリもカスッてないんじゃない? サメちゃん、前後の脈絡を無視トバして回想始めるタイプだったっけ?」


 気持ちばかりが先走ってしまったキリサメの擁護は適切であったとは言い難く、会話に耳を傾けていた寅之助も冷やかすような調子で肩を竦めて見せた。


(……沙門氏のようにはいかないと分かっていたハズなのにな。慣れない真似はするもんじゃない……)


 四人は依然として縦に並んだ状態で半開きの扉から仏僧の様子を窺っている。一番上の希更に不器用な擁護ことばを捧げる最中、一番下で片膝を突く大鳥の両肩が僅かに上下し、そのさまをキリサメも視界に捉えてはいたものの、本人の顔を覗き込むわけにもいかず、如何なる感情を表しているのかを読み取ることは叶わなかった。

 遅刻者とおぼしき〝ママさんバレー〟の一員が誰からたずねられたわけでもないのに「これから出発しようってときに限ってお客さんが来るんだもん。しかも、しつこいの! 運動前だってのにすっかりくたびれちゃったわよぉ」と一方的に話しつつ屋外そとから正面玄関エントランスへ入ってきた為、係員による説明も打ち切りとなった。


「あっ、履物! 履いておられた靴が余りにも変わっていてギョッとしました! お坊さんの服にロングブーツを合わせるコーディネートは〝格ゲー〟みたいだなって!」


 くだんの係員は他にも〝何か〟を伝えたかった様子であるが、受付で騒々しい客に捕まってしまい、もはや、解放されそうもなかった。

 そうなると四人もいよいよ居た堪れなくなる。同意を得るまでもないと判断したらしい希更が「あんまり邪魔するのもいけないわよね」とメインアリーナの扉を閉ざしたが、他の三人も不満を洩らすことはなかった。

 キリサメも希更の判断こそ正しいと考えているが、心残りが一つもなかったといえば偽りとなる。徐々に閉ざされていく扉を未練がましいとさえ思えるほど見つめ続けていた。

 下見のつもりで総合体育館に足を向けたものの、明日の初陣へ臨む気持ちを整えることはできなかった。メインアリーナの様子さえ屋外へ出る頃には頭から抜け落ちてしまっていた。四方の窓から差し込む光や、これを反射するコートの眩しさだけが曖昧な印象として残った程度である。

 結局のところ、キリサメの強く記憶に刻み込まれたのは焦茶色の装束を纏い、己を覗き見ている人々の会話が鼓膜を打とうとも一言も発しないまま座禅を組み続ける仏僧の後ろ姿のみというわけだ。


(――ああ、そうだ。何かに……誰かに似ていると思ったら岳氏の教え子とそっくりなんだな、頭のてっぺんを突っ張ったようなあの姿勢は。……名前はしんとうだったかな)


 屋内運動場アリーナの中央で胡坐を掻くという奇妙な行動だけが強い違和感として刷り込まれたわけではない。正座と座禅では座り方からして異なっているものの、端然と背筋を伸ばした姿は『フルメタルサムライ』――岳が「世界最高のMMA選手」とまで称賛した進士藤太を彷彿とさせるのだ。

 動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』でたった一度、視聴しただけであるが、生まれて初めて触れた『NSB』の試合だけに忘れられるわけがない。

 物理的接触時に生じる衝撃を肉体への描画によって可視化するプロジェクションマッピングや、選手の心拍数・有効打の威力及び命中精度をリアルタイムで測定する機械など最先端技術を結集した『CUBEキューブ』はSFサイエンスフィクションと見紛うばかりであり、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催してでもシステムを盗み取らんとする樋口郁郎の気持ちがキリサメにも理解できたのだ。

 選手の状態コンディションが白日の下に晒される『CUBEキューブ』は現在いまの『天叢雲アメノムラクモ』には再現し得ない戦略をもたらしていた。格闘技新時代の幕開けともたとえるべき場景であったが為に古武士の如き佇まいが一等際立ち、キリサメの脳にも鮮烈に刷り込まれたのである。

 墨汁を吸い込んだ毛筆としか表しようのない極太の眉も記憶に焼き付いている。

 その『フルメタルサムライ』は光に彩られた闘いを師匠直伝の『超次元プロレス』で制し、マット上に崩れ落ちた対戦相手が医師から応急手当を施されている間、八角形オクタゴンの戦場で正座し続けたのだ。

 記憶に焼き付いた古武士フルメタルサムライも、扉の向こうで今も座禅を組み続けているであろう仏僧も、どちらも天を衝く柱のようキリサメの瞳に映っていた。だからこそ、顔も声も知らない後ろ姿に自分でも不可解と思えるほど引き付けられてしまったのである。


「キリキリ~? どったの? やっぱり、もっと見学しとく? 係員さっきの人に頼めば二階席からそっと覗かせて貰えるかもだけど?」

「いえ、……大丈夫です。お構いなく――」


 もはや、本人の意識を超え、本能的な部分に衝き動かされた肉体の反応としかたとえようもなかったが、キリサメは離れゆく扉を足まで止めて幾度も幾度も振り返っていた。



 翌日にはMMA興行の会場となる総合体育館は奥州市内でも特に広大な公園の一角に所在している。キリサメが初陣プロデビューを飾る舞台も数多の運動施設の一つであった。

 その総合体育館に隣接する多目的運動広場は観客席も完備されており、サッカーやラグビーの競技大会も開催されている。同じ敷地内には見上げるほど背の高いクライミング競技のウォールまで併設されているのだ。

 ソリを楽しむ人工芝のゲレンデや築山のような形状の巨大トランポリンなど子どもたちの遊戯施設も多く、家族でバーベキューを楽しむ設備も整っていた。

 総合体育館を後にしたキリサメたちが足を向けたのはパターゴルフのコースに程近い水路である。六月の東北だけに真夏にはまだ遠いが、気早な子どもたちは小川や池に入り、大喜びで水遊びに興じていた。

 池には彩り豊かなタイルやガラス玉が敷き詰められている。つい先ほどキリサメたちが目の当たりにした仏僧の禿頭あたまと重なるわけではないが、陽の光が差し込むと水底で星屑のように煌めくのだ。その美しさに子どもたちは両手を打ち鳴らして昂揚し、これを見守る大人たちの心も賑やかにしていた。


「――両親が日本人というだけでは接点があったところで馴染むものではない。日本をアメリカに置き換えれば、アマカザリさんが仰ったことに一理ないわけではありません」


 水路の脇を抜ける小道から子どもたちの様子を微笑ましく眺めていた大鳥聡起が不意に思いも寄らないことを呟き、キリサメは眠たげなまぶたを少しばかり見開いた。

 そのキリサメは今日まで大鳥に対して顰め面や冷たい眼差しといった印象しか持っていなかった。しかし、互いに池の水を掛け合い、大人たちに窘められながらも元気いっぱいに笑い続ける子どもたちを見つめる表情かおは柔らかく、案外に人間味豊かであったと驚いてしまったのである。

 同じ感想を抱いたらしい寅之助が「いたいけなお子様たちにニヤけた顔で舌なめずり。日本では即通報だけど、ペルーでも一緒?」と揶揄した直後だけに二重の意味で息を呑んでいた。

 当然ながら寅之助のことは冷たくめ付ける大鳥であったが、本人の意志とは関係なく悪口に巻き込まれてしまったキリサメを一瞥する瞬間、眉間に寄せられていた皺の数が僅かに減った――目の錯覚でなければ、当人キリサメにはそのように感じられた。


「縁のない土地のことは分からなくて当然ですよ。自分も地図や資料本を読むまで岩手のことは無知も同じでしたから」

「アメリカと仏教が希更氏の頭の中で上手く噛み合わないのは当たり前ではないかと。かくいう僕も『マツリ・アエル』で――で何をやっていたのか、殆ど意味が分かりませんでした。おぼえているのは出店の焼きそばの味くらいです」

「祭りに屋台が出るのはアマカザリさんの故郷も日本も変わらないようですね。自分も話に聞いた程度で実際に口にしたことはありませんが、アメリカでも日本食の店が盛んのようですし、焼きそばが海を渡っていても不思議ではないでしょう」


