その18:予感(前編)~柔道一三〇年の伝説・嘉納治五郎の魂は永遠に
一八、予感(前編)
世界中の格闘家や星の数とも
誰からも慕われる人格者であることに間違いはないが、さりとて優しさを安売りする軽薄な八方美人というわけでもない。人一倍穏やかというだけで他者の声に流されもせず、何事も大らかに片付けてしまう岳の手綱をしっかりと握っているのだ。これを支えるのは責任ある立場と芯の強さである。
そして、そのように温和な人間ほど本気で怒ったときには
『
怒れる瞳が見据えているのは『サムライ・アスレチックス』という社名とロゴマークが刻まれたプレート――即ち、日本MMAの最前線とも呼ぶべき場所への入り口である。
「社長! 一体全体、どういうつもりですかっ⁉ キリサメ君にもセンパイにも納得のいく説明をして頂かなくては――」
「麦泉さんは何を置いても駆け付けると思っていましたけどね……」
擦りガラスのドアを開けて事務所内へ飛び込み、その先に待ち構えているだろう樋口へ臨まんとする麦泉であったが、穏やかな顔立ちに不似合いな怒号を受け止めたのは追及の対象とは異なる女性――
赤坂の一等地に聳え立つ地上五四階の超高層ビル――ミッドタウン・タワーの一室に所在する
控えめに窺ってみると左右の眉は薄く、明らかに植物由来ではない香気が無遠慮に押し寄せてくることもなかった。普段は離れた場所に立っていても
前髪をヘアバンドでもって持ち上げた額には麦泉にも劣らない量の汗が噴き出し、大きな粒を幾つも作っている。滑り落ちた
「ていうか、どうしてそんなにフォーマルなんですか。あたしだけバカみたいですよ」
「仕方ないでしょう。センパイから連絡が入ったときも夕食中だったのですから……」
日付が変わって暫く経つような時間帯にも関わらず、『サムライ・アスレチックス』の事務所へ麦泉が駆けつけた理由など改めて
新宿駅近くに所在する異種格闘技食堂『ダイニング
キリサメ・アマカザリという一人の少年の尊厳を傷付ける暴露番組は『サムライ・アスレチックス』マネジメント部門常務も把握していなかったのである。
そればかりではない。
言わずもがな、樋口郁郎その人が
麦泉と夕食を共にしていた『ダイニング
「しかも、酔ってません? 見ているこっちが気分悪くなるくらい汗だくだし……」
首から上のあちこちにハンカチを宛がわなければ見苦しい有り様になってしまうほど大量の汗が噴き出しているのは
新宿の異種格闘技食堂から渋谷の事務所へと移動するべく麦泉はタクシーを利用したのだが、
尤も、〝口論〟という喩え方は適切ではないだろう。語気こそ荒いものの、通話の相手と怒鳴り合ったわけではない。
怒りの炎は未だに激しく燃え盛っており、それが為に擦りガラスが砕けるのではないかと心配になるほどの勢いで玄関のドアを開いてしまったのだ。
「不規則な食生活してると更に太りますよ。新陳代謝だってもう元気な
「大きなお世話――いや、そうじゃなくて……これは一体、何がなんだか……」
日本MMAの頂点に座する〝暴君〟との全面対決も辞さない覚悟であった麦泉からすれば今福による出迎えは肩透かしとしか表しようがなく、鬼の形相から一変して唖然呆然と大きな口を開け広げている。
「お弁当、作って来ましょうか?」という問いかけが右耳から入って左耳へ通り抜けていった様子の同僚に舌打ちを叩き付けた今福は、各スタッフのデスクを仕切っているパーティションの一枚まで平手で叩いた。
つい先程まで彼女も麦泉と同じように社長への憤激を
「社長なら
これから質問しようと思っていたことを先んじて答えられた麦泉は驚いた拍子に「何でもかんでもお見通しなのは、さすがにちょっとヒくなぁ」と口を滑らせ、面と向かって今福から舌打ちを披露されてしまった。
「……
「何事もなかったかのように話を続けやがって……お察しの通りですよ。ダンドリッジさんにゼンガーさんにマキャリスターさん――何時間か前まであなたたちと楽しくお喋りしていた『NSB』のお客様ですよ」
自身に割り当てられたデスクへ書類の上から腰を下ろし、小さな椅子の背もたれを左右の踵でもって蹴り続ける今福が挙げたのは『
ドイツ系の男性スタッフであるヴルカーン・トマス・ゼンガーは『NSB』に
アフリカ系の女性スタッフ――フィービー・ダンドリッジはメディア対応など多角的に包括するコンテンツ事業部の責任者であるという。職域には広報活動を含み、且つ同姓ということもあって今福が『NSB』で最も強く意識する人物だ。
最後に名前の挙がったキャタリック・アリソン・マキャリスターは『NSB』というMMA団体の
対戦カードの組み合わせや
他の宿泊客の迷惑もあるだろうに樋口は深夜の最高級ホテルに押し掛けているという。翌朝には空港へ向かう為、アメリカの
東京駅前にて圧倒的な存在感を示す
今になって樋口の暴挙を教わった麦泉は胃に締め付けられるような激痛を感じ、右手を口元に添えて中身の逆流を堪えた。
「
「そ~なんじゃないですか? 社長お気に入りの秘書ですしぃ? でも、本当に
喉の奥から絞り出すような声で
下種の勘繰りを相手にしなかったわけではない。擦りガラスで仕切られた向こうを睨み据える間、
本人不在ということもあって社長席の
(……これが
深夜にも関わらず、樋口が『NSB』の上級スタッフへ接触を図ったことについて今福は「根回し」なる言い回しを用いていたが、おそらく樋口は強盗傷害の常習犯であろうと疑われる選手が『
「釈明」と表すほうが正確に近いのかも知れないが、
ミヤズは緊急生放送番組の中でキリサメが生まれ育ったペルーの
公式プロフィールでは〝我流〟と表記されている喧嘩殺法の危険性を殊更強調し、殺人経験を仄めかすような発言まで繰り返したのだが、それは興味を引き寄せる為の吹聴に過ぎず、視聴者数が三〇〇〇人を超えた頃にはキリサメが置かれた境遇へと話題を切り替えていた。
貧困層と富裕層とを物理的に分断する『恥の壁』を例に引いたミヤズは同国の低所得者たちが働き口にさえ困難する有り様を握り拳と共に語り、子どもたちの多くが強盗でもしなければ食い繋いでいけないとも訴えた。
非合法な手段によって得たカネを元手にして貧困から脱するという発想を持たず、今よりもっと
ともすれば剽窃を疑われ兼ねない状況なのだが、そういった
『
ミヤズの論法によればキリサメは〝環境の犠牲者〟であり、悲劇の主人公という認識が時間を重ねる
「――ワンパクなペルーちゃんをドツき回した結果、アマカザリ選手と同い年くらいの女の子が大きなデモに巻き込まれて武装警察みたいのに撃ち殺されたってハナシにも行き着いちゃいましてねぇ~。向こうの国家権力は子どもにも優しくないんですよ? 自衛しなくちゃどうにもならない。望まぬ戦いでもやらなきゃ生きられない――やるせない気持ちを耐え抜いた子がようやく報われる!
