その18:予感(前編)~柔道一三〇年の伝説・嘉納治五郎の魂は永遠に

  一八、予感(前編)



 世界中の格闘家や星の数ともたとえるほどのファンに伝説的レスラーとして尊崇されるおにつらみちあきのもと、昭和プロレスの時代から異種格闘技戦を繰り広げてきた『鬼の遺伝子』の一人であり、『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業『サムライ・アスレチックス』にいてマネジメント部門常務という重責を担う麦泉もんは、破天荒な社長が身近に居ることもあって同社の良心などと呼ばれている。

 誰からも慕われる人格者であることに間違いはないが、さりとて優しさを安売りする軽薄な八方美人というわけでもない。人一倍穏やかというだけで他者の声に流されもせず、何事も大らかに片付けてしまう岳の手綱をしっかりと握っているのだ。これを支えるのは責任ある立場と芯の強さである。

 そして、そのように温和な人間ほど本気で怒ったときには周囲まわりを凍り付かせるものだ。

 とらすけと共に引き起こした騒動について麦泉の尋問を受けたキリサメは戦慄に打ちのめされて寝付けなくなり、これを傍らで見守っていた岳も以前に自分が浴びせられた叱声を想い出して再び竦み上がったのである。大切な養子を庇うことさえままならない有り様であった。

 『天叢雲アメノムラクモ』の不祥事にまで発展し兼ねなかった〝げきけんこうぎょう〟の当事者たちときょうじまの藪整形外科医院で別れてから数時間が経過している。さすがに腹の虫も収まったかと思いきや現在いまも麦泉の腸は煮えくり返っているのだ――が、その形相はキリサメに向けたものと全く異なっていた。

 怒れる瞳が見据えているのは『サムライ・アスレチックス』という社名とロゴマークが刻まれたプレート――即ち、日本MMAの最前線とも呼ぶべき場所への入り口である。


「社長! 一体全体、どういうつもりですかっ⁉ キリサメ君にもセンパイにも納得のいく説明をして頂かなくては――」

「麦泉さんは何を置いても駆け付けると思っていましたけどね……」


 擦りガラスのドアを開けて事務所内へ飛び込み、その先に待ち構えているだろう樋口へ臨まんとする麦泉であったが、穏やかな顔立ちに不似合いな怒号を受け止めたのは追及の対象とは異なる女性――いまふくナオリであった。

 赤坂の一等地に聳え立つ地上五四階の超高層ビル――ミッドタウン・タワーの一室に所在するたねざきいっさくのアトリエで『キリサメ・デニム』の完成に立ち合った際には毒々しいほど主張の強い化粧を施し、大胆に開いた胸元へわざわざスカーフの端を垂らすなど煽情的に振る舞っていたのだが、現在いまは上下ともジャージという飾り気のない装いである。

 控えめに窺ってみると左右の眉は薄く、明らかに植物由来ではない香気が無遠慮に押し寄せてくることもなかった。普段は離れた場所に立っていてもせてしまうほど強い香水を全身に振りかけているのだ。

 前髪をヘアバンドでもって持ち上げた額には麦泉にも劣らない量の汗が噴き出し、大きな粒を幾つも作っている。滑り落ちたひとしずくが双眸まで流れ込んでも痛みの悶えることはないだろう。自宅にて寛ごうという服装いでたちからも明らかな通り、今福は化粧の時間すら惜しんで本社事務所に駆け込んだのである。


「ていうか、どうしてそんなにフォーマルなんですか。あたしだけバカみたいですよ」

「仕方ないでしょう。センパイから連絡が入ったときも夕食中だったのですから……」


 日付が変わって暫く経つような時間帯にも関わらず、『サムライ・アスレチックス』の事務所へ麦泉が駆けつけた理由など改めてつまびらかとする必要もないだろう。

 新宿駅近くに所在する異種格闘技食堂『ダイニングこん』で遅い夕食をっている最中に八雲岳から携帯電話スマホ宛てに緊急連絡が入り、そこで麦泉は『あつミヤズ』による緊急生放送を初めて知ったのだ。

 キリサメ・アマカザリという一人の少年の尊厳を傷付ける暴露番組は『サムライ・アスレチックス』マネジメント部門常務も把握していなかったのである。

 そればかりではない。あつミヤズという『キャラクター』を運営し、その権利を有している格闘技雑誌パンチアウト・マガジンにも確認を取ったところ、麦泉たちが昼間の騒動さわぎを片付けている最中にくだんのチャンネルの制作スタッフが撮影スタジオへ招集させられたことも判明したのである。

 言わずもがな、樋口郁郎その人が格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部を通すことなく直接的にを下したのである。つまり、八雲岳と顔を合わせる状況でその養子を見せしめにする算段を進めていたわけだ。

 麦泉と夕食を共にしていた『ダイニングこん』のオーナーは――鬼貫道明は樋口の暴挙に激怒し、岳と共に『サムライ・アスレチックス』の事務所へ殴り込むとまで吼えたのである。古武術の心得がある様子のウェイトレスが足首を極めて物理的に止めていなければは本当に戦場と化していたことだろう。

 養子キリサメを甚振られた岳も電話の向こうで怒り狂っていた。樋口への糾弾を引き受けることを条件に自宅待機してもらうよう説得したばかりなのだ。


「しかも、酔ってません? 見ているこっちが気分悪くなるくらい汗だくだし……」


 首から上のあちこちにハンカチを宛がわなければ見苦しい有り様になってしまうほど大量の汗が噴き出しているのは飲酒アルコールの影響ではない。心の奥底から噴き出した義憤が水滴に変わったようなものである。

 新宿の異種格闘技食堂から渋谷の事務所へと移動するべく麦泉はタクシーを利用したのだが、くだんの暴露番組を視聴したという〝海の向こう〟の友人から電話が入り、車中で口論となってしまったのだ。

 尤も、〝口論〟という喩え方は適切ではないだろう。語気こそ荒いものの、通話の相手と怒鳴り合ったわけではない。運転手ドライバーには陰険と思えたであろうが、憎むべき対象を共有し合い、タクシーから降りるまでの間、二人がかりで憤激をぶちまけ続けたのである。

 怒りの炎は未だに激しく燃え盛っており、それが為に擦りガラスが砕けるのではないかと心配になるほどの勢いで玄関のドアを開いてしまったのだ。


「不規則な食生活してると更に太りますよ。新陳代謝だってもう元気な年齢トシじゃないんですから自分で気を付けないと。それともお弁当、作って来ましょうか?」

「大きなお世話――いや、そうじゃなくて……これは一体、何がなんだか……」


 日本MMAの頂点に座する〝暴君〟との全面対決も辞さない覚悟であった麦泉からすれば今福による出迎えは肩透かしとしか表しようがなく、鬼の形相から一変して唖然呆然と大きな口を開け広げている。

 「お弁当、作って来ましょうか?」という問いかけが右耳から入って左耳へ通り抜けていった様子の同僚に舌打ちを叩き付けた今福は、各スタッフのデスクを仕切っているパーティションの一枚まで平手で叩いた。

 つい先程まで彼女も麦泉と同じように社長への憤激をおもてに映していたのだが、現在いまは違う想念も入り混じっている。


「社長なら事務所ここには居ませんよ。あたしが到着したときにはもう居なかったっていうべきかな。あつミヤズのチームに例の番組をで指示した後はじまプリンスホテルへ根回しに出張ったそうです」


 これから質問しようと思っていたことを先んじて答えられた麦泉は驚いた拍子に「何でもかんでもお見通しなのは、さすがにちょっとヒくなぁ」と口を滑らせ、面と向かって今福から舌打ちを披露されてしまった。


「……じまプリンスってコトは……」

「何事もなかったかのように話を続けやがって……お察しの通りですよ。ダンドリッジさんにゼンガーさんにマキャリスターさん――何時間か前まであなたたちと楽しくお喋りしていた『NSB』のお客様ですよ」


 自身に割り当てられたデスクへ書類の上から腰を下ろし、小さな椅子の背もたれを左右の踵でもって蹴り続ける今福が挙げたのは『天叢雲アメノムラクモサイド会議ミーティングを行う為に来日した『NSB』上級スタッフの名前である。

 ドイツ系の男性スタッフであるヴルカーン・トマス・ゼンガーは『NSB』にいて国際事業を取り仕切る要職にり、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアでは同団体側のプロジェクトリーダーを務めている。『天叢雲アメノムラクモ』にとって直接的な〝窓口〟となる重要人物キーパーソンであった。

 アフリカ系の女性スタッフ――フィービー・ダンドリッジはメディア対応など多角的に包括するコンテンツ事業部の責任者であるという。職域には広報活動を含み、且つ同姓ということもあって今福が『NSB』で最も強く意識する人物だ。

 最後に名前の挙がったキャタリック・アリソン・マキャリスターは『NSB』というMMA団体の興行イベントが成功するか否かを直接的に司るマッチメイカーである。このスコットランド系の男は二人の同僚からは『キャリー』なる愛称ニックネームで呼ばれているそうだが、今福が参加できなかった会議ミーティングの席で「自分は選手ファイターたちに気持ちよく試合場オクタゴンへ進んでもらう為の道具キャリーみたいな存在もの」などと冗談を飛ばしていた。

 対戦カードの組み合わせや報酬ファイトマネーなど試合の成立に必要な条件を選手サイドと交渉する『NSB』の中枢人物だけにMMAを心の底から愛し、またマッチメイクという己の役割を誇りに思っている為か、麦泉とヴルカーンが同時に自制を求めるほど『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長と盛り上がっていた。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの行く末を左右するといっても過言ではない『NSB』上級スタッフが部下たちと共に宿泊しているのが〝御三家〟にも劣らぬ五ツ星の老舗――『じまプリンスホテル』であった。

 他の宿泊客の迷惑もあるだろうに樋口は深夜の最高級ホテルに押し掛けているという。翌朝には空港へ向かう為、アメリカの賓客ゲストたちは接待の類を固辞していた。だからこそ、麦泉も新宿の『ダイニングこん』で食事をっていたのだ。

 東京駅前にて圧倒的な存在感を示すじまプリンスホテルへ比喩でなく本当に押し掛けていったのだろう。樋口の行動は迷惑の極みであり、万が一にも『NSB』の不興を買ってしまったなら日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの開催自体が暗礁に乗り上げ兼ねない。

 今になって樋口の暴挙を教わった麦泉は胃に締め付けられるような激痛を感じ、右手を口元に添えての逆流を堪えた。


さんも一緒……なんですよね? 昼間の会議ミーティングでも通訳担当だったし……」

「そ~なんじゃないですか? 社長お気に入りの秘書ですしぃ? でも、本当にただの秘書なのかなぁ。社長、やもめ暮らしも長いんですよね? たまにアブない雰囲気を感じるんですよねェ~」


 喉の奥から絞り出すような声でたずねておきながら、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの準備を円滑に進めるという理由で樋口社長が雇った秘書――に対する今福の邪推に耳を傾けることもなく麦泉は社長室兼応接室へと目を転じた。

 下種の勘繰りを相手にしなかったわけではない。擦りガラスで仕切られた向こうを睨み据える間、周囲まわりの情報を脳のほうが認識できなかったのである。

 本人不在ということもあって社長席の卓上デスク照明スタンドすら点灯されておらず、「士道不覚悟は切腹」なる物々しい文言が大書された掛け軸も木製の台座に差し込まれた大小一揃いの日本刀も暗闇の底にて息を殺している。


(……これが社長あなたの〝士道〟ですか? 胸を張って武士道だと言えるのですか……っ!)


 深夜にも関わらず、樋口が『NSB』の上級スタッフへ接触を図ったことについて今福は「根回し」なる言い回しを用いていたが、おそらく樋口は強盗傷害の常習犯であろうと疑われる選手が『天叢雲アメノムラクモ』に所属している理由を説明するつもりなのだろう。

 「釈明」と表すほうが正確に近いのかも知れないが、くだんの暴露番組を仕掛けた黒幕という点を考えれば何もかもが矛盾している。あつミヤズを利用して『天叢雲アメノムラクモ』のファンたちへ悲劇に彩られた〝物語シナリオ〟を刷り込んでおきながら、自分自身ではキリサメのことを組織にとって厄介極まりない〝爆弾〟と認識しているわけだ。

 ミヤズは緊急生放送番組の中でキリサメが生まれ育ったペルーの貧民街スラム――非合法街区バリアーダスを重点的に解説していた。

 公式プロフィールでは〝我流〟と表記されている喧嘩殺法の危険性を殊更強調し、殺人経験を仄めかすような発言まで繰り返したのだが、それは興味を引き寄せる為の吹聴に過ぎず、視聴者数が三〇〇〇人を超えた頃にはキリサメが置かれた境遇へと話題を切り替えていた。

 貧困層と富裕層とを物理的に分断する『恥の壁』を例に引いたミヤズは同国の低所得者たちが働き口にさえ困難する有り様を握り拳と共に語り、子どもたちの多くが強盗でもしなければ食い繋いでいけないとも訴えた。

 非合法な手段によって得たカネを元手にして貧困から脱するという発想を持たず、今よりもっと高価たかい物を盗み取ることへ生き甲斐を見出す子どもたちも決して少なくないと、現地調査に基づいた論文まで引用し始めたときには同じ『ユアセルフぎんまく』で活動しているネットニュースとの類似を指摘するコメントがインターネット画面を埋め尽くしていた。

 ともすれば剽窃を疑われ兼ねない状況なのだが、そういった指摘ツッコミほど大衆の注目を集め易く、ミヤズは言葉巧みに大多数への訴求力に換えてしまったのだ。受け手に作用する原理はインターネットの世界でしばしば問題視される〝炎上商法〟と同じである。

 『聖剣エクセルシス』を担いだまま馬に跨るキリサメの写真と併せて取り上げた『七月の動乱』も労働者の権利が不当に脅かされている点ばかりを強調した挙げ句、「腕力以外には何も頼れない世情こそ問題視すべきで、喧嘩殺法を編み出したのは立派な生存戦略」と、キリサメの心に巣食う暴力性の原因をペルー政府の統治に求めたのだ。

 ミヤズの論法によればキリサメは〝環境の犠牲者〟であり、悲劇の主人公という認識が時間を重ねるごとに増えていった視聴者たちの脳へ刷り込まれた次第である。


「――ワンパクなペルーちゃんをドツき回した結果、アマカザリ選手と同い年くらいの女の子が大きなデモに巻き込まれて武装警察みたいのに撃ち殺されたってハナシにも行き着いちゃいましてねぇ~。向こうの国家権力は子どもにも優しくないんですよ? 自衛しなくちゃどうにもならない。望まぬ戦いでもやらなきゃ生きられない――やるせない気持ちを耐え抜いた子がようやく報われる! 喧嘩殺法ソレはもう暴力じゃなくて立派な総合格闘技術! これぞ平和の祭典ってヤツですよぉ!」


 祖国ペルーにてふるった喧嘩殺法は命を繋ぐ為のすべ――キリサメの懊悩を包み込んだ未稲と同じ結論でありながら、ミヤズはこれを作為的に用いて大衆の同情を引き出し、強盗傷害を繰り返した事実すら美談にすり替えていった。

 人命の尊さを大義名分に据えて〝正当な暴力〟であったと強弁するようなものである。

 ペテンと怪しむ者は一人や二人ではないだろうが、それ以外の〝大衆〟を言い含めることができればミヤズの企みは成功というわけである。〝炎上商法〟の効果によって注目度まで跳ね上がったのか、事前の告知もない深夜の緊急生放送番組にも関わらず、最終的には一〇〇〇〇人にも近い視聴者が齧り付きとなっていた。

 夜の深い時間帯にもあつミヤズの番組を追い掛ける人間は『天叢雲アメノムラクモ』を愛好するファンの中でも特に熱心な層である。つまり、日本MMAを支える側がキリサメのことを応援すべき対象と受け止めたわけだ。

 ほうがん贔屓への誘導こそがミヤズの仕掛けた情報工作である。キリサメを得体の知れない無法者アウトローと蔑む〝少数派〟は〝大衆〟に埋もれ、速やかに駆逐されていくことだろう。

 しかも、ミヤズは寅之助との〝げきけんこうぎょう〟を判断材料としてキリサメがふるう喧嘩殺法の検証から始めている。目突きといった危険度の高い技へ問題提起を行うことで本人の意向が全く働いていない番組であると明確化するなど、弁護の代理といった疑惑が生じないよう最初から計算されていたわけだ。

 格闘家としての経歴キャリアが存在しない実力未知数な新人選手ルーキーのデビュー戦を目前に控えてあつミヤズひいては運営スタッフが自発的に行った特集番組としかは考えないだろう。裏で糸を引く黒幕の気配に勘付いているのは『天叢雲アメノムラクモ』に関係する者たちの中でさえ一握りに過ぎないのである。

 そもそも、喧嘩殺法が編み出される過程など無法の貧民街スラムという環境もあってキリサメには暗部あるいは汚点でしかなく、決して衆目に晒すべきではなかった。日本で絆を育んだ友人たちにも八雲家の人々にも絶対に知られたくないことである――だからこそ、三次元描画されたミヤズの向こうに浮かぶ樋口社長の顔に誰もが憤激を抑え切れないのだ。

 タクシーの車中にて麦泉と通話していた相手も〝爆弾〟の解体処理とたとえるべきやり口を振り返りながら「若者の将来を踏み躙るような事態だけは二度と繰り返してはならない」と何度も何度も訴えていた。麦泉とて日本MMAに携わる誰もがその気持ちを共有していると信じていた。

 じょうわたマッチでさえ『天叢雲アメノムラクモ』の〝最年少選手〟――つまり、成人もしていないキリサメをMMAのリングへ立たせることに強い懸念を示したほどであったのだが、どうやら樋口だけは別の〝何か〟を見ているようだ。


(……〝子ども〟の手に暴力を握り締めていなければ、今日を生き延びることもできやしない――か。本当に生き写しみたいな二人だよ……)


 一時間ほど前に『あつミヤズ』の手で暴かれたペルーの格差社会と、その〝闇〟が人間の形を為したとしかたとえようのないキリサメの〝正体〟は『祇園の雑草魂』などと仰々しい異名を付けられた以前かつての〝最年少選手〟に酷似している。

 事実、キリサメは全く同じ道を辿っているのだ。どちらの〝最年少選手〟も鮮血の川が命の雫となって側溝に流れ込んでいくような裏路地から安全性の確保されたMMAのリングへと己の居場所を求めていた。

 性懲りもなく同じ〝過ち〟を繰り返そうとしてるウスラバカども――と、城渡が激しい口調で指摘した通りの筋運びではないか。

 キリサメ捜索の手掛かりを得るべく岳がペルー現地のNGO団体に連絡を取った際、応対に当たった相手は当該人物を強盗傷害の常習犯と見做し、接触そのものを危険視していたという。

 『祇園の雑草魂』もまた過酷な環境で生き抜く為に暴力を頼みとするしかなかった男である。くだんの異名が付けられたのはMMAのリングへ臨む前後であったが、読んで字の如く京都・祇園界隈を根城にしていた彼の本名は善からぬ意味で広く知れ渡っており、関西圏の反社会的勢力ヤクザにまで忌み嫌われていたのだ。

 表通りの華やかさとは正反対に暗く冷たい裏路地で『祇園の雑草魂』と初めて言葉を交わした瞬間のことを麦泉は決して忘れないだろう。長い鎖で繋がれた鉤爪――大陸由来の武具である『そう』をドス黒く染め、足元に血の海を作り出していたのである。

 両手の指先まで古びた包帯で覆い隠し、水音に混ざる苦悶の声を感情というものが乾き切った双眸でつまらなそうに見下ろしていたのである。

 キリサメが〝げきけんこうぎょう〟にいても振るったノコギリ状の刀剣マクアフティルはペルーでもギャング団を返り討ちにしたそうだが、は『祇園の雑草魂』にとってのそうと同じ意味を持つのだろう。

 鋼鉄の鎖は『祇園の雑草魂』の上半身に巻き付いており、麦泉の目には〝最年少選手〟と称される〝子ども〟の魂を縛り付けているようにも見えたのだ。

 キリサメは刀剣マクアフティルを『聖剣エクセルシス』と呼び、『祇園の雑草魂』のそうには『えいこくしゃ』なるなまえが付けられている――暴力性の顕現あらわれとも呼ぶべき得物を携えた二人の〝最年少選手〟は、そこに至る経緯こそ異なっているものの、共に就職や進学ではなく〝プロ〟のMMA選手として生きる道を選んだ。

 例えその見立てが軽率で幼稚であったとしても、〝子ども〟の可能性を見守ることが大人の務めであると麦泉は心得ている。養父の背中を追い掛けようとする勇気を認め、重く受け止めていればこそ一等厳しい態度でキリサメの尋問に臨んだのである。

 大人の責任とは〝子ども〟なりに考え抜いた決断を一方的に否定することではない。独り立つ力を得るまで寄り添い、道を踏み外しそうになったときには我が身を捨てる覚悟で食い止め、初志貫徹の行き先へ導くことだと麦泉は信じているのだった。

 そのように念じるたび、麦泉の脳裏を「贖罪」の二字が掠めていく。

 現在いまの〝最年少選手〟に『祇園の雑草魂』を重ねていることは否めない。同じ触れ込みで前身団体バイオスピリッツのリングにいざない、栄光の真逆に位置するモノを味わわせてしまった〝子ども〟への贖罪に過ぎないのではないか――悔恨から押し寄せてくる迷いが靄の如く垂れ込めそうになった瞬間、麦泉は首が軋むほどの勢いでかぶりを振って一切を追い出した。

 日本MMAの黄金期を知る人々の心へきずあとのように刻み込まれた〝過ち〟の穴埋めや、そこから生じる後ろめたさを慰める為に現在いまの〝最年少選手〟を利用しているつもりはない。胸を張れるほど上等な人生でなくとも〝子ども〟を食い物にするほど落ちぶれてはいない――それが麦泉文多という〝大人〟の矜持である。

 だからこそあつミヤズによる暴露番組を裏舞台で差配し、新人選手ルーキーの心を踏み躙った黒幕への憤怒いかりを抑えられないのだ。

 このような激情が全身を震わせる一方で、麦泉はこの場に居ないさいもんきみたかに対して心の底から申し訳ない気持ちとなっている。

 『サムライ・アスレチックス』にいて専務の地位にる柴門は一年三六五日から細かく割り出した場合、自宅よりビジネスホテルで過ごす期間のほうが遥かに長い男である。

 東日本大震災のチャリティー大会として始まった『天叢雲アメノムラクモ』は敢えて首都圏に拠点を持たず、全国各地の運動施設で〝旅興行〟を行う形態を取っている。これを実行するには地方自治体との連携が不可欠であり、地域振興も絡む難しい交渉を柴門は一手に引き受けているのだ。