 一つの答え合わせを求めるキリサメに頷き返したときも大鳥の眉間に皺はなかった。

 その態度が希更には余りにも意外であったのだろう。己のマネージャーに対する驚愕は計り知れず、目玉が飛び出すのではないかと心配になるような表情を見せた。


「……成る程、そうか。希更氏が話していた〝屋台村〟がどういうものか、今になって少し分かった気がします。あの平べったい麺が恋しくなりました」

「平べった――えっ? 焼きそば? 自分の知っている焼きそばと違うような……カッパ巻きとカリフォルニアロールの違いみたいなものなのか……っ?」

「あたしに続いて大鳥さんも頭がこんがらがっちゃったみたいですね。頭の中は〝ペルーの焼きそば〟で一杯でしょ? きっと今夜はじゃじゃ麵を食べると予言しときますよ」

「じゃじゃ麵? じゃじゃ麵とは一体……自分の頭は今、きし麵に取り憑かれていたのにじゃじゃ麵……っ⁉」

「カリフォルニアロールを知ってて、じゃじゃ麵知らないって逆に有り得る? うちの母なんて盛岡でそれを食べるのがお目当ての一つって言ってるくらいなのに」


 暫くは面食らったまま幾度も口を開閉させ、心境の変化を勘繰るような目を大鳥に向けていたが、話題が〝ペルーの焼きそば〟へ及ぶ頃には二人の様子を交互に見比べ、愉快そうに顔を綻ばせていた。

 無論、希更が微笑む理由が当事者の一人であるキリサメには理解わからない。

 冷やかすような視線の意味が伝わったらしい大鳥のほうは仕切り直しの咳払いを引き摺りながら目を逸らし、「お母上はセコンドと夜行列車の旅、どちらが目的なのですか」と効果があるとも思えない反撃を苦しげに吐き出したが、これは希更の笑顔によって切り捨てられてしまった。


「アメリカ全体で考えるから纏まるものも纏まらなくなるのですよ。超大国ですよ? 範囲が広いなどというものじゃない。自分が僧衣の色で宗派を見分けられなかったのと同じようにね。どちらもある程度、絞り込まなければ」

「露骨に話題を変えたねぇ、サトさん。ヘヴィガントレットさんから教わったように仕切り上手だね~。小中高と生徒会長を務めただけのことはあるよ。あっ、小学校は児童会長だっけ? それにしても幼稚園から一緒とは〝筋金入り〟だなぁ~。電ちゃんとボクでさえ小学校からなのに」

「……アマカザリさんに倣って係員のかたが仰られたことを振り返っている間に大きな手掛かりを一つ残してくださったと気付きました。宗派まで明らかにするのは難しいと思いますが、寺院を構えた先くらいは割り出せるかも知れません」


 揶揄の言葉は受け流しつつも物心つく前から傍らにいた幼馴染みが他にも余計なことを喋らなかったかとただすような視線を寅之助に叩き付けた大鳥は、咳払い一つを挟んだのち、己の推察を多分に含むと前置きして係員の説明はなしを引き取った。

 それは同時にペルーで催された――『マツリ・アエル』を例に引いたキリサメに対する相槌の代わりでもあった。


「先程の話で手掛かりになりそうな材料ものとしたらロサンゼルス――ひょっとして、……リトル・トーキョーですか?」

「ご明察。……ペルーの〝日系文化〟をご存知だとご自分でも話しておられましたが、アマカザリさんは日系人の歴史全般について明るいようですね。今まさに舌の上に乗せようとしていた地名を先に述べて頂けると手間を省けて助かりますよ」

「手前味噌になりますけど、死んだ母の教育が良かったんです。リトル・トーキョーに関しては岳氏とモニワ氏の――『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』の共同会見で初めて知ったくらいですので、そこまで言われると申し訳ないです」


 大鳥にも答えた通り、ロサンゼルスの一角を占める日本人街――リトル・トーキョーは日米MMA団体が『コンデ・コマ・パスコア』の開催に向けて共同記者会見を行った場所である。

 そのときの模様をテレビのスポーツ番組で視聴したのはおよそ四ヶ月前のことであり、何事にも無関心なキリサメも地上一八メートルに達するであろう赤いやぐらと併せてリトル・トーキョーという地名なまえを記憶に留めているのだった。


「リトル・トーキョーと日系社会を紐づけられるのはあたまがあったればこそでしょうに。そこで謝られてしまうと自分こちらのメンツまで丸潰れですよ。……今日はただでさえ軽率な行動をほじくり返されてばかりですから、いよいよ立場がありません」

「運動着の中に汗が染みた背広で混ざっておいてメンツも何もあったもんじゃないと思いますよ。さっきの係員ひとがあたしに気付いたのだって大鳥さんの悪目立ちが原因みたいなもんだったし。変装した意味ないじゃん」

「髪の毛をなつめに染めた人より目立つって相当ヤバいよ。ちなみにはヘヴィガントレットさんにプレゼントしといたから。チャット・アプリは撮影から送信まで一つのソフトで済むから便利だねぇ~」


 キリサメに対して大鳥は自嘲と皮肉を織り交ぜたような言葉を返したものの、リトル・トーキョーという推察そのものには素直に首を頷かせている。その一方で希更と寅之助による揶揄の言葉は無反応で受け流した。

 それよりもキリサメが気になったのは寅之助の様子である。ロサンゼルスという都市が話題にのぼっても間もなく、ほんの少しばかり神妙な面持ちで天を仰ぎ、こうべを垂れたのだ。

 寅之助が一礼する姿をキリサメはこれまでに何度も目にしており、この所作うごきに込められた想いも知っているつもりだが、〝今〟、を行う意図がどうしても読めなかった。


「自分の記憶が間違いでないのなら、アマカザリさんが挙げられたリトル・トーキョーには数多くの寺院おてらさんがあった筈ですよ」

「つまり、そこが日系移民にとって心の拠り所だった――ということでしょうか?」


 意味は分かっても意図が解せない寅之助の様子を気にしつつも、キリサメは別の答え合わせを求めるよう大鳥に視線を巡らせた。


「ペルーの日系社会でも同じ動きがあったものとご拝察しますが?」

「仏教の位牌とキリスト教の十字架を一緒に置くような儀式も見たおぼえがあるので〝心の拠り所〟といえるくらい厳密ではないかも知れません」

「……きし麵のような焼きそばの話を伺った今なら、かと理解わかりますよ」

「リマから一〇〇キロ以上離れているので僕自身は行ったこともありませんが、南米最古の仏教寺院が所在るのも故郷ペルーです。第二次移民船の頃、日本から渡ってきた仏僧ひとが開いたと聞いたことがあります。現代いまはともかく昔の日系人には――いえ、故郷ペルーでただ一つの仏教寺院ですから現代いまでも〝心の拠り所〟として大切に思っている人も多いハズです」


 「あたま」という二字でもって評された通り、リトル・トーキョーという地名なまえを挙げた大鳥の説明はなしに対するキリサメの理解は極めて速やかであった。

 南米最古と伝承されるくだんの仏教寺院はキリサメが生まれる九〇年前の一九〇七年――日本では明治四〇年――に建立され、二〇一四年までに二度の移転を経ながらも開拓の夢半ばで力尽きた日系移民たちのたましいを弔い続けているのだと、亡き母から教えられていた。

 建立の翌年には日本人学校も創設されたそうである。現地を訪ねたことのないキリサメのなかでは実感が伴わないものの、激烈な排日運動に晒された日系人が〝心の拠り所〟としたことは間違いあるまい。

 その寺院は〝移民の聖地〟と呼ばれており、二〇〇〇柱を超える位牌や遺骨が現在いまも安置されているという。

 大鳥が述べたリトル・トーキョーの仏教寺院も故郷ペルーける〝移民の聖地〟と同様の歴史を辿ったのであろうと、キリサメは推し量っていた。イズリアル・モニワの祖先が根を下ろしたハワイの移民史を紐解いても類似する記述が見つけられるはずだ。


「リトル・トーキョーに所在寺院おてらさんの一つは『ジョナサン事務所』社長のお父上が戦前に代表を務めたそうですよ。境内へ日本の人気歌手を招いてコンサートを開催したり、その寺院おてらさんは日米の文化交流の拠点でもあったと記憶しています」

「代表ということは僧侶……だったのですよね?」

「アマカザリさんが不思議に思うのも理解わかりますが、日本の寺社は大昔から土地々々の文化と深く結び付いてきましたからね。広い意味では寺院おてらさんの活動から外れてはいませんよ。ペルーで行われたという――同じような催しはリトル・トーキョーにもあるそうです。その音頭を取ったのも『ジョナサン事務所』社長のお父上であったかと。他の寺院と連携して大々的に盆踊りもやったと聞きましたね」

「ボンオドリ――僕も微かに聞いたおぼえがありますね……。ひょっとしたら見たことがあるかも知れません」

「ていうか、サトさん、やけにリトル・トーキョーの事情コトに詳しいね。LAロスにホームステイしてたとか? ヘヴィガントレットさん、そのテの話はしていなかったんだけどな」

「自分も一応、〝芸能事務所〟の末席をけがす人間ですので、芸能史は一通り、頭に叩き込んでいます。……あのですね、依枝さんはあなたたち――グループの皆さんにどれくらい余計なコトを喋っているのですか? もはや、怖くなってきたのですが……」