人命の尊さを大義名分に据えて〝正当な暴力〟であったと強弁するようなものである。
ペテンと怪しむ者は一人や二人ではないだろうが、それ以外の〝大衆〟を言い含めることができればミヤズの企みは成功というわけである。〝炎上商法〟の効果によって注目度まで跳ね上がったのか、事前の告知もない深夜の緊急生放送番組にも関わらず、最終的には一〇〇〇〇人にも近い視聴者が齧り付きとなっていた。
夜の深い時間帯にも
しかも、ミヤズは寅之助との〝
格闘家としての
そもそも、喧嘩殺法が編み出される過程など無法の
タクシーの車中にて麦泉と通話していた相手も〝爆弾〟の解体処理と
(……〝子ども〟の手に暴力を握り締めていなければ、今日を生き延びることもできやしない――か。本当に生き写しみたいな二人だよ……)
一時間ほど前に『
事実、キリサメは全く同じ道を辿っているのだ。どちらの〝最年少選手〟も鮮血の川が命の雫となって側溝に流れ込んでいくような裏路地から安全性の確保されたMMAのリングへと己の居場所を求めていた。
性懲りもなく同じ〝過ち〟を繰り返そうとしてるウスラバカども――と、城渡が激しい口調で指摘した通りの筋運びではないか。
キリサメ捜索の手掛かりを得るべく岳がペルー現地のNGO団体に連絡を取った際、応対に当たった相手は当該人物を強盗傷害の常習犯と見做し、接触そのものを危険視していたという。
『祇園の雑草魂』もまた過酷な環境で生き抜く為に暴力を頼みとするしかなかった男である。
表通りの華やかさとは正反対に暗く冷たい裏路地で『祇園の雑草魂』と初めて言葉を交わした瞬間のことを麦泉は決して忘れないだろう。長い鎖で繋がれた鉤爪――大陸由来の武具である『
両手の指先まで古びた包帯で覆い隠し、水音に混ざる苦悶の声を感情というものが乾き切った双眸でつまらなそうに見下ろしていたのである。
キリサメが〝
鋼鉄の鎖は『祇園の雑草魂』の上半身に巻き付いており、麦泉の目には〝最年少選手〟と称される〝子ども〟の魂を縛り付けているようにも見えたのだ。
キリサメは
例えその見立てが軽率で幼稚であったとしても、〝子ども〟の可能性を見守ることが大人の務めであると麦泉は心得ている。養父の背中を追い掛けようとする勇気を認め、重く受け止めていればこそ一等厳しい態度でキリサメの尋問に臨んだのである。
大人の責任とは〝子ども〟なりに考え抜いた決断を一方的に否定することではない。独り立つ力を得るまで寄り添い、道を踏み外しそうになったときには我が身を捨てる覚悟で食い止め、初志貫徹の行き先へ導くことだと麦泉は信じているのだった。
そのように念じる
日本MMAの黄金期を知る人々の心へ
だからこそ
このような激情が全身を震わせる一方で、麦泉はこの場に居ない
『サムライ・アスレチックス』に
東日本大震災のチャリティー大会として始まった『
それ故に事務所のデスクが新品同然というくらい日本中を忙しく飛び回っている。「真偽はともかく幕末土佐が誇る
この週末も次回の
当然ながら『NSB』との
「――交わした言葉こそ僅かですが、それで判るくらい彼は誠実な少年ですよ。……先にキナ臭い話を聞いていましたけど、
『奥州プロレス
そのとき、樋口は抜かりなく対処すると頷き返したはずだ。それは言い争うことなく柴門を送り出す為の腹芸に過ぎなかったのか。それとも今夜の仕打ちが彼にとっての〝手抜かりのない対処〟なのか。そうだとすれば嘘を
嘘ではないが方便でしかなく、約束を裏切ったことに変わりはない。無事に奥州市へ到着した柴門は
社内の混乱が『NSB』に露見すれば
長年の信頼を根っこから覆されたような情況のまま
現役レスラーの頃には狂犬さながらに畏怖された男が冷静さを手離す引き金としてはそれだけで十分だった。樋口は柴門から通話を求められても応じなかったそうである。留守番電話の録音にもその旨を吹き込んでおいたが、おそらくは再生してもいないだろう。
実質的に日本MMAの頂点に君臨する〝最高権力者〟である。『NSB』上級スタッフの宿所まで押し掛けていって単なる釈明で済ませるとは思えない。柴門の職域をも平然と横断し、何らかの交渉を進めてしまう可能性は十分に考えられるのだ。殺人経験の疑惑すら謳い文句にしてキリサメ・アマカザリという
『キャリー』――キャタリック・アリソン・マキャリスターは『NSB』のマッチメイカーである。寝ても覚めても所属選手のことを考え抜くような立場の人間としか成り立たない商談もあるのだ。
(……最悪の場合、『
絶体絶命の窮地すら力ずくで
(……おかしい……何かが……何かがおかしい……)
何とも例え難い違和感が麦泉に纏わりつき、「何かがおかしい」という呻き声を心の中で絶えず繰り返してしまう。
確かに樋口は剛腕そのものであり、独断専行で物事を推し進めた前例など一つ一つを数えてはいられなかった。何の相談もないまま『
MMA団体として若返りを図るべくベテラン選手の一掃という方向に舵を切った際にも社員全てが判断の是非を巡って隔たりなく意見を戦わせたのである。
それなのに今夜は違う。〝旅興行〟の形態を取る『
人懐っこい笑顔やおどけた態度を見せながら、冷血と罵られるほどに人間味を欠く行為を平然とやってのける恐ろしさも兼ね備えてはいるのだが、長い付き合いの麦泉でさえここまでの横暴は記憶になかった。
(……どこでおかしくなった? いや、何がおかしくなってしまったんだ? ボタンの掛け違いとかそんなレベルじゃないぞ、これは……)
国際電話を通じて樋口に対する憤りを共有していた相手も程なく今夜の暗躍を知ることになるだろう。何しろ
「――日本に来て何より驚いたのは誰もが他人に無関心ということです。東京という町だけが特別にそうなのかは分かりませんが、裏路地や物陰の向こうからこちらを狙うような視線を一つも感じないなんて……いつでも気を張っていないと生きていけないのが
キリサメの声が麦泉の鼓膜を打ち据えたのは、『
パーティションによって仕切られた何処かのデスクに本人が隠れているものと錯覚し、狼狽した調子で周囲を見回す麦泉であったが、その声は手持ちサイズの
改めて
一つとして編集が施されておらず、収録時のそのまま状態を維持しているのは当然であろう。それ故に耳を疑うような発言まで消去されずに残っているわけだ。
「母が
「――過酷な状況の中で第六感まで鍛えられたというわけですね。身の危険を即座に嗅ぎつける勘の鋭さも『
「経験と言われると、どうお答えしたら良いか……首都のリマは大人から子どもまで強盗で食い繫いでいるような人間で溢れ返っていました。繁華街から少しでも外れると警察の目にも入らなくなりますし、万が一、逮捕されそうになっても
「……お国柄の違いとはいえ、聞きようによってはかなりな物議を醸す発言ですよ。公式プロフィールに掲載された〝我流〟という格闘スタイルは裏路地の喧嘩自慢のような意味合いではないのですか? 警官を買収する手口にも慣れているように聞こえますし……」
「配給ってありますよね? 最低限の食事くらいは政府もお情けで恵んでくれましたが、別に命を保証してくれるわけじゃないんです。自分の身は自分で守る必要があります」
「自分の身は自分で――と仰いましたが、今の話にはアマカザリ選手ご自身が生計を立てる手段も含まれているのでしょうか……?」
「隠しても仕方のないことですし、包み隠さずお答えするのが『
「――暴露はもうたくさんだっ」
対談形式の音声データに麦泉の制止が割って入り、今福もこの直後に再生を停止した。
薄いパーティション一枚を隔てて暫しの睨み合いを演じた今福は、やおら右腕を振りかぶると麦泉の頭上を通り抜けるようにして掌中の
余りにも唐突な行動であった為に麦泉も制止が間に合わず、物に当たるのはよろしくないという何の意味も為さない呟きしか絞り出せなかったのである。
固い床に叩き付けられ、幾度も跳ねた
「末恐ろしいったらありゃしませんよねぇ⁉ 未稲からも
立ち上がるや否や、書類が散乱した机上で地団駄を踏みつつ気ままに延々と喋り続け、その内容を自分自身で切り捨てた今福を麦泉は気の毒そうに見上げていた。
堰を切ったような勢いとはこのことである。爆走としか
「……未成年に手を出したら社会が許してくれないから気を付けようね……」
忘新年会でも暑気払いの席でも、アルコールが入って歯止めが利かなくなった今福に付き合わされるのも麦泉の仕事であった。だからこそ、合いの手のような呟きも控えめなのである。
「幾らヤンチャっつっても限度があるでしょうが、限度が!