 それ故に事務所のデスクが新品同然というくらい日本中を忙しく飛び回っている。「真偽はともかく幕末土佐が誇るさかもとりょうは地球一周分を東奔西走したと伝承されているが、自分はその一〇倍は働かされている」という冗談で場を和ませるのも得意であった。

 この週末も次回の興行イベント開催地である奥州市へ一泊二日の出張だ。当日は岩手県各地でパブリックビューイングを行う手筈となっており、協力体制を整えた地方プロレス団体『奥州プロレスたんだい』の案内で会場を視察する予定である。

 当然ながら『NSB』との会議ミーティングにも渉外担当として出席していた。東京での用事を全て済ませ、使い慣れたアタッシュケースを片手に出掛けようかという間際になってキリサメによる〝げきけんこうぎょう〟の急報が飛び込んできたのだ。


「――交わした言葉こそ僅かですが、それで判るくらい彼は誠実な少年ですよ。……先にキナ臭い話を聞いていましたけど、周囲まわりの人間に暴力ちからで言うことを聞かせてやろうという浅ましさは一つも感じませんでした。ハングリー精神はもう一つだが、彼のような人材は今時、希少価値だ。そういう少年に未来を保証できるからこそ我々は〝大人〟と呼ばれるのです。そのことを見失わないようにお願いします」


 『奥州プロレスたんだい』の花形レスラーにしてあかぞなえにんげんカリガネイダーの好敵手ライバル――『サイクロプスりゅう』と夜には落ち合う約束となっており、どうしても出発を遅らせることはできない。柴門は事態の収拾を見届けられないことが心苦しいと繰り返し、くれぐれも若者の将来を守るよう樋口に訴えていた。

 そのとき、樋口は抜かりなく対処すると頷き返したはずだ。それは言い争うことなく柴門を送り出す為の腹芸に過ぎなかったのか。それとも今夜のが彼にとっての〝手抜かりのない対処〟なのか。そうだとすれば嘘をいたことにはならず、だからこそ目を合わせたまま自分に任せておくよう請け負うことができたのだろう。

 嘘ではないが方便でしかなく、約束を裏切ったことに変わりはない。無事に奥州市へ到着した柴門はくだんの暴露番組を宿泊先ビジネスホテルにて確認したそうだ。間もなく麦泉の携帯電話スマホに緊急連絡が入ったのだが、ここに至っても彼は『サムライ・アスレチックス』の調整役に徹している。

 養子むすこを晒し者にされた岳にも匹敵するほど激怒していてもおかしくないだろうに、あくまでも紳士然とした態度を崩さず、感情に流されて短慮など起こさず、落ち着いて状況を見極めるよう麦泉を諭したのである。

 社内の混乱が『NSB』に露見すれば日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの先行きも見通せなくなり、選手たちに迷惑が掛かる。それだけは絶対に避けなければならない――あくまでも『天叢雲アメノムラクモ』に尽くそうとする声は酷く擦れていた。

 長年の信頼を根っこから覆されたような情況のまま興行イベントに向けた視察を行わなければならない柴門を思うと堪らない気持ちになり、その直後に海の向こうから電話が入った次第である。

 現役レスラーの頃には狂犬さながらに畏怖された男が冷静さを手離すとしてはそれだけで十分だった。樋口は柴門から通話を求められても応じなかったそうである。留守番電話の録音にもその旨を吹き込んでおいたが、おそらくは再生してもいないだろう。

 実質的に日本MMAの頂点に君臨する〝最高権力者〟である。『NSB』上級スタッフの宿所まで押し掛けていって単なる釈明で済ませるとは思えない。柴門の職域をも平然と横断し、何らかの交渉を進めてしまう可能性は十分に考えられるのだ。殺人経験の疑惑すら謳い文句にしてキリサメ・アマカザリという新人選手ルーキーを売り込むかも知れない。

 『キャリー』――キャタリック・アリソン・マキャリスターは『NSB』のマッチメイカーである。寝ても覚めても所属選手のことを考え抜くような立場の人間としか成り立たないもあるのだ。


(……最悪の場合、『天叢雲アメノムラクモ』で実績を後に『NSB』の新人選手ルーキーとトレードするなんていう密約を結んでくるかも知れないな。あの人にはセンパイの気持ちなんかよりも〝負債処理〟のほうが大事だろうから……)


 絶体絶命の窮地すら力ずくで好機チャンスに換えてしまえる豪腕であったればこそ、一度は落日を迎えた日本MMAを再び甦らせることができたのだ――が、〝同志〟とも呼ぶべき人々を蔑ろにしておいて、その後に何が残るというのだろうか。


(……おかしい……何かが……何かがおかしい……)


 何とも例え難い違和感が麦泉に纏わりつき、「何かがおかしい」という呻き声を心の中で絶えず繰り返してしまう。

 確かに樋口は剛腕そのものであり、独断専行で物事を推し進めた前例など一つ一つを数えてはいられなかった。何の相談もないまま『天叢雲アメノムラクモ』の運営に関わる重大事を社長の権限で決められた挙げ句、不十分な事後報告で済まされそうになって口論まで拗れた経験もある。しかし、会議すら設けないまま所属選手の命運を振り回したことは過去に一度もおぼえがなかった。

 MMA団体として若返りを図るべくベテラン選手の一掃という方向に舵を切った際にも社員全てが判断の是非を巡って隔たりなく意見を戦わせたのである。

 それなのに今夜は違う。〝旅興行〟の形態を取る『天叢雲アメノムラクモ』にとって命綱とでもたとえるべき存在であり、無二の腹心といっても過言ではない柴門にすら何もしらせないまま樋口は『NSB』との交渉に臨んでいる。これでは比喩でなく本物の独裁であり、〝暴君〟ではないか。

 人懐っこい笑顔やおどけた態度を見せながら、冷血と罵られるほどに人間味を欠く行為を平然とやってのける恐ろしさも兼ね備えてはいるのだが、長い付き合いの麦泉でさえここまでの横暴は記憶になかった。


(……どこでおかしくなった? いや、何がおかしくなってしまったんだ? ボタンの掛け違いとかそんなレベルじゃないぞ、これは……)


 国際電話を通じて樋口に対する憤りを共有していた相手も程なく今夜の暗躍を知ることになるだろう。何しろ武士サムライの如き男である。今度こそ東京行きの旅客機へ飛び込むかも知れないが、現在いまの麦泉には押し止めようという気も起こらなかった。


「――日本に来て何より驚いたのは誰もが他人に無関心ということです。東京という町だけが特別になのかは分かりませんが、裏路地や物陰の向こうからこちらを狙うような視線を一つも感じないなんて……いつでも気を張っていないと生きていけないのが故郷ペルーという国でしたので……」


 キリサメの声が麦泉の鼓膜を打ち据えたのは、『天叢雲アメノムラクモ』が抱えてしまった〝爆弾〟を樋口が言葉巧みに『NSB』へ売り飛ばすという最悪の筋運びを想像し、その可能性が決して低くはないことに顔を顰めた直後のことであった。

 パーティションによって仕切られた何処かのデスクに本人が隠れているものと錯覚し、狼狽した調子で周囲を見回す麦泉であったが、その声は手持ちサイズの録音機ボイスレコーダーから左右の耳へと流れ込んだものである。

 改めてつまびらかとするまでもないが、録音機ボイスレコーダーに保存された音声データを再生させているのは試合着キリサメ・デニム完成の場にいてインタビューを行った今福ナオリその人だ。彼女の仕事には対談形式のやり取りを文字として書き起こし、を公式ホームページに掲載することでキリサメの為人ひととなりを知らしめるという広報活動まで含まれている。

 一つとして編集が施されておらず、収録時のそのまま状態を維持しているのは当然であろう。それ故に耳を疑うような発言まで消去されずに残っているわけだ。


「母が永眠ねむる墓の前で寝泊まりしていましたが、雨風を凌げる屋根と壁がある程度で身を隠せるものではありませんでしたし、格好の標的だったんです。睡眠中にも周囲まわりの足音を聞けるようでないとナイフでめった刺しにされるんですよ」

「――過酷な状況の中で第六感まで鍛えられたというわけですね。身の危険を即座に嗅ぎつける勘の鋭さも『天叢雲アメノムラクモ』の選手には心強い武器です。……ところで、今の口振りでは強盗犯に襲われた経験があるような印象でしたが?」

「経験と言われると、どうお答えしたら良いか……首都のリマは大人から子どもまで強盗で食い繫いでいるような人間で溢れ返っていました。繁華街から少しでも外れると警察の目にも入らなくなりますし、万が一、逮捕されそうになっても賄賂カネで無罪放免を買えるような国なんです」

「……お国柄の違いとはいえ、聞きようによってはかなりな物議を醸す発言ですよ。公式プロフィールに掲載された〝我流〟という格闘スタイルは裏路地の喧嘩自慢のような意味合いではないのですか? 警官を買収する手口にも慣れているように聞こえますし……」

「配給ってありますよね? 最低限の食事くらいは政府もが、別に命を保証してくれるわけじゃないんです。自分の身は自分で守る必要があります」

「自分の身は自分で――と仰いましたが、今の話にはアマカザリ選手ご自身が生計を立てる手段も含まれているのでしょうか……?」

「隠しても仕方のないことですし、包み隠さずお答えするのが『天叢雲アメノムラクモ』と契約した僕の仕事だと思っています。……ご推察の通りです。一度、貧民街スラムに染まってしまった子どもはコネがあろうと何だろうと、もう真っ当な職業には――」

「――暴露はもうたくさんだっ」


 対談形式の音声データに麦泉の制止が割って入り、今福もこの直後に再生を停止した。

 薄いパーティション一枚を隔てて暫しの睨み合いを演じた今福は、やおら右腕を振りかぶると麦泉の頭上を通り抜けるようにして掌中の録音機ボイスレコーダーを放り投げた。「会社の備品を乱暴に扱うのは如何なものかっ」という常識的ながら張り詰めた空気に全くそぐわない注意が鈍い音を追い掛けた。

 余りにも唐突な行動であった為に麦泉も制止が間に合わず、物に当たるのはよろしくないという何の意味も為さない呟きしか絞り出せなかったのである。

 固い床に叩き付けられ、幾度も跳ねた録音機ボイスレコーダーが無事であるはずもない。それは今福自身にも分かっており、「始末書でも弁償でも何でもやってやりますよ! それ以上にやってらんないのよッ!」と腹立ち紛れに言い捨てた。


「末恐ろしいったらありゃしませんよねぇ⁉ 未稲からも自宅いえでのワンパク武勇伝を聞かされてますけど、足を滑らせたら一発でアウトな屋根の上でスケッチしたり、急に車道へ飛び出していったりとヤンチャ君なんですねぇ! それくらい逞しさ旺盛ならフェロモン丸出しなお姉さんに無反応はナシでしょ――って違う! 未成年者に手を出すなんて社会が許しても、あたしのプライドが許さないッ!」


 立ち上がるや否や、書類が散乱した机上で地団駄を踏みつつ気ままに延々と喋り続け、その内容を自分自身で切り捨てた今福を麦泉は気の毒そうに見上げていた。

 堰を切ったような勢いとはこのことである。爆走としかたとえられない状態に陥ってしまうと彼女自身が疲れて止まるまで周囲まわりはどうすることもできない。そのことを麦泉は長い付き合いから誰よりも思い知っているのだ。


「……未成年に手を出したら社会が許してくれないから気を付けようね……」


 忘新年会でも暑気払いの席でも、アルコールが入って歯止めが利かなくなった今福に付き合わされるのも麦泉の仕事であった。だからこそ、合いの手のような呟きも控えめなのである。


「幾らヤンチャっつっても限度があるでしょうが、限度が! 地下格闘技アンダーグラウンドの連中と揉めたときに『ドン・キホーテ野郎』呼ばわりされたって未稲に聞いたけど、今なら一〇〇〇〇回頷きますよ! そうは思いませんか、麦泉文多ぁっ⁉」

「未稲ちゃんから何を聞かされたのかは知りませんが、キリサメ君は自分の過ちをきちんと反省できる子ですよ。柴門さんの言葉を借りるようですが、あんなに素直な子は珍しいくらいだ。確かに今は精神的に未熟かも知れないけれど、僕らが高校生くらいの頃だって似たような感じだったでしょう? 大丈夫、きっと落ち着いてくれます」

「出ましたねぇ、『サムライ・アスレチックス』の良心! そんな甘っちょろいコトだから樋口にナメられるんだよッ!」

「……ていうか、今福さんこそ落ち着こうか。僕、これでも年上だからね? 僕だから良いけど、社長の前では本気で控えようね」

「その社長サマにドン・キホーテ野郎のインタビュー企画そのものを取り止めるべきだって掛け合ったんですよ! さっきの録音データを聞かせてねぇ! ……あんなのは犯罪の自供も同じじゃないですかっ!」


 その一言で事務所内の空気が再び張り詰めた。録音機ボイスレコーダーに収録された音声データは強盗傷害事件の証拠に他ならないと怒鳴り散らしたときには今福も真剣な面持ちに戻っている。

 「答えらえるものなら答えてみろ」と言わんばかりの挑戦的な眼差しから顔を背け、床の上に転がった録音機ボイスレコーダーを見下ろす麦泉の脳裏に数時間前の記憶が割り込んでいた。

 今福が取材先から事務所に戻ってきたのは取材対象であるキリサメが――『天叢雲アメノムラクモ』と契約する〝プロ〟のMMA選手が帰路に就いた直後に起こしたを〝げきけんこうぎょう〟として落着させるべく麦泉たちが大汗を掻いている最中のことであった。

 撮影機材などの重い荷物を自身のデスクに置くことも忘れ、開け放たれた全面ガラスのドアが再び閉じるより早く社長室兼応接室へ乗り込んでいった。携帯電話スマホを使っている最中であった為、これを見送るしかなかった麦泉も軋み音が起こるほど強く録音機を握り締める姿には善からぬ筋運びしか予感できなかった。

 夕暮れ前からSNSを中心に広く拡散されてしまった〝げきけんこうぎょう〟は路上戦ストリートファイトのように法を犯すものではないとネットニュースの配信元を説得し、同時にスポンサーや外部の関係者に説明しなければならなかった為、擦りガラスの向こうに言い争う姿が映っていても耳を澄ませることは不可能であった。

 キリサメの名前が幾度か聞こえてきたので取材の場でも何らかの揉め事があったのかと溜め息を零しそうになったものだ。それから一〇分と経たない内に今福は大股で事務所を出ていき、樋口本人も同席していた日野目も彼女のことには一切触れなかった為、今の今まで口論の内容を把握していなかったくらいである。

 樋口自らが書き起こしたコメントをネットニュースの配信元に電子メールで送付し、事態の収束を見届ける頃には夕陽も摩天楼の彼方に沈んでいた。

 無論、それで麦泉の役目が完了したわけではなく、キリサメを尋問する為に渋谷から京島まで出向かなくてはならなかった。樋口との間にどのような確執が生じたのか――今福の携帯電話スマホ宛てに連絡を取ることさえままならなかったのである。

 擦りガラス越しではあるものの、感情を剥き出しにしていたのは今福一人であり、樋口の側は絶え間なく浴びせられる痛罵を軽く聞き流しているように見えた。

 麦泉にとって何よりも意外だったのは傍らに立つ日野目も今福の喚き声に全く動じていなかったことである。気圧されて後退ずさる素振りすら見せなかったはずだ。三〇代前半と年齢こそ若いものの、履歴書は国内外の大企業で重役秘書を務めたという経歴で埋め尽くされており、柔和な雰囲気とは裏腹に肝が据わっているのだろう。

 今福の顔付きは樋口と対峙する前よりも遥かに険しさを増していたのだが、これは想定内なので麦泉本人は言うに及ばず、岳も柴門も全く驚かなかった。


「いちいち説明しなくてもお察しかと思いますが、インタビューの音声データはメモリーカードごとその場で社長に回収されましたとも! 今、聞いてもらったのはこんなこともあろうかと思って別のカードに複製コピーしておいた予備のヤツです!」


 音声データそのものがキリサメを『天叢雲アメノムラクモ』に在籍させる危険性リスクの裏付けとなっている為、社長の強権によって揉み消されることは十分に予測できる。に対する機転としては抜群の勘働きであるが、用意周到と抜け目のなさを讃えるべきか、疑心暗鬼と呆れるべきか、現在いまの麦泉にはどちらとも言えなかった。

 それはつまり、自身が所属する『サムライ・アスレチックス』の社長を――『天叢雲アメノムラクモ』の最高責任者を全く信用していない証拠とも言い換えられるのだ。会社に対する背信とも受け取られ兼ねない行為であるが、酷く曖昧な表情かおで立ち尽くす麦泉の口からは注意を促すような言葉など一つとして発せられなかった。


「――統括本部長の養子ということで一部のMMAファンからは『八雲岳の秘蔵っ子』と百も注目を集めているようですが、聞くところによると現地を訪れた八雲選手とアマカザリ選手の二人で強盗団を返り討ちにしたとか。親子にとって初めての共同作業といったところでしょうか」


 床に叩き付けられた衝撃で内部が故障してしまったのだろう。今福が遠隔操作したわけでもないのにインタビューの続きが再生され、薄暗い室内を殺伐の気配で満たしていく。


「……『ざるだん』――いえ、具体的な名称なまえは控えたほうが良かったですね。日系人ギャング団に狙われたのは間違いありません」

「未稲からの又聞きですけど、ギャング団との乱闘はあたしも知ってますよ。ていうか、あつミヤズの暴露番組でも取り上げられたから今や全世界に公開されちゃったようなモンですがね。ヤクザ者同士といえば銃撃戦ドンパチが定番。銃刀法違反で逮捕なんてシャレじゃ済まない状況になるんじゃないですか? ペルーから愛銃を隠し持ってきた可能性も全くナシではないでしょうよ」


 キリサメの音声データと両手でもって拳銃を構えるような手付きを披露する今福本人の言葉が重なり、麦泉は口から飛び出しそうになっていた反論を喉の奥へと押し込んだ。

 録音機ボイスレコーダーを向ける最中には『サムライ・アスレチックス』ひいては『天叢雲アメノムラクモ』の広報担当として冷静さを保つように努めていたものの、今福個人は刃物ナイフどころか銃弾までもが飛び交う社会から飄然と現れた新人選手ルーキーに恐れ慄いていたのである。

 仮にも法治国家である日本で暮らし、日常生活に拳銃が割り込む機会など絶無に等しいのだから当然であろう。現在いまも俄かに肩を震わせている今福に「キリサメ君が銃を撃ったとは聞いていないよ」と拡大解釈を諫めたところで逆効果になるだけであった。

 サン・クリストバルの丘に巨大な十字架を仰ぐ非合法街区バリアーダスの一角でキリサメと岳がくだんの日系人ギャングから襲撃された直後、構成員メンバーの一人とおぼしき少女の射殺体が裏路地で発見されたという〝事実〟も地球の裏側で暮らす麦泉たちには調べようがあるまい。


「死んだ母は青年海外協力隊として訪れたペルーが気に入り、終の棲家にしようと決めたそうです。国と国のやり取りが盛んなくらいペルーと日本の結び付きは強いのですが、だからといって別に日系人が優遇されているわけではないし、働き口を得られなかったら徒党を組んで弱い者を食い物にするしかない……僕だって彼らと似たような存在ものです」

「ペルーの青年海外協力隊といえば、体力作りの為に柔道を普及させたのも現地に赴任した日本人なんですよね? 実はアマカザリ選手もお母様のツテで柔道を習っていたのではありませんか? それが〝我流〟のベースになっているとか?」

「足元の柔らかい砂浜で練習している人たちは見たことがありますけど、……喧嘩殺法これはそんなに上等なものじゃありません。どうすれば手っ取り早く人の肉体からだを壊せるのか。効率良く仕留められるのかを考えて実践している間に自然と身体に馴染んでいました。生前に青年海外協力隊で親しくなったという母の友達も僕の風聞ウワサを聞いたのか、墓にだって近寄らなくなりましたし……」

「……今のはオフレコというコトにしておきますね。海の向こうの〝事情〟に日本人が口出しするのは正しくないでしょうから……」

「ぶっちゃけますけど、あたし、この辺でキレそうになりましたよ! マイナスな流れを感じるたびにポジティブな内容に切り替えてあげたってのに必ずヤバさ特盛な方向に引き戻しやがるんですよ! あのドン・キホーテ野郎がっ! 一種の自虐ネタかもですけど、手のひらの中に石を隠し持って殴ると合理的なんて話、一ミリも笑えないんだよッ!」


 数時間前のインタビューと現在の声――キリサメに秘められた暴力性へ触れてしまった今福の言葉が折り重なるようにして麦泉に圧し掛かり、ますます彼を無口にさせた。


「麦泉さんはドン・キホーテ野郎の素性をご存知だったんですよね? あたしの読み通りなら、きっと一緒に暮らしている未稲よりも詳しいんじゃないでしょうか?」

「……おおよそは把握しているけれど、僕だってそんなに踏み込んだことは……」

「事情も何もこれが僕の生まれ故郷の現実ですよ。腹を空かせた野良犬のように手頃な獲物に噛み付かなきゃ生きてはいけない。そういう意味では僕が育った貧民街スラムは〝犯罪者〟という言葉が何の意味も持たない場所でした。……非合法街区あそこでは正常まともな神経の持ち主から先に死んでいくんです」


 喉の奥から無理矢理に引きずり出された麦泉の返事ことばまでもがインタビューの音声と混ざり合っていく。

 思い込みの激しい今福には酷く誤解されているようだが、キリサメが故郷ペルーで仕出かしたことには麦泉も未稲と同じ程度しか詳しくないのだ。

 強盗傷害の常習犯という疑惑が付き纏い、パスポートすら所持してなかったキリサメが出国と移住の手続きをつつがなく完了できたのは〝何らか〟の結び付きがあるらしいペルー国家警察の長官とその部下である警部ワマンが水面下で便宜を図った為であるという。

 移住者キリサメを受け入れる側の手続きを担当したのも麦泉であり、ペルーの国家権力が介入した事実までは把握していたのだが、それ以上のことなど探りを入れる必要性すら感じていなかった。

 扱いこそ小さかったものの、『七月の動乱』自体は日本でも報じられたので記憶に留めていたのだが、首都リマを震撼させる反政府デモと古い闘牛場で起きてしまった鮮血の悲劇にキリサメが巻き込まれたことは麦泉もあつミヤズの緊急生放送番組で初めて知ったくらいである。


「……パンフレットなどにどう書いて頂いても構いません。自分がやってきたことを言い訳する気はありませんし、出場資格を問われても仕方がないと思っています。僕はただ粛々と事実に向き合うのみです」

