その8:宿縁~あるいは出逢う前から出逢っていたのか・日本に総合格闘技の礎を築いた覆面レスラー
八、宿縁
己以外の誰かに打ち明けられないまま身の
『
〝北の
松代町はキリサメにとって人生に関わる決断を下した場所でもあるが、今はその
夜の神社で見つめ合った顔や相手の丸メガネに映り込んだ己の表情は言うに及ばず、柔らかな唇から心の奥底まで
雪止め金具が取り付けられた屋根もまた松代町と共通しているのだが、それすらも脳が認識できないくらい動揺が続いていた。つまるところ、気持ちを入れ替えられないまま無意味に体力を
数分に一度という間隔で武家屋敷の一部であったと
奥州市は東に
東北の山々に
もはや、当て
陸上競技の経験もないので徒競走の
キリサメの
これと同様の身のこなしでもって運動時の負荷軽減を試みる『ナンバ走り』はマラソン競技でも有効とされている。
対する寅之助は秋葉原の町を駆け巡ったときと同様に左右の足を一定の速度で動かしつつも腰から上は垂直の姿勢を保ったままである。芯となる棒を背中に通しているのではないかと錯覚する身のこなしであった。
姿勢を真っ直ぐに伸ばし続ける
傍目には上半身と下半身が別々の意思を持っているように見えるほど特徴的な
希更のほうは陸上選手と見紛うほど美しい
「……心ここにあらず――とお見受けしますが、今からその調子では明日の試合が思いやられますね。ここ最近、成績の振るわない城渡さんには願ってもいないチャンスといったところでしょうか? いえ、あの人の性格上、
「まァた大鳥さんのお小言が始まったし! 別に少しくらい緊張したって良いでしょ。キリキリの場合、格闘技の試合そのものが初めてなんですからっ」
「個々人の抱えた事情は何の言い訳にもならないと、バロッサさんなら他の誰よりもお分かりになるのでは? 特にお父上は自他に甘えを許さない厳格な方でしたよね?」
「こっちが言い返せないよう一個ずつ丁寧に潰してきますよねぇ。……ていうか、うちのお父さん、見た目に反して中身は結構、ユルめなんですけどね~」
キリサメ本人に成り代わって反論する希更であったが、奇天烈な走り方は大鳥の指摘をそのまま映したものであり、寅之助が重ねた「メンタルの準備なんて、そんな高度なコトをサメちゃんに期待するのがそもそも間違いじゃん」という皮肉も痛烈ながら間違ってはいなかった。
「サメちゃんのトコは――『八雲道場』の皆サマはそういう部分のサポートはぶっちゃけ絶望的だもん。一番身近なあのコはただ距離が近いだけで色々ポンコツだし、お
餅みたいな人――
〝
それだけに無責任極まりない言行は看過できず、本来ならばキリサメなど助ける義理もないと心の中で悪態を
「そこまでボロクソ言うならキミがフォローしてあげなきゃでしょ。キリキリのメンタルを守るのだって仕事の
「ボクの
「……自分が何か?」
「バロッサさんに手鏡を借りたらどう? 次にカーブミラーと出くわしたら、それを〝姿見〟の
大鳥の風貌を「頑強な精神の証左」として寅之助が揶揄した瞬間、希更は腹筋が引き攣りそうになった。
生真面目という言葉が人間の形を取っているかのような大鳥だが、その出で立ちはすこぶる珍妙である。担当声優のランニングへ同道しているというのに運動には全く不向きな背広を着込んでいるのだ。
改めて
つまるところ、大鳥は己の風貌を省みずに平静とは言い難い様子のキリサメを冷たく扱き下ろしたのだ。寅之助との間に穏やかならざる空気が垂れ込めている希更も今し方の皮肉には喉を鳴らして笑い、「コンパクトを貸しても構いませんけど、痛いトコ突かれた仏頂面と睨めっこするだけかもね」と自身のマネージャーを横目で覗きながら頷き返した。
たった一人の影響で不揃いな印象となった四人が群れている状態なのだ。一挙手一投足が不自然なキリサメや大鳥の装いは言うに及ばず、寅之助の
計算に基づいて仕組んだことではないだろうが、八雲未稲のような丸メガネを掛け、長い髪を後ろで大きな三つ編みに束ねた女性のことを誰も希更・バロッサとは認識できない状況は現場マネージャーとして最も望ましい筋運びに違いない。
土手から住宅地へ移り、更に西へと抜けたキリサメたちの
高い場所――奥州市は
四人の
牧歌的な風景であったればこそ不揃いな一団には悪目立ちという表現が最も似つかわしく思えるのだった。
しかも、その内の一人――ぎこちない走り方のキリサメ・アマカザリは
田圃の水鏡が映した双眸は普段と同じように瞼が半ばまで閉ざされているのだが、その奥からは空虚の二字が零れ出していた。
「――アマカザリも俺も、これからリングの上でトークショーをやるワケさ。対戦相手が何を秘めて自分の前に立っているのか、どんな思いを拳に握り込んでいるのか。その心にまで触れることができるんだぜ? これってさ、他のどんなスポーツにも真似できねぇ格闘技だけの醍醐味じゃん」
堂々巡りの如く脳裏に浮かび続けるのは前日の夜に別れた
その沙門から教わった東日本大震災発生直後の会合――『
東北と首都圏で場所こそ違えども同じ日にプロデビューを迎える沙門は自分たち二人を何一つ違う部分がない存在のように熱弁した。総合格闘技と打撃系立ち技格闘技という競技団体の差異すらも彼にとっては些末なことである。
だが、空手道場『
〝円卓の騎士〟とも
「貴方のお父上から――八雲岳という男から目を離さないことね」
「災いの種子という前言は撤回しよう。アマカザリくんこそ黙示録を刻むもの。やがては風となって『
アメリカ最大のMMA団体『
「……よろしいですか? ほんの些細なことであろうとも犯罪と見なされる行為に加担することは絶対に有り得ません。万が一、所属声優が巻き込まれる可能性があるなら、我々は全力を尽くして守ります。あらゆる手段を放棄しないということです」
次にキリサメの
希更・バロッサの芸能活動が脅かされると判断した場合、大鳥たちはあらゆる手段を講じてキリサメ・アマカザリという〝害悪〟を抹殺することであろう。例え彼女の友人であろうとも容赦するまい。
「キミはどうだい? 格闘家としての
それは未成年者の将来を心の底から案じる優しさの発露に他ならないのだが、キリサメ自身の
(……変わらなくちゃいけない――そう思ったハズなのに、僕は……)
希更・バロッサや空閑電知への感謝で心が満たされたとき、キリサメは友人たちへ報いる為にも『
「――アマカザリだって同じだろう? 総合格闘技を愛しているから『
『
MMA選手としての闘いを通じて〝何か〟を掴み取るよう麦泉から期待されたにも関わらず、結局は顔も知らないプロボクサーの末路に己が重なってしまうのだ。
空閑電知たちが「格闘技界の汚点」とまで吐き捨てた男と同じ末路を辿るであろうと、キリサメは本間愛染から〝予言〟されたようなものであった。
「私にはキミこそがMMAのアイガイオン――『
本間愛染は『黙示の仔』という独特の表現を
『
それはつまり、『
キリサメ・アマカザリの名前を『
「俺もお前も明後日で運命が変わる。きっと人生がガラリと変わるだろうぜ。三年前のあの日、力道山のスピリットを復活させた八雲岳に恥じない闘いをしようじゃねぇか! 俺の金星はお前の金星! お前の金星は俺の金星ってな! 俺たちだってスピリットを分け合った同志さ!」
別れ際の沙門から掛けられた一言が不意に甦り、キリサメは誰にも聞こえないくらい小さな呻き声を洩らしてしまった。
この一言は同行者である女性の心まで溶かしてしまった。呆れ返った様子の未稲を尻目に「二人きりのときにもう一度、言って欲しい」と身悶えていたのである。法事で東京に出掛ける途中であったそうだが、駅の構内で彼と偶然に目が合い、言葉を交わす間に新幹線では隣同士の席に座る約束を取り付けたという。
甘い溜め息を洩らした女性の気持ちがキリサメには全く解らないわけではなかった。
強く握り合った沙門の右手は灼熱さながらであり、志を果たす為ならば何者にも決して屈することがない生命力がそのまま
相槌を打ちはしたものの、沙門の熱量に気圧されて激励を返すことができなかったキリサメは、戸惑った調子で眉根を寄せつつ空閑電知とも同じような約束を交わしたことを頭の片隅で思い返していた。
おれもお前と一緒に闘っている――勇ましい約束の裏側に秘められた電知の気遣いへ報いるという自信が
世界最強という途方もない夢を志し、
「……正直、自分はあなたのキャリアに何の興味もありません。当方の損害にならないことが一番です。しかし、バロッサさんは違う。事務所を動かし、危険な橋を渡ってまであなたを――『
追い撃ちの如く甦った大鳥聡起の言葉がキリサメの心を更に深く抉った。