「未稲ちゃんから何を聞かされたのかは知りませんが、キリサメ君は自分の過ちをきちんと反省できる子ですよ。柴門さんの言葉を借りるようですが、あんなに素直な子は珍しいくらいだ。確かに今は精神的に未熟かも知れないけれど、僕らが高校生くらいの頃だって似たような感じだったでしょう? 大丈夫、きっと落ち着いてくれます」
「出ましたねぇ、『サムライ・アスレチックス』の良心! そんな甘っちょろいコトだから樋口にナメられるんだよッ!」
「……ていうか、今福さんこそ落ち着こうか。僕、これでも年上だからね? 僕だから良いけど、社長の前では本気で控えようね」
「その社長サマにドン・キホーテ野郎のインタビュー企画そのものを取り止めるべきだって掛け合ったんですよ! さっきの録音データを聞かせてねぇ! ……あんなのは犯罪の自供も同じじゃないですかっ!」
その一言で事務所内の空気が再び張り詰めた。
「答えらえるものなら答えてみろ」と言わんばかりの挑戦的な眼差しから顔を背け、床の上に転がった
今福が取材先から事務所に戻ってきたのは取材対象であるキリサメが――『
撮影機材などの重い荷物を自身のデスクに置くことも忘れ、開け放たれた全面ガラスのドアが再び閉じるより早く社長室兼応接室へ乗り込んでいった。
夕暮れ前からSNSを中心に広く拡散されてしまった〝
キリサメの名前が幾度か聞こえてきたので取材の場でも何らかの揉め事があったのかと溜め息を零しそうになったものだ。それから一〇分と経たない内に今福は大股で事務所を出ていき、樋口本人も同席していた日野目も彼女のことには一切触れなかった為、今の今まで口論の内容を把握していなかったくらいである。
樋口自らが書き起こしたコメントをネットニュースの配信元に電子メールで送付し、事態の収束を見届ける頃には夕陽も摩天楼の彼方に沈んでいた。
無論、それで麦泉の役目が完了したわけではなく、キリサメを尋問する為に渋谷から京島まで出向かなくてはならなかった。樋口との間にどのような確執が生じたのか――今福の
擦りガラス越しではあるものの、感情を剥き出しにしていたのは今福一人であり、樋口の側は絶え間なく浴びせられる痛罵を軽く聞き流しているように見えた。
麦泉にとって何よりも意外だったのは傍らに立つ日野目も今福の喚き声に全く動じていなかったことである。気圧されて後
今福の顔付きは樋口と対峙する前よりも遥かに険しさを増していたのだが、これは想定内なので麦泉本人は言うに及ばず、岳も柴門も全く驚かなかった。
「いちいち説明しなくてもお察しかと思いますが、インタビューの音声データはメモリーカードごとその場で社長に回収されましたとも! 今、聞いてもらったのはこんなこともあろうかと思って別のカードに
音声データそのものがキリサメを『
それはつまり、自身が所属する『サムライ・アスレチックス』の社長を――『
「――統括本部長の養子ということで一部のMMAファンからは『八雲岳の秘蔵っ子』と百も注目を集めているようですが、聞くところによると現地を訪れた八雲選手とアマカザリ選手の二人で強盗団を返り討ちにしたとか。親子にとって初めての共同作業といったところでしょうか」
床に叩き付けられた衝撃で内部が故障してしまったのだろう。今福が遠隔操作したわけでもないのにインタビューの続きが再生され、薄暗い室内を殺伐の気配で満たしていく。
「……『
「未稲からの又聞きですけど、ギャング団との乱闘はあたしも知ってますよ。ていうか、
キリサメの音声データと両手でもって拳銃を構えるような手付きを披露する今福本人の言葉が重なり、麦泉は口から飛び出しそうになっていた反論を喉の奥へと押し込んだ。
仮にも法治国家である日本で暮らし、日常生活に拳銃が割り込む機会など絶無に等しいのだから当然であろう。
サン・クリストバルの丘に巨大な十字架を仰ぐ
「死んだ母は青年海外協力隊として訪れたペルーが気に入り、終の棲家にしようと決めたそうです。国と国のやり取りが盛んなくらいペルーと日本の結び付きは強いのですが、だからといって別に日系人が優遇されているわけではないし、働き口を得られなかったら徒党を組んで弱い者を食い物にするしかない……僕だって彼らと似たような
「ペルーの青年海外協力隊といえば、体力作りの為に柔道を普及させたのも現地に赴任した日本人なんですよね? 実はアマカザリ選手もお母様のツテで柔道を習っていたのではありませんか? それが〝我流〟のベースになっているとか?」
「足元の柔らかい砂浜で練習している人たちは見たことがありますけど、……
「……今のはオフレコというコトにしておきますね。海の向こうの〝事情〟に日本人が口出しするのは正しくないでしょうから……」
「ぶっちゃけますけど、あたし、この辺でキレそうになりましたよ! マイナスな流れを感じる
数時間前のインタビューと現在の声――キリサメに秘められた暴力性へ触れてしまった今福の言葉が折り重なるようにして麦泉に圧し掛かり、ますます彼を無口にさせた。
「麦泉さんはドン・キホーテ野郎の素性をご存知だったんですよね? あたしの読み通りなら、きっと一緒に暮らしている未稲よりも詳しいんじゃないでしょうか?」
「……おおよそは把握しているけれど、僕だってそんなに踏み込んだことは……」
「事情も何もこれが僕の生まれ故郷の現実ですよ。腹を空かせた野良犬のように手頃な獲物に噛み付かなきゃ生きてはいけない。そういう意味では僕が育った
喉の奥から無理矢理に引きずり出された麦泉の
思い込みの激しい今福には酷く誤解されているようだが、キリサメが
強盗傷害の常習犯という疑惑が付き纏い、パスポートすら所持してなかったキリサメが出国と移住の手続きを
扱いこそ小さかったものの、『七月の動乱』自体は日本でも報じられたので記憶に留めていたのだが、
「……パンフレットなどにどう書いて頂いても構いません。自分がやってきたことを言い訳する気はありませんし、出場資格を問われても仕方がないと思っています。僕はただ粛々と事実に向き合うのみです」
「今のも聞きましたよね⁉ こんなことまで軽~くのたまったんですよ⁉ 犯罪を犯罪と認識すらできないような危険分子を本当にあたしたちのリングに立たせて良いのか、甚だ疑問なんですけどッ!」
「今福さん、それはさすがに言い過ぎだ……っ!」
「犯罪そのものは理解できているみたいですもんね。だったら余計にタチ悪いじゃないですか! ヤバいコトを自覚した上で『生きる為には仕方がなかった』みたいに割り切ってしまえる態度こそ大問題でしょうよっ! あたし、間違ったコトを言ってます⁉」
軽やかにパーティションを飛び越え、麦泉の正面に着地した今福はズボンのポケットから
画面内では寅之助も竹刀を構えているのだが、巨大なノコギリとも船の
「
「……どう考えてもアレは小道具じゃなくて正真正銘の武器だと? それこそ結論ありきの決めつけじゃありませんか。僕はキリサメ君とやり合った
「それこそ決めつけ、言い逃れですねっ! 何とかっていう屋上庭園に架かっている木の橋もノコギリみたいな刃で損壊させたこと、あたしも知ってるんですからね! 怒鳴り込んでいったときに丁度、向こうの管理者と樋口が電話でカタつけてたし!
「――武器術という今福氏の話は分かりませんが、中米のほうから流れてきた剣のような物は長く使っていますし、一回だけお世話になった殺陣道場の体験会にも持っていきました。前の持ち主は気取って『
「ほら、今の音声を聞きました⁉ 証拠はもう揃ってるんですッ!」
「……キリサメ君、変化球で全てをブチ壊しにするのはやめようね……」
狙い定めていたとしか表しようのないタイミングで『
「平べったい木の間に石の板も挟んでいるって、未稲も話してましたよ。殺意丸出しなブツを振り回したらどんな事態を招くのか、子どもにだって分かりますよね⁉」
「仮にアレが本物のノコギリだとしても、野次馬に取り囲まれた状態で振り回したのに他の怪我人は居なかったんだ。そのことを忘れてはいませんよね? 実際には見かけ倒しで殺傷能力なんか零に等しいんじゃないかな」
「う~わッ、常務ともあろう御方が屁理屈入ったよ! 麦泉さんこそドン・キホーテ野郎が『働き口を得られなかったら弱い者を食い物にするしかない』って言い切ったコト、忘れていませんよね⁉ ご本人、強盗団と自分は同じだともぶっちゃけましたよッ!」
反駁を繰り返しながら『
人体や建物に
これを目撃したカリガネイダーたちの
『
キリサメの喧嘩殺法と真っ向からぶつかって打撲傷だけで済んだのは瀬古谷寅之助が優れた力量の持ち主であったからに他ならない。何しろ彼は日本史上最強の剣士と名高い
屋上庭園に辿り着くまで二人の少年は秋葉原の狭い路地でも斬り結んでいたが、野次馬を太刀風に巻き込み、薙ぎ倒さなかったのは奇跡としか言い表せないのである。
「この際、殺傷力とか関係ないんですよ! 暴力頼みでなきゃ生き残れないマンガみたいな世界でブンブン振り回していた愛用の一品を法治国家日本でも迷わず使っちゃう感覚が問題なんですからっ!」
己の
「さっきドン・キホーテ野郎は反省ができる子と言いましたよね?
再生中の音声データは該当箇所まで辿り着いていないが、デビュー戦への意気込みを訊ねたときには先輩選手を押しのけて成り上がるといった野心は一度も述べず、岳や未稲たち〝家族〟の応援に報いることを最大の目標として掲げていた。
それからキリサメは格闘技の経歴がない上に素性も知れない自分を受け入れてくれた樋口社長の期待にも応えなくてはならないと続けている。この真摯な少年に対する裏切りには今福も
若者への眼差しとは切り離して考える必要があると、今福も己に言い聞かせていた。
「……
「……誰よりも強く暴力を振るえば他人を……いや、家族でさえ服従させられるという有効性に目覚めてしまった――そう言わせたいのかな? 最後にはその
含みのある言い方になってしまったのは脳裏に前例が浮かんだ為である。
格闘技に携わる人間が口を揃えて〝歴史的汚点〟と扱き下ろす元フライ級の日本人プロボクサー『
世界的な作曲家として名高い本間
これに対して今福はキリサメが自ら
ボクシング界から永久追放された後も暴力に溺れ、
「彼ら二人を分けたのはブレーキの有無じゃないかと思いますよ。勿論、
「キリサメ君は自分でブレーキを壊したタイプ……とでも?」
「あたし、今、〝有無〟ってハッキリ言いましたよね?