「今のも聞きましたよね⁉ こんなことまで軽~くのたまったんですよ⁉ 犯罪を犯罪と認識すらできないような危険分子を本当にあたしたちのリングに立たせて良いのか、甚だ疑問なんですけどッ!」

「今福さん、それはさすがに言い過ぎだ……っ!」

「犯罪そのものは理解できているみたいですもんね。だったら余計にタチ悪いじゃないですか! ヤバいコトを自覚した上で『生きる為には仕方がなかった』みたいに割り切ってしまえる態度こそ大問題でしょうよっ! あたし、間違ったコトを言ってます⁉」


 軽やかにパーティションを飛び越え、麦泉の正面に着地した今福はズボンのポケットから携帯電話スマホを取り出し、何やら操作したのちに彼の眼前へと液晶画面を突き出した。樋口のコメントと共に〝げきけんこうぎょう〟を報じるネットニュースに接続アクセスし、そこに添付された斬り合いの画像を大きく表示させたようだ。

 画面内では寅之助も竹刀を構えているのだが、巨大なノコギリとも船のオールともたとえられる禍々しい形状からキリサメが振りかぶる『聖剣エクセルシス』のほうが遥かに目立っていた。


秋葉原アキバでガチャガチャやってる時点ではコスプレ用の道具でも引っ張り出してきたかと思っていましたけど、ミヤズ――っていうか、樋口が垂れ流した『七月の動乱』とやらの動画の中でも肩に担いでいたし、それを考えればアレはやっぱり……ッ!」

「……どう考えてもアレは小道具じゃなくて正真正銘の武器だと? それこそ結論ありきの決めつけじゃありませんか。僕はキリサメ君とやり合ったさんじゅくがくえんの生徒にも病院で会いましたけど、相手の怪我は殆どが打撲でしたよ。刃物による切り傷なんか一つも確認できなかったくらいです」

「それこそ決めつけ、言い逃れですねっ! 何とかっていう屋上庭園に架かっている木の橋もノコギリみたいな刃で損壊させたこと、あたしも知ってるんですからね! 怒鳴り込んでいったときに丁度、向こうの管理者と樋口が電話でカタつけてたし! 自宅いえで手入れしているのを見学したっていう未稲も刃は本物だって話してたんですからッ!」

「――武器術という今福氏の話は分かりませんが、中米のほうから流れてきた剣のような物は長く使っていますし、一回だけお世話になった殺陣道場の体験会にも持っていきました。前の持ち主は気取って『聖剣エクセルシス』なんて呼んでいましたよ。自分でもアレの説明は難しいので一緒にギャング団を叩き潰した岳氏に訊いていただくのが一番早いかと」

「ほら、今の音声を聞きました⁉ 証拠はもう揃ってるんですッ!」

「……キリサメ君、変化球で全てをブチ壊しにするのはやめようね……」


 狙い定めていたとしか表しようのないタイミングで『聖剣エクセルシス』が実戦向けの得物であることを仄めかした音声データに対し、無駄と分かっていながらも麦泉は頭を抱えてみせた。


「平べったい木の間に石の板も挟んでいるって、未稲も話してましたよ。殺意丸出しなブツを振り回したらどんな事態を招くのか、子どもにだって分かりますよね⁉」

「仮にアレが本物のノコギリだとしても、野次馬に取り囲まれた状態で振り回したのに他の怪我人は居なかったんだ。そのことを忘れてはいませんよね? 実際には見かけ倒しで殺傷能力なんか零に等しいんじゃないかな」

「う~わッ、常務ともあろう御方が屁理屈入ったよ! 麦泉さんこそドン・キホーテ野郎が『働き口を得られなかったら弱い者を食い物にするしかない』って言い切ったコト、忘れていませんよね⁉ ご本人、強盗団と自分は同じだともぶっちゃけましたよッ!」


 反駁を繰り返しながら『聖剣エクセルシス』が今福の指摘する通りの〝武器〟であると麦泉も認識している。彼と共に『ざるだん』を蹴散らした岳の話を信じるならばノコギリ状の刃を相手の股に食い込ませて引き裂くという残虐な技で敵の数を減らしたそうである。類稀なる膂力から繰り出す一振りでもって古い家屋の柱を絶ち切り、これを倒壊せしめたともいう。

 人体や建物にかかわらず、キリサメは眉一つ動かすことなく破壊の衝動に身を委ねてしまえる男であった。樋口が示談を成立させたのだが、長野で電知と闘った際には自動車整備工場の簡易ガレージを丸ごと一つ潰している。

 これを目撃したカリガネイダーたちの証言はなしによれば、キリサメは先端の尖った鉄パイプを拾って電知を串刺しにしようと躍起になっていたそうだ。今福の指摘を認めることに繋がるので決して口には出さないが、ここに至るまでの行動を考えれば『聖剣エクセルシス』を振るう際に手加減などするはずがあるまい。

 『聖剣エクセルシス』に殺傷能力はないとする自らの主張すら麦泉は全く信じていなかった。

 キリサメの喧嘩殺法と真っ向からぶつかって打撲傷だけで済んだのは瀬古谷寅之助が優れた力量の持ち主であったからに他ならない。何しろ彼は日本史上最強の剣士と名高いもりとらの系譜――『タイガー・モリ式の剣道』を現代に受け継ぐ少年なのだ。

 屋上庭園に辿り着くまで二人の少年は秋葉原の狭い路地でも斬り結んでいたが、野次馬を太刀風に巻き込み、薙ぎ倒さなかったのは奇跡としか言い表せないのである。


「この際、殺傷力とか関係ないんですよ! 暴力頼みでなきゃ生き残れないマンガみたいな世界でブンブン振り回していたを法治国家日本でも迷わず使っちゃう感覚が問題なんですからっ!」


 己のうちに矛盾を抱えたまま対峙しているのだから勢いで今福に敵うはずもなく、いよいよ麦泉は口を真一文字に結ぶ時間のほうが長くなってきた。


「さっきドン・キホーテ野郎は反省ができる子と言いましたよね? 周囲まわりの人に悪いことをしてしまったと考えられる子ではあると思います。そういう育ちの良さはあたしも感じました。自分の過去に一切言い訳をしない潔さも持ち合わせています。……素直な子なのはあたしも認めますよ」


 再生中の音声データは該当箇所まで辿り着いていないが、デビュー戦への意気込みを訊ねたときには先輩選手を押しのけて成り上がるといった野心は一度も述べず、岳や未稲たち〝家族〟の応援に報いることを最大の目標として掲げていた。

 それからキリサメは格闘技の経歴がない上に素性も知れない自分を受け入れてくれた樋口社長の期待にも応えなくてはならないと続けている。この真摯な少年に対する裏切りには今福もはらわたが煮えくり返って仕方がないのだが、情に流されて彼の存在を承認してしまえば、いつか必ず災いとなって『天叢雲アメノムラクモ』に跳ね返ってくる。

 若者への眼差しとは切り離して考える必要があると、今福も己に言い聞かせていた。


「……ひきアイガイオンを想い出してください、麦泉さん。日本格闘技界最悪の汚点はどうしてあそこまで堕ちる羽目になったのか」

「……誰よりも強く暴力を振るえば他人を……いや、家族でさえ服従させられるという有効性に目覚めてしまった――そう言わせたいのかな? 最後にはその所為せいで自分の子どもまで手にかけた男だけど、……まさか、キリサメ君も暴力の有効性を弄んでいると言うんじゃないだろうね。今福さんまでそんなことを……っ!」


 含みのある言い方になってしまったのは脳裏に前例が浮かんだ為である。

 格闘技に携わる人間が口を揃えて〝歴史的汚点〟と扱き下ろす元フライ級の日本人プロボクサー『ひきアイガイオン』にキリサメ・アマカザリという新人選手ルーキーを最初に重ねたのは『NSB』を主戦場としながら八雲岳の呼びかけに応じて日本に舞い戻り、『天叢雲アメノムラクモ』に参戦した〝天才〟――ほんあいぜんであった。

 世界的な作曲家として名高い本間かつひさのもとに生をけ、自身も作詞家を本業とする愛染は日本に古くから伝わる武術『こっぽう』に絶対音感を組み合わせるなど常人離れした感覚の持ち主であり、この〝天才の嗅覚〟でもってキリサメをアイガイオンの同類項と認めたのである。

 すがだいら合宿の折に温泉施設を訪れた後輩選手キリサメへ接触し、〝MMAのアイガイオン〟にもなり得ると愛染は突き付けている――現場には居合わせなかったものの、二人の間に穏やかならざる空気が垂れ込めたことは麦泉も把握している。

 これに対して今福はキリサメが自らひきアイガイオンという忌むべき名前を口にした瞬間に立ち合っている。改めてつまびらかとするまでもなく、これは愛染の言葉に対する直接的な反応であった。先輩選手から同じくらい目の持ち主として挙げられた元フライ級ボクサーのことが気にならないはずもあるまい。

 ひきアイガイオン――それは金に目が眩んだボクシングジムやテレビ局に踊らされ、歪んだ魂を誰にも修正されないまま拳を穢し続け、タイトルマッチという大舞台で王者チャンピオンの右目を失明させたボクサーである。

 ボクシング界から永久追放された後も暴力に溺れ、現在いまは鬼畜の所業によって服役中の身であった。


「彼ら二人を分けたのはブレーキの有無じゃないかと思いますよ。勿論、ひきはブレーキがブッ壊されたタイプ」

「キリサメ君は自分でブレーキを壊したタイプ……とでも?」

「あたし、今、〝有無〟ってハッキリ言いましたよね? ひきは途中でとはいえブレーキ自体はハズですよ。……実は〝歯止めを掛ける〟という感覚が誰よりも強かった気がしますね」


 アイガイオンは幼少期から父親に苛烈な虐待を受け、この反動から暴力の有効性に目覚めてしまった。のちに彼自身も繰り返してしまう悲劇を今福は言外に語っているわけだが、これに気付かないほど麦泉が遅鈍であったなら、競技選手のマネジメントという繊細な仕事など務まらないはずだ。


「キリサメ・アマカザリはブレーキ自体が最初から存在しないタイプです。〝歯止め〟というのがどういうモノか、感覚的に知っているかどうかっていう差はかなり大きいと思いますよ。……麦泉さんだって本当は気付いているんじゃないですか?」

「――勉強不足を否定はしません。死んだ母にも言い訳はダシに使われた人への侮辱でもあると、死んだ母も良く話していました。……ですから正直に申し上げますが、僕にはまだ格闘技の試合というものが上手く呑み込めていません。これまで経験してきた潰し合いとのギャップをどうすれば埋められるのか、それとも埋められないのか。、始まってみないと分かりません」


 今福の問いかけに何も答えない麦泉の鼓膜にはキリサメの音声こえが足元から飛び掛かっていた。恐怖と共に背筋を伝っていつまでも脳を震わせる真夜中の靴音のようであった。


「彼が素直に反省のできるなのは間違いないですけど、今度の一件で罪悪感を持つべきは〝身内〟相手じゃない。に歯止めの利かない選手をリングに上げるのは『天叢雲アメノムラクモ』にとって自滅行為も同然ですよ! それで良いんですかっ⁉」

「……キリサメ君は、日本MMAのアイガイオンなんかじゃない……!」

「それなら麦泉さんたちにドン・キホーテ野郎を止められますか? MMAのリングで生まれ故郷の貧民街スラムと同じことを始めたとき、止めることなんかできっこない!」

「……キリサメ君だって勉強不足を自覚しているじゃないですか。試合当日までにはMMAのルールだって、きっと頭に入っているハズですし……」

「暴走真っ最中のトロッコにブレーキを取り付けられるかって話をしてるんです! 彼はもう岩手大会の出場者名簿に載ってる! ブレーキを持たないまま突っ走るトロッコにしてしまったんですよ、『天叢雲アメノムラクモ』が! 速度スピードを緩めることもできないから簡単にレールを外れて吹っ飛ぶ! そのときに責任を負いきれますか⁉」

「……レールの上を走っている最中のトロッコにブレーキを設置するのは不可能かも知れないよ。キリサメ君をトロッコに見立てればというのが前提条件だけど……」

「そうです、構造的にね! 器具と精神に言葉を置き換えたらドン・キホーテ野郎の危険性がくっきりハッキリするのでは⁉」

「……いざというときには僕とセンパイが身体を張って食い止めるよ。それが責任の取り方ということくらいは分かっているさ……」


 麦泉の口から飛び出した反論にも力は殆ど込められていない。キリサメをMMAのリングへ送り出すことにとてつもない危険性リスクが付き纏うことなど今福から改めて指摘されるまでもなく理解わかっているのだ。

 一線を退いた麦泉とは異なり、に入った現在いまも戦いの場に身を置き続けている岳は闘魂に良い刺激を与えてくれると『聖剣エクセルシス』すらも好意的に受け止めているが、第三者の立場から振り返ってみれば、日本移住の前後から確認されているものだけでもキリサメの戦いは蛮行としか表しようがなかった。

 日系人ギャングの群れである『ざるだん』の迎撃は特例と考えて良いだろうが、長野で繰り広げた路上戦ストリートファイトでは鉄パイプの他にも長いボルトを掌中に握り込み、これを電知の腕に根本まで突き刺している。

 『天叢雲アメノムラクモ』と敵対関係にある地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の選手から狙われた未稲を守り、同じく標的にされていた希更・バロッサをも結果として救うことになったものの、電知と組み合ったまま高い場所から急降下するなど死者が出ても不思議ではなかった。

 間に挟んだ御剣恭路との揉め事は勝負にもなっていなかったので省いているが、瀬古谷寅之助との斬り合いをもって麦泉の不安は限りなく確信に近付いていた。

 インタビューでは「今まで経験してきた潰し合いとの差を埋められるのか、今でも分からない」と述べていた。〝腕比べ〟を通じて相手を理解し、認め合うという武道や格闘技の理想がキリサメの握る『聖剣エクセルシス』には全く感じられず、リング状のつかがしらから丸みを帯びた剣先に至るまで原始的な暴力の衝動が漲っているとしか思えない。

 これは揺るがし難い事実である。

 デビュー戦を直前に控えた〝プロ〟のMMA選手が衆人環視の状況下で路上戦ストリートファイトに及ぶなど言語道断だが、斬り合いそのものよりも暴力の衝動が理性を簡単に上回ってしまうことこそ問題である。その根深い〝闇〝にこそ今福は繰り返し懸念を示しているのだ。


「――つまり、『天叢雲アメノムラクモ』全体に影響が出ることを心の底から心配しているのよ。ナオリもすっかり〝企業人〟になったわね」


 すっかり口を噤んでしまった麦泉へ相槌くらいは打つように迫るべく今福ナオリが前のめりとなった直後、垂れ流しのインタビューとも異なる声が二人の間に割り込んだ。

 何の脈絡もない唐突な乱入ではあったが、とても耳に馴染んだ声であった為、ここまでの言い争いを樋口や日野目に盗み聞きされていたのではないかと狼狽することもない。誰がやって来たのか即座に判ったからこそ口を揃えて「倉持さん」と振り返ったのである。

 くらもち――『サムライ・アスレチックス』にいて経理の仕事を一手に引き受ける聡明な女性がドアを開いた状態で事務所の入り口に立っていた。

 二人と比べて出遅れはしたものの、彼女もまた異常としか表しようのない事態へ対応するべく事務所へと急行してきたのである。


「MMAの将来を思って腹を立てること自体は間違っていないけれど、まさか、その恰好であつミヤズの撮影スタジオに乗り込もうとしていたんじゃないでしょうね? 動き易さを優先したコーディネートってワケ?」

「べ、別にこれはそういうワケじゃ……本気で抗議しに行くならちゃんとした服に着替えましたよ! ていうか、倉持さんまでそんなにフォーマルだと、あたし一人だけバカみたいじゃないですかっ」

「仮にも出社なんだから、どれだけ慌てていても身なりを整えるのは当然よ。感情任せに突っ走れるのはナオリの良い所だけど、人からどう見られるのかはきちんと考えなさい。それだけで説得力が変わるわよ」


 赤地に白薔薇の模様を散りばめたブラウスにタイトスカートを組み合わせた倉持と背広を着込んだ麦泉に挟まれる形となった今福は、気まずそうに肩を窄めながらジャージの袖の内側へと両手を引っ込めた。

 数分前とは打って変わって小さくなってしまった肩を一つ叩き、今福の脇をすり抜けていった倉持は床の上に転がったままの録音機ボイスレコーダーを拾い上げ、壊れたスイッチを幾度か切り替えて強制的に機能停止シャットダウンさせた。

 「話の流れで確認するのですけど、MMAの基本的なルールはさすがにおぼえているんですよね」という少しばかり失礼な質問への回答も途絶えた次第である。


「……倉持さんは今夜のことを……」

「わたしに連絡をくれたのはナオリ――それだけで説明は足りるんじゃない?」

「すぐ後に未稲にも電話したんですけど、あのネット番組、やっぱり八雲さんにも本人にも許可を取っていませんでしたよ。あたしが連絡入れなかったら、今でも何も知らないままだったんじゃないかと……」

「百歩譲ってわたしたちにバレるのは構わないけど、きっと統括本部長にだけは知られたくなかったハズよ。無許可のゴリ押しは当然ね」


 倉持が事務所に現れるまでの経緯を理解するには今のやり取りだけでも十分であった。それにも関わらず麦泉の目が驚愕に見開かれたのは、樋口がこの女性まで蔑ろにするとは全く想像していなかった為である。

 経理といっても倉持有理紗の仕事は収支の計算や帳簿の管理だけではなかった。かつて『天叢雲アメノムラクモ』と異なるMMA団体の代表を務めた経験を生かし、興行イベント運営に関する予算の管理と計画まで策定しているのだ。これらに基づいて取引銀行との交渉にも当たっている。

 会社という組織を人体にたとえるならば指先に至るまで血を通わせる心臓が倉持有理紗であり、役員の座に列せられてはいないものの、実質的には樋口社長に次ぐ地位にる。海外の企業であれば最高財務責任者CFOの肩書きを名乗っているはずだ。

 『サムライ・アスレチックス』ひいては『天叢雲アメノムラクモ』の要を担う一人である。それほどの人物でありながら今夜の騒動には全く関与していなかったというのだ。如何に樋口が日本MMAの頂きに立つ最高責任者とはいえ、専横のきわみとしかたとえようがなかった。


「取り上げられた録音データまで勝手に使われたのだからナオリがキレるのも無理ないでしょう。同じ目に遭わされたら、わたしだって黙っちゃいないわよ」


 表面がひび割れてしまった録音機ボイスレコーダーを今福に手渡し、次いで倉持は憤激を慰めるように彼女の肩を優しく撫でた。


「……樋口にはあつミヤズのスタッフだってしっかりキレてますよ。何人の知り合いから問い合わせの電話が来たと思います? 声をアテてる子なんて『こんな無茶苦茶が罷り通るのなら今すぐ降板する』とまで当たり散らしたっていうんですから。……折角、育ったコンテンツがたった一人の我がまま所為せいで空中分解しかけているんですッ!」

「まさか、そんな……っ!」


 事務所で相対してから一番といっても過言ではないほど不吉な発言が今福の口から飛び出し、これを受けた麦泉は放心したようにかぶりを振り続けた。自身の左胸を対の側の手で押さえたのも無意識であった。

 心臓を無造作に掴まれるような衝撃が麦泉を打ちのめしている。


「お忘れかも知れませんが、あたしは格闘技雑誌パンチアウト・マガジンからの出向組なんですよ? 退社して何年も経ってる前編集長に何の権限があってあつミヤズっていうコンテンツを動かすのか、あたしのほうに苦情が回ってきてやってらんないッ! ……しかも、現在いまの編集長は遅い大型連休ゴールデンウイークで家族旅行の真っ最中と来たもんだ! 手が出せない状況で自分ンとこの看板に泥を塗られて、そりゃあもう大激怒おかんむりでしょうねぇッ!」

「……宿泊先のホテルに直接電話して取り次いで貰ったんだけど、そのときにも凄い剣幕で怒鳴り散らしていたよ……」

「ちょ、ちょっと! 休暇中の人に連絡入れて悩ますのはやめてあげてくれませんっ⁉」


 今福は自分の立場と本来の所属先を主張したわけではない。日本国内で最も有名な格闘技雑誌であり、『天叢雲アメノムラクモ』と全面的かつ友好的な協力関係を結んでいるはずの『パンチアウト・マガジン』編集部内にさえ樋口に対する敵意が膨らみつつあることを示したのだ。

 の憤りは全く正当であった。古巣というだけで格闘技雑誌パンチアウト・マガジンが権利を有している〝キャラクター〟を意のままに操った樋口に対しては、直接的にチャンネル運営に関わるスタッフのみならず編集部の誰もが怒りすら通り越しているのだろう。

 麦泉自身も今までと同じように樋口と向き合えるとは思えなかった。今となっては彼に敵愾心を抱いていないのは秘書である日野目一二三くらいではないだろうか。

 八雲岳らと共に日本MMAの最盛期を支えた立て役者の一人であり、国内外の格闘技関係者にも顔が利く樋口に逆らえば、この業界に生きる場所がなくなるという恐怖が強権を許している――考えられる限りで最悪の構図が彼を〝暴君〟たらしめているのだった。


「インタビューした内容をそのままサイトにアップしたら、ようやく回復した日本MMAの信頼も団体としての評判も焼き尽くされるって直談判したんですよ。そしたら樋口の野郎、何て答えたと思います? ねえ、麦泉さんっ⁉」


 揉み消せ――ただ一言による樋口の声真似を麦泉は返答に代えた。重苦しい雰囲気を変えようとおどけてみせたわけではない。冗談など口にしようとも思えない。『NSB』上級スタッフの宿泊先にいて身勝手極まりない会合に臨んでいる人間への皮肉であった。


「ナオリの長電話で概要あらましは掴んでいたつもりだけど、想像以上に酷い状況ね。揉み消すよう指示しておいて、自分では取り上げた録音データを利用――警告までされたのにホームページに掲載してあつミヤズの緊急特番の台本にも使った。……ナオリ、あなた、良く殴り込みを踏み止まったわね」

「倉持さんがやめとけって言ったんじゃないですかぁ! 電話で! そんなことで腹癒せしたって日本MMAの立場が悪くなるだけだって! やっぱり撮影スタッフに無理言って収録自体を打ち切らせておけば良かったわッ!」

「……これはあくまでも僕の想像ですが、今福さんと話した時点では社長は本当にキリサメ君の、……後ろ暗い過去を握り潰すつもりだったんだと思います。後から善後策を閃いて実行に移しただけではないかと……」

「何をどのタイミングで思い付いたか――そんなの探っても意味ないでしょ。『天叢雲アメノムラクモ』の公平性よりも組織としての利害を優先させたってのは絶対に許すべきじゃないですよ。格闘技雑誌パンチアウト・マガジン相手に筋の通らないデタラメやりやがったし……」