今日の大鳥が羽織っているのは、この一言を発した日と同じ背広である。それだけに両の鼓膜に再び響いた声は脳をも揺さぶられたと錯覚してしまうくらい大きく聞こえた。
「――キリキリ! さぁ、着いたよ! あたしたちの戦場にねっ!」
キリサメの意識を追憶の水底から引き揚げたのは間の抜けた
双眸が再び現実を認識した瞬間、武家屋敷とも田園風景とも異なる〝世界〟がキリサメの前に広がった。
今し方まで鼓膜の奥にこびり付いていた沙門の言葉は今や子どもたちの笑い声によって洗い流されている。そして、それ故にキリサメは瞼を幾度となく開閉させた。
我知らず瞬きを繰り返してしまったのは無理からぬことであろう。今し方まで
三年前の会合の舞台――不死鳥の絨毯が敷かれた老舗ホテルの小会議室や
「――危機対応能力への懸念は会場設営だけではないわよ。二一世紀にもなって体重別の階級制すら設定しない有り様には『
『
無論、
内陸部から吹き降ろしてくる山風が千里とも万里とも知れない海路を旅してきた潮風と混ざり合って波紋を起こし、その間隙を滑るようにして星屑とも
海とは生きとし生ける全ての
初夏の
迷走するのみであった追憶を断ち切ったのが「キリキリ」という希更の呼び声である。
彼女の母親――ジャーメインも三年前の会合に
「明日から格闘大会を
「学校の校庭で開催する運動会ではないのですよ? 半日程度で
「さすがはマネージャーさん、催し物には詳しいねぇ。その辺りは剣道の大会ともあんまり変わらないわけだ」
「秋葉原のド真ん中で、それも竹刀を暴力沙汰に使うような方が出場できる大会など日本にあるのですか? ……資格云々を言い出したら、アマカザリさんも体育館に立ち入ることは許されないハズですがね」
「長野で
「藪先生の
「なんならボクたち二人でコンビでも組む? センパイから言わせて貰うならネットで注目されるのなんて楽勝でね、凶器の竹刀を肩に担いで
寅之助と大鳥の間で交わされる皮肉の応酬が鼓膜を打ち、キリサメの記憶も
希更の言葉が示した通りである。
まさしくキリサメ・アマカザリという〝MMA選手〟にとって初陣の地である。
翌日のデビュー戦に備え、その初陣の地へ下見に出掛けようと希更から提案されたことまではキリサメも辛うじて記憶に留めている。しかし、そこから先の成り行きが
相応の距離を無意識の内に走ったという事実は、衣服に染み込んだ汗と四肢の疲労感が伝えている。
物思いに耽っている最中に瑞々しい香りが漂う田園風景まで通り過ぎてしまった次第である。
(……調子が狂った――って一言で済ませるワケにはいかないよな。今頃、メッタ刺しにされて、……母さんみたいになっていても不思議じゃない)
尤も、
賑やかな広場を背にした巨大な建物――と、瞳の中央に捉える体育館を読み解いたつもりであったのだが、辺りを見回してみれば瞭然の通り、実際には多目的運動広場をも有する広大な公園内の施設の一つである。つまりは認識が
正面玄関を挟む形で左右に並立する二棟はどちらも
補助席の設置まで含めて収容人数はおよそ五〇〇〇人であり、日本を代表するMMA団体の興行としては小規模とも思えるが、今回は岩手県内数ヶ所の公会堂などで
即ち、格闘家が引き受ける〝持ち場〟ひいてはMMAの試合を通して被災地を元気付けたいという岳の想いが隅々まで行き届いた
それ故に岩手大会は前回よりチャリティー
パブリックビューイングの観戦希望者も東北各県を対象にして抽選を行っており、戦後日本に復興へ向かう勇気を与えた
それは『日本晴れ応援團』の本懐と言い換えることこそ正しいのかも知れない。加えて『
日本格闘技界の誰よりも早く被災地へと急行し、そこで見聞きしたことに基づいて〝自分たち〟にしか
「……会場の設営と撤収を短時間で終わらせるという段取りは分かったけど、どう考えても人手が足りないような……。僕が行ったとき、『サムライ・アスレチックス』の本社には
「まだ新人と言い逃れもできないレベルでアマカザリさんは勉強不足では? 開催先の企業と提携するのですよ。現場スタッフには大勢のアルバイトも雇われますが、それも同様です。今回なら岩手県内で広く募集を掛けたのではないかと。……どうして部外者の自分が当事者のあなたに説明しているんですか……」
「成る程、地方の皆様をアゴで使おうってハラね。そんなコトやってるから都会のヒトは嫌われるんだよ。ボクを
「瀬古谷さんはどうしてそう……、物事をいちいち捻じ曲げて受け取るんでしょうね。おまけに偏見も酷い。あなたのほうこそいつか逆恨みで刺されますよ」
「恨みを買うのに慣れているから全然平気だよ。
「……この人を
「寅之助の
「
「それは初耳です。……そうだったんですか」
交互に皮肉を飛ばし合う寅之助と大鳥とは比べるまでもなく、希更の解説こそMMA興行そのものについて甚だ不勉強なキリサメにとっては傾聴すべきものである。
『
「分からないことを身勝手な想像で誤魔化すのが一番ダメなんだよね。そーゆーのは簡単に見破られちゃうし、相手がバカにされてると思ったら一発アウトだもん」
「興行は許可しないと突っ撥ねられたら、団体としての信頼もお終いですね。……僕にはこんなこと、言う資格もありませんが……」
「あたしもさ、『イシュタロア』のファンイベントで初めて宮崎に遠征したときはしくじりそうになったもん。立地的には熊本と近いんだよ、宮崎。何とかなるかな~って気楽に構えていたら勝手がまるで違ってね~。共演者一同、真っ青になったっけ」
「希更氏でもそんなことがあるのですか? ……想像できないな」
「イベントってホント、生き物みたいなモノなのよ。その土地その土地の気風まで調べて計算を組み立てるっていうか――県を一つ二つ跨ぐと同じ作品のファンでも好みの傾向が結構、違ってくるのよね。トークショーでもどういう話が好まれるか、探り探りでやってるもん。そーゆーのはMMAの
「……分かるような、分からないような……」
「同じ格闘技の試合でも関東では純粋な強さをひたすら追い求めるストイックな姿勢が好まれるけど、楽しんでナンボな関西では劇的な盛り上げ方が持て囃される――みたいな。これはあくまでもあたしが勝手に捏ねた仮定だから真に受けないでね。こんな傾向、実際には一ミリも当てはまらないと思うし」
声優業に
先ほど大鳥聡起が述べた段取りを不明点ばかりの運動施設で完遂することなど不可能に近いはずだ。例えば車輛に積載した必要資材の搬入経路は管理者に問い合わせることで確認できるだろうが、MMA興行の会場設営に求められる実務はそれ相応の知識や経験がないと全く捗らないのである。
メインスポンサーにして世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』から最高品質のリングを提供されようとも組み立てることができなければ宝の持ち腐れでしかない。
広い意味ではこれらも「土地勘」の三字に含まれるのだ。会場利用の規約上、作業時間も限定されてしまう現場のスタッフには運動施設の特徴まで把握している人間こそが一番の頼りとなるのだ。
その土地に根を張り、町の体育館などで巡業を行ってきた地方プロレス団体へ協力を要請することこそ最善の手立て――それが『
「だから、あの日――電知と戦ったとき、カリガネイダー氏は例の仙人みたいな方と一緒に居たんですね。岳氏の応援というだけじゃなくて大会の関係者だったのか……」
「現地のイベンターよろしく厄介事を引き受ける感じになっちゃうけど、全国規模の
希更による解説を反芻しつつ、キリサメは
今回のイズリアル・モニワと同様に『
改めて考えてみると全ての辻褄が合うのだ。一度、MMAのリングを去った後、八雲岳は『まつしろピラミッドプロレス』の外部コーチを務めており、両者は強い信頼で結ばれている。彼らの
岩手県と並ぶ東日本大震災の被災地――福島県にも『
岩手興行を実現させるべく『
訪問先の陸前高田市まで岳のことをわざわざ迎えにやって来たサイクロプス龍は同団体の花形レスラーである。寅之助が揶揄したような事態に陥るのであれば〝北の独眼竜〟を彷彿とさせる
キリサメたちは同席しなかったものの、陸前高田市から奥州市へ移動した後、岳と麦泉はサイクロプス龍を交えて
ここでキリサメは我知らず小首を傾げてしまった。
統括本部長に先んじて奥州市へ入り、
「プロレスとは別の団体を相手にする交渉が
「みたいだね。その辺はあたしも詳しくないんだけど、地方プロレスの皆さんは〝場内〟の業務がメインで、柴門さんのほうでは〝場外〟の交渉事を分担してるって具合かな?」
「――概ね、そのような理解で間違いないかと。自分も
改めて
「こちらの運動施設は確か一般財団法人が管理していたはずです。当然ながら、それに応じた交渉が必要となりますね。……良くも悪くもビジネスライクな樋口社長には不向きなやり取りがね」