「ボクらのゲーミングサークルはサトさんが産声を上げた産婦人科まで知ってますよ」

「……依枝さんに直接、問い質しますので他のことは結構っ。バロッサさんも聞き耳を立てないでくださいっ」


 厭味の二字を顔面に貼り付けた寅之助と、堪え切れず片膝を突きながら大笑いする希更を一等大きな咳払いでもって窘めたのち、『ジョナサン事務所』とは男性アイドルの活動を支える芸能事務所プロダクションである旨をキリサメに解説した。

 リトル・トーキョーの仏教寺院にまつわる説明はなしの中で大鳥が『ジョナサン事務所』に言及した際、キリサメは僅かに眉根を寄せていた。前後の脈絡から希更が所属するような芸能事務所と読み取ってはいたのだが、大鳥の側でも企業名すら初めて聞いたのであろうとキリサメ反応リアクションで察した次第である。


「丁度、一九三二年に開催された〝最初〟のロサンゼルスオリンピックの頃だったのですよ、『ジョナサン事務所』社長のお父上が寺院の代表を務めたのは。生まれる前のことですし、自分も記録でしか存じ上げないのですが、日本人選手が表彰台に上がるたび、日系移民の人たちは涙を流して喜んだそうです」


 大鳥が例に引いた〝最初〟のロサンゼルスオリンピックとは以前に岳から聞かされた第一〇回大会のことであろうとキリサメは直感した。同大会は亡き母の授業でも取り上げられた為、後年の一九六四年東京オリンピックを成功に導いたばたまさ率いる水泳チームを筆頭に次々とメダルを獲得したことも知っていたのだ。

 馬術競技に出場した『バロン西』こと西にしたけいちと愛馬・ウラヌスによる人馬一体の勇姿には日系人女性の誰もが恋に落ちたという――これは大鳥が付け加えた情報ことである。

 人種のみで優劣を一方的に分けられ、アメリカ社会から爪弾きにされ、あらゆる意味で不遇を被っていた日系移民とその子孫にとって、オリンピックという平和の祭典にける日本選手団の偉業は己の起源ルーツに誇りを取り戻すきっかけであり、地上に生まれた人間は誰もが平等であることを確かめたのであろう。

 一九二八年アムステルダムオリンピックで日本初の金メダル獲得を成し遂げ、続く一九三二年ロサンゼルスオリンピックでは旗手も務めた陸上選手――みきが語ったところによれば日系人は練習場にも殺到し、実際の試合さながらの声援を爆発させたそうだ。

 日本選手団を迎えたリトル・トーキョーでは競技活動を支援する為に寄付金まで集めたそうである。同地で暮らす人々の〝心の拠り所〟であった寺院も自分たちの起源ルーツを誇らしく感じられるオリンピックを盛り上げるべく何らかの形で貢献したのかも知れない――大鳥は自らの〝憶測〟も言い添えた。


「音楽やスポーツ、それにプロレスも国境を超えた共通言語だと死んだ母親も良く話していました。例の社長もロサンゼルスのオリンピックに影響を受けたのでしょうか」

「それはどうでしょう? 当時、『ジョナサン事務所』の社長は二歳にも満たなかったハズですし、実感として日系社会の熱狂をおぼえていたかどうか……」

「自分の故郷のコトだもん。記憶になくたって触発されたと思いますよ、絶対。あたしも宮崎県の風習とかハワイの人たちの気風とか、自分のコアな部分と同じように感じるし」

「自分の出演てるアニメのコトだけに魂の故郷って言いたいの、この人は? 傍から聞いてる分にはさっきのサメちゃんみたく見当違いで雑な擁護フォローに聞こえるねぇ~」

「かもね。でも、〝何〟を魂の起源ルーツに定めるかは自分勝手に決めても良いんじゃない?」


 寅之助から投げ掛けられた揶揄の言葉を涼しげな顔で受け流した希更は、自身のマネージャーに片目を瞑って見せた。


「……『ジョナサン事務所』の社長はオリンピックの翌年にご家族でリトル・トーキョーから日本に引っ越し、生まれ故郷ロサンゼルスに戻ったのは戦後になってからと聞いています。かつてお父上が代表を務めた寺院でのコンサートにも携わったそうなので、バロッサさんが仰ったコトも大きく外れてはいないのかも知れませんね」


 それから紆余曲折を経て再び日本に戻り、アイドル事務所の創設に至ったと語ったのち、大鳥は選ぶべき言葉に迷っているかのような表情かおで口を真一文字に結んでしまった。


「……太平洋戦争が始まったことでリトル・トーキョーはゴーストタウンも同然の状況に陥った上、くだん寺院おてらさんも一時は封鎖せざるを得なくなったそうですから、社長ご本人の苦労も並大抵ではなかったと想像できますよ」

「……ロス五輪を持ち出したサトさん相手に言うコトでもないけど、不当な扱いに苦しめられたのは〝日系人〟だけじゃないよ。あの頃は海を渡った〝日本人〟だって散々な目に遭った。……日本人街が廃墟になるのは少しも不思議じゃないね」


 大正から昭和――即ち、戦前から戦後に至る剣道の〝全て〟をその身に叩き込まれた寅之助も日本人街の変貌を受けて、堪え難い〝何か〟が込み上げたようだ。如何にも不愉快そうに鼻を鳴らし、「肌の色が違うってだけで下らない真似をするヤツは今も昔も変わらないもんな」と一等冷たい声で吐き捨てた。


「……大統領令九〇六六号か……」

「……ん? サメちゃん? 今、何か言った? バロッサさんに文句をぶつけるなら蚊の鳴く声じゃなくて腹から声出してあげなくちゃダメだよ」

「キリキリがイヤ飛ばすように見える? キミじゃあるまいし」


 我知らず洩らした小さな呟きが寅之助に聞こえてしまったようであるが、これ以上は何も話すつもりなどないと、キリサメはかぶりを振って示した。

 アメリカと同様に故郷ペルーの歴史にいても日系人は排日運動など様々な試練に見舞われてきた。その多くは太平洋戦争のなかに巻き起こったことである。各国の情勢と連動するようにしてペルー国内でも不当逮捕も横行し、日米間の人質交換に利用するべくへ〝強制送還〟された日系人も少なくなかった。

 当時のルーズヴェルト政権は日本で拘束された自国民とを引き渡すよう中南米諸国に求めていた。故郷ペルーで起きた〝人質交換プログラム〟と呼ばれる悲劇を知っていればこそ、キリサメは大鳥が言い淀んだ事態ことを即座に理解できたのだ。

 大統領令九〇六六号の発令に伴う強制収容によって、アメリカ最大の日本人街から日系人の姿が消え失せた。これもまた亡き母の授業で教わったことである。

 日米間に横たわる揺るがし難い〝歴史〟である為、大鳥は自身が担当する声優の前で語ることを躊躇ったのだ。人権を脅かす内容を含んでいればこそ彼や寅之助の言葉は極めて重く、池のほうから飛び込んでくる子どもたちの明るい笑い声がを際立たせていた。

 である希更でさえ「肌の色が違うというだけで下らない真似をする人間は今も昔も変わらない」という寅之助の言葉には苦悶に近い表情を浮かべたのだ。


「飲み込みが遅い僕にも何となく掴めてきましたよ。確かにロサンゼルス在住という情報は大きな手掛かりでしたね」

「それだけで結論出しちゃうのはヤバいんじゃないの? 森寅雄先生もアメリカ時代はカリフォルニアで暮らしていたからボクも結構調べたけどさぁ、一口にLAロスって言ってもめちゃくちゃ広いじゃん」


 他人ひとを小馬鹿にするような差し出口であるが、森寅雄――タイガー・モリという名前には決して一礼を忘れない。それが伝説の剣道家から『寅』の一字をけた青年なのだ。

 寅之助とは小学校以来の幼馴染みである電知に教わったことだが、大正から昭和を生きた森寅雄タイガー・モリは海を渡った先で体得したフェンシングにいても全米をしんかんさせ、大戦せんそうの影響による開催断念の憂き目にさえ遭わなければオリンピックという晴れの舞台で最高の名誉に輝いたであろうと、半世紀を経た現在いまも剣の道を志す誰もが信じて疑わないそうだ。

 正真正銘の『タイガー・モリ式の剣道』という前置きを挟んで寅之助が繰り出した左片手一本突き――〝森寅雄の奥義〟の原点であろうフェンシングに携わっていた時代はカリフォルニア州を拠点にしていたようである。

 つい先程のことだが、同州の名称なまえを耳にした寅之助は何故か天を仰いで一礼していた。改めて本人に確かめるまでもなく、森寅雄タイガー・モリが〝虎の牙〟を研いだ足跡を振り返り、その名を心の中で唱えていたのだろう。

 肌の色が違うというだけで下らない真似をする人間は今も昔も変わらない――彼が吐き捨てた一言は、アメリカで何らかの不遇を被った森寅雄タイガー・モリに捧げられたものと察せられた。