 長々と言い争いはしたものの、結局のところ、自分と今福は同じ点に腹を立てていたのだと麦泉は再確認し、その途端に樋口への失望が一等苦く心に広がっていった。


(……原稿起こしまで良く短時間で終わらせられたな。何事にも抜け目のない社長のことだから録音データを取り上げた直後には誰かに――日野目さんに指示していたのかも知れないけど……)


 『天叢雲アメノムラクモ』の公式ホームページに掲載されてしまったインタビューは今福が収録した音声データに基づいているが、あつミヤズによって大々的に報じられ、同情心の擦り込みに利用されたキリサメの〝過去〟は短時間で搔き集められる量ではなかった。夕暮れ前に善後策を思い付いたとしてもくだんの緊急生放送番組には間に合うまい。

 おそらくは八雲岳から養子むすこにMMAデビューの意志が有ることを伝えられた日から〝善後策〟の支度に取り掛かっていたのだろう。キリサメの戦いが如何なる性質ものか、岳当人から武勇伝の如く語られていたのである。

 今日のような事態を予測し、一種の保険として身辺調査を進めていたと考えれば辻褄は合うのだが、それはつまり、キリサメのことなど最初から少しも信じていなかったという証左でもある。

 前身団体バイオスピリッツ以来のベテラン選手が現状を打開し、MMA団体としての新陳代謝を向上させて欲しいと笑顔で期待しながら腹の底では冷徹に品定めしていたのだろう。抜かりのない危機管理リスクマネジメントとも言い換えられるが、その代償として長年の〝戦友〟である八雲岳との信頼関係まで差し出す必要があったとは麦泉には考えられない。


「――釈迦に説法でもこれだけは言わせて下さい! 俺たち格闘家は主催者に命を預けるのと同じなんですよ⁉ だからこそ、ちょっとやそっとでは絶対に揺るがない信頼関係で結ばれてなくちゃいけないんです! あの男がやったのはパートナーシップとは正反対のことなんですよッ! しかも、これからデビューしようという若い選手を裏切るなんて言語道断ッ!」


 麦泉の脳裏に甦ったのはタクシーの車中で通話していた相手の怒鳴り声であった。受話口から溢れ出す一言一言が脳を揺さぶるようであり、麦泉も鼓膜を破られてしまうのではないかと心配になったくらいだ。

 それほどまでに通話の相手はキリサメ・アマカザリという少年の行く末を案じていた。

 一度も顔を合わせたことのない相手に対する感情としては過剰なほど強烈だが、周囲まわりの人々から武士サムライともたとえられる一本気な性格からして義憤も大きいのだろう。何しろ一七時間という時差を飛び越えるような国際電話である。

 成り行きを人任せにするのは八雲岳らしくないと憤り、彼が動かないつもりならば自分が『サムライ・アスレチックス』に火を放つとまで怒鳴っていた。


「――だからこそ冷静でいちゃいけないんですッ! 涼しい顔で見物なんかしていられないッ! 一人の若者がろくでなしの大人の所為せいで人生をメチャクチャにされようとしているんですよッ!? 問題というのなら、それが一番だッ! 若者の未来を守るのが俺たち〝大人〟の役目でしょうにッ!」

「キミがセンパイ――師匠からして貰ったようにかい?」

「俺が大勢から導いて貰えたようにッ!」


 現在いまも右耳の内側で反響し続けているのではないかと錯覚してしまうほど車中での通話やりとりは猛烈であった。一方的に鼓膜を揺さぶられる状況も少なくなかったが、一等声が大きくなる瞬間ときは決まって照れ隠しだ。

 意志の強さを表す極太の眉毛を電話の向こうで吊り上げていたであろうその男は、樋口が裏で糸を引いた暴露番組について「日本のMMAを背負って立つ人間がやって良いことではない」とまで扱き下ろしていたが、思えば今福と腹の立て方が殆ど同じであった。

 何よりも二人を突き動かしているのは天をも焦がさんばかりの義憤である。双方とも自分以外の〝誰か〟の為に本気で怒っているのだ。

 麦泉は再び心に突き刺さった言葉こそ深刻に受け止めている。

 岳や鬼貫と比べて現役引退こそ早かったものの、昭和から平成にかけて濁流の如く移り変わっていった日本プロレスの有り様を最前線にて見届けた男なのだ。前代表フロスト・クラントンの追放に至った『NSB』など例に引くまでもなく、興行イベントを主催する側と選手の間に埋め難い溝が生じることだけは絶対に避けなければならないと実感として理解わかっている。

 キリサメを見守る〝大人〟としての思いからも、常務という肩書きに付き纏う利害の観点からも、樋口が取った行動は一つとして擁護しようがないものであった。


「あなたたちの気持ちは百も承知の上だけど、それでも敢えて言わせて貰うなら組織の実害と想定し得る要因を速やかに排除するのは最高責任者として当然の判断だと思うわよ」

「く、倉持さんっ⁉ え……っ、樋口を庇うんですか⁉ 倉持さんがッ⁉」


 『サムライ・アスレチックス』の誰もが認められずにいる樋口の行動へ倉持が理解を示したのは、選手の立場を考えてあくまでも抗議し続けると麦泉が結論付けた直後のことであった。

 間接的に異論を唱えられた恰好であり、面と向かって言葉を交わしていた今福は言うに及ばず、麦泉も口を開け広げたまま動けなくなってしまった。


「ナオリはわたしのことをどう見てるのよ――確かに社長は結果を性急に求めすぎたわ。でも、個人的な感情に囚われて二の足を踏んでいたら組織なんてたちまち立ち行かなくなるもの。事業の規模が大きい場合は特にね。あなたたちはMMAに尽くすという自分の仕事に責任と誇りを持っている。それなら、わたしが言いたいことも理解できるわね?」

「……ずるいなぁ、倉持さん。そんなことを言われたら、あたし、何も言い返せないじゃないですか」


 麦泉とて同様である。一個人としての激情に身も心も委ねて樋口と衝突し続ければ『サムライ・アスレチックス』の内部分裂も表沙汰になり、『天叢雲アメノムラクモ』の運営にも支障をきたすことだろう。何の恨みがあるのか、自分たちを常に批判し続けるぜにつぼまんきちなどは好機到来とばかりに日本MMAの名誉を貶めようとするはずだ。

 銭坪に付け入る隙を与えることは、組織の利害を熟慮しなくてはならない常務にとって歓迎し難い筋運びである。


「……ナオリと通話はなし終えた後、岩手の柴門からも電話が掛かってきたのよ。釘は刺したつもりだけど、社の誰よりもアマカザリ君と深く関わった麦泉のことだから怒りに任せて社長室のドアを蹴破るかも知れない。自分に代わって手綱を引いて欲しい――ってね」

「柴門さんが⁉」

「感情に引っ張られたら組織の舵取りは難しくなるけれど、情が浅ければ人と心を通わせることもできやしない。それは麦泉と同じく柴門も痛感していると思うわ。……これじゃ社長判断を否定したようなものね。の考えだから聞き流して構わないわよ」


 倉持には『サムライ・アスレチックス』の経理という立場を超える権能が与えられておらず、運営予算の管理以外には『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント運営に関わっていない。それどころか、周囲まわりの目にはように映っている。

 一緒に昼食ランチへ出かけるほど今福と親しく付き合ってはいるものの、広告費の割り当てなどを除いて広報部と業務が重なることのない倉持があつミヤズの一件を把握し、深夜の事務所に駆け付けた理由が麦泉にも判った。

 例え都心から遠く離れた場所にいても柴門きみたかは極めて優れた調整役であり、その能力に距離など無関係というわけである。彼が差し向けた〝ブレーキ〟によって食い止められていなかったら判断を誤るところであったのだ。

 二人にはどうしたって敵わない――と、麦泉は苦笑と共に肩を竦めるしかなかった。


「理由はともかく、あなたたちが怒り狂うのは当然だし、わたしだって社長に言いたいことは山ほどあるわ。……だけど、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを控えた大事な時期に『天叢雲アメノムラクモ』のマイナスになるような事態は避けなければならないわ。とりわけ国際的な評価を落とすような真似はご法度よ」


 オリンピック及びパラリンピックのような国家的大事業ではないものの、『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』の共催による日米合同大会コンデ・コマ・パスコアは間違いなく〝国際試合〟である。アジア圏の選手に広く門戸を開いた『りょうざんぱく』や中東の『マルダースCFコンバット・フェデレーション』など世界中のMMA団体から大きな注目を集めているのだ。

 開催中止という事態に陥ろうものなら『天叢雲アメノムラクモ』は国際的な信用を失い兼ねなかった。破綻の原因が主催団体の内部崩壊であれば恥の上塗りも同然であり、日本MMAそのものが立ち行かなくなるだろう。少なくとも〝国際試合〟の機会は二度と巡ってこないはずである。

 単純な名誉が問題なのではない――これこそが倉持の示した危惧であった。


「わたしたちには一年半しか残されていないわ。ネガティブなイメージが一つでも付いてしまったら、それを返上する猶予もない。社長が私情を押し殺してまでえげつない手段を使うのもきっとその為なのよ。何がなんでも日米合同大会コンデ・コマ・パスコアは成功させなきゃいけない」

「倉持さんまで樋口や八雲さんみたいに『CUBE』だの東京ドームだのって浮足立っているんですか⁉ まさか、そんな……ッ!」

「MMAを地上波テレビ放送に完全復活させる――それも『サムライ・アスレチックス』の悲願でしょう? 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアは間違いなくその足掛かりになるわ」

「……MMA日本協会が総合格闘技をオリンピックの正式種目にしたがっているのと一緒ですしね。僕たちが――日本MMAがテレビへの復帰を目指すのは……!」

「日本MMAに携わる皆の悲願を果たす為なら、わたしも何だってやるつもりよ。樋口社長の立場ならきっと同じコトをしたハズだわ。二人は気に食わないかも知れないけど、力業で解決できる内にアマカザリ君の不祥事を終わらせたのは全く正しい判断よ」


 前身団体バイオスピリッツの時代には通常の興行イベント以外に関連する試合を開催できるほどの勢力を誇りながらも反社会的勢力ヤクザ――関東最強と恐れられる『こうりゅうかい』である――との繋がりが明らかとなって人気が低迷し、黄金時代から解散へ真っ逆様に転落してしまったのだが、これと同時にMMAそのものの価値までもが否定され、以降は如何なる団体の興行イベントも日本のテレビ局でに放送されることがなかった。

 後続の興行イベントも殆どが短命に終わっており、ともすれば大多数の人々がMMAを過去に終わったものとして忘れ去っていく。ニュースやバラエティー番組のスポーツコーナーで取り上げられる程度では爪痕すら記憶に刻み込めないのである。

 衛星放送の格闘技専門チャンネル『パンプアップ・ビジョン』は二〇一一年の旗揚げ直後から『天叢雲アメノムラクモ』を正式なプログラムに組み込んでいる。しかし、熱烈に格闘技を愛好するファンに向けて開設されたチャンネルである以上、どうしても〝客層〟が限られてしまうのだ。

 即ち、格闘技に明るくない人々にも『天叢雲アメノムラクモ』の名を知らしめることが最大の課題である。視聴環境さえ整っていれば誰でも楽しめる地上波テレビにて試合が放送されることはMMAという一つの〝文化〟にとって行く末を左右するほど重大であった。

 倉持も『天叢雲アメノムラクモ』の発展に心血を注ぐ一人だが、『CUBE』に魅せられたという樋口とは違って堅実的に組織の利益を見定めている。MMAの価値をテレビ局が再び認め、地上波放送が安定化したときこそ、本当の意味で復権を果たしたことになるだろう。

 その悲願の為にも『天叢雲アメノムラクモ』の一員である意味を問い直し、社長に倣って私情を呑み込むよう麦泉と今福を諭した次第である。


「……オフィスもののドラマの登場人物になっちゃった気分ですよ。『天叢雲アメノムラクモ』を――組織を守る為に納得できないコトも呑み込めってコトですよね? 隠蔽体質のほうがよっぽど外聞が悪いんじゃないかなぁ。……腐った果物と何も変わらないじゃない。大事に隠し持っていたって自分たちが守ろうとしている組織を腐らせるだけでしょうに」

「……今福さん、もっと言葉を選んでください。僕にだって聞き流せることと、そうでないことがあるんですよ」

「大きな事業やそれを動かす組織の歯車になるっていうのは着飾った自分を捨てるのと同じよ。……わたしも矛盾を呑み込んで女子総合格闘技MMAを――そこに夢を見出してくれたコたちに〝道〟を繋ぐことができたわ。一番大切な存在ものが守れるのなら自分に嘘を吐くのもへっちゃらよ」

「……本当にズルいなぁ、倉持さん……。これじゃあたしがバカみたいじゃないですか」

「一人だけトレパンですしね。そりゃあバカみたいに見えますよ」

「ここぞとばかりに小っちゃい嫌味飛ばす人にだけは言われたくないですねぇっ!」


 キリサメの代わりに皮肉でもって反撃を試みた麦泉も、これに苛立って革靴の上から彼の右足を踏み付けた今福も、倉持の言葉だけは遮らなかった。

 国内外のMMA関係者は現在いまの倉持有理紗が名乗る肩書きに驚き、これを不当な人事と呆れ果てるだろう。続けて彼女の前歴を頭の中で思い浮かべるのだ。

 女子総合格闘技団体『メアズ・レイグ』代表――ごく最近まで倉持の名刺にはそのように刷り込まれていた。同団体は底の浅いワイドショーの出演者から『ジョシカク』と軽薄な調子で略称される女子格闘技の世界にいて日本最大の規模を誇っていたのである。

 互いが提示した条件を合意に導くことができず、本間愛染という天才MMA選手を『NSB』に逃してしまった大間抜けと言い換える底意地の悪い人間も少なくないだろう。

 『メアズ・レイグ』は本間愛染が『天叢雲アメノムラクモ』に参戦した後も新興団体の動向を静観していたが、〝刺客〟の一人も差し向けないのは闘わずして負けたも同然という挑発的な声が上がり始め、ついには選手派遣という形で提携する羽目に陥ってしまった。

 倉持が率いていた『メアズ・レイグ』は次第に自分たちの興収が圧迫され始め、最後には〝合流〟――事実上の吸収合併に至り、今や女性選手によるMMA興行でも『天叢雲アメノムラクモ』の一強状態となっている。

 騒動の裏で糸を引き、団体メアズ・レイグ乗っ取りを画策したのは樋口ではないかという風聞うわさは今なお根深く、『天叢雲アメノムラクモ』に所属する人間までもが〝真実〟と受け止めていた。何しろ『メアズ・レイグ』の対応を最も強く批判したのは格闘技雑誌パンチアウト・マガジンなのだ。

 『サムライ・アスレチックス』の共同経営者でも『天叢雲アメノムラクモ』の副代表でもない。役員待遇どころか、日本MMAの運営にすら直接的には関わることのできない一社員の立場に置かれたのだから、樋口に対する倉持の恨みは計り知れないほど大きいだろう。

 MMA団体を取り仕切るだけの能力を備えながら、日本を代表する『天叢雲アメノムラクモ』から爪弾きにされている。そのような人間から日本MMAの未来の為に私情を呑み込むよう説かれたのだ。

 口調こそ軽やかだが、一言一言の重みが違う。樋口を扱き下ろして己の不遇を慰めるようなこともなく日本MMAの悲願達成を目指す倉持の前で私憤を剥き出しにできるほど二人も恥知らずではなかった。


「……〝組織の理論〟が飲み下せないほどあたしだってガキじゃないし、素人でもないですよ。……だけど、今夜のコトは酷過ぎる。『パンチアウト・マガジン』に対する内政干渉以外の何物でもないわ」


 やり場のない怒りを重苦しい溜め息と共に吐き出した今福は、控えめながらも深く頷き返した麦泉に対して「それ、同情⁉ 相手が違うでしょ~が!」と再び噛み付いた。


「樋口がやったのは印象操作でしょ⁉ 傷害事件の常習犯と認めた上で美談に仕立て上げたのよ! 倫理を踏み外してまで新しい『客寄せパンダ』が欲しいんですか⁉」

「……ナオリ、その辺にしておきなさい。あなたこそ怒鳴る相手が違うでしょう。社長の思惑はいざ知らず、麦泉は別に八雲岳の養子を『客寄せパンダ』に仕立てようとしたワケじゃないでしょう」

「せめて、最後まで言わせてください! あたしは弁護士じゃないけど、ドン・キホーテ野郎を日本の法律で裁くことができないってのは分かりますよ⁉ だけど、良心の呵責もなく暴力を振るえることが強さのステータスみたいにファンを騙すのは組織云々の前に社会の倫理として間違ってる! あたしたちが『天叢雲アメノムラクモ』のリングに望む強さって、詐欺紛いの真似までして求めるくらい薄っぺらなものでしたっけ⁉」

「――僕が育った貧民街スラムは〝犯罪者〟という言葉が何の意味も持たない場所でした」


 危険分子を迎え入れた『天叢雲アメノムラクモ』に対する焦燥から麦泉へ食って掛かろうと今福が前のめりになった瞬間、録音機ボイスレコーダーを握り締めていた手に過分な力が込められてしまい、意図せずスイッチが切り替わった。


「……非合法街区あそこでは正常まともな神経の持ち主から先に死んでいくんです」


 相対する二人の鼓膜に先程と同じ言葉が再び吸い込まれていき、そこに重苦しい沈黙を生み出した。今福はあくまでもキリサメのことを〝MMAのアイガイオン〟と決め付けて譲らないようだが、これを本人の声が認めてしまったようなものである。


「さっきの番組で殺人経験を仄めかしたときにソレを煽るようなコメントが画面上に乱れ打ち状態でしたよね? ミヤズもミヤズで『岩手の会場には救急車じゃなくて霊柩車を待機させておくべき』って台詞は放送事故も良いトコだけど、悪ふざけでそれに同調していた連中は誰もドン・キホーテ野郎を本当の人殺しとは思っていない。度を越した大言壮語ビッグマウスだって頭から信じたハズですよ」

「――パンフレットなどにどう書いて頂いても構いません。自分がやってきたことを言い訳する気はありませんし、出場資格を問われても仕方がないと思っています。僕はただ粛々と事実に向き合うのみです」

「この音声でぶっちゃけた『自分がやってきたこと』が何を指していることやら。いずれにしても現在いまのキリサメ・アマカザリは熱田ミヤズと同じ〝キャラクター〟ですね。暴力一つを握り締めて貧民街スラムで成り上がった殺人拳ってトコかしら。如何にも〝設定〟じゃない」


 あつミヤズの番組と公式ホームページに掲載されたインタビューの両方でキリサメは国家警察との繋がりに言及している。

 国家転覆を企む反政府組織を壊滅させるべく国家警察と共闘した殺人拳――誇大広告としか表しようのない奇抜な経歴ではないか。今福が鼻先で笑い飛ばした通り、緊急生放送の視聴者たちは格闘家としての実績を持たないキリサメの〝値打ち〟を吊り上げるべく用意されたに違いないと受け止めたはずである。

 試合開始前に会場内のモニターで再生される選手紹介のPVプロモーションビデオでもほんの小さな発言を大幅に誇張し、対戦者の間に作為的としか表しようのない形で緊張感を生み出すことが少なくない。ユーモアに満ちた選手を取り上げる際には不条理ナンセンス喜劇コメディ映画と見紛うばかりの演出まで施してしまうのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』を熱心に愛好するファンたちには虚飾と承知した上で楽しむ心構えができている。樋口はる種の共通認識まで印象操作に利用するべく計算を凝らしていたに違いない――これもまた新たに付け加えられた今福の分析である。


「路上の斬り合いが世界中に流れた直後、同じインターネットの力を利用してペルーでの汚点を暴露――時系列としてはあべこべだけど、これでドン・キホーテ野郎から破壊神みたいな暴力の権化に格上げね。……少なくともさっきの放送を観ていた連中は〝そういうキャラクター〟だって信じ込まされたハズよ」


 国家警察とまで結び付く現実味のない〝設定〟は受け止める側との感覚的な乖離を招くと今福は付け加えた。樋口はキリサメ・アマカザリの人格を完全に切り捨て、虚飾に彩られた見世物キャラクターとして『天叢雲アメノムラクモ』のリングを盛り上げさせようという腹積もりなのだろう。


「樋口がやっていることは真剣勝負のMMAをドーピングで〝超人ショー〟に歪めたフロスト・クラントンと一つも変わらないですよ。をリングに放り込んだらどういう結果を終わるか、あの人だって知らないワケないのにっ!」

「わたしたちは社長と同じように考えてはいないと、ちゃんとアマカザリ君に伝えてあげたほうが良いわ。あんな放送があった直後だし、『天叢雲アメノムラクモ』には一人も味方がいないと疑心暗鬼に陥っているかも知れないわね」


 今福は『NSB』をドーピング汚染に導いた前代表――フロスト・クラントンと自分たちが推戴する樋口社長が重なって見えると口走った。


「――運営は格闘技雑誌パンチアウト・マガジンですが、ミヤズは実質的に『天叢雲アメノムラクモ』のサポーターだ! それを悪用してこんなコトまでやらせるとは……これじゃフロスト・クラントンと何も変わらないじゃないですか! 目に見えない暴力を振るったのと同じだし、選手に対する最悪の侮辱ですッ!」


 これを受けて麦泉の脳裏に甦ったのは、先程まで国際電話でやり取りしていた相手の怒号である。

 そのときも今も、麦泉の口から否定の言葉が絞り出されることはなかった。キリサメの気持ちを案じている倉持も「樋口社長とフロスト・クラントンの同一視はこじ付けにも近い」などと今福を窘めることはない。


「……僕はキリサメ君を信じる。確かに現在いまは何を仕出かすか分からないくらい未熟な子ですよ? そのことは擁護したくても難しい。だけど、『天叢雲アメノムラクモ』のリングに上がることを決断したのはキリサメ君自身なんだ。センパイが――八雲統括本部長が強引に誘ったワケじゃない。……だから、僕は最後まで彼の決意を信じます。〝大人〟が信じてあげなくてどうするのですか」

「だったら、もっと胸を張ってあげなさい。……今のあなたは子どもを安心させられるような顔じゃないわよ」


 今福の不安を更に煽り立てるような音声こえを打ち消すべく新人選手キリサメの決意を強調する麦泉であったが、どれだけ言葉を選ぼうとも彼自身の声が弱々しく震えており、これを聞き咎めた倉持にも満足に答えられなかった。

 自分の顔から血の気が引いていることも麦泉には理解わかっている。

 若者が自らの意思で選んだ道を妨げるべきではないと己に言い聞かせ、必死になって抑え込んできた迷いが今は確信に変わりつつあるのだ。デビュー戦には岳と一緒にセコンドとして寄り添うと約束したにも関わらず、どのようにしてキリサメと接することが正しいか、全く見失ってしまったのである。