「だからこそ柴門氏は欠くべからざる人材――と? 確かに本社で挨拶したときの立ち居振る舞いにもそういう雰囲気がありましたが……」
「そういう雰囲気とは? 抽象的で偏った物の見方は感心しませんね」
「希更氏、手鏡のような物をお持ちではありませんか? それを大鳥氏に貸してあげてください」
「……あなたまでその台詞を……ッ!」
キリサメの
その一方で寅之助と希更が急に腹を抱えて笑い始めた理由は分からない。キリサメに察せられたのは「手鏡」という一言に対する過剰反応であったことのみであった。初陣の地に到達するまでの道程が殆ど記憶から抜け落ちている
「サトさん、抜群の仕事しましたねぇ。電ちゃんと一味違う
「……そこで依枝さんのコトを持ち出すのはやめて頂けませんかね……」
「あっ、『愛しのカノジョ』って部分は否定しないんですね。今のヤツ、
「バロッサさんもノらないでください……」
先程も大鳥は公共施設の利用に要する折衝を例に引いたが、地方プロレス団体との協力体制を整えるだけでは〝旅興行〟は成り立たないのである。
観客の為に駅と興行会場を往復する臨時シャトルバスの手配も柴門の役目であった。地元事業者と交通事情も含めた折衝を重ね、送迎の体制を整えていくのだ。
「実際問題、大鳥さんと同じレベルで有能でなきゃ柴門さん、仕事なんか回せないと思うわよ。会場のロビーでお客さん向けに軽食を販売してるでしょ? パブリックビューイングの開催場所ではその規模を更に大きくして、ちょっとした屋台村をやるって聞いたわ」
「ヤタイ……ムラ――語感から察するに色々な露店を集めるようなもの……ですか?」
「うんうん、そんな感じ。あたしたちの試合と一緒にその土地その土地の名物を味わってもらおうっていう取り組みなんだってさ。店の選別から依頼まで柴門さんが一人で全部取り仕切ってるらしいね」
自分たちより先に『
一口に「数多の屋台を集める」といっても飲食物の場合は人気の有無が極端なほど二分されてしまう。奥州市であれば肉質等級に
この催しは
そうした偏りを最小限に抑え、出店した誰もが利益を得られる采配こそ柴門公任の神髄である――と、希更は
「あたしもそうだけど、若い人って『
ずんだ餅の歴史は古く、東北全土に武勇を轟かせた伊達政宗が
その一方、シカゴ市制一〇〇周年を記念して一九三三年に開催された万国博覧会で振る舞われて以来、全米で定番の
アイスクリームの
二〇一四年六月現在の日本に
そもそも
長野興行を開催した多目的運動アリーナのロビーでもブランド豚のカツカレー弁当や
「食の好き嫌いは確かに分かれてしまいますね。
「クイ~? 串焼きってコトは屋台で売ってる食べ物なのよね? 可愛い名前だけど、焼き鳥みたいなの?」
「食用のテンジクネズミですよ。一匹そのまま串刺しにして、腹に
「今、初めてキリキリとの間にカルチャーギャップを感じてるッ!」
地球の裏側の食文化に希更は口元を引き
「会場で販売する記念品も柴門さんがご自身で手配していると聞き及んでいます。ベースとなるデザインは『サムライ・アスレチックス』や『日本晴れ応援團』が管理しているマスターを使いつつ、そこから先のグッズ製造は開催地の工場に発注しているとか」
岩手大会に際して地元の
大鳥当人はインターネットで紹介されている写真でしか見たことがないものの、福島県会津若松市で開催された第二回興行では『
〝会津絵蝋燭〟はその歴史を近世まで遡る民芸品の一つであった。壁に掛けて飾れるほど大きな凧や同地の代表的な郷土玩具〝赤べこ〟も
「それも柴門氏が一人で手配している――と? ここまで来ると格闘技団体の範疇を超えてしまっているような……。沙門氏が
「この場で感心することですか、新人選手のアマカザリさんが……。ご自分の契約した団体のことはもっと調べておくべきでしょう」
「今の
「あたしだって熊本の実家が道場やってるし、大きなイベントに参加する機会も多いから興味を持っただけだもん。身近なトコに接点でもなかったら、
「……皮肉を飛ばしながら自分でも道理に合わないと感じていましたよ、正直。お好きなだけ批難して頂いて構いません」
「いえ、あの……僕は純粋に勉強になりましたから」
大鳥が付け加え、その矛盾点を寅之助と希更が揃って指摘した
柴門の〝実務〟が雇用の創出まで促しているとは想像できようはずもあるまい。東日本大震災の復興支援を掲げているとはいえ、『
「今、お話ししたようにとてつもなく広範囲の経済活動をたった一人で回しておられるのが柴門さんです。そんな段取りをこなせる自信など全くありません。アマカザリさんには手鏡を勧めて頂きましたが、自分とあの方では比較になりませんよ」
「サメちゃん、気付いた? この人、醜態の帳尻合わせを自分でやっちゃってるよ」
「何とでもどうぞ。……万が一、樋口社長が柴門さんと喧嘩別れでもしたら『
「あ~、成る程ねぇ。今のは大鳥さんの逆転ホームランね。樋口さんがジョブズなら柴門さんはウォズニアックってカンジよ」
「あのですね、バロッサさん。〝二人のスティーブ〟という例えは絶対にここだけにしておいて下さい。本人どころか、『
「あたしが
「ボクのほうこそ一緒にされたら心外だよ。それだけでも喧嘩売られてると思うよね。揉め事の
「キミは『デリケート』って
名実ともに日本を代表するMMA団体『
余人を置き去りにする規模の構想を掲げ、独裁にも近い
「大は小を兼ねる」という
『
地方企業との多角的な提携を短時間の内に取りまとめることができるのは『
(今、ここにモニワ氏が居たら、きっとまた例のオリンピック
『サムライ・アスレチックス』渉外部の職域が明確化する内、キリサメの意識は前日に訪れた陸前高田市の追憶へと再び巻き戻っていった。
『三・一一』以降、分断の恐れがあった地域交流を促進している
大洗町の商工会が協賛するイベント――あんこう祭りには同作の放送以来、県内外から何万というファンが詰め寄せているそうだ。それ自体が貴重な文化交流であり、アニメの舞台となった〝聖地〟を
アニメシリーズと
〝旅興行〟という形式で手を組む地方の財政を奮い立たせ、そこに互恵関係を築くのである。陸前高田市や大洗町が好例だが、イベントの開催期間中に訪れた観光客の飲食・宿泊による経済効果は計り知れないのだ。これを〝絵に描いた餅〟ではなく具体的な計画として成り立たせることも柴門の〝実務〟である。
一時的とはいえ、MMA
「――創業者は独裁者による戦争特需を食い物にしていたそうだから、ザイフェルト家は〝罪滅ぼし〟の意識が根っこにあるんでしょうなァ。我々の狙い目はそこですよ、慈善活動。先代の頃にチョビ髭の独裁者に与していたっていう後ろめたさで〝罪滅ぼし〟に衝き動かされているんなら、それをこっち側に誘導しちまえば良いって寸法です。向こうは罪悪感の埋め合わせができて、こっちはその分だけカネが降ってきて大助かり。誰も損しないプロジェクトは一企業としても興味をソソられると思いますよ」
第二次世界大戦の
尤も、
「――貸し切り? メインアリーナが? 明日、『
素っ頓狂としか表しようのない声によって
尤も、今は先程のように意識の深淵まで埋没しておらず、希更たちと共に総合体育館の
それ故にキリサメも希更と同様の訝るような表情となり、右隣に立つ寅之助と互いの顔を見合わせたのである。
「柴門さんのお仕事ぶりで盛り上がった矢先にこのザマとはねぇ。お膳立てだけしっかりやっておいて肝心の会場を押さえていないってどんでん返し、ボクくらいしか笑えないんじゃないかな」
「幾らなんでもそんなことは有り得ないだろう。……万が一のときには城渡氏が黙っていないとは思うけどな。あの人も――
「ひょっとしてサメちゃん、プロデビューできないんじゃないのぉ~? ウワサの〝最年少選手〟から一転して最速無職に落ちぶれちゃったりして? 〝ゾク車〟で乗り付ける恭ちゃんどころか、電ちゃんも
「い、一時間ほどでは引き払うと仰ってますから! 『
彼女は何も書かれていない真っ白なサイン色紙を恐る恐るといった調子で持っている。申請者の一人が『
「個人情報を外部に漏らすのは良くないのですけど……」という控えめな前置きを挟んで続けられた説明によれば、翌日に『
使用申請の用紙に記された住所によれば、予約もなく飄然と現れたその人物は岩手でも日本でもなくアメリカに居を構えているそうだ。思いも寄らない筋運びに目を丸くしていると、今朝ほど海から県内に入った旨を係員に語ったという。
「ボートに乗ってきたようなことをお話しになっておられましたが、密航ではないかというセンも捨て切れませんで……。勿論、失礼に当たることですから口に出して確かめることはできませんでしたが……っ」