「もう一個、付け加えるなら森先生がフェンシングの道場アカデミー開設ひらいたのもカリフォルニアだよ。日本人がブイブイ言わせていたのは何もLAロス限定ってワケじゃないのさ」

「別に構わないんだよ、寅之助。当たり外れ以上に僕には勉強になったから」

「サメちゃんはホントさぁ、……MMA以外の頭脳労働を生業にしたほうが良いって」


 総合体育館で遭遇した仏僧おとこが『ジョナサン事務所』の社長とえにしの深い仏教寺院に籍を置いているのかは定かではないが、日本人僧侶を受け入れる土壌がアメリカに――リトル・トーキョーに確立されていることはキリサメにも十分に理解できた。


「――ここ、リトル・トーキョーは日米にとって極めて大切な意味を持つ場所です。歴史あるこの町で本日の共同発表を迎えられたことが心から嬉しく、同時に大変な名誉であると身が引き締まる思いであります」


 赤いやぐらの下でイズリアル・モニワと臨んだ共同記者会見にいて養父の八雲岳はそのように熱弁していた。キリサメはその意味を一等深く噛み締めた心地である。


「気分転換のつもりで出掛けたのに大鳥さんの所為せいでどんどん難しいハナシになっちゃって、一時はどうしようかって困ったけど、とりあえず結果オーライって感じかな? 手足の動きも左右交互に戻ったみたいだし」

「……自分が原因にされるのは甚だ心外ですがね……」

「いや、サトさん一人だけイヤの叩き売り状態だったじゃん。身辺警護ボディーガードの立場から言わせて貰うとサメちゃんの号令ゴーサインで速攻、お仕置きに行くレベルでしたよ」

「瀬古谷さんにだけは言われたくありませんがねっ」


 自分の顔を覗き込み、「あたしが妙に気を回し過ぎちゃってたら、ごめんね」と、安堵した様子で二度三度と首を頷かせた希更に対してキリサメは俯き加減で頬を掻いた。

 思えば宿所からランニングへ連れ出してくれたのも、初陣の舞台となる総合体育館の下見を提案してくれたのも希更である。つまり、心に垂れ込め、MMA選手としての行く末を見失ってしまいそうになるドス黒いもやを見抜かれていたわけだ。

 岳は『天叢雲アメノムラクモ』ファンとの交流イベントに朝から参加しており、身辺警護ボディーガードの寅之助を除けばキリサメのトレーニングに付き合えるのは希更くらいであった。気鬱の発散ともなれば殆ど休憩を挟まない長時間のランニングも予想されるはずだが、も承知した上で彼女は迷える少年に救いの手を差し伸べた次第である。


「余裕のないキリキリも可愛かったよ~。ますます母性本能くすぐられちゃったもん」

「……やっぱり、そう見えていたんですね……」

「ちょっと一回、深呼吸してみようかってだけのハナシなんだから大真面目に考えなくても良いんだよ? デビュー戦の直前まえなんてガチガチになるのが当たり前だよ。それを大鳥さんがチクチク言うんだもん。このコの竹刀にバロッサの膝蹴りを合わせるトコだったよ」

「何なら電ちゃんも呼ぶ? 親友おともだちがメンタル的に潰されかけてるって聞いたら仕事放り出してでも報復に動くハズだもん。そこまで想われてるコトにはちょっぴり嫉妬ジェラシーだけどね」

「……それについてはいちごんもありません」


 軽い冗談まで深刻に受け止めてしまうキリサメの緊張を解きほぐそうと、希更は彼の背後に回って両肩を揉んだ。

 ともすれば度を越した接触スキンシップであり、大鳥から剣呑な視線が突き刺さるかに思われたが、当人はキリサメを一瞥するのみで注意の一つも飛ばさなかった。

 仕切り直しの咳払いを挟んだのち、すぐさまそっぽを向いてしまったので顔を覗き込んで表情を確かめることまでは叶わなかったものの、大鳥の眼差しが今までより随分と柔らかく感じられたのだ。キリサメも己の目が錯覚でも起こしたかと疑ったほどである。

 担当マネージャーの責任感もあってか、希更と名前で呼び合うたびに彼は苛立った様子を見せていたのだ。何時の間に心境の変化があったのか、全く読み取れないキリサメはただただ面食らうばかりであった。


 「ああっ、今のは惜しかった。写真を撮っといたらヘヴィガントレットさん、きっと高値で買い取ってくれたのになァ」と冷やかしてくる寅之助には依然として極寒にも等しい眼光を叩き付けているのだ。


「鼓膜に突き刺さるくらい騒がしい二人が隣に居たんじゃそもそも暗い表情かおしてるヒマもないかな。子どもみたいな口喧嘩はともかく、辛気臭い雰囲気よりずっとマシだもんね」


 気鬱と異なる領域に湧いた驚愕さえ掬い取ってしまう希更の細やかな心配りにキリサメは改めて感服し、「おや揃って〝流れ〟を変える名人なんだよな」と心の中で呟いた。

 新人選手ルーキーを優しく気遣ってくれる希更とて試合を明日に控えているのだ。『天叢雲アメノムラクモ』の先輩選手であり、ミャンマーの伝統武術ムエ・カッチューアを教え広める名門――バロッサ家の一族ひとりとはいえ総合格闘技MMAに限ればデビュー戦からまだ二度目の興行イベントなのである。

 それにも関わらず、古豪ベテランの如ききもの据わりようではないか。容易く心が乱れてしまう己との落差もあり、微塵も緊張を感じさせないさまには気圧されるほどであった。

 好きな時間にトレーニングを行える自分とは違い、希更の場合は本業である声優の仕事をこなしつつ、限られた時間の中で試合に向けて準備しなくてはならない。〝兼業〟であるが故の課題を抱えながらも彼女は肉体・戦略の両面を万全に整えているのだ。

 宿所で合流したときにも未稲から調子をたずねられたが、負ける気がしないと間髪をれずに胸を張っていた。MMA選手としての第二戦は、三年前の会合にいてバロッサ家総帥の代理を務めた実母はは――ジャーメインがセコンドに付くというのだから、まさしく必勝の体制なのであろう。

 自信に満ち溢れた姿がキリサメには眩しいくらいであった。


(電知や寅之助――故郷ペルーり合ったニット帽のとも違うな。……希更氏は嫌がるだろうけど、やっぱり腹の据わり方は沙門氏が一番近いんだ)


 そこで再びきょういし沙門の幻像まぼろしがキリサメのなかに浮かび上がった。

 〝天才の感覚〟というものが全く読めないほんあいぜんは除くとして、およそ一〇年前まで遡る日本MMA黄金時代を築いた八雲岳やじょうわたマッチは古豪ベテランに相応しい胆力の持ち主であるが、沙門と希更はと少しばかり異なるようキリサメには思えるのだ。

 ムエ・カッチューアとサバキ系空手――それぞれの道場にいて最高位の師範を親に持つなど希更・バロッサときょういし沙門の間には共通点が全くないわけではない。声優という職業柄、前者は自分以外の誰かに寄り添う気持ちが強く、後者は猛烈としか表しようのない情熱でもって周囲まわりの人々を巻き込み、抗い難い激流に乗せて牽引していくのだ。

 その点については八雲岳とも確かに似通っているのだが、沙門の場合は仲間を募るまでもなく己一人でどこまでも突き進んでいく。それは「先鋭化」と表裏一体の〝若さ〟が為せる業である。そして、そこに『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長との最大の相違ちがいがあった。

 キリサメも沙門のはげしさにてられた一人である。言葉を交わすほど前のめりな気魄に圧倒され、『くうかん』空手の未来へ己の人生を生贄の如く捧げても構わないと断言してしまえる大器おおきさに瞠目し続けているくらいであった。

 きょういし沙門という火種から立ち上り、心の奥底まで流れ込んだもやを振り払うべく奥州の空の下へと走り出したのだが、それは運動以外の方法で己自身の動揺を制御し得ないという未熟の表れである。

 城渡との誓いの戦場リングへ臨む前から暗礁に乗り上げたようなものであった。

 それより以前まえからキリサメは『天叢雲アメノムラクモ』の選手として成し遂げるべき目的まで見失いそうになっていたのだ。日本MMAの先達であるじゃどうねいしゅうを井の頭恩賜公園に訪ねたのも乱れ切った心を鎮める手立てを尋ねたいが為である。

 まさにその場所できょういし沙門と巡り逢ったわけであるから、る意味にいては今日まで悪化の一途を辿っていたようなものであろう。


「そろそろ切り上げないと未稲ミッシーに叱られちゃうわね。〝公開計量〟までにはまだまだ時間があるけど、前日に根を詰め過ぎると本番が台無しになっちゃうもん。次のダッシュでホテルに戻ろっか」