「あなたにとっての正念場はこれからよ、麦泉。動画サイトとはいえMMAファンが大集合する状況で晒し物にされた以上、アマカザリ君への注目度は青天井になるわよ」


 麦泉を諭しつつ今福の手から録音機ボイスレコーダーを素早く掠め取った倉持は、次いで機械の裏面に取り付けられていたバッテリーを引き剥がし、聞く人の心を揺さぶり続ける音声こえを今度こそ完全に沈黙させた。


「……ただの『客寄せパンダ』とは比べ物にならないような好奇の目を向けられる……」

「今日までは統括本部長の依怙贔屓か、縁故採用程度にしか思われていなかったハズよ。そうでなければ経歴不明なキワモノといったところかしら。……言い方はキツいけど、彼にはそのほうがまだマシだったかも知れないわね」

「こうなってしまった以上、ただのデビュー戦ではない――と? ……いえ、倉持さんの仰りたいことは分かっているつもりですよ。だからこそ、僕が踏ん張らなければいけないということも……」

「アマカザリ君との親子関係がどうなっているのか、わたしには分からないのだけど、普段の統括本部長から推し量ると第三者には不安が尽きないのよね。きっと彼のほうも麦泉あなたを頼りにしているはずよ」

「それはそれでセンパイに申し訳なくなるんですけど……」


 『天叢雲アメノムラクモ』に取り込まれて消滅の憂き目に遭ってしまったものの、最高責任者として一つのMMA団体を切り盛りし、所属選手とも向き合ってきた人物だけに他者ひとが〝何か〟を押し隠そうとしても容易く見抜いてしまえるがんりきが備わっているのだろう。

 麦泉からすれば心の内側を無遠慮に覗き込まれ、余人には決して知られたくない動揺を暴かれてしまった格好だが、本人はそれを不愉快に思うどころか、何とも例えようのない安心感に包まれていた。

 だからこそ、心の奥底を読ませてくれない少年には彼女が示してくれたような接し方で寄り添うべきであったと落ち込みそうになる気持ちを飲み下すことができたのである。デビュー戦の準備に殆ど関与しなかった後悔も瞬く間に解きほぐされ、リングでは一秒たりとも目を離すまいと前向きに変わっていく。


「いずれにしても賽はもう投げられたわ。どこに向かって放り出されたのかは本人にしか分からないけど、ルビコン川の水面へ吸い込まれそうになったら、わたしたちが風を起こして向こうに届けるしかない。落下地点をコントロールしてね。……今はそれ以外にアマカザリ君を守るすべが思い浮かばないわ」


 双眸の力が甦った麦泉に安堵し、彼の顔から擦りガラスによって隔てられた〝暴君の玉座〟へと目を転じた倉持の眉間には、端数を切り捨てて四〇年というとは異なる類いの皺が寄っていた。

 アーレア・ヤクタ・エスト――反逆の川を渡らんとするユリウス・カエサルの引用には心の奥底に抑え付けてきた強い感情が滲み出しているようだ。

 己の不遇を恨むことはなくとも、強権的な手法に危機感を抱くのは彼女自身が優先させるべきだと説いた〝組織〟の一員として当然であろう。MMA団体の代表を務めた経験があり、所属選手とも真っ当に向き合ってきた人間だけに今度の一件には麦泉や今福よりも遥かに憤りが深いのかも知れない。


「……日本の法律で彼を裁くことはできない――か。銭坪満吉が喚く程度ならまだマシだけど、捜査一課の鹿しかにでも目を付けられたら最悪に厄介ね。……無理筋を通してくる組織暴力予備軍対策係が本当に頭から抜けていたのなら、危機管理も穴だらけだわ」


 樋口に対する批判を言葉の端々へさりげなく差し込むのだから、分かりやすく露にすることはなくとも相当に腹を立てているのか、それとも別なる思惑があるのか――いずれにせよ、倉持が絞り出した呟きへ麦泉は素直に首を頷かせている。今福にも逆らう理由などあろうはずもなかった。


「……〝大人〟の都合にアマカザリ君を――若者を巻き込んでしまった責任は取らなくてはならないわ。他の誰でもないあたしたちが……」


 不参加を表明するような事態に陥らなければ新人選手キリサメ・アマカザリがデビュー戦を飾るであろう岩手興行のポスターが壁一面に貼り付けてある。日本MMAの最前線と誇るべき場所とは思えないほど不穏当な沈黙が「士道不覚悟は切腹」と大書された掛け軸と麦泉たちの間に横たわっていた。




 〝暴君〟に翻弄される『天叢雲アメノムラクモ』の有り様を振り返った麦泉が心の中で幾度となく繰り返した「何かがおかしい」という自問は、根底に根差した憤怒と共に渋谷から新宿・歌舞伎町へと飛び火していた。

 新宿は麦泉が遅い夕食を摂っていた異種格闘技食堂『ダイニングこん』が店舗を構えている街であるが、そこから直接的に燃え移ったわけではないので〝飛び火〟という表現は正確とは言い難い。それでもキリサメを傷付けた相手に対する怒りは間違いなく共有しているのだ。

 身のうちから湧き上がる激しい感情に衝き動かされ、中段蹴りでもって轟々と風を薙いだのはキリサメのことを親友と呼ぶ少年――でんである。

 うわの袖が肘の辺りまでしかなく、下穿ズボンの裾に至っては膝下九センチ程度と短く、殆ど肌に密着した風変わりなじゅうどうを大汗で湿らせている電知と相対し、自らも中段蹴りミドルキックを繰り出して風が切り裂かれていく音を破裂させたのは山吹色で光沢が強いジャージのズボンだけを穿いた青年だ。

 ドイツ・ハーメルンに本拠地を置く世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』のズボンは適性のサイズより二回り上の物を間違えて選んだとしか思えないほど幅広で、左右の脚を振り回すたびに風を受けて波打つと裾から逆巻く炎の刺繍が一等映える。

 汗を吸った黒いタンクトップが纏わりつく上半身は遠目には痩せぎすと思えるものの、間近で確かめてみるとが引き締まった筋肉であることに気付いて目を見張るはずだ。

 闘い慣れた肉体の持ち主が正面から向かい合い、水平に閃いた蹴り足を互いに叩き付ける状況であるが、歌舞伎町の雑踏で諍いを起こしたわけではない。二人は四方にロープを張ったリングの上に立っている。

 『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントや『まつしろピラミッドプロレス』のすがだいら合宿で設置された物と同様に『ハルトマン・プロダクツ』で製造されたリングだが、こちらは斑模様に剥げた支柱など経年劣化が目に見えて分かる。

 即ち、二人が臨んでいるのは模擬戦スパーリングであった。それ故に素手による〝実戦〟を好む電知も安全性に配慮し、手首の部分に『ハルトマン・プロダクツ』と刷り込まれた指貫オープン・フィンガーグローブを装着しているのだ。彼と中段蹴りミドルキックを撃ち合い、互いの足を弾いた青年が履いている格闘競技用ローカットシューズの側面でも同社のロゴマークは世界最大のスポーツメーカーと強く自己主張していた。

 ズボンからシューズに至るまで同じスポーツメーカーで揃えた青年のことを詳しく知らない人間は女性がリングに上がっていると勘違いして驚き、何よりも中性的で端正な顔立ちに見惚れてしまうだろう。そうでなくとも青く染めた髪は人目を強く惹き付けるのだ。

 艶めいた髪は風を受けるたびに舞い上がり、毛先の一本一本から星屑のような煌めきが滑り落ちていくようであった。動き易さを何よりも優先して頭髪を短く切り揃え、剥き出しの額まで昂揚の色に染め上げた電知とは好対照である。


「――さすがの電知も一晩で二連戦は厳しいんだろう? バテ気味なのか、動きがいつもより荒れているし。胸に秘めた悩みに邪魔されているのなら話は別だがね」

「何でもかんでもズバズバ言い当てやがって! お陰でイライラが悪化しちまわァ!」

「すまないな。商業柄、変に目が肥えているんだよ。自分で言うのもおかしいけど、お節介焼きな性分でね。お悩み相談なら幾らでも乗るつもりぞ? 今のは元カノとヨリを戻す秘策かな?」

「お前までそれを言うのかよ⁉ 栃内あいつとはそんなんじゃねぇっての! つーか、誰から聞いたんだ⁉」

「職業柄、〝耳〟も良くなってしまうものさ。パンさんから聞いたわけじゃないぞ」

「犯人即バレじゃねーか! 憶えてろよ、パンギリナンっ!」


 相手が蹴り足を引き戻して体勢を立て直す前に組み付いてしまおうと、一気に間合いを詰めんと試みる電知の左太腿を自身の右足裏で素早く踏み付け、技の拍子を崩しながらすこぶる昂揚した調子で呼びかける声はリングサイドでを聞く人々に思春期が終わっていないような印象を与えていた。

 小柄な電知とはまた微妙に違う形で幼さを残した顔立ちでもある為、変声期を経ているのかも分からなくなりそうだが、彼は数年前に成人式を済ませている。あるいは「成人式を済ませていなくては差し障りのある人物」と表すのが正確かも知れない。

 黒いタンクトップにも『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが煌めく青年は、身こなし一つから電知の心理状態まで読み抜いてしまう洞察力やメイプルシロップのように甘い顔立ちなどを使いこなして世の中の女性たちに寄り添い、日々の暮らしで疲れ切った心を癒すホストを生業にしているのだ。

 鬼貫道明が経営する『ダイニングこん』と同じ新宿駅周辺に所在しながら直接的には関わることのない歌舞伎町――国内外の来訪者からアジアでも一番と謳われる繁華街の中で際立った賑わいを見せるホストクラブ『躑躅つつじさきやかた』が青い髪の青年の勤務先であり、そこでは『しゃ』なる通称でもって呼ばれていた。

 『躑躅つつじさきやかた』の方針であるのか、ホストの呼び名としては些か仰々しいのだが、それ故に歌舞伎町の隅々まで知れ渡っているわけではない。同業者までもが畏怖と共に『しゃ』と呼び掛ける理由は厳めしい語感とは別にるのだ。


「そろそろ手加減ナシで思いっきり行っても良いか? やっぱり変に遠慮するのは電知に失礼だろうし、本調子でなくとも不調までは行ってなさそうだし」

最初ハナッから遠慮なんかしちゃいねぇだろ。今夜もしっかりり難いっつーの!」

「こういうのはノリというか、とか情緒みたいなものだろう? 電知を相手にしてナメた真似ができるほどオレも間抜けじゃないよ――」


 左足全体の動作を堰き止めている夜叉美濃の右足裏を力ずくで押し返し、その勢いのまま間合いを詰めようと試みる電知であったが、相手の引き戻した蹴り足が再びマットを踏むか否かという刹那に新たな衝撃で貫かれてしまった。

 電知は拳を交えた者から技の鋭さを電光石火とたとえられているが、夜叉美濃はそれにも匹敵する速度はやさで蹴り足を軸足へと切り替え、今度は左の足裏でもって先程と同じ部位を蹴り付けたのである。

 先程は内側から抉るように、二撃目は外側から挫くように――立て続けに左太腿を脅かされた恰好であるが、その威力は膝関節にまで影響を及ぼし、片足から瞬間的に力が抜けてしまった電知は重心すら維持できなくなって崩れ落ちるところであった。

 同じ左足が再び振り抜かれ、側頭部を横薙ぎに脅かそうとしたのは次の瞬間である。電知の動作うごきを断ち切ったと認めて蹴り足を引き戻した直後に腰と軸足を捻り込み、上段蹴りハイキックでもって追撃を仕掛けた次第である。


「――何回、喰らってもヒヤッとさせられるぜ! 『サバット』の連続蹴りはよォ!」

「同じ台詞をお返しするよ。こっちは一発外すだけでも命取りだ」


 足元に相手の意識を集中させておいて瞬く間に頭部への攻撃に変化したわけだが、電知も直撃は許さない。こめかみの辺りを撃ち抜こうとしていた上段蹴りハイキックを右下腕でもって受け止めると同じ側の五指を繰り出し、空中に留まっている左踵を掴もうと試みた。

 左の五指を踵に食い込ませたまま大きく踏み込み、これと同時に対の右手を伸ばしてタンクトップを掴むつもりである。

 下肢と上体を一挙に制して相手を押し倒し、後頭部からマットに叩き付けようというわけだが、電知が上段蹴りハイキックを防ぎ切ったように夜叉美濃もまた『きびすがえし』と称される荒業を見極めていた。素早く軸足を屈伸させ、踵を掴まれる寸前で後方へと逃れたのだ。

 接客業で生計を立てていながらも夜叉美濃は〝プロ〟の格闘家と見紛うばかりであり、地下格闘技アンダーグラウンドに勇名を馳せる電知と互角以上に渡り合っている。華麗の二字でしか表しようのない蹴りは打撃系立ち技の格闘技団体として日本最大の規模を誇る『こんごうりき』に参戦しても十分に通用するはずだ。

 物陰に危険が潜むような繁華街を渡り歩く為の護身術ではなく、完全なの類いである――が、彼のを知る人間は電知も含めて誰もを驚きはしないだろう。四方を取り囲む黒いクロス張りの壁にも興行イベントのポスターが見受けられるのだが、夜の歌舞伎町ではそれぞれのホストクラブを代表する形で腕自慢たちが出場し、普段の接客とは異なるかおを見せる『ホスト格闘技』が盛んに催されていた。夜叉美濃は花形選手として名を連ねているのだ。

 即ち、歌舞伎町の誰もがその通称を畏怖する理由である。『じょう』というホスト格闘技の興行イベントではまさしく夜叉と化して観客たちを戦慄と興奮の極致に誘い、全戦無敗という好成績を誇っている。

 だからこそ電知が長い歳月を費やして研究し、若かりし頃の前田光世が体得したと伝わるひろさきはんの〝とめりゅう〟とされる古流柔術『ほんがくこっりゅう』まで訪ね歩いて完成に至った『コンデ・コマ式の柔道』とも互角の勝負を演じられるわけだ。

 当然ながら『きびすがえし』をかわした程度で攻防が途絶えることはない。一旦は飛び退すさった夜叉美濃ではあるものの、着地と同時に再び前方へと突っ込み、追撃を仕掛けるべく間合いを詰めてきた電知と真っ向からぶつかった。

 鳩尾目掛けて滑り込んでいくかのような電知の肘鉄砲を右掌底で弾き返すや否や、夜叉美濃は報復しかえしとばかりに対の左拳を撃ち込んだ。続けざまに右拳を繰り出し、そこから腰を逆に捻り込むことで対の拳をづるつがえた矢の如く放ち――連装砲さながらに両拳を絶え間なく突き入れていくのだ。

 二人の模擬戦スパーリングをリングサイドから眺めていた人々が口笛まで吹いて褒めそやすほどに夜叉美濃の猛襲ラッシュはやく、電知でなければ全身に痛々しい青痣を刻まれていたことだろう。

 身体能力と反射神経の両方が桁外れに優れた電知は左右の下腕でもって殆どのパンチを凌いでいる。幾度か防御ガードをすり抜けることもあったが、いずれも人体急所から外れているので大したダメージにはならない。彼自身も当たるに任せ、拳によるあてや脛に狙いを定めた下段蹴りローキックでもって割り込んでいった。


「う~ん……絶不調は杞憂だったけど、やっぱりいつもと比べて切れ味が鈍いな。サンドバッグ代わりにされるのは真っ平御免だが、ミット役くらいは何時間でも付き合うぞ」

「こんなおっかねぇ蹴りを入れてくるミット役がいるもんかよ! 見てろよ、調子なんか自分てめーで絞り出してやらァ!」


 夜叉美濃が勤務先ホストクラブへ提出した履歴書には『サバット』という特技が記されている。これはフランスを発祥とする格闘技であり、その源流はブルボン朝時代まで遡る。彼が武者修行の為に本場フランスへ赴いたのは現在いまの通称を名乗る以前のことで、帰国後に食い扶持を求めてホストの仕事に就いたという異色の経歴の持ち主なのだ。

 小柄な電知と向かい合った場合、夜叉美濃は腰の高さも足の長さも相対的に際立つ。巧みな足技こそ『サバット』の特徴だが、すらりと伸びた四肢がに組み合わるとリーチで劣る電知には懐へ飛び込むことも容易ではなくなる。

 その上、サバットの足技は爪先でもって蹴り込む為、他の格闘技と比較してもリーチがのだ。キックボクシングや空手、あるいはムエタイの攻防に慣れ切っていると錯覚が生じて直撃を被り兼ねないのだった。

 あてのみでも相手を十分に制圧し得るものの、『コンデ・コマ式の』は組み付いてこそ真の威力を発揮する。それだけに夜叉美濃のサバットは天敵にも等しく、次々と襲い掛かってくる打撃を凌ぎながら付け入る隙を見極めて割り込んでいくしかない。

 手足の長短という本人の努力ではどうあっても埋められない差ですら電知は自身を高めてくれるものとして受け入れ、楽しめる男であった。

 それが今夜は違う。研究と修練を重ねて復古された前田光世コンデ・コマの技が夜叉美濃から指摘されたようにくらい苛立ちの所為せいで鈍っていた。今や電光石火の身のこなしとも程遠い。

 大きく踏み込みながら突き出された右手に反応して上体を傾けた夜叉美濃は、白虎とらの爪ともたとえるべき柔道家の五指をかわすと同時に左足を高く持ち上げ、これを外から内へと振り回した。伸ばされた腕と交差させるような形で電知の側頭部に狙いを定めたわけだ。

 タンクトップを掴むべく伸ばしていた腕をすぐさまに引き戻し、肘でもって夜叉美濃の蹴りを弾き飛ばした電知の瞳は脛を狙って突き込まれてきた対の右足裏と共に〝別の敵〟を視界に映している。

 夜叉美濃の真隣に浮かび上がった現像まぼろしもまた猛烈な足技を繰り出しているが、こちらはムエタイ式のもの――彼が所属する地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の試合で対戦した相手の蹴りが質量を伴わない残像のようにサバットを追い掛けてきたのだ。

 歌舞伎町の片隅に所在し、尚且つ二四時間営業ということからホスト格闘技の選手たちがに集まるキックボクシング系のジムにて夜叉美濃と模擬戦スパーリングを行っているはずだが、電知の意識は新宿ここから神奈川県となりの川崎市に飛んでいた。

 あるいは川崎そこに心を置いてきたというべきかも知れない。夜叉美濃が〝二連戦〟と述べた内の最初の一回目――同地の空き倉庫を借り、そこにリングを設置して開催した興行イベントの場景が電知のる世界に割り込んでくるのだ。

 キックボクシング系のジムとはいえMMAルールの特訓トレーニングにも対応している為、二人の前にリング上で行われた模擬戦スパーリングでも寝技による攻防が展開していた。

 同じ『ハルトマン・プロダクツ』製造のリングが設置された地下格闘技アンダーグラウンドも反則行為以外は全ての技術が解き放たれる過激なルールであった。双方の大きな差異など指貫オープン・フィンガーグローブ装着の有無くらいである。

 直線的に蹴り足を突き出し、親指の付け根辺りでもって鳩尾を抉らんとする青年はうめのきという名前であり、この〝同僚〟を電知は三時間ほど前に撃破したばかりであった。

 キリサメとの路上戦ストリートファイトで重傷を負い、一時的に戦線を離脱していた空閑電知にとってはこれが復帰戦である。うめのきはその間に地下格闘技アンダーグラウンドデビューを飾った新人選手ルーキーで、同じ軽量級である『コンデ・コマ式の柔道』への挑戦を強く望んでいたという。

 事実、対戦カードを決定する席にいてもムエタイの心得と実戦経験を熱弁し、格闘技を志す者ならば一度は耳にしたことのある前田光世コンデ・コマの技であろうとも下してみせると胸を張っていた。

 デビュー戦をKO勝利で飾ったことによって自信を付けたらしく、誰よりも負けん気の強い電知にさえ眩しく思えるくらい野心を剥き出しにしていた。だからこそムエタイの挑戦に応じたといっても過言ではない。

 今年初めに『E・Gイラプション・ゲーム』と縄張り争いのような乱闘騒ぎを起こし、惨敗を喫した挙げ句に後ろ盾となっていた指定暴力団ヤクザこうりゅうかい』にも見限られ、今や電知たちへ舎弟のように従うしかなくなったカラーギャング――『桃色ラビッシュ』にもうめのき構成員メンバーの一人として名を連ねている。

 当然ながら地下格闘技アンダーグラウンド団体とカラーギャングの全面対決では後者の側で闘い、他の味方と共に総崩れとなった。関東で最大の勢力を誇る指定暴力団ヤクザの権威を笠に着て小突き回してきた都内の非行集団から一斉に嘲笑わらわれるほどの大敗であったが、これをきっかけにしてうめのきは猛者揃いの地下格闘技アンダーグラウンドへ興味を抱いたそうである。

 即ち、団体間の敵対関係を超えて相手の実力を認め、受け入れたということである。それは柔道の創始者であり、平和の祭典であるオリンピックへ長年に亘って貢献したのうろうの精神にも通じているのだ。前田光世コンデ・コマをも育てた偉人は互いを信じ合う『自他共栄』を世界中に説き続けていた。

 嘉納治五郎が示した理想を思えば、うめのきの決意こそ支持すべきであろう。先例がないわけでもない。くだんの抗争で電知と闘って敗れ、今では彼を〝若〟と呼んで慕うパンギリナンもカラーギャング――正確には構成員メンバーというより用心棒であった――から地下格闘技アンダーグラウンド団体へ移籍しているのだ。

 パンギリナンのときと同じように新しい絆を育んでいけるだろうと期待し、新人選手ルーキーに胸を貸してやるつもりでリングに臨んだ電知を待っていたのは軽蔑の眼差しであった。対戦を楽しみにしていた気持ちもゴングが鳴る頃には冷たく凍り付いてしまったのである。

 それが今夜のこと――あつミヤズによるの影響で今や全世界に暴力性の顕現あらわれと周知されてしまったキリサメの『聖剣エクセルシス』と、寅之助の揮う『タイガー・モリ式の剣道』が秋葉原の中心部で斬り合いを演じてから七日目の夜であった。


(想い出したくもねぇのによ。……おれ一人がコケにされるだけならまだしも、嘉納大先生の顔に泥を塗っちまったようなモンじゃねぇか……ッ!)