アイガイオンは幼少期から父親に苛烈な虐待を受け、この反動から暴力の有効性に目覚めてしまった。
「キリサメ・アマカザリはブレーキ自体が最初から存在しないタイプです。〝歯止め〟というのがどういうモノか、感覚的に知っているかどうかっていう差はかなり大きいと思いますよ。……麦泉さんだって本当は気付いているんじゃないですか?」
「――勉強不足を否定はしません。死んだ母にも言い訳はダシに使われた人への侮辱でもあると、死んだ母も良く話していました。……ですから正直に申し上げますが、僕にはまだ格闘技の試合というものが上手く呑み込めていません。これまで経験してきた潰し合いとのギャップをどうすれば埋められるのか、それとも埋められないのか。どう転がるか、始まってみないと分かりません」
今福の問いかけに何も答えない麦泉の鼓膜にはキリサメの
「彼が素直に反省のできる良い子なのは間違いないですけど、今度の一件で罪悪感を持つべきは〝身内〟相手じゃない。万が一のときに歯止めの利かない選手をリングに上げるのは『
「……キリサメ君は、日本MMAのアイガイオンなんかじゃない……!」
「それなら麦泉さんたちにドン・キホーテ野郎を止められますか? MMAのリングで生まれ故郷の
「……キリサメ君だって勉強不足を自覚しているじゃないですか。試合当日までにはMMAのルールだって、きっと頭に入っているハズですし……」
「暴走真っ最中のトロッコにブレーキを取り付けられるかって話をしてるんです! 彼はもう岩手大会の出場者名簿に載ってる! ブレーキを持たないまま突っ走るトロッコにしてしまったんですよ、『
「……レールの上を走っている最中のトロッコにブレーキを設置するのは不可能かも知れないよ。キリサメ君をトロッコに見立てればというのが前提条件だけど……」
「そうです、構造的にね! 器具と精神に言葉を置き換えたらドン・キホーテ野郎の危険性がくっきりハッキリするのでは⁉」
「……いざというときには僕とセンパイが身体を張って食い止めるよ。それが責任の取り方ということくらいは分かっているさ……」
麦泉の口から飛び出した反論にも力は殆ど込められていない。キリサメをMMAのリングへ送り出すことにとてつもない
一線を退いた麦泉とは異なり、
日系人ギャングの群れである『
『
間に挟んだ御剣恭路との揉め事は勝負にもなっていなかったので省いているが、瀬古谷寅之助との斬り合いを
インタビューでは「今まで経験してきた潰し合いとの差を埋められるのか、今でも分からない」と述べていた。〝腕比べ〟を通じて相手を理解し、認め合うという武道や格闘技の理想がキリサメの握る『
これは揺るがし難い事実である。
デビュー戦を直前に控えた〝プロ〟のMMA選手が衆人環視の状況下で
「――つまり、『
すっかり口を噤んでしまった麦泉へ相槌くらいは打つように迫るべく今福ナオリが前のめりとなった直後、垂れ流しのインタビューとも異なる声が二人の間に割り込んだ。
何の脈絡もない唐突な乱入ではあったが、とても耳に馴染んだ声であった為、ここまでの言い争いを樋口や日野目に盗み聞きされていたのではないかと狼狽することもない。誰がやって来たのか即座に判ったからこそ口を揃えて「倉持さん」と振り返ったのである。
二人と比べて出遅れはしたものの、彼女もまた異常としか表しようのない事態へ対応するべく事務所へと急行してきたのである。
「MMAの将来を思って腹を立てること自体は間違っていないけれど、まさか、その恰好で
「べ、別にこれはそういうワケじゃ……本気で抗議しに行くならちゃんとした服に着替えましたよ! ていうか、倉持さんまでそんなにフォーマルだと、あたし一人だけバカみたいじゃないですかっ」
「仮にも出社なんだから、どれだけ慌てていても身なりを整えるのは当然よ。感情任せに突っ走れるのはナオリの良い所だけど、人からどう見られるのかはきちんと考えなさい。それだけで説得力が変わるわよ」
赤地に白薔薇の模様を散りばめたブラウスにタイトスカートを組み合わせた倉持と背広を着込んだ麦泉に挟まれる形となった今福は、気まずそうに肩を窄めながらジャージの袖の内側へと両手を引っ込めた。
数分前とは打って変わって小さくなってしまった肩を一つ叩き、今福の脇をすり抜けていった倉持は床の上に転がったままの
「話の流れで確認するのですけど、MMAの基本的なルールはさすがに
「……倉持さんは今夜のことを……」
「わたしに連絡をくれたのはナオリ――それだけで説明は足りるんじゃない?」
「すぐ後に未稲にも電話したんですけど、あのネット番組、やっぱり八雲さんにも本人にも許可を取っていませんでしたよ。あたしが連絡入れなかったら、今でも何も知らないままだったんじゃないかと……」
「百歩譲ってわたしたちにバレるのは構わないけど、きっと統括本部長にだけは知られたくなかったハズよ。無許可のゴリ押しは当然ね」
倉持が事務所に現れるまでの経緯を理解するには今のやり取りだけでも十分であった。それにも関わらず麦泉の目が驚愕に見開かれたのは、樋口がこの女性まで蔑ろにするとは全く想像していなかった為である。
経理といっても倉持有理紗の仕事は収支の計算や帳簿の管理だけではなかった。かつて『
会社という組織を人体に
『サムライ・アスレチックス』ひいては『
「取り上げられた録音データまで勝手に使われたのだからナオリがキレるのも無理ないでしょう。同じ目に遭わされたら、わたしだって黙っちゃいないわよ」
表面がひび割れてしまった
「……樋口には
「まさか、そんな……っ!」
事務所で相対してから一番といっても過言ではないほど不吉な発言が今福の口から飛び出し、これを受けた麦泉は放心したように
心臓を無造作に掴まれるような衝撃が麦泉を打ちのめしている。
「お忘れかも知れませんが、あたしは
「……宿泊先のホテルに直接電話して取り次いで貰ったんだけど、そのときにも凄い剣幕で怒鳴り散らしていたよ……」
「ちょ、ちょっと! 休暇中の人に連絡入れて悩ますのはやめてあげてくれませんっ⁉」
今福は自分の立場と本来の所属先を主張したわけではない。日本国内で最も有名な格闘技雑誌であり、『
彼女たちの憤りは全く正当であった。古巣というだけで
麦泉自身も今までと同じように樋口と向き合えるとは思えなかった。今となっては彼に敵愾心を抱いていないのは秘書である日野目一二三くらいではないだろうか。
八雲岳らと共に日本MMAの最盛期を支えた立て役者の一人であり、国内外の格闘技関係者にも顔が利く樋口に逆らえば、この業界に生きる場所がなくなるという恐怖が強権を許している――考えられる限りで最悪の構図が彼を〝暴君〟たらしめているのだった。
「インタビューした内容をそのままサイトにアップしたら、ようやく回復した日本MMAの信頼も団体としての評判も焼き尽くされるって直談判したんですよ。そしたら樋口の野郎、何て答えたと思います? ねえ、麦泉さんっ⁉」
揉み消せ――ただ一言による樋口の声真似を麦泉は返答に代えた。重苦しい雰囲気を変えようとおどけてみせたわけではない。冗談など口にしようとも思えない。『NSB』上級スタッフの宿泊先に
「ナオリの長電話で
「倉持さんがやめとけって言ったんじゃないですかぁ! 電話で! そんなことで腹癒せしたって日本MMAの立場が悪くなるだけだって! やっぱり撮影スタッフに無理言って収録自体を打ち切らせておけば良かったわッ!」
「……これはあくまでも僕の想像ですが、今福さんと話した時点では社長は本当にキリサメ君の、……後ろ暗い過去を握り潰すつもりだったんだと思います。後から善後策を閃いて実行に移しただけではないかと……」
「何をどのタイミングで思い付いたか――そんなの探っても意味ないでしょ。『
長々と言い争いはしたものの、結局のところ、自分と今福は同じ点に腹を立てていたのだと麦泉は再確認し、その途端に樋口への失望が一等苦く心に広がっていった。
(……原稿起こしまで良く短時間で終わらせられたな。何事にも抜け目のない社長のことだから録音データを取り上げた直後には誰かに――日野目さんに指示していたのかも知れないけど……)
『
おそらくは八雲岳から
今日のような事態を予測し、一種の保険として身辺調査を進めていたと考えれば辻褄は合うのだが、それはつまり、キリサメのことなど最初から少しも信じていなかったという証左でもある。
「――釈迦に説法でもこれだけは言わせて下さい! 俺たち格闘家は主催者に命を預けるのと同じなんですよ⁉ だからこそ、ちょっとやそっとでは絶対に揺るがない信頼関係で結ばれてなくちゃいけないんです! あの男がやったのはパートナーシップとは正反対のことなんですよッ! しかも、これからデビューしようという若い選手を裏切るなんて言語道断ッ!」
麦泉の脳裏に甦ったのはタクシーの車中で通話していた相手の怒鳴り声であった。受話口から溢れ出す一言一言が脳を揺さぶるようであり、麦泉も鼓膜を破られてしまうのではないかと心配になったくらいだ。
それほどまでに通話の相手はキリサメ・アマカザリという少年の行く末を案じていた。