 希更はジャージのポケットから取り出した携帯電話スマホでもって現在時刻を確認した。

 キリサメは太陽を仰ぐ以外に時間を確かめるすべを持たないものの、おそらく正午前であろうことは読み取れた。夕方には出場選手全員が打ち揃う一つのセレモニーが予定されている。宿所へ戻った後に仮眠を取っても十分に間に合うはずだ。


(……〝気の練り方〟を熟知しているんだよな、希更氏は。今から指導を頼んだところで明日の試合で使い物にはならないだろうけど……)


 希更の〝変身〟にキリサメは心の底から感心していた。単純に服装を変えただけではなく、全身から自然と発せられるオーラのようなものまで完全に抑え込んでいるのだ。

 子どもたちが笑顔を弾けさせる池やトランポリンを一望できる場所で四人は長々と話し込んでいた。無論、その間に何人もが脇を通り過ぎていった。

 寅之助が皮肉を交えて指摘したように背広姿の大鳥は公園の風景にも馴染まず、異様なほど目立っているのだが、その隣に立つ野暮ったい女性が今を時めく人気声優であることには誰一人として気付かなかったのである。

 観客を招いての公開計量が執り行われる興行イベント前日ともなれば他県からも希更・バロッサのファンが詰め寄せているはずだ。無用の混乱を避ける為、彼女は持って生まれた華やかさをかなぐり捨て、奥州市の風景に溶け込んでいる。

 別人のように切り替えられる希更の器用さを見ていると、キリサメはついに達成できなかった課題を意識してしまい、これまでとは異なる意味で気持ちが重くなった。

 故郷ペルーで生き延びる為、格差社会の最下層で編み出した殺傷ひとごろしの技――『天叢雲アメノムラクモ』公式サイトの経歴プロフィールには曖昧に『我流』と記されている――をふるう瞬間に剥き出しとなってしまう殺気を自由に制御コントロールできるようになりたい。その目標に向け、MMA選手としての基礎訓練と併せて練習を重ねてきたが、殺陣たて道場『とうあらた』の体験会ワークショップで触れたものしか手掛かりもなく、確かな成果を実感するまでには至らなかったのである。

 希更の〝変身〟も〝気の練り方〟に通じる技術ものであろう。本業では星の数ほどの人々を魅了できる〝気〟を完全に制御コントロールしているのだ。

 一朝一夕で極められる技術ではないと理解わかっているので、デビュー戦までに会得が間に合わなかったことは諦めがつく。己の未熟と割り切ることもできる。一番の問題はキリサメ自身が最重要課題と信じてきた殺気の制御コントロールを岳が全く考慮していなかった点である。

 殺陣たて道場『とうあらた』の体験会ワークショップや、地方プロレス『まつしろピラミッドプロレス』の合宿に参加したのは〝フェイント戦法〟などという付け焼刃の為であったのだ。

 攻防の組み立て方にいて深刻としか表しようがない見解の相違が生じてしまった次第である。岳は「半ば完成されてるキリーの持ち味を生かさない手はねェよ」という一点張りであり、瓦解寸前の戦略を軌道修正する見込みもなくなっていた。

 〝気の練り方〟と比べて現実的な影響が余りにも大きく、生まれて初めてMMAのリングに立つ新人選手ルーキーにとって逼迫の度合いはより深刻なのだ。


「本番なら始まる前から台無しだって言ってあげたら? 餅みたいな人がキレてたけど、サメちゃんってば作戦もメチャクチャなんでしょ? 考えられる最悪の状態なんだから気分転換にもなりゃしないさ。ハッキリ言わなきゃ、まだまだねちっこく付き纏われるよ」

「この場の誰よりもねちっこい人がそれを言いますか。自分が秋葉原の真ん中で仕出かしたことを既にお忘れでは? ……アマカザリさんも――いえ、『八雲道場』もよくこの青年に身辺警護ボディーガードを任せておけるものですね」


 だからこそ、せせら笑うかのような寅之助の声がキリサメの心を軋ませた。

 本人に成り代わって大鳥が窘めてくれたが、希更の心配りによって少しばかり気分が晴れた途端に兼ねてからの問題を想い出したことは間違いないのだ。沙門に対する気後れが蓋の代用かわりになっていたようなものである。

 自分と同じ日に打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』の選手としてプロデビューを迎える沙門は、心身とも最も充実した状態を整えていることだろう。戦略面でも手抜かりなどないはずである。バロッサ家の娘と同様というわけだ。

 格闘家として確固たるモノを備えた人々との落差をまたしても思い知らされ、キリサメは己が惨めでならなかった。

 自分たちの向かう先で生い茂っている木立に目を転じ、これによって隠そうとした気持ちを見破ったらしい寅之助はますます口の端を吊り上げた。

 誰よりも優れた剣道家でありながら〝公式の大会〟で森寅雄タイガー・モリ直系の技をふるう機会が得られない瀬古谷寅之助は〝表〟の舞台にて脚光ひかりを浴びる人間が癪に障って仕方がないようであった。だからこそ声優業とMMA選手を掛け持ちする希更に対して殊更辛辣なのだ。

 こういった態度にはくらい妬みも含んでいるのだろうが、彼の揶揄ことばにも理がある。

 初陣の支えとなり得るモノが全く抜けた状態なのだから、不安を振り払えないのは当然であろう。殺陣たてという〝手段〟に頼って形だけ取り繕っても魂の〝闇〟と一体化した殺気は決して制御コントロールし得ないと突き付けてきたのも森寅雄から一字を授かった青年剣士なのだ。

 己の同じ〝血〟を吸った『聖剣エクセルシス』を振りかざし、〝げきけんこうぎょう〟という形で斬り結んだ相手を疎ましくないと言えば偽りとなるが、〝プロ〟のMMA選手にはあるまじき暴力性を善からぬ意味で刺激する寅之助を身辺警護ボディーガードに望んだのはキリサメ自身であった。

 剣道家の魂であるはずの竹刀に抜き身の暴力性を漲らせ、〝寅〟の一字をけがすような所業を繰り返す青年おとこを鏡として己自身の〝闇〟を見極め、『天叢雲アメノムラクモ』の競技場リングから魂が乖離してしまわないようくさびと換える――養父ともども世話になっている外科医・やぶそういちろうから教えられた〝だいだっ〟である。


「キリキリ? どしたの? ……もしかして、冗談でなくマジでマズい状況なの?」

「寅之助が言っていることを否定するのは難しいのですが、今のはではなくて。希更氏は本当に凄い人なんだなって改めて思っていたんです」


 希更が気遣わしげな表情でキリサメの顔を覗き込んだのも無理からぬことであろう。寅之助の口から初陣を崩壊させ得る不安要素が語られた直後に口を噤み、俯き加減となってしまったのだ。

 その状態で何時までも返事がなければ、体調を崩してしまうほど思い悩んでいるのかと誰もが心配するのだ。大鳥までもが横目でもってキリサメの顔色を窺っていた。


「みーちゃんに希更氏のコンサートの映像を見せて貰ったのですけど、そのときと現在いまはまるっきり別人に見えて、それで……」

「えっ⁉ キリキリってば、あたしにようやく興味津々っ⁉」

「一応、友人のつもりですし……」

「キリキリにだったら、事務所通さず何だって見せちゃうわよ~っ!」


 満面の笑みを浮かべて飛び付いてきた希更をかわし、この筋運びを咎めるような大鳥の咳払いに「手綱はそっちで引いてください」と言外に語る眼差しでやり返したキリサメは、小さな溜め息を挟んだのちに奥州の青空そらを仰ぎ見た。


(……僕のほうから引っ張ってきたんだ。仕切り直さないと悪いよな……)


 不意に小さな人影を想い出したキリサメは誰にも気付かれないよう静かに微笑んだ。


「……あの、もし――」


 女性の声がキリサメの鼓膜を貫いたのは太陽の眩しさに目を細めた瞬間のことである。

 自分たちを呼ぶ声に反応して首を振り向かせたキリサメと希更は、そこに捉えた顔に双眸を見開いて絶句し、幽霊にでも遭遇したかのように揃って相手を指差した。警護対象の少年とは別の意味で何事にも動じない寅之助までもが二人と似たような調子で口を開け広げているのだ。

 格闘技を重大な人権侵害と見做し、これを根絶せんとする思想活動『ウォースパイト運動』――その急先鋒が『NSB』関係者の同乗を理由にアメリカ合衆国大統領の専用機エアフォースワンへサイバーテロ攻撃を仕掛けたことを瞬間的に想い出し、我が身を盾に換えて担当声優を庇いながら背広の内側に隠し持った伸縮式特殊警棒を握らんとする大鳥は、己の緊張を間抜けとさえ感じるような三人の表情かおにこそ面食らってしまった。



                     *



 時間こそ異なっているものの、『天叢雲アメノムラクモ』第一三回興行の開催地である総合体育館からおよそ一〇キロほど離れた場所でもキリサメたちと同じように双眸を見開く者がった。