 脛を脅かして横転を図る夜叉美濃と、鳩尾を抉って致命傷を与えようと逸るうめのきは狙う部位こそ違えども共に直線的な足技を仕掛けている。どちらの蹴り足も電知は我が身を真横に移すことでかわしていた。

 二人への反撃はそれぞれ異なっている。うめのきには蹴り足を引き戻す動作に合わせて電知のほうから懐深くへ飛び込み、報復しかえしとばかりに鳩尾目掛けて拳によるあてを繰り出した。

 直撃すれば呼吸困難を引き起こしたことであろうが、地下格闘技アンダーグラウンド二戦目とはいえムエタイのジムに長らく通っていたうめのきの反応は速く、軸足を入れ替える形で左膝を突き上げ、電知の右拳を弾き返してしまった。

 幻像まぼろしではなくリングの上でとして相対している夜叉美濃には全体重を乗せて蹴り足を振り上げていく。肘打ちや膝蹴りを多用するムエタイとは違って同じ部位での攻撃がサバットの体系には含まれておらず、全身も大きく傾けた状態だ。無防備のまま晒される恰好となった頭部をサッカーボールに見立てた次第である。

 模擬戦スパーリングへ用いるには余りにも危険性の高い技であり、電知自身も無意識の行動に呻き声を漏らしてしまった程である。心のうちで煮え滾っていた苛立ちが本人の制御を離れて発露したようなものであった。

 精神こころの在り方が乱れたときこそ技の拍子が大きく崩れてしまう――それもまた自明の理というものである。マットに着ける片手一本で姿勢を保っていた夜叉美濃は反射的に真横へと身を転がし、電知の蹴りが届く間合いの外まで逃れていった。電光石火の身のこなしどころか、技の切れ味そのものが鈍っているのだから回避も容易いわけだ。


「――裏切り者ッ!」


 右拳によるあてから同じ側での肘鉄砲に変化し、これを外膝に叩き込んでうめのきの姿勢を崩した瞬間、彼の口から迸った怒号が現在いまも電知の耳にこびり付いている。それ故に復帰戦の場景が模擬戦スパーリングのリングに幻影の如く甦ってしまうのだった。

 その一言によって意識が蝕まれていては本来の力を半分も発揮できまい。

 『E・Gイラプション・ゲーム』を魂の故郷ホームグラウンドとして大切に思っている電知にとって不名誉極まりない烙印を押されてしまった原因はただ一つである。同団体と敵対関係にあり、一度は襲撃まで企てた『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手と親しく付き合っていることをうめのきは背信行為と見做したのだ。

 うめのき一人が喚いているだけであったなら電知も「頭を冷やして出直してこい」と一笑に付したことであろうが、彼の爆発をきっかけとして観客席のあちこちから同じ罵声が飛び交い始めたのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の八雲岳や攻撃対象であったはずの希更・バロッサと異種格闘技食堂『ダイニングこん』で食事を楽しみ、挙げ句の果てにはキリサメ・アマカザリと共にすがだいら合宿に出掛けている――花形選手エースに対する失望と怒りに打ち震える人々はを証拠に掲げ、電知のことを裏切り者と蔑んでいた。

 模擬戦スパーリングとは思えないほど高度な攻防に対し、歌舞伎町のジムには口笛や拍手、二人の闘い方を分析する声が飛び交っているが、川崎市の倉庫で電知に浴びせられたのは熱気とは正反対の想念であった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の変貌に思考が追い付かないのか、セコンドの上下屋敷と左右田も唖然茫然と立ち尽くしていた。戦線離脱の最中ではあったものの、電知本人の耳目が届かないところで善からぬ風聞うわさが広まっていたのである。合宿先のすがだいらへ向かう為、八雲道場の軒先に停めておいた自転車ママチャリの写真まで決定的な証拠として出回っている。

 本業を別に持つアマチュアの腕自慢が集結した地下格闘技アンダーグラウンド団体だけに興行イベントも『天叢雲アメノムラクモ』のような規模にはならず、観客の大半が選手の家族や友人によって占められていた。それはつまり、物理的にも心情的にも選手と観客の距離が近いということでもある。ひとたび、悪感情が生じれば瞬く間に伝播していき、同調によって際限なく膨らんでしまうのだ。

 報道関係者ではない一般の観客でさえリングサイドからデジタルカメラを向けられることもアマチュア選手による地下格闘技アンダーグラウンド団体の特徴であった。裏返せば気に喰わない選手の間近まで押し寄せ、剥き出しの憎悪を浴びせられるということだ。当然ながら試合中の電知に逃げ場はない。気付いたときには吊るし上げのような状況に陥っていた。

 歌舞伎町のジムには模擬戦スパーリングを見守っているパンギリナン以外に『E・Gイラプション・ゲーム』の関係者は一人もいない。しかし、地下格闘技アンダーグラウンドのリングに詰め寄せた群衆から容赦なく叩き付けられた「裏切り者」という罵声は、憎悪の視線を感じなくなり、好意的な雰囲気で見守られる現在いまも頭の中でだまし続けているのだ。何時まで経っても消えてはくれない。

 電知を応援する人々や自身の試合を待つ選手たち、更にはレフェリーも口を慎むよう注意を飛ばしたのだが、相手が逆上している以上は火に油を注ぐ結果にしかならず、ついにはリングサイドで小競り合いが起きてしまったのである。

 厭でも視界に入ってしまう仲間同士の諍いも、対戦を心待ちにしていたうめのき上段蹴りハイキックと共に吹き付けてきた侮蔑の唾も、暫くは夢にまで侵食してくることだろう。

 これからMMAデビューを迎える親友キリサメに捧げるつもりであった〝勲章〟は、もはや、胸を張れるモノではなくなっている。


「身が入らないのは別の悩みのか。……ハッキリ言って電知らしくないぞ。もっと気楽にエンジョイしていこうじゃないの」

「人生の酸いも甘いも嚙み分けたようなホストに言われると坊さんの説法よりもずっと効くぜ。……おれらしくないのは誰よりも自覚わかってるよ」

「そういうときは頭の中が空っぽになるくらい疲れたら良いんだよ。酒やタバコで発散させるよりずっと健康的だ。ドラッグなんか以ての外さ」

「成人したって酒もタバコもやるつもりはねーよ。ドラッグ? 夜叉美濃おまえが言った通り、脳内麻薬のほうがおれには一番効くだろうぜ!」


 右下腕による防御ガードの上から叩き込まれた夜叉美濃の一撃は爽快とも思えるほど強く、くらい気持ちも幾らか削ぎ落とされた。

 奇しくも同じ上段蹴りハイキックであったが、腰を鋭く捻り込みながら鍛えに鍛えた脛を叩き付けるムエタイ式と、大鎌の如く爪先を振り抜くサバット式では接触した部位を貫く衝撃も大きく異なっている。

 そもそもサバットでは履物自体が一個の武器として扱われているのだ。夜叉美濃が使う競技用シューズも靴底の強度が尋常ではないが、硬い靴を履いた状態で蹴りを入れ、敵を制圧するのが本来の様式スタイルなのである。

 ブルボン朝まで遡る古い時代には靴の爪先に刃物を仕込んで闘う者も少なくなかったと電知も聞いている。現代の競技化されたサバットでは禁じられてしまった技も本場フランスで学んだという夜叉美濃に頼み込み、ナイフを装着した靴で立ち合って貰ったこともあった。

 〝実戦〟の技が首筋を掠めた瞬間などは恐怖と戦慄で全身の血が沸騰し、抑え入れないほど昂ったものである。

 相手の上段蹴りハイキックを右下腕で受け止めつつ、電知自身は反撃の左下段蹴りローキックを放っていた。そこに至る流れまでは両者とも同じであったが、己の脛をぶつけて撥ね飛ばそうと試みたムエタイに対し、サバットの側は硬い靴底に覆われた足裏でもって蹴り返している。

 双方とも軸足と蹴り足を素早く入れ替えながら電知を迎え撃った次第であるが、後者サバットは敵の足技を脛で防ぐと減点されてしまうのだ。〝武器〟による攻撃を生身の部分に受ければ骨折は免れないと戒めていた時代の名残であろう。


「……やっと一年か? もっと短いくらいの付き合いだっつーのにおれの考えてることくらい何でもお見通しって感じだな。ちょっとシャクだぜ」

電知おまえが此処に押し掛けてきたのは去年の夏頃だったっけ。どう姿で腕比べを申し込んでくる武道家が平成にもマジでいるのかって感動したのをハッキリおぼえてるよ。……お陰で前田光世コンデ・コマだけじゃなく森寅雄タイガー・モリの後継者にまで襲われそうになったんだがな」

「……寅のコトは悪かったって。結局、おれが止めたんだから嫌味じゃなくて感謝の言葉を貰っても良いんじゃねーかな」

「それにしたって秋と冬の二回に分けて古い剣道を味わうのはさすがに参ったよ。顔に傷でも付けられたら本業にも差し支えるし」

「ちょっと待て、冬ぅ⁉ 二度目のは知らねーよ! 寅の野郎め、あれだけ説教したってのに効いちゃいね~のか!」

「途中からになったけど、二度目のときはドギツいピンクのバンダナ巻いた連中を引き連れてたしな。……非行少年ワルいコたちのカツアゲの類いなら、お前に連絡回すのはおかしいかなってさ」

「思いっきり『桃色ラビッシュ』じゃねーか! 冬っつったら『E・Gおれら』と揉めてた時期だしよぉ! 夜叉美濃おまえもよ~、変な気を遣わずに言えよ~! あのバカの差し金かどうかは知らねぇけど、おれの友人ダチをやらせようとしてんの見え見えじゃねーか!」


 夜叉美濃の噂を聞きつけ、手合わせを求めてこのジムに乗り込んだのが友情の始まりであったが、このような筋運びでもなければ地下格闘技とホスト格闘技が交わることなどなかったはずだ。

 『不夜城』ではインターバルに選手へスポーツドリンクではなく酒類アルコールが振る回れるなどエンターテインメント性を優先させており、実戦の場に身を置く電知にとっては理解し難い世界である。それでも現在いまは互いの力を認め合って練習相手になっている。


「先週、秋葉原アキバでもデカい騒ぎを起こしたよな、電知おまえの幼馴染み。ぶっとい木刀みたいのを振り回してたヤツ――『天叢雲アメノムラクモ』のMMA選手だってで一方的に絡まれたんだろう? プライベートに口出しするつもりはないけど、友達は選んだほうが良いぞ?」

「……選べたら選んでるっつーの……」

「例の剣道バカ、記憶違いでなけりゃさんじゅくがくえんの生徒だろ? ほうぼうで揉め事起こしてるのに何で退学にならないんだろうな。今時、道場経営ってそんなに儲かるのかねぇ」

「別に〝袖の下〟で首が繋がってるわけじゃねェと思うぜ。寅のトコは親父さんも祖父じいさんも死ぬほど厳しいから――」


 インターネットを中心に拡散され、ここ数日の間はニュース番組のスポーツコーナーも騒がせたげきけんこうぎょうのことは夜叉美濃の耳にも入っていたらしいが、キリサメと寅之助の話題を悠長に語らっている時間もなかった。電知がマットを蹴り付けた直後、再び激しい接近戦が始まったのだ。

 数時間前の試合では「裏切り者」という罵声を聞き流されて激怒したうめのきが眼を血走らせながら電知に突っ込んだ。今、この瞬間の攻防とはさかさまである。

 右拳を直線的に突き込むと見せ掛けておいて命中の寸前に五指を開き、そこから更に半歩ばかり踏み込んだうめのき防御ガードを固めていた電知の首根っこにを引っ掛けようと試みたのだ。

 対の手も同じ部位に巻き付ければ『くび相撲ずもう』と呼称される状態が完成する。これは熊本の道場ジムでバロッサ家が教え広めている古代ビルマの伝統武術『ムエ・カッチューア』にも共通する技法であり、希更は相手の頭を完全の押さえた上で飛び膝蹴りを見舞っていた。

 彼女は最も得意とする必殺技でMMAデビュー戦の相手をノックアウトしたが、うめのきに同じ真似はできない。バロッサ家の一族には身体能力が及ばず、『首相撲』の為に伸ばされていた右腕を両の五指でもって反対に掴み返された挙句、巻き込むような一本背負いでマットに叩き付けられてしまった。

 己の身に起きたことが理解できず、目を瞬かせている間に追撃の鉄拳まで振り落とされていた。連打ではなく渾身の一発のみに留めているが、MMAの『パウンド』と術理が近い。うめのきの頭部はマットに跳ね返って浮き上がっていた。

 一撃で鼻骨が折れたらしく、左右のあなから噴き出した鮮血が顎を伝って胸の辺りまでドス黒く濡らしていた。素手で殴り合うほど過酷な地下格闘技アンダーグラウンドでなければレフェリーが両者の間に割って入り、試合継続の是非を医師リングドクターに尋ねたはずだ。

 この程度の出血で中断されることはないと経験で知っている電知は一瞬たりとも立ち止まらずに追撃を連ねていく。自らもマットへと身を沈ませ、呆けたように倉庫の天井を仰ぎ続けるうめのきの右足首に両の五指でもって喰らい付いた。

 あてと投げ技を巧みに組み合わせ、更には寝技にまで引き込んで相手を仕留める戦法はまえみつが最も得意としたものであり、これらを出発点にして『コンデ・コマ式の柔道』の復古に励んできた電知は応用まで含めて自在に使いこなせる。うめのきの右足に自身の両足をも絡め、足首の捕獲と合わせて膝関節を極めるつもりであった。

 相手の意識に空白が生じた瞬間こそ攻勢を強める好機であり、手足の長短といった埋め難い差を飛び越える可能性もそのような刹那でこそ掴み取れることを今までの実戦経験から電知は熟知している。

 しかし、この模擬戦スパーリングでは彼のほうが翻弄される側であった。

 突進を迎え撃つべく直線的に繰り出された右拳へ己の左拳を叩き付け、を弾き返した電知はサバットの体系に組み込まれていない膝蹴りでもって夜叉美濃の鳩尾を抉ろうと試みたのだが、ホスト格闘技の花形選手は僅かに傾いだ体勢から防御ブロックの状態まで一瞬で整えてしまった。

 電知のあてによって弾かれてはいない左手を繰り出した夜叉美濃は、轟々と突き上げられた左膝に掌底を重ね、人体急所へ到達する直前で堰き止めたのだ。

 刹那の空白はに生じ、これに割り込むような形で夜叉美濃は電知の軸足に両手を伸ばしていく。これに連動して垂直落下の如く自ら身を沈めていったのである。


「――おれに真っ向から投げ技の勝負を挑むなんて相変わらず良い度胸してやがらァ!」


 夜叉美濃が如何なる技を仕掛けようとしているのか、電知は即座に見破った。

 二〇一四年現在にいては手足による打撃のみが〝競技化されたサバット〟で用いられている。夜叉美濃ものだが、靴に刃物ナイフを仕込んだ状態での蹴りを披露するなどブルボン朝まで遡る古い時代の技を本場フランスで体得してきたのだ。

 投げ技や関節技の類いは危険性の高さを理由に現代では反則行為に指定されている。夜叉美濃が仕掛けたのは競技化の過程で封印されていった禁じ手というわけである。


「出たな、『リュット・パリジェンヌ』! 模擬戦スパーリングに大盤振る舞いじゃねーか!」

「言っただろ、『頭が空っぽになるくらい疲れるのが一番』って。中途半端な技で電知を満足させられるとは思っていないぞ」


 電知の叫んだが禁忌の総称であった。

 すぐさま軸足の膝を屈伸させて跳ね飛び、夜叉美濃による捕獲を免れた電知ではあるものの、追撃を恐れて後方うしろ退すさるようなことはない。そのまま側面まで回り込み、着地と同時に右の中段蹴りでもって風を薙いだ。

 我知らず顔が綻んでしまうような模擬戦スパーリングを通して調子が戻り始めたのだろう。反撃に転じるまでの動作うごきは夜叉美濃が上体を引き起こすよりも遥かにはやい。即ち、電知は防御も回避も完了し得ない側頭部に狙いを定めているわけだ。


「ノッてきたじゃないか、電知! そうこなくちゃこっちも調子が出やしない!」


 あるいは着地を待たずに腰を捻り込み、空中で蹴りを放っていたら待ち構える結果が変わっていたかも知れない。左足一本でマット上に立つ夜叉美濃は真横から吹き付けてくる風が頬を撫でる前に上体を大きく反らしたのである。

 改めてつまびらかとするまでもないことだが、電知の蹴りは夜叉美濃の頭部あたまが在ったはずの場所を虚しく通り過ぎていった。

 電知の姿勢が大きくのは蹴り足を引き戻している最中のことであった。対する夜叉美濃は彼に臀部を向けながら左足一本を軸に据え、我が身で丁の字を表すような恰好となっている。

 互いの右足が空中ですれ違ったとき、突き込むような形で繰り出された夜叉美濃の蹴りは電知の左太腿にめり込んでいた――錆一つない歯車の如く緊急回避動作と反撃が完全に噛み合い、相手の軸足を軋ませたわけだ。

 夜叉美濃の右足裏は足の付け根辺りに命中している。攻防一体の妙技に加え、リーチの長さまで生かし切った一方的な狙撃を受けては電知にも重心の維持が難しく、危うく尻餅をつくところであった。

 身体からだの支えを引き抜かれたような状態のまま両足でもってマットを強く踏み締め、傾いた上体を撥ね起こすことによって横転を免れた電知であったが、その一瞬だけ意識に僅かな空白が生じてしまった。

 この状況は前田光世コンデ・コマあてを有効な戦術の一つとして取り入れ、極めた理由にも通じると電知が悟ったときには、もはや、夜叉美濃の体当たりは眼前まで迫っている。

 正確には全体重を乗せて小さな身体を撥ね飛ばすことが目的ではない。電知の正面に背中を押し当てるとじゅうどうの襟を巻き込むような恰好で首を右脇に抱えたのだ。対の五指が彼の左手首を掴んだタイミングと殆ど同時である。

 言わずもがな『リュット・パリジェンヌ』の一種である。ほんの一瞬でも付け入る隙があれば、夜叉美濃とサバットには十分というわけだ。


「真っ向から組技勝負を挑んでも前田光世コンデ・コマの技に後れは取らないさ。〝本物〟のサバットは総合格闘技なんでもアリなんだからな――」


 左腕全体を外側へと引き伸ばし、これと同時に右足で電知の両足首を一気に刈り取ってしまえば間違いなく降参ギブアップを引き出せると夜叉美濃は確信していた。

 幾ら『コンデ・コマ式の柔道』が寝技に長けていようとも、うつ伏せの状態で組み敷かれてはマットの上を滑ることさえ難しいはずだ。電知の体勢も左右の手で自由自在に変えられるので、思い通りの形に押し倒した後も追撃の選択肢が豊富に用意されている。

 左腕の関節を極めるのも首を絞めるのも意のままであり、電知には為すすべもない――今し方の攻防はそのように完成されるはずであった。

 電知の首と左腕を押さえたまま油が切れたブリキ細工の如く止まってしまったのは、今まさに引っ掛けようと狙いを付けていた足が左右ともマット上から掻き消えた為である。

 胴を軋ませる圧迫感が夜叉美濃を押し止めたといっても過言ではないだろう。内臓を圧し潰さんばかりに食い込んでいることがタンクトップの上からでも分かるほど電知の両足に強く挟まれているのだ。

 傍目にはユーカリの樹に張り付いたコアラのように見えなくもないが、実際には強靭なハサミでもって得物を咥え込んだクワガタムシと同じである。胸部よりやや下で自身の足先を組み合わせ、右踵を鳩尾へ押し当てることも忘れてはいない。胴体中央の窪みを襲う鈍痛は数分と経たない内に一時的な呼吸困難を引き起こすだろう。

 何とも艶やかな呻き声が夜叉美濃の口から滑り落ち、リングサイドで模擬戦スパーリングを見守っていた人々は男性も女性も恥じらうように目を逸らしてしまった。背徳的な気持ちを駆り立てる音色に聞こえたようである。


「……西さいごうろうの〝タコ足〟に対して、空閑電知のカニバサミってか。一瞬で決めきれなかったとはいえ、厄介な状況にもんだ。そういや、西郷四郎も電知おまえと同じように小柄な柔道家だったな」

「勘弁してくれよ。おれを西郷大先生と比べるなんてそんな……恐れ多くて仕方ねぇぜ」


 己と横並びの如く扱われた名前に対し、電知が似つかわしくないほど恐縮してしまったのは無理からぬことであろう。

 西さいごうろう――それは柔道を志す者にとって神聖な名前であった。

 幕末維新の大転換となる王政復古の大号令から遡ること一年――それからときを置かずして内戦の舞台となるけいおう二年のあいはん・志田家に生をけ、同藩で家老職を務めていた西さいごうたのから武士ならばげんぷくという年頃で養子に迎えられたその男は黎明期の講道館へ入門したのちに明治日本最強の柔道家と称されるようになった。

 やましたよしつぐとみつねろう、そして、前田光世コンデ・コマの師匠筋であるよこやまさくろうの三名と共に講道館の歴史へ四天王と刻まれている。結果的に袂を分かつことになったものの、誰もが嘉納治五郎の後継者と信じて疑わなかった達人である。

 一六〇センチにも満たない小柄な体躯を思えば、『小さな巨人』といったところであろうか――今でこそ〝我流〟の色を濃くしているものの、講道館柔道を原点としている電知にとっては幾ら敬っても足りないほどに大きな存在であった。

 西郷四郎が最も得意とした幻の秘義『やまあらし』には電知も柔道を習い始めた頃から憧れ、上半身と下半身がそれぞれ性質の異なる所作うごきを同時に行うことで初めて完成すると記した教本通りに再現を試みた末に「西郷の前に『やまあらし』はなく、西郷の後に『やまあらし』はなし」という嘉納治五郎の言葉が意味することを悟ったのである。


夜叉美濃おまえに使ったコトなかったっけ? 『かにばさみ』っつう技は別個で既にあるよ。体勢は似てるけどな、こんな小細工と伝説の〝タコ足〟を一緒になんかできねぇよ」


 大それた挑戦であったと己の不足を恥じた過去があるだけに他者から西郷四郎の〝タコ足〟に並べられてしまうと、森寅雄タイガー・モリの名を口にするたびこうべを垂れる寅之助と同じように天を仰ぎたくなって仕方がないのだ。

 片側の袖と襟を掴みつつ背負い投げにも似た動作へと移り、同じ側の後ろ足でもって相手の足首を払うことができなければ『やまあらし』は成り立たないという。対峙する人間の身を担いだ状態から足元を攻めるわけだが、下肢の所作うごきは〝タコ足〟なくして真価を発揮し得ないと嘉納治五郎は伝えたかったのかも知れない。

 夜叉美濃も口にした〝タコ足〟とは西郷四郎の身体的特徴をたとえた言葉である。畳を強く踏みしめればタコの吸盤の如く吸い付いて離れず、同じ講道館四天王であっても彼を投げ倒すことは容易ではなかったそうだ。