サブアリーナでは奥州市内から集まった〝ママさんバレー〟のチームが練習に励んでおり、心の底から愉しそうな掛け声やボールを弾く甲高い音が
事前予約もなく当日にメインアリーナを利用申請する人も珍しい――と、係員は希更にサイン色紙を手渡しながら言い添えた。
キリサメにとって初陣の地ということになるメインアリーナは、
特別な仕掛けがあるようにも思えない〝普通〟の
それは当然であろう。この場所は市民の運動こそが第一の目的なのである。係員の説明によれば学校の部活動も支えているという。そもそもアメリカ最大のMMA団体と比べること自体が公平ではあるまい。求められる設備からして全く違うのだ。
競技用コートは九人制のバレーボールで換算すると三面分もあり、二階の固定席は東西南北からこれを見下ろす形で設置されていた。
長野興行が開催された多目的運動アリーナにはセレモニー用の特設ステージや稀代の映像作家――
最後にメインアリーナを使用したのは中学校のバスケ部であったが、清掃も隅々まで行き届いており、バスケットシューズが蹴り付けた余韻すら残ってはいない。
『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦から現代の総合格闘技に至るまで闘魂が灼熱の如く燃え滾り、血潮をも沸騰させた
身の丈はキリサメと大して変わらないようだが、四方より光を受けて
いわゆる
「この時間の利用者はご覧の通りです。あのお坊さん一人きりですよ」
それでも己の職務が頭から抜け落ちてしまうほど無責任ではなかったようだ。「曰く付きの不動産物件はテレビでも良くやってるけど、体育館もその中に入るんだね」という寅之助の悪趣味な冗談をすぐさまに否定したのである。
「除霊して頂いているワケではありません! あのお坊さん、念仏だって唱えていませんよね⁉ ついさっき、ご予約頂いた利用者様と申し上げましたばかりですっ!」
「切れ味鋭いツッコミ、どうも。でも、それ以外に見えないくらい怪しいじゃん。どうしたって運動は危険が付き纏うし、口外できない事件が起きても不思議じゃないでしょ」
「正直に申しまして
「じゃあ、ずっとあんな感じなの? ピラミッド状の建物で瞑想すると効果的ってオカルト紛いの話が大昔に流行ったらしいけど、それと勘違いしてんじゃないのぉ? お坊さんと見せ掛けておいてカルト系のアレだったりして」
「ハッキリと言わないでください、ハッキリと! ……念仏を唱えておられるわけでもなさそうですし、一体全体、何が目的なのか……。ミステリー漫画でしたら今頃は主人公の探偵から『妙だな。あんな瞑想法は聞いたことがない。本当は別の意図があるのでは』と言い掛かりを付けられている頃ですよ」
呆れ返ったように肩を竦めた寅之助に続き、大鳥も受付時に
広い意味ではそれも奇行の範疇に入ることだろう。〝ママさんバレー〟の喧騒と綯い交ぜになって静寂を引き裂く話し声は間違いなく左右の耳まで届いているはずだが、その男は微動だにしないのである。瞑想どころか、居眠りでもしているのではないかと訝ってしまうほどであった。
物言わぬ岩の如く座した男の傍らには薄い竹を編み込んで拵えた物と
キリサメたち四人が縦に並ぶような恰好で顔を覗かせている位置から巨岩の如き男が座した中央までは相当に離れている。しかも、
洋服とは構造が違うように見える――少なくともキリサメの双眸はそれ以上の情報を読み取ることができなかった。
間近で目にしたという係員が説明を付け足さなければ、
僧衣に身を包んだ後ろ姿は同じ
彼自身は天井南側に設置された大型モニターと向き合う恰好であるが、何も映していない画面に
両耳の向こうに覗いているのは敢えて残したもみあげであろう。人並み外れて豊かであるらしく、プロペラの先端としか
四方の光が集束する一点でもある為、離れた位置から完全に確かめることは難しいのだが、皮膚が剥き出しとなった
「電ちゃんが居たら大喜びだったろうなぁ。あんな大数珠付けてる人、日本中を捜しても
「忠勝の大数珠は玉の一つ一つに金箔が押されていたとも聞きますがね。時代劇もそういう風に再現されていますし。……バロッサさんに危害を加えようとした例の少年がハイテンションになる姿は簡単に想像できますよ。秋葉原から京島の病院まで移動するとき、新撰組の池田屋事件を持ち出すような性格ですしね……」
寅之助が語り、大鳥が不承不承としか表しようのない調子で頷き返した名前にキリサメは聞き
キリサメがその本多忠勝について詳しかったなら〝
穂先に留まった蜻蛉の身が真っ二つに裂けるほど切れ味の鋭い名槍でもって敵兵を蹴散らし、生涯に一度も手傷を負わなかったとされる徳川家最強の猛将は
仏僧もまた菱形の玉を束ねた大数珠を本多忠勝と同じ様式――右肩から襷掛けに帯びている。こちらは金箔といった塗装が施されておらず、木を削り出して拵えたことが遠目からでも分かった。
「大数珠まで身に付けて除霊の類いでないのなら、いよいよ不可解の極みですね。瀬古谷さんに同意するのは甚だ不本意ですが、一九八〇年辺りのオカルトブームに悟りの近道でも見つけたのでしょうか。普通に考えれば〝お坊さん〟がピラミッドパワーにあやかるとは思えませんが……」
キリスト教が広く信仰されているペルーに生まれ、日系人社会との接点こそあれども仏教とは距離のある環境で育ったキリサメであるが、それでも大鳥が首を傾げた理由は察せられた。
答え合わせを求めるように寅之助の顔を覗き込むと、眼差しの意図に気付いた彼も大仰に肩を竦めてみせた。運動施設で座禅を組むという修行は同じ日本人でも聞いたことがないようだ。
「黒や紺しかイメージなかったんだけど、焦茶色の僧衣もあるのね。大鳥さん、どの宗派の〝お坊さん〟か、分かります?」
「自分は別に〝知恵袋〟ではありませんから、装束の色だけで宗派を読み解くことはさすがにちょっと……」
希更が口にした疑問はこの場の誰もが共有するものである。その僧衣が儀式に用いる物ではなく作業着と同じ用途の〝略服〟であることを区別できた者は一人もいない。
腰回りに目を転じてみれば、長年に亘って使い古されたものと
胴が抉れて骨身も軋み、呼吸すら困難になるほど強く強くこれを締め込むという苦行を
(
キリサメが心の中で呟いた『
聖書にも記された受難劇を巨像によって表現し、これを大勢で担ぎながらリマ市内を練り歩く『
この聖人に由来する祝日にはバラの冠で美しく飾られた巨像が敬虔な信徒たちによって担がれ、詰め寄せた市民に見守られながらリマの町を進んでいく。伝承によると
視線の先で座している仏僧は信仰の在り方こそ異なるものの、リマの
(――安上がりといかないのは僕の
キリサメはキリスト教に
無論、仏僧の背中に
「ていうか、アメリカからふらりとやって来た人なのよね? それじゃ、あの人、〝向こう〟のお坊さん? 体格的に欧米系にも見えないけど――そもそも向こうでは仏教ってどんな感じなのかしら」
「お住まいはロサンゼルスだそうですが、おそらく日本の
『
「ロサンゼルス在住の日本人僧侶ってコト? ……頭の中がこんがらがっちゃうわね」
「ご両親ともアメリカ人でありながら熊本県出身の日本国籍。おまけにミャンマー伝統武術の使い手というバロッサさんの
「西洋剣術を極めた声優事務所のマネージャーっていうのも十分にアニメの設定っぽいコト、大鳥さんは一秒でも早く自覚したほうが良いと思いますよ。〝バトル系〟な上に常時鎧装備っていう濃い口設定の幼馴染み持ちってトコもねっ」
日本人離れした容貌の希更・バロッサが口にすると滑稽に思えてしまうものの、大鳥が述べて
アメリカは〝両親の出身地〟に過ぎず、祖父母や『バロッサ・フリーダム』の支部道場を訪ねる〝旅行〟以外には滞在経験もない。それ故、アジアを発祥とする仏教と〝海の向こうの国〟が
「僕にも『ブッディズム』は全然分かりません。ペルーの〝日系文化〟も多少は知っているつもりですが、両親が日本人というだけでは接点があったところで馴染むものでもありませんし……」
小首を傾げて理解が及ばないことを示した希更を受け止めるようにキリサメはすぐさまに頷き返した。
希更が持て余した疑問に関しては、現場マネージャーとして行動を共にしている大鳥聡起よりもキリサメのほうが理解が深いといえるだろう。
日系ペルー人とはいえ、
生まれ育った国と〝血〟の起源は分けて考えるべきと、実感を伴って知っていればこそキリサメは「かくいう僕も良く分からずに死んだ母を火葬したくらいですから」とも言い加えたのである。
「ボクが調べた限りじゃペルーは土葬が一般的だったよね? しかも、ロッカーみたいな集合墓地に亡骸を葬るっていうヤツ。小部屋が縦横に並んでるからカプセルホテルに