 『天叢雲アメノムラクモ』にいて統括本部長の肩書きを背負う八雲岳や、試合の際にリングサイドで解説を担当するおにつらみちあき――同団体の要である二人と共にファンとの交流イベントに参加している麦泉文多だ。

 ワイシャツの上からエプロンをつけ、『天叢雲アメノムラクモ』の団体名とロゴマークが白く染め抜かれた青い手拭いでもって頭部を覆っているのは、奥州市内の郷土文化館にてずんだ餅作りを体験している為であった。

 これもまた交流イベントの一環である。団体代表の樋口郁郎が考案し、さいもんきみたかが段取りを整えた企画であるが、『天叢雲アメノムラクモ』では旅行代理店と提携して興行イベントの観戦ツアーを実施している。

 開催前日セレモニーや興行イベント当日に特等席が用意される他、出場選手がゲストとして参加する懇親会などツアー応募者には夢のような二日間が約束されるわけだ。全選手揃い踏みという記念撮影もファンにとっては垂涎の特典である。

 今回は同団体で一番の花形スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルもツアーに同行し、奥州市内の観光名所をファンと一緒に回っていた。現在は郷土文化館が催すずんだ餅作りの体験コースに参加している最中であった。

 ツアー応募者たちは夕方に執り行われる開催前日セレモニーを出場選手の熱気が伝わる距離で観覧し、夜は岳やレオニダスを交えた懇親会で牛鍋を味わい尽くすことになっている。第一回興行と同じ岩手県での開催ということもあり、今回は初めて閉幕後にアフターパーティーが予定されているのだ。

 団体公式オフィシャルの観戦ツアーでもなければ日本MMAの担い手と直接的に言葉を交わす機会など絶無に等しく、を目当てに応募するファンも多い。レオニダスの参加は今回が初めてであり、その効果もあって主催企業サムライ・アスレチックスが用意したプランは過去最速で売り切れた。

 『天叢雲アメノムラクモ』ファンとの交流イベントを盛り上げるのも統括本部長の大切な仕事である。現在いまはツアー応募者が拵えたずんだ餡をまぶす為の餅を鬼貫と二人でいているのだが、岳は試合さながらの吼え声と共に杵を振り上げている。

 麦泉と同じ『天叢雲アメノムラクモ』の手拭いで頭部あたまを覆った二人は〝生涯レスラー〟らしく上半身を剥き出しにし、年齢相応という言葉が全く似つかわしくない筋肉を躍動させていた。


「忍法ずんだ餅の術ってなァ! オラオラオラーッ! お餅になって参りましたァ~!」

「そんな忍術あって堪るか! あんまり適当なコトを言ってると『さなにんぐん』のお師匠に叱られるぞ、岳! 泣き付いてきても助けてやらんからな⁉」


 若きスーパースターに負けまいと張り切っているわけだ。ファンと身近に接する交流会は『しんどうプロレス』で闘っている頃から幾度も経験しており、餅を捏ねる鬼貫とも呼吸いきが完璧に合っていた。


「何回見ても和食の奇跡ミラクルはどこまでもファンタスティックだぜ! オレもブラジルじゃ豆と米を一緒に食べてるけど、このズンダモチはまた〝超次元〟だな! おまけにガク・ヤクモはNINJAニンジャと来たもんだ! コンデ・コマも『ジウジツ』じゃなくて食のニンポーを伝えてくれたら良かったのに――あっ! そしたらオレは今頃、リオの小粋なコックだったかな? それはそれでつまらないか⁉ 煮込み料理フェジョアーダの名人になってたら、こうしてステキな皆さんと出会えなかったもんね! 場末のレストランより『天叢雲アメノムラクモ』さァ!」


 レオニダスが日本でのタレント活動を通じて鍛えた機関銃の如き話術トークと流暢な日本語を駆使して賑やかな空気を作り出している為、旅行代理店から派遣されたツアーガイドも観光名所での解説以外は出番がなかった。

 尤も、これは奥州市のではなく『天叢雲アメノムラクモ』のなのである。鬼貫の捏ねた餅に岳が杵を叩き付けるたび、天井を突き破らんほどの歓声が爆発するのだ。ツアーガイドが手持ち無沙汰という状態こそがイベントの成功を表しているのだった。

 『天叢雲アメノムラクモ』観戦ツアーとそれに附帯するファン交流イベントは主催企業サムライ・アスレチックスにとっても重要な〝事業〟であり、本来ならば途中退席など決して許されない。つまり、麦泉の携帯電話スマホに入ったのは全てに優先する緊急連絡ということだ。

 携帯電話スマホの液晶画面に表示されたのは日本国外で使われている電話番号であった。電話帳に登録してある為、連絡を入れてきた者も一目で分かったが、それ故に麦泉は大仰なくらい首を傾げてしまったのだ。

 八雲岳と行動を共にしていることが想像できるようなときには電話など絶対に掛けてこない名前であった。そして、この週末に『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントが開催されることを間違いなく承知している人物である。有り得ないはずの電話番号を確認したことで麦泉は何とも例えようのない胸騒ぎを覚え、が的中した次第である。

 以前に掛かってきた電話も穏やかならざる内容であったのだ。そのときはキリサメ・アマカザリの不祥事を樋口が権力のによって覆したことに憤激していた。


「――釈迦に説法でもこれだけは言わせて下さい! 俺たち格闘家は主催者に命を預けるのと同じなんですよ⁉ だからこそ、ちょっとやそっとでは絶対に揺るがない信頼関係で結ばれてなくちゃいけないんです! あの男がやったのはパートナーシップとは正反対のことなんですよッ! しかも、これからデビューしようという若い選手を裏切るなんて言語道断ッ!」


 鼓膜を破かれるのではないかと思うような怒号が麦泉の脳裏に甦った。

 通話相手は樋口が新人選手キリサメ・アマカザリの心より『天叢雲アメノムラクモ』の沽券を優先させたことを責めていたのである。ただその為だけにキリサメは故郷ペルーで犯さざるを得なかった〝罪〟を暴かれたのだ。


「――前身団体バイオスピリッツで懲りたハズなのに一〇年経ってもまるで進歩が見られない樋口体制なんか吹き飛ばしてやれば良いッ! そうだ、それしかないッ! 師匠にできないというのなら代わりに俺がやってやりますよッ!」


 『ウォースパイト運動』から脅かされるMMA団体へ所属しているにも関わらず、過激な思想活動家たちと同じように火炎瓶でもって『サムライ・アスレチックス』の本社を焼き討ちしてやると通話相手は怒鳴り散らしていたが、そのときには麦泉も自重を促しながら頷き返してしまったくらいである。

 アメリカの格闘技界で出会った人たちは、誰もが選手の立場を一番に考えて力を尽くしている――言葉を交わすほど憤激が膨らんでいく声は現在いまも麦泉の耳から離れない。

 今度の電話はそのときよりも更に激しく麦泉の心を揺さぶる内容ものであった。

 たった一人で狭い廊下に立ち尽くした彼は呻き声を洩らすことさえ叶わないほどの衝撃に打ちのめされ、壁一枚を隔てた向こうから聞こえてくる喧騒とは正反対の表情を浮かべていた。

 耳に宛がった携帯電話からは「まさか、卒倒したんじゃないでしょうね?」と気遣う野太い声が漏れ出している。


「……辛うじて気絶おちちなかったけど、意識が飛びそうになったのは否定できないな。さすがにその……ショックが大き過ぎて……心臓が止まりかけたさ」

「俺だって今でも心臓の早鐘が鎮まりませんよ。いつものように〝あの人〟が所属るリトル・トーキョーの寺院へ座禅を組みに行ったら、心の準備もないまま〝さっきの話〟を聞かされたんです。何の前触れもない不意打ちですよ。『超次元プロレス』を喰らう側の気持ちを初めて理解わかった気がします」

「本人から――〝あの人〟からそういう話は事前に一度もなかったと……?」

「そんな風聞ウワサすらなかったですよ。少なくとも俺の耳には届かなかった。寺の仏僧ひとたちも驚いていましたよ。急にモニワ代表から呼び出されたとか……!」

「本当に……本当に〝あの人〟が日本に――岩手に入ったんだな。こう大人でもなく〝あの人〟がモニワ代表のお供に……ッ!」


 先日と同じように通話相手の男性は秒を刻むごとに感情が高ぶってきたらしく、携帯電話スマホから漏れ出す声は筒抜けにも近い状態で廊下に響いている。改めて詳らかとするまでもないが、スピーカーフォン状態に切り替えているわけではないのだ。

 暫らくは余韻として耳鳴りが残るであろう大声は、厚いとは言い難い壁を貫いてしまいそうである。念を押すかのような質問に「団体の上級スタッフにも確認したって、さっきも言いましたよねッ!」と答えた瞬間などは麦泉も顔を歪めてしまった。