 常人離れした足指ゆびの力で相手の足首を掴み、急激に傾けるという上半身の所作うごきと連動させてを撥ね上げる――あいばんだいさんから吹き付けるおろしを体現するかのような秘義は、それ故に西郷四郎以外には極められなかったのである。


「……おれは『姿すがたさんろう』にはなれねぇさ」

「お~い、本当にどうしたんだ? 今日の電知はどうにも〝らしく〟ないぞ。お前が目指してるのは前田光世コンデ・コマだろ? とみつねの小説なんかじゃないだろ? 西郷四郎本人も超えるつもりで行けって」

「分かってるって、うるせェなぁ。耳元で大声出すなっつの」


 『姿すがたさんろう』とは富田常次郎の息子にして昭和の文豪――富田常雄が手掛けた流行小説とその主人公の名称であり、他ならぬ西郷四郎がモデルとなっていた。

 文豪の創作意欲まで駆り立ててやまない〝伝説〟の重みを同じ柔道家として理解していればこそ、夜叉美濃から掛けられた称賛ことばにも電知は恐縮し続けているわけだが、模擬戦スパーリングの相手の胴を両足でもって挟むというただ一つの動作のみでサバットの禁じ手を封じ込めたのは紛れもない事実である。

 現在の夜叉美濃は腰から背中までの可動域を脚力一つによって物理的に押さえ込まれているのだ。

 仮に肋骨の辺りを直接的に締め込まれていたなら、今頃は両側から〝何か〟の破断する音が聞こえていたはずだ。それ程までに強靭な足が己の身を振り回すだけで外れてくれるとは夜叉美濃も考えていない。

 首か左腕か、あるいは両方か――両手でもって電知の足を掴み、を引き剥がすくらいの手立てしかないわけだが、相手は『コンデ・コマ式の』の使い手である。上半身が自由を取り戻した瞬間に夜叉美濃の首へと自身の両腕を巻き付け、絞め技でもって反撃を仕掛けることだろう。

 自ら後方に身を放り出し、小柄な電知を押し潰すという選択肢が脳裏をよぎったものの、それは相手に好機を差し出すことにも等しいのだ。古い時代のサバットにも相手を組み敷く技は存在するが、柔道の寝技へ真っ向勝負を挑むのは余りにも危うい。

 何しろ電知は現時点にいても右腕は自由に動かすことができる。夜叉美濃がマットへと身を投げたとしても片手一本で後頭部を庇い、致命傷を免れるや否や絞め技あるいは関節技へ転じることだろう。

 『リュット・パリジェンヌ』の一種ひとつを瞬時に完成させられなかったが為に攻め手を封じられてしまった夜叉美濃と、たった一つの技で形勢を引っくり返した電知――両者とも迂闊に動けない拮抗状態へ陥ったからこそ西郷四郎にまつわる会話を差し挟むことも叶った次第である。

 強引に上体を傾け、前方へ投げ落とそうとしても電知は落下の最中に体勢を整え、左右の足で巧みに着地してしまうはずだ。得意の投げ技か、腕を捻り上げるような関節技か。いずれにしても反撃は免れまい。

 果たして、夜叉美濃の勘働きは鋭かった。次なる出方を確かめようと両腕の力をほんの少し緩めた直後、彼の身は空中に撥ね上げられてしまったのである。

 まさしく電光石火の反撃であった。首と左腕の拘束を振り解くや否や、胴に巻き付ける状態を維持したまま電知も両足の力を緩め、時計の針とは逆回りに腰を捻り込んでいく。

 相手を一本の支柱はしらに見立て、ここに通された輪の如く我が身を回転させたのである。

 互いの顔を至近距離から見つめ合う恰好となったがほんの一瞬では視線を交わすことも不可能であったはずだ。左右の五指にて夜叉美濃の両肘辺りをそれぞれ掴んだ電知は、己の身を後方へ放り出すと同時に右足裏をタンクトップの上から腹部に押し当てた。

 リングサイドの人々には柔道の『巴投げ』と見えたであろうが、膝の屈伸によるバネを生かして後方へ投げ飛ばすことはない。両手と片足でもって夜叉美濃の身動きを制したまま電知は互いの身体を車輪に見立ててマットの上を転がり始めたのである。

 相手の背中を連続して痛め付け、同時に強烈な遠心力で脳を揺さぶるという変則的な技であった。しかし、これは電知にとって勝敗を決する局面で繰り出す必殺技なのだ。


「――西郷四郎も『姿すがたさんろう』も超えろとハッパ掛けたけど、コレは前田光世コンデ・コマの技じゃないだろ。てゆーか、さすがにコレは前田光世コンデ・コマと関係ないだろ? 全然無関係だろ? 前からツッコミたかったから今、ツッコむぞっ!」

「何度も同じようなコトを繰り返すな! おれにだってオリジナルの技もあるわい!」

「オリジナルって言い切っちまうと問題あるんじゃないのォ――」


 リングサイドで模擬戦スパーリングを見守っているパンギリナンも一度はこの技に苦しめられ、キリサメでさえ路上戦ストリートファイトでは失神寸前まで追い込まれていた。全体重を乗せて踏み付ける形となる為、揺り籠を真似た遊戯おあそびのように見えて横隔膜への圧迫は極めて効果が高いのだ。

 尤も、標的と技との相性を見誤った場合には最大の攻撃力など望めはしない。二人して組み合ったままマット上に斜線を引くかのように転がり続け、四方に立つ支柱ポールの一本へと辿り着く寸前、夜叉美濃の身体が電知から引き剥がされたのである。

 回転の最中に己の背中が天井を仰ぐ状態となった夜叉美濃はこれこそ脱出の好機と見極め、左右の足でもってリング全体が軋み音を立てるほど強くマットを踏み付けたのだ。当然ながら電知は技の拍子を崩され、両者に働いていた遠心力まで断ち切られてしまった。

 車輪さながらの回転が強引に堰き止められると相応の反動が作用するものであり、夜叉美濃の肘に食い込んでいた指の力も少しばかり弱まった。打撃系立ち技格闘技として広く知られているサバットの使い手でありながら、『リュット・パリジェンヌ』をも極めた者としてMMAルールでホスト格闘技に出場エントリーしている花形選手には肘への拘束が緩むだけでも十分というわけだ。

 ほんの一瞬だけ訪れた静止状態を見逃すはずもなく、マットを踏み付けた直後には膝のバネをも引き絞り、電知の両手を振り解くようにして後方へと跳ね飛んだ次第である。

 腹部に片方の足裏が宛がわれ、これによって身体からだも浮き上がってはいたものの、両者の間には如何ともし難いリーチの差がある。電知どころか、余人と比べても長い足がマットまで届かないはずもなかった。


「それじゃ、お待ちかねの『パルチザン』、全力で行くぞッ!」


 コーナーポストとは反対側へ着地した夜叉美濃は、上体を引き起こした電知が追撃を仕掛けてくることを確信するなり今し方の軌道を逆に辿る形で再び跳ねた。それまでの縦回転から横回転へ切り替えつつ、生じた勢いに乗せて右足を後方目掛けて繰り出していく。


「さも当たり前みてェにウソっぱちの技名なまえを使うなっつの! 大体、『パルチザン』ってゲリラとか槍っつう意味だろ? それとサバットには何の関係もねぇってお前、自分でバラしたじゃね~か!」

「サバットの回し蹴りはパルチザンみたいに鋭いんだから間違っちゃいないさ」


 追い縋ってくる相手の顔面に強烈な一撃を見舞う後ろ回し蹴りを夜叉美濃は『パルチザン』などと称していたが、左右の下腕を重ね合わせて防御ガードした電知の言葉から察するにサバット本来のわざではなく、夜叉美濃が独自に名乗っているだけであるらしい。


(――だけど、これが格闘技ってヤツだよ! 所属団体とかしがらみなんざ関係なく、スカッと晴れた青空みてェに自由でなくっちゃ腕比べも面白くねぇよ!)


 骨にまで響いた後ろ回し蹴りパルチザンの余韻と共に電知は、今し方の攻防が己の負けであったことをこの上なく愉しげに噛み締めていた。

 柔道家としての経験と勘働きから『リュット・パリジェンヌ』の一種ひとつを封殺し、車輪とも歯車ともたとえるべき回転の内側に巻き込んでおきながら報復しかえしとばかりにこれを外され、あまつさえサバット式の後ろ回し蹴りパルチザンによる反撃まで許してしまったのである。

 もはや、本調子であるか否かは言い訳として通用しない。夜叉美濃との模擬戦スパーリングを通して復帰戦での気鬱も晴れ、今は拳の語らいを純粋に楽しめている。

 復帰戦の相手――うめのきとの対峙とはあらゆる意味で真逆であった。

 依然として夜叉美濃の隣で蠢く幻影まぼろしは電知と組み合うことさえ叶わなかったのである。ムエ・カッチューアと共通する『首相撲』もついに完成させられなかった。

 『首相撲』をかわした電知は一本背負いでもって投げ落としたうめのきの顔面へMMAにけるパウンドの如く鉄拳を叩き込んだ。稲光さながらの勢いで振り落とした一撃は相手の意識を朦朧とさせるには十分であり、その上で膝関節を極めようと試みたのである。

 カラーギャングから地下格闘技アンダーグラウンドへ転向したばかりの新人選手ルーキーとはいえ、うめのきも決して弱いわけではなかった。寝技に持ち込まれる寸前で身を転がし、柔道家による〝捕獲〟から逃れつつ素早く立ち上がって反撃の回し蹴りまで放った。

 ムエタイという打撃系立ち技格闘技を専門にしているとは思えないほど寝技への対処が的確であった。しかも、完全には意識が回復し切らない状況下での反応と判断である。そこに決して短くはない格闘経験が透けて見えるようだ。

 尤も、うめのきの善戦はそこまでだった。マットと頭部を挟むような鉄拳によって「試合の場で殺されるかも知れない」という恐怖も刻み込まれていたが、何よりも『首相撲』を完成できなかったことでムエタイ経験の自信が揺らいでしまったのだろう。再び電知と向き合った顔には激しい動揺を貼り付けていた。

 様式スタイルの差異こそあれども同じ足技キックを得意とする格闘技の使い手でありながら、で夜叉美濃とうめのきの間に決定的な差が開いたといえよう。

 サバットとムエタイの違いとは関係ない。夜叉美濃とならば高い次元で組技の稽古を突き詰めることができる。それは『コンデ・コマ式の柔道』を志す電知にとってこの上なく幸せな出会いであった。

 だからこそ電知は浅草から歌舞伎町のジムへ自転車ママチャリで赴き、自身が所属する地下格闘技アンダーグラウンドとは関わりのないホスト格闘技の夜叉美濃と稽古や模擬戦スパーリングを共にしているのだ。

 格闘家同士の交流などそれくらいで良いはずだ――と、ムエタイ式の回し蹴りを手刀でもって叩き落とした瞬間を振り返りながら電知は心の中で吼えた。

 前田光世コンデ・コマという偉大な名前を金儲けの興行イベントの看板に掲げようと企んだ『天叢雲アメノムラクモ』に対する怒りは未だに鎮まってはおらず、最高責任者である樋口郁郎には殺意といっても過言ではないほど善からぬ感情を抱いている。

 それでも電知は『天叢雲アメノムラクモ』と契約したキリサメを親友と呼ぶことに躊躇はない。これまで味わったことのない戦慄を教えてくれた力量ちからを認め、何事にも無感情のように見えて実は義理堅く大真面目な人柄を好きになったのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の間に横たわる敵対関係へ拘泥する余り、間違いなく己を高めてくれるだろう相手を評価できないことこそ闘いの場に立つ人間にとって最大の不幸とさえ電知は考えている。

 単純明快を信条とする電知には自分が誰かを認めたいというときに所属団他の思惑を判断の指標に据える意味が分からない。それ故に「何かがおかしい」と『E・Gイラプション・ゲーム』の変貌に憤っているのだ。

 今や日本の格闘技界全体がおかしくなっているようにも思えた。幼馴染みと親友が〝げきけんこうぎょう〟を繰り広げた夜に突如として行われたあつミヤズの緊急生放送番組は如何なる好意的解釈も成り立たない暴挙であろう。

 深夜に受信していた左右田からの緊急連絡メッセージを翌朝になってようやく確認した電知は寝癖を整えることも忘れて自転車ママチャリに跨り、浅草から下北技の八雲道場へ急行したのである。

 丁度、希更・バロッサも駆け付けたところであったのだが、二人揃って確かめたキリサメの表情かおを電知は二度と忘れることができないだろう。

 自分のことを『天叢雲アメノムラクモ』の一員として迎え入れてくれた樋口郁郎に義理を立てようというのか、故郷ペルーでのことを客寄せの道具として利用されたことを怒るでも嘆くでもなく、いつも以上に感情のない声で「それでも僕にはやるしかないから」と述べていたのだ。

 平気であるよう装うことで、何かの拍子に決壊してしまいそうな感情を押し殺しているようにしか見えなかった。

 希更のほうはキリサメの隣に座りながら真っ赤な顔で俯き続ける未稲へ「ひょっとしてナニかあったの? ナニがあったの?」と執拗に纏わりついていたが、電知は一瞬たりとも親友から目を離さなかった。

 あつミヤズはくだんの番組にいてキリサメ・アマカザリという新人選手ルーキーが法治国家日本では断じて許されない犯罪行為を繰り返し、格差社会の最下層を生き延びてきたことを暴露しただけでなく、人殺しの経験まで持っているのではないかと匂わせていた。

 暴き立てられた過去を知った親友が自分のもとから離れていくのではないかと、いつもより瞼が閉ざされている双眸に問い掛けられたのだ。

 それが電知には忘れられなかった。だからこそ、あつミヤズの暴走を何も知らされていなかったという岳に理不尽と承知しながら「ケジメも取らずにキリサメの養父オヤジなんて名乗るんじゃねぇよッ!」と食って掛かってしまったのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』という団体に対する怒りは、自分のことを内通者や裏切り者などと罵ってくるうめのきたちより遥かに激しく、天を焦がさんばかりに逆巻いているのだ。


「――尤もらしいどうで誤魔化したって、所詮はあんたもアマカザリってヤツと何も変わらねぇよ! 薄汚い真似しか能がないクセして真っ当な格闘家を気取るなッ!」


 あつミヤズひいてはこれを背後で操ったという樋口郁郎の暴挙から数日後に臨んだ復帰戦でも電知は親友キリサメのことを侮辱されてしまったのである。

 くだんの緊急生放送番組を視聴したらしいうめのきが負け惜しみ同然で絞り出した一言であったのだが、電知にはどうあっても聞き流せるものではない。これに同調する者たちの喚き声をもまとめて黙らせるよう一等強くマットを蹴り付け、怒りに任せて〝敵〟の懐へ飛び込んでいった。

 電知を罵る者たちも彼を応援する者たちも、双方とも息を飲んで瞠目してしまったのはその動きが電光石火の四字をもってしてもたとえられないほどのはやさに達したからだ。

 歌舞伎町のリングに立つ電知もうめのきの幻影を視界に捉えながら同程度のはやさで夜叉美濃に突っ込んでいく。尤も、の場合は中間距離を掌握しているサバットの射程範囲を打ち破るという具体的な作戦に基づいた行動であって破れかぶれなどではない。


(そういや、うめのきを仕留めたときにおかしな現象が起きたっけ――)


 迎撃の為に突き上げられたうめのきの左膝を自身の右掌で防御ブロックし、拳を握り締める時間もないまま同じ側の掌底を叩き込む――不意に復帰戦最後の攻防が電知の脳裏をよぎった。

 鳩尾を抉られたうめのきは身体を折り曲げて悶絶したが、逆鱗に触れた相手をその程度で許すつもりもなく、電知は対の左掌をも突き込んだのである。

 激情に衝き動かされて心身とも前のめりになっていた為、一撃目を引き戻すよりも早く二撃目の掌底が追い付いてしまった。即ち、うめのきの鳩尾に接触した状態で左右の手が重なり合ったのだ。

 その直後、うめのきは声にもならないような悲鳴を漏らしながら白目を剥き、意識を失った状態でマットに崩れ落ちてしまったのである。

 想定を上回る威力が人体急所を貫いたことは足元で泡を吹くうめのきを見れば瞭然だが、電知自身にも何が起きたのか、皆目見当が付かなかった。掌底によるあてを連ね、偶然に重なってしまった――細かく検証しようにもでしかないなのだ。本人すら気付かない内に人体へ作用する破壊的な超能力に覚醒めざめたというわけでもあるまい。


(二つのあてを同時に重ねる感じだったよな――)


 我ながら露骨あからさま過ぎると苦笑いを浮かべつつ、電知は左右の手を掌底突きの形に変えた。うめのきが崩れ落ちた瞬間と同じ現象を再現しようというわけだ。正面切って相手に突進していく状況も酷似しており、体格差などを除けば条件は一致している。

 マットを蹴り付け、夜叉美濃の懐へと飛び込んでいく――己の肉体が意識を追い越してしまうほどのはやさを爆発させ、右掌によるあてを突き入れた。

 うめのきと夜叉美濃の間で差が開いていたのは体格だけではない。後者の反応速度は前者を引き離しており、今度の掌底突きは急所を穿つ前に防がれてしまった。互いの掌を重ね合わせることで受け止めるようとしたらしいが、余りのはやさに間に合わないと判断して左下腕による防御ガードへ切り替えたのである。

 しかし、電知は止まらない。一撃目で強引に押し込み、胸板と密着する格好になった左下腕へ二撃目の掌底突きを叩き込んだ――幻影を穿った瞬間のように一撃目と全く同じ部位に二撃目が追い付き、左右の手が重なっていた。

 防御ガードされたことで技の拍子は僅かに乱れたが、電知が試みた通りに先程と同じ現象が起こったのであろう。うめのきのように意識を断ち切られて崩れ落ちることはなかったものの、後方うしろによろめいた夜叉美濃は激しく咳き込みながら右手でもって胸元を擦るしかなく、サバットの足技も完全に途絶えている。

 咳の一つ一つにも色気のようなものが宿っており、リングサイドの人々は先程と同様にパンギリナンを除く誰もが恥ずかしそうに目を逸らした。


「落ち込みモードから急に新技発表会に切り替わったのか? 何だ、今のは……」


 ダメージそのものを自覚しながらも己の身に起きた現象ことは全く理解できていない表情である。胸に宛がった右手と防御ガードに用いた左腕、重なり合ったままの両手を凝視しながら立ち尽くす電知の顔を代わる代わる見つめた夜叉美濃はそのたびに首を大きく傾げた。


「やっぱし自由で良いんだっ! 格闘技ってのはよォッ!」


 歌舞伎町界隈でも特に変わった理由で名前が知られているホストは、左右の掌を覗き込みながら〝何か〟を噛み締めるように首を頷かせていた電知が素っ頓狂な叫び声と共にいきなり握り拳を突き上げたことで更なる混乱に導かれた。

 当然ながら質問に対する直接的な答えになっていない。それどころか、間接的にも回答として成立していない。今までに見たことのない新たな技でも編み出したのかと夜叉美濃はたずねているのだが、当の電知はマット上で飛び跳ねるくらい一人で浮かれているのだ。

 〝若〟の様子をリングサイドで見守っていたパンギリナンに目を転じ、互いの顔を見合わせた夜叉美濃は意味不明とばかりに揃って首を傾げるのだった。


「そうだよ、こいつは新技だ! 試験段階だけどな! そいつがホストとってる間に限りなく完成に近付いた! 地下格闘技アンダーグラウンドでも柔道でもないヤツが花開かせてくれた! それが一番大事なんだ! 狭い世界に閉じこもったままじゃどんな闘いも自己満足で終わっちまうんだよ! おれは楽しい格闘たたかいがやりてぇッ!」


 格闘たたかいとは何よりも楽しい――電知の雄叫びは混乱から立ち直っていない夜叉美濃にも理解できるものであった。だからこそ、納得して首を頷かせたのである。

 世界中を経巡って各地の猛者たちと異種格闘技戦を繰り広げ、やがてはブラジリアン柔術の祖となった前田光世コンデ・コマは、二〇〇〇回以上も闘って無敗という空前絶後の伝説もあってこんにちでは〝戦いの申し子〟の如く畏怖されることも多いが、当時の史料を紐解けば彼ほど人生を楽しんだ武道家も珍しいくらいであった。

 ただひたすらに精神を研ぎ澄ませ、世界最強への道を求道者の如く突き進んだ――現代の人間が覗き込む印象イメージとは裏腹に旅の出来事や異種格闘技戦の内容を滞在先から日本の雑誌『ぼうけんかい』へたびたび寄稿している。

 は日本SF界の父と称される文豪――おしかわしゅんろうが編集長を務めた〝らくよみもの〟である。明治後期から大正初期にかけて刊行された同誌は冒険小説やスポーツ記事、旅行記など大衆文化の色が強く、前田光世コンデ・コマも厳めしい筆致どころか、小粋な調子で冗談めいた話を披露していたのだ。

 強さを求める余り〝人間らしさ〟を捨てた修羅であるどころか、むしろ軽佻浮薄チャラい――冒険心が何にも勝る子どものように無邪気な一面を夜叉美濃は記憶に留めている。無論、それは電知から教わったことである。

 前田光世コンデ・コマは日本からブラジルへ移り住んだ人々と共にアマゾンの開拓にも尽力したが、時代背景からもたらされた使命感以上に純粋な冒険心が疼いたに違いない――そうした話を電知に聞かなければ、修羅としての印象イメージが刷り込まれたままであったはずだ。


「オレには電知おまえがコンデ・コマの生まれ変わりみたいに思えてきたよ。それに楽しくなければ意味がないというのも全面的に賛成だし」

「西郷四郎大先生の次は前田光世大先生⁉ しかも、生まれ変わりィ⁉ ホストはおだて上手でなけりゃ務まらねぇだろうけど、幾らなんでもやり過ぎだぜっ!」

「照れながら言っても説得力ないぞ、電知。ナイーブな少年が塞いじゃったときは褒めて褒めて褒め倒すのが一番ってね」

「オチをつけたら意味ねぇよ! 木に登る豚じゃねぇんだからっ!」


 生涯の目標として尊敬している人物の生まれ変わりとまで讃えられ、耳まで赤く染めた電知に教わらなければ夜叉美濃も知らないままでいただろうが、前田光世コンデ・コマは明治に誕生したスポーツの社交団体『てん』の一員メンバーであった。

 明治日本の青春を彩り、若かりし頃のまさおかをも夢中にさせた野球などのスポーツを愛好し、これを通じて小説家、劇作家、画家、新聞記者など各界の人々が交流を深める――それがおしかわしゅんろう主催の『てん』である。スポーツ評論の発祥を同団体に求める声も少なくない。