「さっきも話しただろう? 『ブッディズム』は分からないけど、〝日系文化〟を全く知らないワケじゃない。毎年、夏には日本の祭りを再現した『マツリ・アエル』という催しもあるんだよ。死んだ母も神輿とやらに生まれ故郷の血が騒ぐと話していたんだ」
「夏祭りの再現……ねぇ。それはボクのチェックから漏れてたなァ。サメちゃんが映り込んでいそうな動画ばっか見繕ってたから仕方ないか――わざわざ今みたいな話を持ち出したってコトは、お母上の火葬もそっちのツテってワケかな?」
「……
「そりゃまた貴重な身の上話に心から感謝ってトコだけど、今の話とは一ミリもカスッてないんじゃない? サメちゃん、前後の脈絡を
気持ちばかりが先走ってしまったキリサメの擁護は適切であったとは言い難く、会話に耳を傾けていた寅之助も冷やかすような調子で肩を竦めて見せた。
(……沙門氏のようにはいかないと分かっていたハズなのにな。慣れない真似はするもんじゃない……)
四人は依然として縦に並んだ状態で半開きの扉から仏僧の様子を窺っている。一番上の希更に不器用な
遅刻者と
「あっ、履物! 履いておられた靴が余りにも変わっていてギョッとしました! お坊さんの服にロングブーツを合わせるコーディネートは〝格ゲー〟みたいだなって!」
そうなると四人もいよいよ居た堪れなくなる。同意を得るまでもないと判断したらしい希更が「あんまり邪魔するのもいけないわよね」とメインアリーナの扉を閉ざしたが、他の三人も不満を洩らすことはなかった。
キリサメも希更の判断こそ正しいと考えているが、心残りが一つもなかったといえば偽りとなる。徐々に閉ざされていく扉を未練がましいとさえ思えるほど見つめ続けていた。
下見のつもりで総合体育館に足を向けたものの、明日の初陣へ臨む気持ちを整えることはできなかった。メインアリーナの様子さえ屋外へ出る頃には頭から抜け落ちてしまっていた。四方の窓から差し込む光や、これを反射するコートの眩しさだけが曖昧な印象として残った程度である。
結局のところ、キリサメの強く記憶に刻み込まれたのは焦茶色の装束を纏い、己を覗き見ている人々の会話が鼓膜を打とうとも一言も発しないまま座禅を組み続ける仏僧の後ろ姿のみというわけだ。
(――ああ、そうだ。何かに……誰かに似ていると思ったら岳氏の教え子とそっくりなんだな、頭のてっぺんを突っ張ったようなあの姿勢は。……名前は
動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』でたった一度、視聴しただけであるが、生まれて初めて触れた『NSB』の試合だけに忘れられるわけがない。
物理的接触時に生じる衝撃を肉体への描画によって可視化するプロジェクションマッピングや、選手の心拍数・有効打の威力及び命中精度をリアルタイムで測定する機械など最先端技術を結集した『
選手の
墨汁を吸い込んだ毛筆としか表しようのない極太の眉も記憶に焼き付いている。
その『フルメタルサムライ』は光に彩られた闘いを師匠直伝の『超次元プロレス』で制し、マット上に崩れ落ちた対戦相手が医師から応急手当を施されている間、
記憶に焼き付いた
「キリキリ~? どったの? やっぱり、もっと見学しとく?
「いえ、……大丈夫です。お構いなく――」
もはや、本人の意識を超え、本能的な部分に衝き動かされた肉体の反応としか
翌日にはMMA興行の会場となる総合体育館は奥州市内でも特に広大な公園の一角に所在している。キリサメが
その総合体育館に隣接する多目的運動広場は観客席も完備されており、サッカーやラグビーの競技大会も開催されている。同じ敷地内には見上げるほど背の高いクライミング競技の
ソリを楽しむ人工芝のゲレンデや築山のような形状の巨大トランポリンなど子どもたちの遊戯施設も多く、家族でバーベキューを楽しむ設備も整っていた。
総合体育館を後にしたキリサメたちが足を向けたのはパターゴルフのコースに程近い水路である。六月の東北だけに真夏にはまだ遠いが、気早な子どもたちは小川や池に入り、大喜びで水遊びに興じていた。
池には彩り豊かなタイルやガラス玉が敷き詰められている。つい先ほどキリサメたちが目の当たりにした仏僧の
「――両親が日本人というだけでは接点があったところで馴染むものではない。日本をアメリカに置き換えれば、アマカザリさんが仰ったことに一理ないわけではありません」
水路の脇を抜ける小道から子どもたちの様子を微笑ましく眺めていた大鳥聡起が不意に思いも寄らないことを呟き、キリサメは眠たげな
そのキリサメは今日まで大鳥に対して顰め面や冷たい眼差しといった印象しか持っていなかった。しかし、互いに池の水を掛け合い、大人たちに窘められながらも元気いっぱいに笑い続ける子どもたちを見つめる
同じ感想を抱いたらしい寅之助が「いたいけなお子様たちにニヤけた顔で舌なめずり。日本では即通報だけど、ペルーでも一緒?」と揶揄した直後だけに二重の意味で息を呑んでいた。
当然ながら寅之助のことは冷たく
「縁のない土地のことは分からなくて当然ですよ。自分も地図や資料本を読むまで岩手のことは無知も同じでしたから」
「アメリカと仏教が希更氏の頭の中で上手く噛み合わないのは当たり前ではないかと。かくいう僕も『マツリ・アエル』で――日本風の夏祭りで何をやっていたのか、殆ど意味が分かりませんでした。
「祭りに屋台が出るのはアマカザリさんの故郷も日本も変わらないようですね。自分も話に聞いた程度で実際に口にしたことはありませんが、アメリカでも日本食の店が盛んのようですし、焼きそばが海を渡っていても不思議ではないでしょう」
一つの答え合わせを求めるキリサメに頷き返したときも大鳥の眉間に皺はなかった。
その態度が希更には余りにも意外であったのだろう。己のマネージャーに対する驚愕は計り知れず、目玉が飛び出すのではないかと心配になるような表情を見せた。
「……成る程、そうか。希更氏が話していた〝屋台村〟がどういうものか、今になって少し分かった気がします。あの平べったい麺が恋しくなりました」
「平べった――えっ? 焼きそば? 自分の知っている焼きそばと違うような……カッパ巻きとカリフォルニアロールの違いみたいなものなのか……っ?」
「あたしに続いて大鳥さんも頭がこんがらがっちゃったみたいですね。頭の中は〝ペルーの焼きそば〟で一杯でしょ? きっと今夜はじゃじゃ麵を食べると予言しときますよ」
「じゃじゃ麵? じゃじゃ麵とは一体……自分の頭は今、きし麵に取り憑かれていたのにじゃじゃ麵……っ⁉」
「カリフォルニアロールを知ってて、じゃじゃ麵知らないって逆に有り得る? うちの母なんて盛岡でそれを食べるのがお目当ての一つって言ってるくらいなのに」
暫くは面食らったまま幾度も口を開閉させ、心境の変化を勘繰るような目を大鳥に向けていたが、話題が〝ペルーの焼きそば〟へ及ぶ頃には二人の様子を交互に見比べ、愉快そうに顔を綻ばせていた。
無論、希更が微笑む理由が当事者の一人であるキリサメには
冷やかすような視線の意味が伝わったらしい大鳥のほうは仕切り直しの咳払いを引き摺りながら目を逸らし、「お母上はセコンドと夜行列車の旅、どちらが目的なのですか」と効果があるとも思えない反撃を苦しげに吐き出したが、これは希更の笑顔によって切り捨てられてしまった。
「アメリカ全体で考えるから纏まるものも纏まらなくなるのですよ。超大国ですよ? 範囲が広いなどというものじゃない。自分が僧衣の色で宗派を見分けられなかったのと同じようにね。どちらもある程度、絞り込まなければ」
「露骨に話題を変えたねぇ、サトさん。ヘヴィガントレットさんから教わったように仕切り上手だね~。小中高と生徒会長を務めただけのことはあるよ。あっ、小学校は児童会長だっけ? それにしても幼稚園から一緒とは〝筋金入り〟だなぁ~。電ちゃんとボクでさえ小学校からなのに」
「……アマカザリさんに倣って係員の
揶揄の言葉は受け流しつつも物心つく前から傍らにいた幼馴染みが他にも余計なことを喋らなかったかと
それは同時にペルーで催された日本式の夏祭り――『マツリ・アエル』を例に引いたキリサメに対する相槌の代わりでもあった。
「先程の話で手掛かりになりそうな
「ご明察。……ペルーの〝日系文化〟をご存知だとご自分でも話しておられましたが、アマカザリさんは日系人の歴史全般について明るいようですね。今まさに舌の上に乗せようとしていた地名を先に述べて頂けると手間を省けて助かりますよ」
「手前味噌になりますけど、死んだ母の教育が良かったんです。リトル・トーキョーに関しては岳氏とモニワ氏の――『