一度も顔を合わせたことのない相手に対する感情としては過剰なほど強烈だが、
成り行きを人任せにするのは八雲岳らしくないと憤り、彼が動かないつもりならば自分が『サムライ・アスレチックス』に火を放つとまで怒鳴っていた。
「――こういうときだからこそ冷静でいちゃいけないんですッ! 涼しい顔で見物なんかしていられないッ! 一人の若者がろくでなしの大人の
「キミがセンパイ――師匠からして貰ったようにかい?」
「俺が大勢から導いて貰えたようにッ!」
意志の強さを表す極太の眉毛を電話の向こうで吊り上げていたであろうその男は、樋口が裏で糸を引いた暴露番組について「日本のMMAを背負って立つ人間がやって良いことではない」とまで扱き下ろしていたが、思えば今福と腹の立て方が殆ど同じであった。
何よりも二人を突き動かしているのは天をも焦がさんばかりの義憤である。双方とも自分以外の〝誰か〟の為に本気で怒っているのだ。
麦泉は再び心に突き刺さった言葉こそ深刻に受け止めている。
岳や鬼貫と比べて現役引退こそ早かったものの、昭和から平成にかけて濁流の如く移り変わっていった日本プロレスの有り様を最前線にて見届けた男なのだ。
キリサメを見守る〝大人〟としての思いからも、常務という肩書きに付き纏う利害の観点からも、樋口社長が取った行動は一つとして擁護しようがないものであった。
「あなたたちの気持ちは百も承知の上だけど、それでも敢えて言わせて貰うなら組織の実害と想定し得る要因を速やかに排除するのは最高責任者として当然の判断だと思うわよ」
「く、倉持さんっ⁉ え……っ、樋口を庇うんですか⁉ 倉持さんがッ⁉」
『サムライ・アスレチックス』の誰もが認められずにいる樋口の行動へ倉持が理解を示したのは、選手の立場を考えてあくまでも抗議し続けると麦泉が結論付けた直後のことであった。
間接的に異論を唱えられた恰好であり、面と向かって言葉を交わしていた今福は言うに及ばず、麦泉も口を開け広げたまま動けなくなってしまった。
「ナオリはわたしのことをどう見てるのよ――確かに社長は結果を性急に求めすぎたわ。でも、個人的な感情に囚われて二の足を踏んでいたら組織なんてたちまち立ち行かなくなるもの。事業の規模が大きい場合は特にね。あなたたちはMMAに尽くすという自分の仕事に責任と誇りを持っている。それなら、わたしが言いたいことも理解できるわね?」
「……ずるいなぁ、倉持さん。そんなことを言われたら、あたし、何も言い返せないじゃないですか」
麦泉とて同様である。一個人としての激情に身も心も委ねて樋口と衝突し続ければ『サムライ・アスレチックス』の内部分裂も表沙汰になり、『
銭坪に付け入る隙を与えることは、組織の利害を熟慮しなくてはならない常務にとって歓迎し難い筋運びである。
「……ナオリと
「柴門さんが⁉」
「感情に引っ張られたら組織の舵取りは難しくなるけれど、情が浅ければ人と心を通わせることもできやしない。それは麦泉と同じく柴門も痛感していると思うわ。……これじゃ社長判断を否定したようなものね。わたし個人の考えだから聞き流して構わないわよ」
倉持には『サムライ・アスレチックス』の経理という立場を超える権能が与えられておらず、運営予算の管理以外には『
一緒に
例え都心から遠く離れた場所にいても柴門
二人にはどうしたって敵わない――と、麦泉は苦笑と共に肩を竦めるしかなかった。
「理由はともかく、あなたたちが怒り狂うのは当然だし、わたしだって社長に言いたいことは山ほどあるわ。……だけど、
オリンピック及びパラリンピックのような国家的大事業ではないものの、『
開催中止という事態に陥ろうものなら『
単純な名誉が問題なのではない――これこそが倉持の示した危惧であった。
「わたしたちには一年半しか残されていないわ。ネガティブなイメージが一つでも付いてしまったら、それを返上する猶予もない。社長が私情を押し殺してまでえげつない
「倉持さんまで樋口や八雲さんみたいに『CUBE』だの東京ドームだのって浮足立っているんですか⁉ まさか、そんな……ッ!」
「MMAを地上波テレビ放送に完全復活させる――それも『サムライ・アスレチックス』の悲願でしょう?
「……MMA日本協会が総合格闘技をオリンピックの正式種目にしたがっているのと一緒ですしね。僕たちが――日本MMAがテレビへの復帰を目指すのは……!」
「日本MMAに携わる皆の悲願を果たす為なら、わたしも何だってやるつもりよ。樋口社長の立場ならきっと同じコトをしたハズだわ。二人は気に食わないかも知れないけど、力業で解決できる内にアマカザリ君の不祥事を終わらせたのは全く正しい判断よ」
後続の
衛星放送の格闘技専門チャンネル『パンプアップ・ビジョン』は二〇一一年の旗揚げ直後から『
即ち、格闘技に明るくない人々にも『
倉持も『
その悲願の為にも『
「……オフィスもののドラマの登場人物になっちゃった気分ですよ。『
「……今福さん、もっと言葉を選んでください。僕にだって聞き流せることと、そうでないことがあるんですよ」
「大きな事業やそれを動かす組織の歯車になるっていうのは着飾った自分を捨てるのと同じよ。……わたしも矛盾を呑み込んで女子
「……本当にズルいなぁ、倉持さん……。これじゃあたしがバカみたいじゃないですか」
「一人だけトレパンですしね。そりゃあバカみたいに見えますよ」
「ここぞとばかりに小っちゃい嫌味飛ばす人にだけは言われたくないですねぇっ!」
キリサメの代わりに皮肉でもって反撃を試みた麦泉も、これに苛立って革靴の上から彼の右足を踏み付けた今福も、倉持の言葉だけは遮らなかった。
国内外のMMA関係者は
女子総合格闘技団体『メアズ・レイグ』代表――ごく最近まで倉持の名刺にはそのように刷り込まれていた。同団体は底の浅いワイドショーの出演者から『ジョシカク』と軽薄な調子で略称される女子格闘技の世界に
互いが提示した条件を合意に導くことができず、本間愛染という天才MMA選手を『NSB』に逃してしまった大間抜けと言い換える底意地の悪い人間も少なくないだろう。
『メアズ・レイグ』は本間愛染が『
倉持が率いていた『メアズ・レイグ』は次第に自分たちの興収が圧迫され始め、最後には〝合流〟――事実上の吸収合併に至り、今や女性選手によるMMA興行でも『
騒動の裏で糸を引き、
『サムライ・アスレチックス』の共同経営者でも『
MMA団体を取り仕切るだけの能力を備えながら、日本を代表する『
口調こそ軽やかだが、一言一言の重みが違う。樋口を扱き下ろして己の不遇を慰めるようなこともなく日本MMAの悲願達成を目指す倉持の前で私憤を剥き出しにできるほど二人も恥知らずではなかった。
「……〝組織の理論〟が飲み下せないほどあたしだってガキじゃないし、素人でもないですよ。……だけど、今夜のコトは酷過ぎる。『パンチアウト・マガジン』に対する内政干渉以外の何物でもないわ」
やり場のない怒りを重苦しい溜め息と共に吐き出した今福は、控えめながらも深く頷き返した麦泉に対して「それ、同情⁉ 相手が違うでしょ~が!」と再び噛み付いた。
「樋口がやったのは印象操作でしょ⁉ 傷害事件の常習犯と認めた上で美談に仕立て上げたのよ! 倫理を踏み外してまで新しい『客寄せパンダ』が欲しいんですか⁉」
「……ナオリ、その辺にしておきなさい。あなたこそ怒鳴る相手が違うでしょう。社長の思惑はいざ知らず、麦泉は別に八雲岳の養子を『客寄せパンダ』に仕立てようとしたワケじゃないでしょう」
「せめて、最後まで言わせてください! あたしは弁護士じゃないけど、ドン・キホーテ野郎を日本の法律で裁くことができないってのは分かりますよ⁉ だけど、良心の呵責もなく暴力を振るえることが強さのステータスみたいにファンを騙すのは組織云々の前に社会の倫理として間違ってる! あたしたちが『
「――僕が育った
危険分子を迎え入れた『
「……
相対する二人の鼓膜に先程と同じ言葉が再び吸い込まれていき、そこに重苦しい沈黙を生み出した。今福はあくまでもキリサメのことを〝MMAのアイガイオン〟と決め付けて譲らないようだが、これを本人の声が認めてしまったようなものである。
「さっきの番組で殺人経験を仄めかしたときにソレを煽るようなコメントが画面上に乱れ打ち状態でしたよね? ミヤズもミヤズで『岩手の会場には救急車じゃなくて霊柩車を待機させておくべき』って台詞は放送事故も良いトコだけど、悪ふざけでそれに同調していた連中は誰もドン・キホーテ野郎を本当の人殺しとは思っていない。度を越した
「――パンフレットなどにどう書いて頂いても構いません。自分がやってきたことを言い訳する気はありませんし、出場資格を問われても仕方がないと思っています。僕はただ粛々と事実に向き合うのみです」
「この音声でぶっちゃけた『自分がやってきたこと』が何を指していることやら。いずれにしても
国家転覆を企む反政府組織を壊滅させるべく国家警察と共闘した殺人拳――誇大広告としか表しようのない奇抜な経歴ではないか。今福が鼻先で笑い飛ばした通り、緊急生放送の視聴者たちは格闘家としての実績を持たないキリサメの〝値打ち〟を吊り上げるべく用意された筋書きに違いないと受け止めたはずである。