 日本で初めてオリンピックに挑戦した短距離走者も『てん』の一員メンバーである。

 前田光世コンデ・コマは世界に旅立った後もスポーツを愛する友人との繋がりを大切にし続け、『ぼうけんかい』への寄稿でも祖国の〝天狗〟たちを気遣っていたのだ。

 サバットを志している夜叉美濃にも前田光世コンデ・コマは愛すべき人物であり、〝天狗〟の横顔に電知が重なって見えるのだ。おどけた調子で冷やかしはしたものの、無闇に褒めちぎったわけではない。率直な気持ちが口をついて出た次第である。

 『てん』の活動にはたらとしか表しようがない内容も多く、民家が立ち並んでいようが川が流れていようが何もかも無視して一直線に突き進む競技も行われていたと伝わっている。〝天狗〟の如く常軌を逸した行動力もまた前田光世コンデ・コマと電知に共通するものであろう。


とくさんぽう大先生も講道館にいながら海の向こうのすげェ奴らと渡り合ったんぜ⁉ 小せぇコトばっか気にして内に内にと籠ってばっかりな『E・Gイラプション・ゲーム』も少しは見習えっつの!」

「徳三宝をお手本みたいに言うのは問題アリじゃないか? オレの記憶が正しければ、自由奔放過ぎて嘉納治五郎から破門された人だろう。冒険心と似て非なるものだよ」

「それが真に自由ってコトだろ! 天衣無縫の極みだぜ! ていうか、徳大先生は破門を許されて講道館に復帰してるから! 永久追放みてェに勘違いしてくれるなよっ!」


 前田光世コンデ・コマがブラジルに辿り着く二年前――日本人が初めて夏季五輪オリンピックに出場し、元号が明治から大正に改められた西暦一九一二年のことである。

 ブラジルの腕自慢一五人が講道館へ道場破りに訪れるという事件が起きた。

 いずれも無作法な荒くれ者ではない。前田光世コンデ・コマより早く地球の裏側に渡り、同国ブラジルにて日本の古流柔術『てんじんしんようりゅう』を教え広めていた男の手解きを受けている。紛れもない柔術家たちであったのだ。

 異邦人の道場破りとはいえ、若き日の嘉納治五郎が修め、講道館柔道の起源ともなった『てんじんしんようりゅう』の柔術家には違いなく、門前払いという無礼を働くわけにはいかない。柔道家の誇りが懸かった状況で勝負に応じ、一五人全員を瞬く間に平らげてしまったのが当時の講道館にいて最強とも『鬼』とも畏怖されていたとくさんぽうである。

 三宝なまえの読み方は「みたか」ともいい、如何なる技を仕掛けられても決して姿勢を崩さない巨躯からだになぞらえて「一本杉」なる異名が付けられていた。

 ブラジル人柔術家たちとの一戦から更に遡ること三年――明治四二年の夏にも徳三宝は異邦人との闘いを経験している。

 折しも明治後期の日本では柔道と拳闘――即ち、ボクシングとの異種格闘技戦が盛んに執り行われていた。

 明治四二年は嘉納治五郎の甥・健治が日本に於ける拳闘ボクシングの技術習得と普及を目的とした倶楽部――日本初のボクシングジムという――を旗揚げした年でもあるが、開催された興行の多くは寄港中の欧米艦隊から拳闘ボクシングに心得のある乗組員を招き、これを日本人柔道家が迎え撃つという形式であった。

 明治の終わり頃にはさかきばらけんきちが始めた撃剣興行は完全に廃れてしまっていたが、〝柔拳試合〟とも称される興行は日本人と外国人がそれぞれの様式スタイルで立ち合う物珍しさもあっておお流行はやりとなった。

 勿論、問題がなかったわけではない。同年五月――近代劇場として名高いしんとみいて隔週で開催された興行は日本人柔道家の力闘も虚しく観客から八百長と罵倒されるほど消化不良の内容に終わってしまった。

 日本柔道の強さを世界に示すどころか、講道館の威信が地に落ちるのではないかと懸念する声まで上がり始め、とうとう最終兵器たる徳三宝に参戦が要請されたのである。

 説得に押されて徳三宝が臨んだ〝柔拳試合〟の舞台は、かつて榊原鍵吉が〝撃剣興行〟を催したのと同じ浅草であった。

 町のならず者を相手に路上戦のようなことを繰り返す荒々しい性情を大恩ある師匠・嘉納治五郎から幾度となく諫められていた為、参戦自体にも慎重であったが、ひとたび、闘いの場に立てば『鬼』とも恐れられた魂が自然と奮い立つ。居並ぶ外国人ボクサーを一人残らず投げ倒し、講道館柔道こそ天下無双と世界に知らしめたのである。


「改めて言っとくぜ⁉ 徳大先生のスケールもおれの理想なんだ! 世界を相手に闘った一人なんだよ! おれもブラジル艦隊を向こうに回して思いっきり暴れてぇ~!」

「電知の柔道家トークは耳タコだって。ブラジルの道場破りの件はやっぱりマズかったんじゃないの? 徳三宝に憧れるのは構わないけど、世界へ撃って出た後に警察のお世話になるような試合だけはやらかすなよ。道場じゃなくて旅先の国から追い出されるぞ」

「前田光世大先生も! 『野中の一本杉』も! おれには自由の象徴だぜッ!」


 荒々しい憧憬と共に徳三宝の歩みを振り返る電知であったが、年下の友人から講道館最強の逸話を飽きるほど聞かされ、昭和二〇年三月一〇日の最期まで把握している夜叉美濃が指摘した通り、地球の裏側から講道館へ来襲したのはではない。〝柔拳試合〟に駆り出された欧米の水兵と同じように遠洋航海の最中に寄港したブラジル東洋艦隊の乗組員であったのだ。

 を受けて、道場破りを返り討ちにするという講道館の日常茶飯事が国際問題にまで発展してしまったのである。「徳三宝に片膝を突かせただけでも勝利に等しい」とさえ謳われる強さが却って仇になったのだ。

 マラソンのかなくりそう、短距離走のしまひこ――たった二人の出場選手オリンピアンと共に選手団長として開催地であるスウェーデン・ストックホルムへ渡った嘉納治五郎は、この時期に平和の祭典とは正反対の事態に頭を悩ませていたのである。

 一九一二年といえば開拓移民たちがブラジルへ渡り始めたばかりの時期でもあった。日伯関係を拗れさせるわけにはいかず、講道館の威信を守った功労者であるはずの徳三宝を追放せざるを得なくなってしまったのだ。

 実際には破門・追放ではなく謹慎を言い渡されたのみとも伝わるが、いずれにせよ講道館への復帰までには六年もの歳月を待たなければならなかった。


「……今夜の興行イベントは自由とは正反対だった――ってか?」

「やっと吹っ切れそうってなタイミングで水を差すなよ、夜叉美濃ぉ~」

「水を差すつもりはないが、友人として釘は刺しておくよ。……『桃色ラビッシュ』とかいう例のカラーギャングを甘く考えないほうが良いぞ。抗争で打ち負かした『E・Gおまえら』がアゴで使ってるって話も聞いたけど、元々が無分別な非行少年ガキどもだ。しかも、今は後ろ盾になってた『甲龍会ヤクザ』にも首輪を外されてる。聞き分けが良いフリして喉笛に噛み付くタイミングを計ってるだけかも知れないぞ?」

「な、なんでお前がそんなに訳知り顔なんだよっ」

「眠らない街ってのは遠くから眺めている分には華やかだけど、ドギツいネオンライトの影が薄汚いモンを隠してるだけだからな。〝裏〟の社会の風聞ウワサも自然と流れ込んでくる。気取った言い回しになるが、だよ」

「……それでもよ、カラーギャングから地下格闘技アンダーグラウンドに挑戦したいと思ったうめのきの心意気は大事にしてやりてェんだ。今回は上手くいかなかったかもしれねぇよ? でも、次は良い具合に転がるだろうさ。いいや、おれの手で転がしてみせる!」

「それが電知の良いトコだよ。……これから先もずっと大事にしてくれ」


 常に前向きであるよう友人を鼓舞しながらも夜叉美濃の双眸はリングサイドに立つパンギリナンへと向けられている。

 人から裏切られることも恐れないほど直向きな少年は周囲まわりの〝大人〟が守っていかなくてはならない――夜叉美濃の瞳はそのように物語っている。その意図おもいに気が付かないパンギリナンではなく、に諭される以前まえから心得ているとばかりに深く強く頷き返した。


「言われるまでもねぇよ。おれは『E・Gイラプション・ゲーム』の空閑電知なんだぜ? それなのに希望を手放しちまったら、『自他共栄』も始まらねぇ!」


 電知本人にもパンギリナンにもリングへ上がる前に教わったことであるが、彼は気力十分で臨んだ地下格闘技アンダーグラウンド復帰戦を納得できない形で終えている。

 ノックアウト勝利こそ掴んだものの、敵対関係にある『天叢雲アメノムラクモ』の選手と交流を持ったという理由だけで同じ地下格闘技アンダーグラウンド団体の仲間から「裏切り者」と執拗に罵倒され続けていたのだ。その状況は対戦者と観客が思考を超えて沸騰する試合中に過熱し、レフェリーが勝者の名前を呼んだ直後にリングへ生卵が投げ込まれたという。

 開催のたびにナイトクラブの一角や倉庫などを借りる小規模な興行イベントであり、リングひいては選手と観客との距離が近いアマチュア団体だけに試合内容に不満を持つ者や、敗れた側の身内が意趣返しの為にリングへ雪崩れ込むことも少なくない。

 生卵など挑発行為としては無害に等しいが、電知を裏切り者呼ばわりされたことに腹を立てていた仲間たちには十分に暴発の火種となる。これを引き金としてリングサイドでは小さな乱闘まで起きてしまった――と、夜叉美濃はパンギリナンから耳打ちされている。

 古い時代の様式を再現したじゅうどうにまで『E・Gイラプション・ゲーム』のロゴマークを刷り込むほど同団体への愛着が強い電知にとっては耐え難い状況であろう。ドス黒いもやともたとえるほど苦しい鬱屈からいっときとはいえ解き放たれたからこそ「自由」の二字を高らかに吼えたのだ。

 質問に対する回答が先延ばしになっていることはともかく――夜叉美濃としてはホスト格闘技と地下格闘技アンダーグラウンドの垣根すら越えて絆を育んだ友人の懊悩をほんの少しでも和らげることができて純粋に嬉しかった。


「誰がなんと言おうとおれは『自他共栄』で行くぜ! おれたちゃ格闘技っつうでっけぇ〝世界〟で一緒に生きてるんだぜ⁉ そいつを切り捨てちまったら後には何が残る⁉ 狭い範囲での仲良しごっこなんかに何の意味があるってんだッ! 世界中に好敵手ともだち一〇〇〇〇人作ろうぜッ!」


 ジムの天井に跳ね返った雄叫びは電知の生き様そのものを表している。

 世界最強の男を夢見て海の向こうまで飛び出さんとしている電知にとって嘉納治五郎が説いた『自他共栄』の精神こころは揺るぎない支えであり、彼が吼え続ける「自由」の本質でもある。

 あくまでも〝兼業〟として格闘技興行イベントに出場こそしているものの、新宿・歌舞伎町の夜を根城にするホストと、家業でもある大工の仕事に汗を流しつつ、再起不能の危険と常に隣り合わせという地下格闘技アンダーグラウンドで『コンデ・コマ式の柔道』を磨き上げる少年――本来ならば決して交わるはずのないえにしは電知自身が『自他共栄』の実践者であればこそ結ばれたといっても過言ではなかった。

 徳三宝もまた嘉納治五郎の理念を体現する快男児であったのだろう。

 サバットを極めたホストが居るという噂を信じて歌舞伎町まで訪れた電知のように、徳三宝は〝唐手〟を初めて本土に伝えた沖縄の達人――名をふなこしちんという――が東京に滞在していると聞きつけ、居ても立っても居られなくなって異種格闘技戦を挑んでしまったそうだ。

 それこそが武芸を極めんとする同志を心から敬愛していた証左であろう。伝説の空手家への挑戦状と共に電知から教わった逸話はなしであるが、『いま武蔵むさし』などと称された古武術の継承者を慕い、講道館に籍を置く身でありながら鹿島神宮に所縁ゆかりが深いとされる技を習ってしまったという。

 本来の柔道にいても名だたる猛者たちとの好勝負は後々まで語り草となり、徳三宝を慕う後輩も数え切れないほどであった。

 人と人との繋がり――『自他共栄』の精神が大きな肉体からだの隅々まで行き届いた愛すべき柔道家は太平洋戦争が最終局面を迎える昭和二〇年の東京大空襲に巻き込まれ、紅蓮の劫火に消えていった。

 命が尽きる一瞬まで逃げ惑う人々を焼夷弾から守るべく奔走し続けていた――自分以外の誰かの為に一生懸命になれる徳三宝と電知が夜叉美濃には重なって見えるのだ。

 およそ一三〇年の柔道史に燦然と輝く先人たちと同じくらいキリサメ・アマカザリの話も聞かされおり、そのたびに「耳タコ」と苦笑を浮かべているのだった。


「サンキューな、夜叉美濃! お陰で新技がモノになりそうだぜ!」

「うん、その新技についてさっきから質問してるんだけどな、オレ」

「もう一発、喰らってみたいっつうリクエストか?」

「サンドバッグの代わりは真っ平御免だってさっきも言っただろう。実験台なら付き合うけどさ。……いや、あの技をまともに喰らうのは試合前は厳しいかもな。防御の上からダメージが貫通する感覚、オレは初めて味わったよ」

「偶然の産物だよ。……ほんの数分前まではな」


 同じ現象の再び起こすことも難しくはないと自信を覗かせたようにうめのきを下した際は偶然であったが、今は必然に変わっている。

 間髪を入れずに左右の掌を重ねたことで相手の体内深くまで衝撃が押し込まれていったのは間違いない。そこにどのような力の作用が働いたのか、現在いまの電知は確信に近いものを持っている。

 古流柔術のあてについて記された文献を調べている最中に同様の術理を見つけたことも鮮明に思い出していた。硬質な物体ほど振動が浸透し易いという物理法則に基づいたものであり、一撃目のダメージで先ず筋肉を緊張させ、硬くなった部位へ寸分違わぬ二撃目を叩き込み、破壊力を内臓まで到達せしめるというのだ。

 筋肉が収縮した場合、衝撃を緩衝する弾力性も必然的に減退する。つまり、人間の肉体を一時的に〝硬質な物体〟と同様の状態に変えてしまうわけだ。相手が甲冑を纏っていた場合はふたの衝撃が鋼鉄すら貫き、それ故に『鎧通し』などと呼ばれることもある。

 そもそも打撃という外的要因による筋肉の緊張などは瞬きにも満たない短さであり、これを掌握するのは殆ど不可能に近い。その上、一点に衝撃を収束させなくてはならないので、絶え間なく連打を加えた場合には却ってが分散してしまう。

 まさしく電知が試みたのは刹那を極めたふたあてともたとえるべき領域ものである。


「……重ね当て――」

「――若ッ!」


 自分でも信じられないといった具合に震える声で日本武術に古くから伝わるわざを口にしようとした瞬間のことである。夜叉美濃の頭上を飛び越えてパンギリナンの大声がリングに割り込んできた。

 リングサイドでを見守り続けてきたフィリピン出身うまれの男性は張り上げた声も表情も明らかに緊迫している。彼の背中越しにトレーニングルームの様子を見回せば、模擬戦スパーリングを眺めていた人々がパンギリナンと同じくらい険しい面持ちでロビーに移っていくではないか。

 誰も彼も同じ方向へと足早に向かっていくのだ。模擬戦スパーリングを中断し、リング上で語らっている間にも悲鳴の類いは聞こえなかったのだが、ロビーで何らかの騒動トラブルが起きたとしか思えない状況である。


「どうなってんだ、パンギリナン? 一体、何があったんだ⁉」

「正直、何だかさっぱり。何か大きな、ニュース速報があったと、少しだけ、聞こえたくらいなので、どうにも……」

「ここでずっとオレらを見ていてくれたパンさんに訊くのはさすがに気の毒じゃないか。この部屋に居て分かることなんて練習トレーニングどころじゃなさそうだってコトくらいだ」


 三つの顔を並べて出口の見えない問答を繰り返すまでもなく、尋常ならざる事態であることは瞭然なのだ。顎の下に溜まって玉を結んでいる汗も拭わずにロープを飛び越えてリングサイドに降り立った電知は、コーナーポストの近くに設置されている階段を駆け下りた夜叉美濃やパンギリナンと共に他の利用者たちを追い掛けていく。

 この建物にる全員が詰め寄せたロビーには標準よりもやや小さなテレビが一台だけ置かれている。ジムの利用者は言うに及ばず、運営スタッフまでもがその前に殺到し、緊急生放送番組とおぼしき画面に釘付けとなっていた。


「――繰り返します。現地時間の土曜日午前一一時一〇分頃、エアフォースワン――アメリカ合衆国大統領専用機がサイバー攻撃を受けたとホワイトハウス報道官より発表がありました。同機はフロリダ州からメリーランド州の空軍基地へ移動中であり、機内には大統領や上級顧問のほか、大統領の仕事を見学する為に同行中であった中学生たちも搭乗しているとのころです。犯行声明によりますとエアフォースワンに大量の時限爆弾が設置された疑いもあり、大統領警護班シークレットサービスを中心に事実関係の確認を急いでいることと、安全が保障されない限りは着陸しないことも併せて発表されました」


 別の日に撮影したものとおぼしき合衆国大統領専用機エアフォースワンの資料写真を背にして、アメリカ現地から次々と伝えられる驚天動地のニュースを淀みなく報じようとする男性キャスターであったが、その声はさすがに震えていた。

 電知と夜叉美濃が模擬戦スパーリングへ興じている間に全世界を震撼させる大事件が発生していたのである。


「今、入ってきた情報です。エアフォースワンには人気タレントであるフィーナ・ユークリッドさん、総合格闘技団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』に所属するシロッコ・T・ンセンギマナさんとその関係者も搭乗していたことが判明しました。大統領を見学する為に同行していた中学生の引率者と保護者数名も――」

「――はぁぁぁッ⁉ 『NSB』だとォッ⁉」


 キャスターの声を押し流してしまうほど大きく、素っ頓狂な声が電知の口から迸ったのも無理からぬことであろう。

 これに続いて大きなどよめきが起こり、が穏やかならざる雰囲気に包まれたことからも明らかだが、格闘技に携わる者たちが「対岸の火事」などと構えていられる状況ではなくなったのだ。パンギリナンと夜叉美濃も血の気が引いた顔を見合わせている。


「……これって『九・一一』の再現になるんじゃないの……」


 同じ場に居合わせた誰かが二〇〇一年九月一一日のアメリカ同時多発テロ事件を思い起こし、これを呼び水として身も世もない悲鳴が狭いロビーのあちこちで上がり始めた。

 過激派の原理主義組織にハイジャックされた旅客機が世界貿易センターなどに突入し、筆舌に尽くし難い被害をもたらしたこの事件は二十一世紀を生きる人々の記憶にも、永い人類の歴史にも、史上最悪の自爆テロとして深く刻み込まれている。

 とりわけ世界貿易センターは双子のように並び立つ二棟の超高層ビルツインタワーが立て続けに標的となり、最初の自爆テロから数分を置いたのち、生中継の緊急報道が行われている最中に二機目が突入したのだ。

 およそ一三年前の出来事である。悪夢としか表しようのない瞬間を目撃し、それが為に心を深く傷付けられた人間も少なくなかった。比べて遥かに惨たらしく、何よりも生々しい感覚で突き刺さったままのテロ事件が大統領専用機エアフォースワンで繰り返されようとしているのだから、とても冷静ではいられないだろう。


「――ホワイトハウス関係者への取材に情報によりますと、容疑者と思われる人物がエアフォースワンの通信に割り込んだ際、笛のような物を吹き鳴らす音が混ざって聞こえたとのことで、現地の捜査関係者は『ウォースパイト運動』との関連についても慎重に調べを進めているそうです」


 テレビの向こうのキャスターが述べた『ウォースパイト運動』なる言葉は日本にとって馴染みが薄く、同じニュースを視聴している大多数に意味が通じなかったはずだ。そうでなければ「格闘技廃絶を訴える人権擁護活動の一つで、アメリカの格闘技団体『NSB』のイベント会場に放火を試みるなど過激な抗議デモが問題視されている」との字幕テロップが補足説明として表示されることもあるまい。

 しかし、に通う者たちは誰もが『ウォースパイト運動』という言葉が持つ意味を理解している。だからこそ無数の呻き声が束となり、「今年二月には同活動の参加者がニューヨーク州の自宅で格闘技ファンたち数名に襲撃され、死亡するという事件も発生しており、エアフォースワンに対するサイバー攻撃との関連を確認中とのことです」という憶測の報道を押し返そうとしたのだ。


「聞いたことあるぜ、ンセンギマナって名前。確か義足の拳法家――いや、『NSB』の総合ファイターだったな……」


 以前の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンにドーピング問題発覚後の『NSB』に関する特集記事が掲載された際、同団体の将来を担う人材としてシロッコ・T・ンセンギマナが取り上げられていたことを電知は想い出していた。

 一九九〇年代に起きてしまった国家的悲劇を生き延びたルワンダの青年であり、左足に義肢を装着して他の選手たちとで『NSB』の試合場オクタゴンに臨むMMA選手である。二〇一四年現在にける日本MMAの体制では出場そのものが想像できないということまで含めて、電知の記憶に強く刻み込まれていたのだ。

 間もなくテレビ画面には『NSB』から提供されたものとおぼしきシロッコ・T・ンセンギマナの写真が大写しとなった。胸元まで掛かる長い髪を編み上げたドレッドヘアーも、黒豹の如き精悍な顔立ちも、いずれも電知が格闘技雑誌パンチアウト・マガジンで見たものと全く同じであった。

 この場には居ないキリサメ・アマカザリが御剣恭路の〝ゾク車〟後部に跨りながら瀬古谷寅之助との決戦場を目指している最中に秋葉原の中心部ですれ違った顔とも言い換えられるだろう。




 後年の格闘技史に『りょうていかいせん』と記される大動乱にいて、アメリカ合衆国大統領が搭乗するエアフォースワンが標的にされるという前代未聞のテロ事件はとてつもなく大きな意味を持つ。あるいはこれをもって始まりの扉が開かれたといっても過言ではないのだ。

 ニュースキャスターが言い添えた笛の音色は格闘たたかいの場に立つ者たちへ試練の時代が到来したことを告げている。ひいては『りょうていかいせん』の最終局面に当たる日米MMA団体合同大会『コンデ・コマ・パスコア』の在り方さえ軋ませていく。

 『ウォースパイト』――その直訳は『戦争たたかいへの軽蔑』である。



                                    (後編に続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る