大鳥にも答えた通り、ロサンゼルスの一角を占める日本人街――リトル・トーキョーは日米MMA団体が『コンデ・コマ・パスコア』の開催に向けて共同記者会見を行った場所である。
そのときの模様をテレビのスポーツ番組で視聴したのはおよそ四ヶ月前のことであり、何事にも無関心なキリサメも地上一八メートルに達するであろう赤い
「リトル・トーキョーと日系社会を紐づけられるのは
「運動着の中に汗が染みた背広で混ざっておいてメンツも何もあったもんじゃないと思いますよ。さっきの
「髪の毛を
キリサメに対して大鳥は自嘲と皮肉を織り交ぜたような言葉を返したものの、リトル・トーキョーという推察そのものには素直に首を頷かせている。その一方で希更と寅之助による揶揄の言葉は無反応で受け流した。
それよりもキリサメが気になったのは寅之助の様子である。ロサンゼルスという都市が話題に
寅之助が一礼する姿をキリサメはこれまでに何度も目にしており、この
「自分の記憶が間違いでないのなら、アマカザリさんが挙げられたリトル・トーキョーには数多くの
「つまり、そこが日系移民にとって心の拠り所だった――ということでしょうか?」
意味は分かっても意図が解せない寅之助の様子を気にしつつも、キリサメは別の答え合わせを求めるよう大鳥に視線を巡らせた。
「ペルーの日系社会でも同じ動きがあったものとご拝察しますが?」
「仏教の位牌とキリスト教の十字架を一緒に置くような儀式も見た
「……きし麵のような焼きそばの話を伺った今なら、そういうものかと
「リマから一〇〇キロ以上離れているので僕自身は行ったこともありませんが、南米最古の仏教寺院が
「
南米最古と伝承される
建立の翌年には日本人学校も創設されたそうである。現地を訪ねたことのないキリサメの
その寺院は〝移民の聖地〟と呼ばれており、二〇〇〇柱を超える位牌や遺骨が
大鳥が述べたリトル・トーキョーの仏教寺院も
「リトル・トーキョーに
「代表ということは僧侶……だったのですよね?」
「アマカザリさんが不思議に思うのも
「ボンオドリ――僕も微かに聞いた
「ていうか、サトさん、やけにリトル・トーキョーの
「自分も一応、〝芸能事務所〟の末席を
「ボクらのゲーミングサークルはサトさんが産声を上げた産婦人科まで知ってますよ」
「……依枝さんに直接、問い質しますので他のことは結構っ。バロッサさんも聞き耳を立てないでくださいっ」
厭味の二字を顔面に貼り付けた寅之助と、堪え切れず片膝を突きながら大笑いする希更を一等大きな咳払いでもって窘めた
リトル・トーキョーの仏教寺院にまつわる
「丁度、一九三二年に開催された〝最初〟のロサンゼルスオリンピックの頃だったのですよ、『ジョナサン事務所』社長のお父上が寺院の代表を務めたのは。生まれる前のことですし、自分も記録でしか存じ上げないのですが、日本人選手が表彰台に上がる
大鳥が例に引いた〝最初〟のロサンゼルスオリンピックとは以前に岳から聞かされた第一〇回大会のことであろうとキリサメは直感した。同大会は亡き母の授業でも取り上げられた為、後年の一九六四年東京オリンピックを成功に導いた
馬術競技に出場した『バロン西』こと
人種のみで優劣を一方的に分けられ、アメリカ社会から爪弾きにされ、あらゆる意味で不遇を被っていた日系移民とその子孫にとって、オリンピックという平和の祭典に
一九二八年アムステルダムオリンピックで日本初の金メダル獲得を成し遂げ、続く一九三二年ロサンゼルスオリンピックでは旗手も務めた陸上選手――
日本選手団を迎えたリトル・トーキョーでは競技活動を支援する為に寄付金まで集めたそうである。同地で暮らす人々の〝心の拠り所〟であった寺院も自分たちの
「音楽やスポーツ、それにプロレスも国境を超えた共通言語だと死んだ母親も良く話していました。例の社長もロサンゼルスのオリンピックに影響を受けたのでしょうか」
「それはどうでしょう? 当時、『ジョナサン事務所』の社長は二歳にも満たなかったハズですし、実感として日系社会の熱狂を
「自分の故郷のコトだもん。記憶になくたって触発されたと思いますよ、絶対。あたしも宮崎県の風習とかハワイの人たちの気風とか、自分のコアな部分と同じように感じるし」
「自分の
「かもね。でも、〝何〟を魂の
寅之助から投げ掛けられた揶揄の言葉を涼しげな顔で受け流した希更は、自身のマネージャーに片目を瞑って見せた。
「……『ジョナサン事務所』の社長はオリンピックの翌年にご家族でリトル・トーキョーから日本に引っ越し、
それから紆余曲折を経て再び日本に戻り、アイドル事務所の創設に至ったと語った
「……太平洋戦争が始まったことでリトル・トーキョーはゴーストタウンも同然の状況に陥った上、
「……ロス五輪を持ち出したサトさん相手に言うコトでもないけど、不当な扱いに苦しめられたのは〝日系人〟だけじゃないよ。あの頃は海を渡った〝日本人〟だって散々な目に遭った。……日本人街が廃墟になるのは少しも不思議じゃないね」
大正から昭和――即ち、戦前から戦後に至る剣道の〝全て〟をその身に叩き込まれた寅之助も日本人街の変貌を受けて、堪え難い〝何か〟が込み上げたようだ。如何にも不愉快そうに鼻を鳴らし、「肌の色が違うってだけで下らない真似をするヤツは今も昔も変わらないもんな」と一等冷たい声で吐き捨てた。
「……大統領令九〇六六号か……」
「……ん? サメちゃん? 今、何か言った? バロッサさんに文句をぶつけるなら蚊の鳴く声じゃなくて腹から声出してあげなくちゃダメだよ」
「キリキリが
我知らず洩らした小さな呟きが寅之助に聞こえてしまったようであるが、これ以上は何も話すつもりなどないと、キリサメは
アメリカと同様に
当時のルーズヴェルト政権は日本で拘束された自国民と同等の条件で交換できる日系人を引き渡すよう中南米諸国に求めていた。
大統領令九〇六六号の発令に伴う強制収容によって、アメリカ最大の日本人街から日系人の姿が消え失せた。これもまた亡き母の授業で教わったことである。
日米間に横たわる揺るがし難い〝歴史〟である為、大鳥は自身が担当する声優の前で語ることを躊躇ったのだ。人権を脅かす内容を含んでいればこそ彼や寅之助の言葉は極めて重く、池のほうから飛び込んでくる子どもたちの明るい笑い声がこれを際立たせていた。
生まれも育ちも日本人である希更でさえ「肌の色が違うというだけで下らない真似をする人間は今も昔も変わらない」という寅之助の言葉には苦悶に近い表情を浮かべたのだ。
「飲み込みが遅い僕にも何となく掴めてきましたよ。確かにロサンゼルス在住という情報は大きな手掛かりでしたね」
「それだけで結論出しちゃうのはヤバいんじゃないの? 森寅雄先生もアメリカ時代はカリフォルニアで暮らしていたからボクも結構調べたけどさぁ、一口に
寅之助とは小学校以来の幼馴染みである電知に教わったことだが、大正から昭和を生きた
正真正銘の『タイガー・モリ式の剣道』という前置きを挟んで寅之助が繰り出した左片手一本突き――〝森寅雄の奥義〟の原点であろうフェンシングに携わっていた時代はカリフォルニア州を拠点にしていたようである。
つい先程のことだが、同州の
肌の色が違うというだけで下らない真似をする人間は今も昔も変わらない――彼が吐き捨てた一言は、アメリカで何らかの不遇を被った
「もう一個、付け加えるなら森先生がフェンシングの
「別に構わないんだよ、寅之助。当たり外れ以上に僕には勉強になったから」
「サメちゃんはホントさぁ、……MMA以外の頭脳労働を生業にしたほうが良いって」
総合体育館で遭遇した
「――ここ、リトル・トーキョーは日米にとって極めて大切な意味を持つ場所です。歴史あるこの町で本日の共同発表を迎えられたことが心から嬉しく、同時に大変な名誉であると身が引き締まる思いであります」
赤い
「気分転換のつもりで出掛けたのに大鳥さんの
「……自分が原因にされるのは甚だ心外ですがね……」
「いや、サトさん一人だけ
「瀬古谷さんにだけは言われたくありませんがねっ」
自分の顔を覗き込み、「あたしが妙に気を回し過ぎちゃってたら、ごめんね」と、安堵した様子で二度三度と首を頷かせた希更に対してキリサメは俯き加減で頬を掻いた。
思えば宿所からランニングへ連れ出してくれたのも、初陣の舞台となる総合体育館の下見を提案してくれたのも希更である。つまり、心に垂れ込め、MMA選手としての行く末を見失ってしまいそうになるドス黒い
岳は『
「余裕のないキリキリも可愛かったよ~。ますます母性本能くすぐられちゃったもん」
「……やっぱり、そう見えていたんですね……」
「ちょっと一回、深呼吸してみようかってだけの
「何なら電ちゃんも呼ぶ?