 餅つきの最中に電話を受けたことは何よりの僥倖である。受話口から零れる大声を岳の耳が拾っていたなら杵を花形選手レオニダスに向かって放り投げ、鬼貫の腕を引っ張りながら廊下へ飛び出してきたはずだ。


「……このタイミングで〝あの人〟を日本に呼び寄せるっていったら、どう考えても樋口社長への対抗措置だよなぁ……。『ハルトマン・プロダクツ』の視察とブッキングさせてモニワ代表を牽制するっていう……」

「……俺はいち選手に過ぎませんから団体の運営にはノータッチですし、詳しいコトは分かりません。使えるツテも全部使って探りも入れてみましたが、結局、代表の目的ねらいは掴めずじまいでした。ただ俺個人は文多さんの予想こそ当たりだと思ってます」

「一番の問題は〝あの人〟が腹の底で何を考えているか――だよ。呼び出されたから来日? ……そんなに生温い人じゃない。ひょっとすると『天叢雲われわれ』への当てつけを口実に自分から同行を訴えたのかも知れないぞ」

「文多さん、それはさすがに考え過ぎでは……。まるで何か企みがあって『天叢雲アメノムラクモ』の懐に潜り込もうとしているようなモンじゃないですか」


 段々と熱を帯びていく通話相手に対し、麦泉の声は急速に冷たくなっていく。

 だが、は通話相手が所属するアメリカのMMA団体――『NSB』の代表であるイズリアル・モニワに対する不信の発露あらわれではない。頭文字すら口にせず、〝あの人〟と遠回しに呼び続ける相手へのくらい感情が噴き出しているのだ。


「日本の総合格闘技を一度、破滅に導いた張本人だ。……里帰り? 恥ずかしくもなくよくもそんな真似ができるものだな……ッ!」


 誰に対しても穏やかな物腰を崩さず、どうしても叱らなければならないときには相手に将来のことを説き聞かせる――他者への思いやりが誰よりも強い麦泉が背筋が凍るほど冷たい侮蔑を吐き捨てたのだ。

 その重みが海の向こうから電話を掛けてきた相手の心にも響いたのであろう。暫しの沈黙を挟んだ後、「文多さんらしくありませんよ、は……」と余人の耳には届かない程度に声を落として麦泉を窘めた。

 麦泉の気持ちは察して余りあるが、自分は同調できないと言外に伝えてもいるわけだ。

 その一方で、彼が先に示した当て推量は否定しなかった。所属団体や代表イズリアル・モニワによる樋口郁郎への〝反撃〟と麦泉の通話相手も考えているのだろう。

 先日の電話でも「今や『NSB』と『天叢雲アメノムラクモ』は一蓮托生! 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの妨げでしかない野郎をブッ潰すコトは道理にも合うのではッ!」と麦泉を相手に吼えたのだ。


「……師匠や鬼貫さんの声が電話越しにも聞こえてきますけど、やっぱり耳に入れておいたほうが良いと思います。特に師匠の場合、事前に心の準備をしておかないと興行イベント当日にいきなり顔を合わせたら絶対に平常心を失いますよ。そうなったら試合どころじゃない」


 通話相手は報告せざるを得なかった事態が『天叢雲アメノムラクモ』に及ぼすであろう善からぬ影響を憂慮しているようだ。この懸念に対しては麦泉もくらい感情を抑えつつ了解と即答した。


「欲を言えば同じ会場に居ることさえ気付かないまま閉会セレモニーを迎えたいよ。ただでさえ作戦もガタガタなのに、メインのセコンドまでおかしくなっちゃったらキリサメ君のデビュー戦はどうしたって危うくなる……!」

「それが俺には何より気掛かりなんです。師匠は見た目と裏腹に打たれ弱いし、気持ちを簡単に切り替えられるほど器用でもありませんから。師匠も〝あの人〟も、……いや、俺だって『昭和』の残り火みたいなもんです。これから羽撃はばたく選手の未来こそ一番に考えなくては……ッ!」


 国際電話の番号はカリフォルニア州ロサンゼルスで使われているものだ。日本とは一七時間もの時差が生じる為、は金曜日の深夜である。一日の終わりを迎えようかという時間帯にも関わらず、緊急連絡を入れてきた理由が今し方の一言に表れていた。

 通話相手はアメリカの格闘技界にいて、鍛え抜かれた鋼鉄はがねの如き精神の体現から『フルメタルサムライ』という通称で呼ばれている。麦泉文多にとっての〝センパイ〟を己の〝師匠〟と呼ぶその男はMMAの〝次世代〟を真剣に憂えているのだ。


「俺のほうこそきたかったのですが、MMA日本協会の理事長から――折原さんからそちらに問い合わせはなかったんですか? 〝あの人〟が帰還かえってくると知ったら大騒ぎになるハズでしょう?」

「おそらく日本の〝シューター〟は誰一人として創始者の帰国を知らないハズだよ。キミこそどうなんだい? 現役の〝シューター〟との付き合いは僕より広いんじゃないか?」

「……その後に起こる混乱を考えたら、恐ろしくて電話なんか入れられませんよ」

「お互いに手掛かりナシか。僕も今、初めて聞いたくらいだから日本の格闘技界でこの件を知っている人間は誰もいないと思うよ。樋口社長だって掴んじゃいないハズだ。事前に把握していたら、……何らかのを打ったに決まっているよ」

「あの〝暴君〟が裏を掻かれたってコトだけは痛快ですがね」

藤太とーた……」


 通話相手に『藤太とーた』と呼び掛ける麦泉の声は餅を撞く音と、それに重なる「またまたお餅になって参りましたァッ!」という素っ頓狂な声によって圧し潰された。

 引き戸に設置されたガラス窓の向こうでは如何なる緊急連絡が入ったのか、想像すらしていない八雲岳と鬼貫道明が――日本へ総合格闘技MMAという〝文化〟を導いた先駆者たちが心の底から楽しそうに笑い合っている。

 『天叢雲アメノムラクモ公式オフィシャルの観戦ツアーは今回も大盛況であったと国内外に喧伝されるだろう。


「……日本に帰還かえってきたのか、ヴァルチャーマスクが――」


 右耳で『フルメタルサムライ』の呻き声を受け止め、窓越しに八雲岳を真っ直ぐ見つめながら、麦泉は喉の奥から絞り出すようにして、そのを呟いた。

 ヴァルチャーマスクが日本に帰還かえってきた――それはのちの格闘技史にも明確に記されるほど重い一言なのだ。



 そもそも『ヴァルチャーマスク』は昭和を代表する漫画原作者が手掛けた作品の〝キャラクター〟である。

 その漫画原作者――くにたちいちばんは様々なスポーツ作品を世に送り出し、〝スポ根〟ブームの火付け役を担った人物でもあった。現実リアルのヴァルチャーマスクも『新鬼道プロレス』に所属する若手レスラーがくにたち漫画のデザインを忠実に再現したプロレスマスクを被って闘うという提携タイアップ企画に過ぎなかったのだ。

 漫画の〝キャラクター〟を実在のプロレスラーに仕立てることで架空フィクション現実リアルの境界線を飛び越えるという趣向であった。くにたちいちばんは自らが原稿用紙に生み出した〝世界〟を物理法則すら超越してリングの外へ拡大しようと試みたわけである。

 くにたちいちばんは漫画原作以外の分野でも才能を発揮していた。一九七〇年半ばには制作会社プロダクションを立ち上げて映画撮影にも進出し、昭和の芸能界にも接近を図っている。様々な企画を仕掛けられるほど格闘技界への影響力が高まったのもヴァルチャーマスクの提携タイアップが直接的なきっかけであった。

 ある意味にいては提携タイアップありきで生まれたマスクマンだが、そもそもプロレスマスクを被ったのは花も実もある超人レスラーである。〝超次元〟ともたとえられる空中殺法で観客を魅了する様式スタイルのプロレス『ルチャ・リブレ』を武者修行先の本場メキシコにて極めており、彼自身が既に架空フィクションさながらの存在であった。

 瞬く間に原作漫画からするほどの人気を獲得し、後代まで語り草となる〝伝説〟を日本のマット界に築いていった。現代いまではくにたちいちばんの作品から派生した〝キャラクター〟であることを知らない人のほうが多いだろう――そのように評する格闘技ファンやスポーツ記者ライターも少なくない。

 鬼貫道明が志した異種格闘技戦にも加わり、『鬼の遺伝子』最初の世代として世界の強豪を迎え撃ったのである。数え切れない〝実戦〟経験に基づいてルチャ・リブレとも異なる自らの〝総合格闘技術〟の体系を考案し、一九八九年にはを教え広める団体を旗揚げ。のちに〝総合格闘技〟のリングでも活躍する「とうきょく」の格闘家――シューターたちを育て上げたのである。