試合開始前に会場内のモニターで再生される選手紹介の
『
「路上の斬り合いが世界中に流れた直後、同じインターネットの力を利用してペルーでの汚点を暴露――時系列としてはあべこべだけど、これでドン・キホーテ野郎から破壊神みたいな暴力の権化に格上げね。……少なくともさっきの放送を観ていた連中は〝そういうキャラクター〟だって信じ込まされたハズよ」
国家警察とまで結び付く現実味のない〝設定〟は受け止める側との感覚的な乖離を招くと今福は付け加えた。樋口はキリサメ・アマカザリの人格を完全に切り捨て、虚飾に彩られた
「樋口がやっていることは真剣勝負のMMAをドーピングで〝超人ショー〟に歪めたフロスト・クラントンと一つも変わらないですよ。紛い物をリングに放り込んだらどういう結果を終わるか、あの人だって知らないワケないのにっ!」
「わたしたちは社長と同じように考えてはいないと、ちゃんとアマカザリ君に伝えてあげたほうが良いわ。あんな放送があった直後だし、『
今福は『NSB』をドーピング汚染に導いた前代表――フロスト・クラントンと自分たちが推戴する樋口社長が重なって見えると口走った。
「――運営は
これを受けて麦泉の脳裏に甦ったのは、先程まで国際電話でやり取りしていた相手の怒号である。
そのときも今も、麦泉の口から否定の言葉が絞り出されることはなかった。キリサメの気持ちを案じている倉持も「樋口社長とフロスト・クラントンの同一視はこじ付けにも近い」などと今福を窘めることはない。
「……僕はキリサメ君を信じる。確かに
「だったら、もっと胸を張ってあげなさい。……今のあなたは子どもを安心させられるような顔じゃないわよ」
今福の不安を更に煽り立てるような
自分の顔から血の気が引いていることも麦泉には
若者が自らの意思で選んだ道を妨げるべきではないと己に言い聞かせ、必死になって抑え込んできた迷いが今は確信に変わりつつあるのだ。デビュー戦には岳と一緒にセコンドとして寄り添うと約束したにも関わらず、どのようにしてキリサメと接することが正しいか、全く見失ってしまったのである。
「あなたにとっての正念場はこれからよ、麦泉。動画サイトとはいえMMAファンが大集合する状況で晒し物にされた以上、アマカザリ君への注目度は青天井になるわよ」
麦泉を諭しつつ今福の手から
「……ただの『客寄せパンダ』とは比べ物にならないような好奇の目を向けられる……」
「今日までは統括本部長の依怙贔屓か、縁故採用程度にしか思われていなかったハズよ。そうでなければ経歴不明なキワモノといったところかしら。……言い方はキツいけど、彼にはそのほうがまだマシだったかも知れないわね」
「こうなってしまった以上、ただのデビュー戦ではない――と? ……いえ、倉持さんの仰りたいことは分かっているつもりですよ。だからこそ、僕が踏ん張らなければいけないということも……」
「アマカザリ君との親子関係がどうなっているのか、わたしには分からないのだけど、普段の統括本部長から推し量ると第三者には不安が尽きないのよね。きっと彼のほうも
「それはそれでセンパイに申し訳なくなるんですけど……」
『
麦泉からすれば心の内側を無遠慮に覗き込まれ、余人には決して知られたくない動揺を暴かれてしまった格好だが、本人はそれを不愉快に思うどころか、何とも例えようのない安心感に包まれていた。
だからこそ、心の奥底を読ませてくれない少年には彼女が示してくれたような接し方で寄り添うべきであったと落ち込みそうになる気持ちを飲み下すことができたのである。デビュー戦の準備に殆ど関与しなかった後悔も瞬く間に解きほぐされ、リングでは一秒たりとも目を離すまいと前向きに変わっていく。
「いずれにしても賽はもう投げられたわ。どこに向かって放り出されたのかは本人にしか分からないけど、ルビコン川の水面へ吸い込まれそうになったら、わたしたちが風を起こして向こうに届けるしかない。落下地点をコントロールしてね。……今はそれ以外にアマカザリ君を守る
双眸の力が甦った麦泉に安堵し、彼の顔から擦りガラスによって隔てられた〝暴君の玉座〟へと目を転じた倉持の眉間には、端数を切り捨てて四〇年という人生の碑文とは異なる類いの皺が寄っていた。
アーレア・ヤクタ・エスト――反逆の川を渡らんとするユリウス・カエサルの引用には心の奥底に抑え付けてきた強い感情が滲み出しているようだ。
己の不遇を恨むことはなくとも、強権的な手法に危機感を抱くのは彼女自身が優先させるべきだと説いた〝組織〟の一員として当然であろう。MMA団体の代表を務めた経験があり、所属選手とも真っ当に向き合ってきた人間だけに今度の一件には麦泉や今福よりも遥かに憤りが深いのかも知れない。
「……日本の法律で彼を裁くことはできない――か。銭坪満吉が喚く程度ならまだマシだけど、捜査一課の
樋口社長に対する批判を言葉の端々へさりげなく差し込むのだから、分かりやすく露にすることはなくとも相当に腹を立てているのか、それとも別なる思惑があるのか――いずれにせよ、倉持が絞り出した呟きへ麦泉は素直に首を頷かせている。今福にも逆らう理由などあろうはずもなかった。
「……〝大人〟の都合にアマカザリ君を――若者を巻き込んでしまった責任は取らなくてはならないわ。他の誰でもないあたしたちが……」
不参加を表明するような事態に陥らなければ
〝暴君〟に翻弄される『
新宿は麦泉が遅い夕食を摂っていた異種格闘技食堂『ダイニング
身の
ドイツ・ハーメルンに本拠地を置く世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』のズボンは適性のサイズより二回り上の物を間違えて選んだとしか思えないほど幅広で、左右の脚を振り回す
汗を吸った黒いタンクトップが纏わりつく上半身は遠目には痩せぎすと思えるものの、間近で確かめてみるとそれが引き締まった筋肉であることに気付いて目を見張るはずだ。
闘い慣れた肉体の持ち主が正面から向かい合い、水平に閃いた蹴り足を互いに叩き付ける状況であるが、歌舞伎町の雑踏で諍いを起こしたわけではない。二人は四方にロープを張ったリングの上に立っている。
『
即ち、二人が臨んでいるのは
ズボンからシューズに至るまで同じスポーツメーカーで揃えた青年のことを詳しく知らない人間は女性がリングに上がっていると勘違いして驚き、何よりも中性的で端正な顔立ちに見惚れてしまうだろう。そうでなくとも青く染めた髪は人目を強く惹き付けるのだ。
艶めいた髪は風を受ける
「――さすがの電知も一晩で二連戦は厳しいんだろう? バテ気味なのか、動きがいつもより荒れているし。胸に秘めた悩みに邪魔されているのなら話は別だがね」
「何でもかんでもズバズバ言い当てやがって! お陰でイライラが悪化しちまわァ!」
「すまないな。商業柄、変に目が肥えているんだよ。自分で言うのもおかしいけど、お節介焼きな性分でね。お悩み相談なら幾らでも乗るつもりぞ? 今の特効薬は元カノとヨリを戻す秘策かな?」
「お前までそれを言うのかよ⁉
「職業柄、〝耳〟も良くなってしまうものさ。パンさんから聞いたわけじゃないぞ」
「犯人即バレじゃねーか! 憶えてろよ、パンギリナンっ!」
相手が蹴り足を引き戻して体勢を立て直す前に組み付いてしまおうと、一気に間合いを詰めんと試みる電知の左太腿を自身の右足裏で素早く踏み付け、技の拍子を崩しながらすこぶる昂揚した調子で呼びかける声はリングサイドでこれを聞く人々に思春期が終わっていないような印象を与えていた。
小柄な電知とはまた微妙に違う形で幼さを残した顔立ちでもある為、変声期を経ているのかも分からなくなりそうだが、彼は数年前に成人式を済ませている。あるいは「成人式を済ませていなくては差し障りのある人物」と表すのが正確かも知れない。
黒いタンクトップにも『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが煌めく青年は、身こなし一つから電知の心理状態まで読み抜いてしまう洞察力やメイプルシロップのように甘い顔立ちなどを使いこなして世の中の女性たちに寄り添い、日々の暮らしで疲れ切った心を癒すホストを生業にしているのだ。
鬼貫道明が経営する『ダイニング
『
「そろそろ手加減ナシで思いっきり行っても良いか? やっぱり変に遠慮するのは電知に失礼だろうし、本調子でなくとも不調までは行ってなさそうだし」
「
「こういうのはノリというか、気分とか情緒みたいなものだろう? 電知を相手にしてナメた真似ができるほどオレも間抜けじゃないよ――」
左足全体の動作を堰き止めている夜叉美濃の右足裏を力ずくで押し返し、その勢いのまま間合いを詰めようと試みる電知であったが、相手の引き戻した蹴り足が再びマットを踏むか否かという刹那に新たな衝撃で貫かれてしまった。
電知は拳を交えた者から技の鋭さを電光石火と
先程は内側から抉るように、二撃目は外側から挫くように――立て続けに左太腿を脅かされた恰好であるが、その威力は膝関節にまで影響を及ぼし、片足から瞬間的に力が抜けてしまった電知は重心すら維持できなくなって崩れ落ちるところであった。