「……それについては
軽い冗談まで深刻に受け止めてしまうキリサメの緊張を解きほぐそうと、希更は彼の背後に回って両肩を揉んだ。
ともすれば度を越した
仕切り直しの咳払いを挟んだ
担当マネージャーの責任感もあってか、希更と名前で呼び合う
「ああっ、今のは惜しかった。写真を撮っといたらヘヴィガントレットさん、きっと高値で買い取ってくれたのになァ」と冷やかしてくる寅之助には依然として極寒にも等しい眼光を叩き付けているのだ。
「鼓膜に突き刺さるくらい騒がしい二人が隣に居たんじゃそもそも暗い
気鬱と異なる領域に湧いた驚愕さえ掬い取ってしまう希更の細やかな心配りにキリサメは改めて感服し、「
それにも関わらず、
好きな時間にトレーニングを行える自分とは違い、希更の場合は本業である声優の仕事をこなしつつ、限られた時間の中で試合に向けて準備しなくてはならない。〝兼業〟であるが故の課題を抱えながらも彼女は肉体・戦略の両面を万全に整えているのだ。
宿所で合流したときにも未稲から調子を
自信に満ち溢れた姿がキリサメには眩しいくらいであった。
(電知や寅之助――
そこで再び
〝天才の感覚〟というものが全く読めない
ムエ・カッチューアとサバキ系空手――それぞれの道場に
その点については八雲岳とも確かに似通っているのだが、沙門の場合は仲間を募るまでもなく己一人でどこまでも突き進んでいく。それは「先鋭化」と表裏一体の〝若さ〟が為せる業である。そして、そこに『
キリサメも沙門の
城渡との誓いの
それより
まさにその場所で
「そろそろ切り上げないと
希更はジャージのポケットから取り出した
キリサメは太陽を仰ぐ以外に時間を確かめる
(……〝気の練り方〟を熟知しているんだよな、希更氏は。今から指導を頼んだところで明日の試合で使い物にはならないだろうけど……)
希更の〝変身〟にキリサメは心の底から感心していた。単純に服装を変えただけではなく、全身から自然と発せられるオーラのようなものまで完全に抑え込んでいるのだ。
子どもたちが笑顔を弾けさせる池やトランポリンを一望できる場所で四人は長々と話し込んでいた。無論、その間に何人もが脇を通り過ぎていった。
寅之助が皮肉を交えて指摘したように背広姿の大鳥は公園の風景にも馴染まず、異様なほど目立っているのだが、その隣に立つ野暮ったい女性が今を時めく人気声優であることには誰一人として気付かなかったのである。
観客を招いての公開計量が執り行われる
別人のように切り替えられる希更の器用さを見ていると、キリサメはついに達成できなかった課題を意識してしまい、これまでとは異なる意味で気持ちが重くなった。
希更の〝変身〟も〝気の練り方〟に通じる
一朝一夕で極められる技術ではないと
攻防の組み立て方に
〝気の練り方〟と比べて現実的な影響が余りにも大きく、生まれて初めてMMAのリングに立つ
「本番なら始まる前から台無しだって言ってあげたら? 餅みたいな人がキレてたけど、サメちゃんってば作戦もメチャクチャなんでしょ? 考えられる最悪の状態なんだから気分転換にもなりゃしないさ。ハッキリ言わなきゃ、まだまだねちっこく付き纏われるよ」
「この場の誰よりもねちっこい人がそれを言いますか。自分が秋葉原の真ん中で仕出かしたことを既にお忘れでは? ……アマカザリさんも――いえ、『八雲道場』もよくこの青年に
だからこそ、せせら笑うかのような寅之助の声がキリサメの心を軋ませた。
本人に成り代わって大鳥が窘めてくれたが、希更の心配りによって少しばかり気分が晴れた途端に兼ねてからの問題を想い出したことは間違いないのだ。沙門に対する気後れが蓋の
自分と同じ日に打撃系立ち技格闘技団体『
格闘家として確固たるモノを備えた人々との落差をまたしても思い知らされ、キリサメは己が惨めでならなかった。
自分たちの向かう先で生い茂っている木立に目を転じ、これによって隠そうとした気持ちを見破ったらしい寅之助はますます口の端を吊り上げた。
誰よりも優れた剣道家でありながら〝公式の大会〟で
こういった態度には
初陣の支えとなり得るモノが全く抜けた状態なのだから、不安を振り払えないのは当然であろう。
己の同じ〝血〟を吸った『
剣道家の魂であるはずの竹刀に抜き身の暴力性を漲らせ、〝寅〟の一字を
「キリキリ? どしたの? ……もしかして、冗談でなくマジでマズい状況なの?」
「寅之助が言っていることを否定するのは難しいのですが、今のはそちらではなくて。希更氏は本当に凄い人なんだなって改めて思っていたんです」
希更が気遣わしげな表情でキリサメの顔を覗き込んだのも無理からぬことであろう。寅之助の口から初陣を崩壊させ得る不安要素が語られた直後に口を噤み、俯き加減となってしまったのだ。
その状態で何時までも返事がなければ、体調を崩してしまうほど思い悩んでいるのかと誰もが心配するのだ。大鳥までもが横目でもってキリサメの顔色を窺っていた。
「みーちゃんに希更氏のコンサートの映像を見せて貰ったのですけど、そのときと
「えっ⁉ キリキリってば、あたしにようやく興味津々っ⁉」
「一応、友人のつもりですし……」
「キリキリにだったら、事務所通さず何だって見せちゃうわよ~っ!」
満面の笑みを浮かべて飛び付いてきた希更を
(……僕のほうから引っ張ってきたんだ。仕切り直さないと悪いよな……)
不意に小さな人影を想い出したキリサメは誰にも気付かれないよう静かに微笑んだ。
「……あの、もし――」
女性の声がキリサメの鼓膜を貫いたのは太陽の眩しさに目を細めた瞬間のことである。
自分たちを呼ぶ声に反応して首を振り向かせたキリサメと希更は、そこに捉えた顔に双眸を見開いて絶句し、幽霊にでも遭遇したかのように揃って相手を指差した。警護対象の少年とは別の意味で何事にも動じない寅之助までもが二人と似たような調子で口を開け広げているのだ。
格闘技を重大な人権侵害と見做し、これを根絶せんとする思想活動『ウォースパイト運動』――その急先鋒が『NSB』関係者の同乗を理由にアメリカ合衆国大統領の
*
時間こそ異なっているものの、『
『
ワイシャツの上からエプロンをつけ、『
これもまた交流イベントの一環である。団体代表の樋口郁郎が考案し、
開催前日セレモニーや
今回は同団体で一番の
ツアー応募者たちは夕方に執り行われる開催前日セレモニーを出場選手の熱気が伝わる距離で観覧し、夜は岳やレオニダスを交えた懇親会で牛鍋を味わい尽くすことになっている。第一回興行と同じ岩手県での開催ということもあり、今回は初めて閉幕後にアフターパーティーが予定されているのだ。
『
麦泉と同じ『
「忍法ずんだ餅の術ってなァ! オラオラオラーッ! お餅になって参りましたァ~!」
「そんな忍術あって堪るか! あんまり適当なコトを言ってると『
若きスーパースターに負けまいと張り切っているわけだ。ファンと身近に接する交流会は『
「何回見ても和食の
レオニダスが日本でのタレント活動を通じて鍛えた機関銃の如き
尤も、これは奥州市の観光ツアーではなく『
『
八雲岳と行動を共にしていることが想像できるようなときには電話など絶対に掛けてこない名前であった。そして、この週末に『
以前に掛かってきた電話も穏やかならざる内容であったのだ。そのときはキリサメ・アマカザリの不祥事を樋口が権力の濫用によって覆したことに憤激していた。
「――釈迦に説法でもこれだけは言わせて下さい! 俺たち格闘家は主催者に命を預けるのと同じなんですよ⁉ だからこそ、ちょっとやそっとでは絶対に揺るがない信頼関係で結ばれてなくちゃいけないんです! あの男がやったのはパートナーシップとは正反対のことなんですよッ! しかも、これからデビューしようという若い選手を裏切るなんて言語道断ッ!」
鼓膜を破かれるのではないかと思うような怒号が麦泉の脳裏に甦った。
通話相手は樋口が
「――
『ウォースパイト運動』から脅かされるMMA団体へ所属しているにも関わらず、過激な思想活動家たちと同じように火炎瓶でもって『サムライ・アスレチックス』の本社を焼き討ちしてやると通話相手は怒鳴り散らしていたが、そのときには麦泉も自重を促しながら頷き返してしまったくらいである。
アメリカの格闘技界で出会った人たちは、誰もが選手の立場を一番に考えて力を尽くしている――言葉を交わすほど憤激が膨らんでいく声は
今度の電話はそのときよりも更に激しく麦泉の心を揺さぶる
たった一人で狭い廊下に立ち尽くした彼は呻き声を洩らすことさえ叶わないほどの衝撃に打ちのめされ、壁一枚を隔てた向こうから聞こえてくる喧騒とは正反対の表情を浮かべていた。
耳に宛がった携帯電話からは「まさか、卒倒したんじゃないでしょうね?」と気遣う野太い声が漏れ出している。
「……辛うじて
「俺だって今でも心臓の早鐘が鎮まりませんよ。いつものように〝あの人〟が