 ヴァルチャーマスクが「とうきょく」の理論を完成させていなかったなら、日本では〝総合格闘技〟という〝文化〟が発展せず、『NSB』によって主導された世界の潮流にまで取り残されたことであろうと国内外の格闘技雑誌にも記されている。

 くにたちいちばんが昭和と呼ばれる時代に送り出した架空フィクションが紆余曲折を経て現実リアルの格闘技界を進化へと進ませた次第である。漫画というサブカルチャーを超越した功績として讃えることには誰も異論を唱えまい。

 現実離れした物語が繰り広げられ、それ故に子どもたちの夢を膨らませたくにたちいちばんのスポーツ漫画が一世を風靡したのは、一九六四年東京オリンピックなど数多の国際大会で偉業を成し遂げた女子バレーボールチーム――『東洋の魔女』とだいまつひろふみ監督による過酷な猛特訓が話題となった時期にも重なっている。

 架空フィクション現実リアルが境い目なく混ざり合う形で日本中を熱狂させた昭和〝スポ根〟ブームの過渡期に生をけ、実戦志向ストロングスタイルのプロレスから平成のMMAへと至る日本格闘技界の〝全て〟を血肉に変えたヴァルチャーマスクはまさしく歴史の生き証人なのだ。

 そして、それ故に日本MMAの黄金時代を築くことになる当時最大級の団体『バイオスピリッツ』では初代統括本部長の肩書きを背負い、東京ドームで開催された第一回興行にいてもメインイベントを託されたのである。

 プロレスのリングに不滅の伝説を築いた最強のプロレスラーが新しき栄光の扉を開くことを誰もが信じて疑わなかった。逆立ちしながら両足でもって相手の首を挟み、次いで己の頭を軸に代えてコマの如く全身を振り回し、勢いよく相手を投げ落とすという曲芸と見紛う大技を〝実戦〟の場にいても使いこなす超人なのだ。

 ヴァルチャーマスク当人も「とうきょく」の完成など格闘家として最も充実した頃である。彼自身が編み出し、勝負所で放つ〝伝家の宝刀〟――プロレス式の後ろ回し蹴りソバットは力道山の空手チョップにも並ぶ切れ味と謳われていた。

 対戦相手は路上戦ストリートファイトも含めて四〇〇戦無敗と畏怖されるブラジルの〝ジウジツ〟使いである。

 世界を相手に闘い続け、やがてブラジルに辿り着いた明治の柔道家――前田光世コンデ・コマから始まり、その孫弟子であるドナト・ピレス・ドス・ヘイスを経て現代まで続く〝ジウジツ〟の強さを全世界に知らしめた一族最強の勇者であった。

 この〝ジウジツ〟こそこんにちでは『ブラジリアン柔術』と呼ばれる格闘技である。

 同国ブラジルでは『ルタ・リーブリ』という組技主体の格闘技も普及しており、ブラジリアン柔術との間で勢力争いが絶えなかった。あらゆる技が解放される〝実戦〟さながらの格闘大会――『バーリトゥード』までもが抗争の舞台と化してしまうほど双方の対抗意識は凄まじく、貧富の差もに絡むなどのうろう前田光世コンデ・コマに伝えた自他共栄の精神をもってしても解決し得ないほど根深かった。

 その抗争にいてもくだんの人物はルタ・リーブリ最強の男を撃破している。名実ともにブラジルを代表する格闘家であったわけだ。

 加えて一族の最長老はドナト・ピレス・ドス・ヘイスのもとで心技体を鍛え上げ、彼の道場を継承してブラジリアン柔術を隆盛に導いた偉人である。一九九三年にアメリカ・コロラド州デンバーにて第一回興行を催した『NSB』の旗揚げにも一族の人間が参加するなど前田光世コンデ・コマの開いた〝道〟を現代総合格闘技に繋げるという大任も果たしたのだ。

 ブラジルのバーリトゥードから世界のMMAへ――反則行為を除いた〝すべて〟の技術テクニックを有効とする格闘技史の転換期に立ち会った一族の威信を背負い、その男は東京ドームにてヴァルチャーマスクと相対した次第である。

 即ち、『バイオスピリッツ』第一回興行は異種格闘技戦を通じて世界と闘った日本のプロレスと、総合格闘技MMAという新時代を世界に示したブラジリアン柔術との頂上決戦の舞台でもあったのだ。

 ルチャ・リブレと「とうきょく」――二種ふたつの力を握り締め、プロレスラーの誇りと共にくにたちいちばんの漫画と同じマスクを被った超人がのゴングを聞いたのは天下分け目の一戦が始まってから僅か四分四七秒後のことである。

 日本最強のプロレスラーは第一ラウンドの終了を待たずに敗れ去った。

 〝伝家の宝刀〟たる後ろ回し蹴りソバットを繰り出すことも叶わず、「とうきょく」を要とする〝総合格闘技術〟の創始者が「きょく」の勝負――つまり、腕関節を極める寝技で完敗を喫したという事実は日本中をしんかんさせた。

 空手チョップで外国人レスラーを次々と撃破し、戦後の日本人を元気付けた力道山とは正反対の筋運びとも言えるだろう。敗戦を告げるゴングがリングに鳴り響いた瞬間、「プロレスこそ最強」という幻想ゆめは無残に打ち砕かれたのである。

 決戦の東京ドームに詰め寄せた四七〇〇〇人もの観客は誰もが言葉を失い、その痛ましい沈黙が衝撃の深さを端的に物語っていた。

 会場で試合を見守っていた麦泉文多は言うに及ばず、ヴァルチャーマスクにメインイベントを託した八雲岳と鬼貫道明にとって、その光景は「絶望」の二字をもってしても語り得ぬものであった。

 このとき、ヴァルチャーマスクは格闘家としてもプロレスラーとしても人生にいて間違いなく最強の状態であったのだ。

 それにも関わらず、思い通りに攻防を組み立てることさえままならなかった。〝実戦〟経験と自らの理論に基づいて完成させた「とうきょく」もルチャ・リブレの空中殺法も、何もかもブラジリアン柔術に完封されてしまった。

 四角いリングに横たわっていたのは「日本は世界を知らなかった」という余りにも非情な〝現実〟であった。

 実戦志向ストロングスタイルのプロレスひいては『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦の延長に過ぎなかった〝日本の総合格闘技MMA〟が一つの〝文化〟として開化する為には、戦後から半世紀に亘って日本人を奮い立たせてきたプロレスそのものの敗北を代償として差し出すしかなかったのである。


「――もう一度、立ち上がってくれよ、兄ィッ! あんたが敗けちまったら、……敗けを認めちまったらオレたちレスラーはこれから先、何を目指して闘えば良いのかも分からなくなっちまうだよッ! 立ってくれッ! 立つんだ、ヴァルチャーマスクッ!」


 リングサイドに駆け付けた若き日の岳が涙と鼻水で顔面を崩壊させながら吼え声を上げる姿は、決戦から一七年を経た現在いまでも多くの格闘技ファンが記憶に留めている。

 岳の絶叫に応じることもなく、仰向けに倒れたまま東京ドームの天井を見つめるヴァルチャーマスクが〝そのとき〟に何を考えたのかは未だに明らかとなっていない。試合後のインタビューでも彼は多くを語らなかった。

 小生は語る言葉など持ち合わせていない――試合の総括についてもただ一言しか述べなかったのだが、取材を行った記者と言わず格闘技ファンと言わず、プロレスと同じ四角いリングで起きたことの意味をこの短い返答こたえによって納得のである。

 世紀末の足音が間近に聞こえ始めた一九九七年一〇年一一日のことであった。このときの顛末はのちの格闘技史でも『プロレスが負けた日』として特別に重く扱われている。

 これ以降もブラジリアン柔術とプロレスの闘いは繰り返され、兄貴分ヴァルチャーマスクの仇討ちに燃える八雲岳も同じ男に第一ラウンドで返り討ちにされてしまった。「プロレスラーなど所詮は見てくれだけ」という失望の声を浴びせられる試練を積み重ねたのちに日本MMAは黄金時代を迎えるのだ。

 まるで我が身を生贄として捧げるかの如く日本MMAの先駆けとなり、やがて自らの手で黄金時代を終焉に導いた男がアメリカから帰還かえってきた――と、麦泉の通話相手は伝えている。

 これと同じ頃、キリサメ・アマカザリは初陣の地にて遭遇した不思議な仏僧の後ろ姿を幾度となく振り返っていた。その瞬間は本人にも無意識の行動であったのだが、あるいは本能の部分で運命的な予兆を感じ取っていたのかも知れない。

 二〇一四年六月現在、ハゲワシの頭部を模った古いプロレスマスクはガラスケースに納められたまま『八雲道場』の片隅で静かな眠りに就いている。


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