同じ左足が再び振り抜かれ、側頭部を横薙ぎに脅かそうとしたのは次の瞬間である。電知の
「――何回、喰らってもヒヤッとさせられるぜ! 『サバット』の連続蹴りはよォ!」
「同じ台詞をお返しするよ。こっちは一発外すだけでも命取りだ」
足元に相手の意識を集中させておいて瞬く間に頭部への攻撃に変化したわけだが、電知も直撃は許さない。こめかみの辺りを撃ち抜こうとしていた
左の五指を踵に食い込ませたまま大きく踏み込み、これと同時に対の右手を伸ばしてタンクトップを掴むつもりである。
下肢と上体を一挙に制して相手を押し倒し、後頭部からマットに叩き付けようというわけだが、電知が
接客業で生計を立てていながらも夜叉美濃は〝プロ〟の格闘家と見紛うばかりであり、
物陰に危険が潜むような繁華街を渡り歩く為の護身術ではなく、完全な戦闘技術の類いである――が、彼の正体を知る人間は電知も含めて誰もこれを驚きはしないだろう。四方を取り囲む黒いクロス張りの壁にも
即ち、歌舞伎町の誰もがその
だからこそ電知が長い歳月を費やして研究し、若かりし頃の前田光世が体得したと伝わる
当然ながら『
鳩尾目掛けて滑り込んでいくかのような電知の肘鉄砲を右掌底で弾き返すや否や、夜叉美濃は
二人の
身体能力と反射神経の両方が桁外れに優れた電知は左右の下腕でもって殆どのパンチを凌いでいる。幾度か
「う~ん……絶不調は杞憂だったけど、やっぱりいつもと比べて切れ味が鈍いな。サンドバッグ代わりにされるのは真っ平御免だが、ミット役くらいは何時間でも付き合うぞ」
「こんなおっかねぇ蹴りを入れてくるミット役がいるもんかよ! 見てろよ、調子なんか
夜叉美濃が
小柄な電知と向かい合った場合、夜叉美濃は腰の高さも足の長さも相対的に際立つ。巧みな足技こそ『サバット』の特徴だが、すらりと伸びた四肢がこれに組み合わるとリーチで劣る電知には懐へ飛び込むことも容易ではなくなる。
その上、サバットの足技は爪先でもって蹴り込む為、他の格闘技と比較してもリーチが伸びるのだ。キックボクシングや空手、あるいはムエタイの攻防に慣れ切っていると錯覚が生じて直撃を被り兼ねないのだった。
手足の長短という本人の努力ではどうあっても埋められない差ですら電知は自身を高めてくれるものとして受け入れ、楽しめる男であった。
それが今夜は違う。研究と修練を重ねて復古された
大きく踏み込みながら突き出された右手に反応して上体を傾けた夜叉美濃は、
タンクトップを掴むべく伸ばしていた腕をすぐさまに引き戻し、肘でもって夜叉美濃の蹴りを弾き飛ばした電知の瞳は脛を狙って突き込まれてきた対の右足裏と共に〝別の敵〟を視界に映している。
夜叉美濃の真隣に浮かび上がった
歌舞伎町の片隅に所在し、尚且つ二四時間営業ということからホスト格闘技の選手たちが仕事帰りに集まるキックボクシング系のジムにて夜叉美濃と
あるいは
キックボクシング系のジムとはいえMMAルールの
同じ『ハルトマン・プロダクツ』製造の
直線的に蹴り足を突き出し、親指の付け根辺りでもって鳩尾を抉らんとする青年は
キリサメとの
事実、対戦カードを決定する席に
デビュー戦をKO勝利で飾ったことによって自信を付けたらしく、誰よりも負けん気の強い電知にさえ眩しく思えるくらい野心を剥き出しにしていた。だからこそムエタイの挑戦に応じたといっても過言ではない。
今年初めに『
当然ながら
即ち、団体間の敵対関係を超えて相手の実力を認め、受け入れたということである。それは柔道の創始者であり、平和の祭典であるオリンピックへ長年に亘って貢献した
嘉納治五郎が示した理想を思えば、
パンギリナンのときと同じように新しい絆を育んでいけるだろうと期待し、
それが今夜のこと――
(想い出したくもねぇのによ。……おれ一人がコケにされるだけならまだしも、嘉納大先生の顔に泥を塗っちまったようなモンじゃねぇか……ッ!)
脛を脅かして横転を図る夜叉美濃と、鳩尾を抉って致命傷を与えようと逸る
二人への反撃はそれぞれ異なっている。
直撃すれば呼吸困難を引き起こしたことであろうが、
「――裏切り者ッ!」
右拳による
その一言によって意識が蝕まれていては本来の力を半分も発揮できまい。
『
『
『
本業を別に持つアマチュアの腕自慢が集結した
報道関係者ではない一般の観客でさえリングサイドからデジタルカメラを向けられることもアマチュア選手による
歌舞伎町のジムには
電知を応援する人々や自身の試合を待つ選手たち、更にはレフェリーも口を慎むよう注意を飛ばしたのだが、相手が逆上している以上は火に油を注ぐ結果にしかならず、ついにはリングサイドで小競り合いが起きてしまったのである。
厭でも視界に入ってしまう仲間同士の諍いも、対戦を心待ちにしていた
これからMMAデビューを迎える
「身が入らないのは別の悩みの
「人生の酸いも甘いも嚙み分けたようなホストに言われると坊さんの説法よりもずっと効くぜ。……おれらしくないのは誰よりも
「そういうときは頭の中が空っぽになるくらい疲れたら良いんだよ。酒やタバコで発散させるよりずっと健康的だ。ドラッグなんか以ての外さ」
「成人したって酒もタバコもやるつもりはねーよ。ドラッグ?
右下腕による
奇しくも同じ
そもそもサバットでは履物自体が一個の武器として扱われているのだ。夜叉美濃が使う競技用シューズも靴底の強度が尋常ではないが、硬い靴を履いた状態で蹴りを入れ、敵を制圧するのが本来の
ブルボン朝まで遡る古い時代には靴の爪先に刃物を仕込んで闘う者も少なくなかったと電知も聞いている。現代の競技化されたサバットでは禁じられてしまった技も
〝実戦〟の技が首筋を掠めた瞬間などは恐怖と戦慄で全身の血が沸騰し、抑え入れないほど昂ったものである。
相手の
双方とも軸足と蹴り足を素早く入れ替えながら電知を迎え撃った次第であるが、
「……やっと一年か? もっと短いくらいの付き合いだっつーのにおれの考えてることくらい何でもお見通しって感じだな。ちょっとシャクだぜ」
「
「……寅のコトは悪かったって。結局、おれが止めたんだから嫌味じゃなくて感謝の言葉を貰っても良いんじゃねーかな」
「それにしたって秋と冬の二回に分けて古い剣道を味わうのはさすがに参ったよ。顔に傷でも付けられたら本業にも差し支えるし」
「ちょっと待て、冬ぅ⁉ 二度目のは知らねーよ! 寅の野郎め、あれだけ説教したってのに効いちゃいね~のか!」
「途中から個人戦になったけど、二度目のときはドギツいピンクのバンダナ巻いた連中を引き連れてたしな。……
「思いっきり『桃色ラビッシュ』じゃねーか! 冬っつったら『
夜叉美濃の噂を聞きつけ、手合わせを求めてこのジムに乗り込んだのが友情の始まりであったが、このような筋運びでもなければ地下格闘技とホスト格闘技が交わることなどなかったはずだ。
『不夜城』ではインターバルに選手へスポーツドリンクではなく
「先週、
「……選べたら選んでるっつーの……」
「例の剣道バカ、記憶違いでなけりゃ
「別に〝袖の下〟で首が繋がってるわけじゃねェと思うぜ。寅のトコは親父さんも
インターネットを中心に拡散され、ここ数日の間はニュース番組のスポーツコーナーも騒がせた
数時間前の試合では「裏切り者」という罵声を聞き流されて激怒した
右拳を直線的に突き込むと見せ掛けておいて命中の寸前に五指を開き、そこから更に半歩ばかり踏み込んだ
対の手も同じ部位に巻き付ければ『
彼女は最も得意とする必殺技でMMAデビュー戦の相手を
己の身に起きたことが理解できず、目を瞬かせている間に追撃の鉄拳まで振り落とされていた。連打ではなく渾身の一発のみに留めているが、MMAの『パウンド』と術理が近い。
一撃で鼻骨が折れたらしく、左右の
この程度の出血で中断されることはないと経験で知っている電知は一瞬たりとも立ち止まらずに追撃を連ねていく。自らもマットへと身を沈ませ、呆けたように倉庫の天井を仰ぎ続ける
相手の意識に空白が生じた瞬間こそ攻勢を強める好機であり、手足の長短といった埋め難い差を飛び越える可能性もそのような刹那でこそ掴み取れることを今までの実戦経験から電知は熟知している。
しかし、この
突進を迎え撃つべく直線的に繰り出された右拳へ己の左拳を叩き付け、これを弾き返した電知はサバットの体系に組み込まれていない膝蹴りでもって夜叉美濃の鳩尾を抉ろうと試みたのだが、ホスト格闘技の花形選手は僅かに傾いだ体勢から
電知の
刹那の空白はそこに生じ、これに割り込むような形で夜叉美濃は電知の軸足に両手を伸ばしていく。これに連動して垂直落下の如く自ら身を沈めていったのである。
「――おれに真っ向から投げ技の勝負を挑むなんて相変わらず良い度胸してやがらァ!」
夜叉美濃が如何なる技を仕掛けようとしているのか、電知は即座に見破った。
二〇一四年現在に
投げ技や関節技の類いは危険性の高さを理由に現代では反則行為に指定されている。夜叉美濃が仕掛けたのは競技化の過程で封印されていった禁じ手というわけである。
「出たな、『リュット・パリジェンヌ』!