「本人から――〝あの人〟からそういう話は事前に一度もなかったと……?」
「そんな
「本当に……本当に〝あの人〟が日本に――岩手に入ったんだな。
先日と同じように通話相手の男性は秒を刻む
暫らくは余韻として耳鳴りが残るであろう大声は、厚いとは言い難い壁を貫いてしまいそうである。念を押すかのような質問に「団体の上級スタッフにも確認したって、さっきも言いましたよねッ!」と答えた瞬間などは麦泉も顔を歪めてしまった。
餅つきの最中に電話を受けたことは何よりの僥倖である。受話口から零れる大声を岳の耳が拾っていたなら杵を
「……このタイミングで〝あの人〟を日本に呼び寄せるっていったら、どう考えても樋口社長への対抗措置だよなぁ……。『ハルトマン・プロダクツ』の視察とブッキングさせてモニワ代表を牽制するっていう……」
「……俺は
「一番の問題は〝あの人〟が腹の底で何を考えているか――それだよ。呼び出されたから来日? ……そんなに生温い人じゃない。ひょっとすると『
「文多さん、それはさすがに考え過ぎでは……。まるで何か企みがあって『
段々と熱を帯びていく通話相手に対し、麦泉の声は急速に冷たくなっていく。
だが、それは通話相手が所属するアメリカのMMA団体――『NSB』の代表であるイズリアル・モニワに対する不信の
「日本の総合格闘技を一度、破滅に導いた張本人だ。……里帰り? 恥ずかしくもなくよくもそんな真似ができるものだな……ッ!」
誰に対しても穏やかな物腰を崩さず、どうしても叱らなければならないときには相手に将来のことを説き聞かせる――他者への思いやりが誰よりも強い麦泉が背筋が凍るほど冷たい侮蔑を吐き捨てたのだ。
その重みが海の向こうから電話を掛けてきた相手の心にも響いたのであろう。暫しの沈黙を挟んだ後、「文多さんらしくありませんよ、そういうのは……」と余人の耳には届かない程度に声を落として麦泉を窘めた。
麦泉の気持ちは察して余りあるが、自分は同調できないと言外に伝えてもいるわけだ。
その一方で、彼が先に示した当て推量は否定しなかった。所属団体や
先日の電話でも「今や『NSB』と『
「……師匠や鬼貫さんの声が電話越しにも聞こえてきますけど、やっぱり耳に入れておいたほうが良いと思います。特に師匠の場合、事前に心の準備をしておかないと
通話相手は報告せざるを得なかった事態が『
「欲を言えば同じ会場に居ることさえ気付かないまま閉会セレモニーを迎えたいよ。ただでさえ作戦もガタガタなのに、メインのセコンドまでおかしくなっちゃったらキリサメ君のデビュー戦はどうしたって危うくなる……!」
「それが俺には何より気掛かりなんです。師匠は見た目と裏腹に打たれ弱いし、気持ちを簡単に切り替えられるほど器用でもありませんから。師匠も〝あの人〟も、……いや、俺だって『昭和』の残り火みたいなもんです。これから
国際電話の番号はカリフォルニア州ロサンゼルスで使われているものだ。日本とは一七時間もの時差が生じる為、向こうは金曜日の深夜である。一日の終わりを迎えようかという時間帯にも関わらず、緊急連絡を入れてきた理由が今し方の一言に表れていた。
通話相手はアメリカの格闘技界に
「俺のほうこそ
「おそらく日本の〝シューター〟は誰一人として創始者の帰国を知らないハズだよ。キミこそどうなんだい? 現役の〝シューター〟との付き合いは僕より広いんじゃないか?」
「……その後に起こる混乱を考えたら、恐ろしくて電話なんか入れられませんよ」
「お互いに手掛かりナシか。僕も今、初めて聞いたくらいだから日本の格闘技界でこの件を知っている人間は誰もいないと思うよ。樋口社長だって掴んじゃいないハズだ。事前に把握していたら、……何らかの
「あの〝暴君〟が裏を掻かれたってコトだけは痛快ですがね」
「
通話相手に『
引き戸に設置されたガラス窓の向こうでは如何なる緊急連絡が入ったのか、想像すらしていない八雲岳と鬼貫道明が――日本へ
『
「……日本に
右耳で『フルメタルサムライ』の呻き声を受け止め、窓越しに八雲岳を真っ直ぐ見つめながら、麦泉は喉の奥から絞り出すようにして、その忌むべき名前を呟いた。
ヴァルチャーマスクが日本に
そもそも『ヴァルチャーマスク』は昭和を代表する漫画原作者が手掛けた作品の〝キャラクター〟である。
その漫画原作者――
漫画の〝キャラクター〟を実在のプロレスラーに仕立てることで
ある意味に
瞬く間に原作漫画から独立するほどの人気を獲得し、後代まで語り草となる〝伝説〟を日本のマット界に築いていった。
鬼貫道明が志した異種格闘技戦にも加わり、『鬼の遺伝子』最初の世代として世界の強豪を迎え撃ったのである。数え切れない〝実戦〟経験に基づいてルチャ・リブレとも異なる自らの〝総合格闘技術〟の体系を考案し、一九八九年にはこれを教え広める団体を旗揚げ。
ヴァルチャーマスクが「
現実離れした物語が繰り広げられ、それ故に子どもたちの夢を膨らませた
そして、それ故に日本MMAの黄金時代を築くことになる当時最大級の団体『バイオスピリッツ』では初代統括本部長の肩書きを背負い、東京ドームで開催された第一回興行に
プロレスのリングに不滅の伝説を築いた最強のプロレスラーが新しき栄光の扉を開くことを誰もが信じて疑わなかった。逆立ちしながら両足でもって相手の首を挟み、次いで己の頭を軸に代えてコマの如く全身を振り回し、勢いよく相手を投げ落とすという曲芸と見紛う大技を〝実戦〟の場に
ヴァルチャーマスク当人も「
対戦相手は
世界を相手に闘い続け、やがてブラジルに辿り着いた明治の柔道家――
この〝
その抗争に
加えて一族の最長老はドナト・ピレス・ドス・ヘイスのもとで心技体を鍛え上げ、彼の道場を継承してブラジリアン柔術を隆盛に導いた偉人である。一九九三年にアメリカ・コロラド州デンバーにて第一回興行を催した『NSB』の旗揚げにも一族の人間が参加するなど
ブラジルのバーリトゥードから世界のMMAへ――反則行為を除いた〝
即ち、『バイオスピリッツ』第一回興行は異種格闘技戦を通じて世界と闘った日本のプロレスと、
ルチャ・リブレと「
日本最強のプロレスラーは第一
〝伝家の宝刀〟たる
空手チョップで外国人レスラーを次々と撃破し、戦後の日本人を元気付けた力道山とは正反対の筋運びとも言えるだろう。敗戦を告げるゴングがリングに鳴り響いた瞬間、「プロレスこそ最強」という
決戦の東京ドームに詰め寄せた四七〇〇〇人もの観客は誰もが言葉を失い、その痛ましい沈黙が衝撃の深さを端的に物語っていた。
会場で試合を見守っていた麦泉文多は言うに及ばず、ヴァルチャーマスクにメインイベントを託した八雲岳と鬼貫道明にとって、その光景は「絶望」の二字を
このとき、ヴァルチャーマスクは格闘家としてもプロレスラーとしても人生に
それにも関わらず、思い通りに攻防を組み立てることさえままならなかった。〝実戦〟経験と自らの理論に基づいて完成させた「
四角いリングに横たわっていたのは「日本は世界を知らなかった」という余りにも非情な〝現実〟であった。
「――もう一度、立ち上がってくれよ、兄ィッ! あんたが敗けちまったら、……敗けを認めちまったらオレたちレスラーはこれから先、何を目指して闘えば良いのかも分からなくなっちまうだよッ! 立ってくれッ! 立つんだ、ヴァルチャーマスクッ!」
リングサイドに駆け付けた若き日の岳が涙と鼻水で顔面を崩壊させながら吼え声を上げる姿は、決戦から一七年を経た
岳の絶叫に応じることもなく、仰向けに倒れたまま東京ドームの天井を見つめるヴァルチャーマスクが〝そのとき〟に何を考えたのかは未だに明らかとなっていない。試合後のインタビューでも彼は多くを語らなかった。
小生は語る言葉など持ち合わせていない――試合の総括についてもただ一言しか述べなかったのだが、取材を行った記者と言わず格闘技ファンと言わず、プロレスと同じ四角いリングで起きたことの意味をこの短い
世紀末の足音が間近に聞こえ始めた一九九七年一〇年一一日のことであった。このときの顛末は
これ以降もブラジリアン柔術とプロレスの闘いは繰り返され、
まるで我が身を生贄として捧げるかの如く日本MMAの先駆けとなり、やがて自らの手で黄金時代を終焉に導いた男がアメリカから
これと同じ頃、キリサメ・アマカザリは初陣の地にて遭遇した不思議な仏僧の後ろ姿を幾度となく振り返っていた。その瞬間は本人にも無意識の行動であったのだが、あるいは本能の部分で運命的な予兆を感じ取っていたのかも知れない。
二〇一四年六月現在、ハゲワシの頭部を模った古いプロレスマスクはガラスケースに納められたまま『八雲道場』の片隅で静かな眠りに就いている。
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