「言っただろ、『頭が空っぽになるくらい疲れるのが一番』って。中途半端な技で電知を満足させられるとは思っていないぞ」
電知の叫んだそれが禁忌の総称であった。
すぐさま軸足の膝を屈伸させて跳ね飛び、夜叉美濃による捕獲を免れた電知ではあるものの、追撃を恐れて
我知らず顔が綻んでしまうような
「ノッてきたじゃないか、電知! そうこなくちゃこっちも調子が出やしない!」
あるいは着地を待たずに腰を捻り込み、空中で蹴りを放っていたら待ち構える結果が変わっていたかも知れない。左足一本でマット上に立つ夜叉美濃は真横から吹き付けてくる風が頬を撫でる前に上体を大きく反らしたのである。
改めて
電知の姿勢が大きく崩されたのは蹴り足を引き戻している最中のことであった。対する夜叉美濃は彼に臀部を向けながら左足一本を軸に据え、我が身で丁の字を表すような恰好となっている。
互いの右足が空中ですれ違ったとき、突き込むような形で繰り出された夜叉美濃の蹴りは電知の左太腿にめり込んでいた――錆一つない歯車の如く緊急回避動作と反撃が完全に噛み合い、相手の軸足を軋ませたわけだ。
夜叉美濃の右足裏は足の付け根辺りに命中している。攻防一体の妙技に加え、リーチの長さまで生かし切った一方的な狙撃を受けては電知にも重心の維持が難しく、危うく尻餅をつくところであった。
この状況は
正確には全体重を乗せて小さな身体を撥ね飛ばすことが目的ではない。電知の正面に背中を押し当てると
言わずもがな『リュット・パリジェンヌ』の一種である。ほんの一瞬でも付け入る隙があれば、夜叉美濃とサバットには十分というわけだ。
「真っ向から組技勝負を挑んでも
左腕全体を外側へと引き伸ばし、これと同時に右足で電知の両足首を一気に刈り取ってしまえば間違いなく
幾ら『コンデ・コマ式の柔道』が寝技に長けていようとも、うつ伏せの状態で組み敷かれてはマットの上を滑ることさえ難しいはずだ。電知の体勢も左右の手で自由自在に変えられるので、思い通りの形に押し倒した後も追撃の選択肢が豊富に用意されている。
左腕の関節を極めるのも首を絞めるのも意のままであり、電知には為す
電知の首と左腕を押さえたまま油が切れたブリキ細工の如く止まってしまったのは、今まさに引っ掛けようと狙いを付けていた足が左右ともマット上から掻き消えた為である。
胴を軋ませる圧迫感が夜叉美濃を押し止めたといっても過言ではないだろう。内臓を圧し潰さんばかりに食い込んでいることがタンクトップの上からでも分かるほど電知の両足に強く挟まれているのだ。
傍目にはユーカリの樹に張り付いたコアラのように見えなくもないが、実際には強靭な
何とも艶やかな呻き声が夜叉美濃の口から滑り落ち、リングサイドで
「……
「勘弁してくれよ。おれを西郷大先生と比べるなんてそんな……恐れ多くて仕方ねぇぜ」
己と横並びの如く扱われた名前に対し、電知が似つかわしくないほど恐縮してしまったのは無理からぬことであろう。
幕末維新の大転換となる王政復古の大号令から遡ること一年――それから
一六〇センチにも満たない小柄な体躯を思えば、『小さな巨人』といったところであろうか――今でこそ〝我流〟の色を濃くしているものの、講道館柔道を原点としている電知にとっては幾ら敬っても足りないほどに大きな存在であった。
西郷四郎が最も得意とした幻の秘義『
「
大それた挑戦であったと己の不足を恥じた過去があるだけに他者から西郷四郎の〝タコ足〟に並べられてしまうと、
片側の袖と襟を掴みつつ背負い投げにも似た動作へと移り、同じ側の後ろ足でもって相手の足首を払うことができなければ『
夜叉美濃も口にした〝タコ足〟とは西郷四郎の身体的特徴を
常人離れした
「……おれは『
「お~い、本当にどうしたんだ? 今日の電知はどうにも〝らしく〟ないぞ。お前が目指してるのは
「分かってるって、うるせェなぁ。耳元で大声出すなっつの」
『
文豪の創作意欲まで駆り立ててやまない〝伝説〟の重みを同じ柔道家として理解していればこそ、夜叉美濃から掛けられた
現在の夜叉美濃は腰から背中までの可動域を脚力一つによって物理的に押さえ込まれているのだ。
仮に肋骨の辺りを直接的に締め込まれていたなら、今頃は両側から〝何か〟の破断する音が聞こえていたはずだ。それ程までに強靭な足が己の身を振り回すだけで外れてくれるとは夜叉美濃も考えていない。
首か左腕か、あるいは両方か――両手でもって電知の足を掴み、これを引き剥がすくらいの手立てしかないわけだが、相手は『コンデ・コマ式の柔道』の使い手である。上半身が自由を取り戻した瞬間に夜叉美濃の首へと自身の両腕を巻き付け、絞め技でもって反撃を仕掛けることだろう。
自ら後方に身を放り出し、小柄な電知を押し潰すという選択肢が脳裏を
何しろ電知は現時点に
『リュット・パリジェンヌ』の
強引に上体を傾け、前方へ投げ落とそうとしても電知は落下の最中に体勢を整え、左右の足で巧みに着地してしまうはずだ。得意の投げ技か、腕を捻り上げるような関節技か。いずれにしても反撃は免れまい。
果たして、夜叉美濃の勘働きは鋭かった。次なる出方を確かめようと両腕の力をほんの少し緩めた直後、彼の身は空中に撥ね上げられてしまったのである。
まさしく電光石火の反撃であった。首と左腕の拘束を振り解くや否や、胴に巻き付ける状態を維持したまま電知も両足の力を緩め、時計の針とは逆回りに腰を捻り込んでいく。
相手を一本の
互いの顔を至近距離から見つめ合う恰好となったがほんの一瞬では視線を交わすことも不可能であったはずだ。左右の五指にて夜叉美濃の両肘辺りをそれぞれ掴んだ電知は、己の身を後方へ放り出すと同時に右足裏をタンクトップの上から腹部に押し当てた。
リングサイドの人々には柔道の『巴投げ』と見えたであろうが、膝の屈伸によるバネを生かして後方へ投げ飛ばすことはない。両手と片足でもって夜叉美濃の身動きを制したまま電知は互いの身体を車輪に見立ててマットの上を転がり始めたのである。
相手の背中を連続して痛め付け、同時に強烈な遠心力で脳を揺さぶるという変則的な技であった。しかし、これは電知にとって勝敗を決する局面で繰り出す必殺技なのだ。
「――西郷四郎も『
「何度も同じようなコトを繰り返すな! おれにだってオリジナルの技もあるわい!」
「オリジナルって言い切っちまうと問題あるんじゃないのォ――」
リングサイドで
尤も、標的と技との相性を見誤った場合には最大の攻撃力など望めはしない。二人して組み合ったままマット上に斜線を引くかのように転がり続け、四方に立つ
回転の最中に己の背中が天井を仰ぐ状態となった夜叉美濃はこれこそ脱出の好機と見極め、左右の足でもってリング全体が軋み音を立てるほど強くマットを踏み付けたのだ。当然ながら電知は技の拍子を崩され、両者に働いていた遠心力まで断ち切られてしまった。
車輪さながらの回転が強引に堰き止められると相応の反動が作用するものであり、夜叉美濃の肘に食い込んでいた指の力も少しばかり弱まった。打撃系立ち技格闘技として広く知られているサバットの使い手でありながら、『リュット・パリジェンヌ』をも極めた者としてMMAルールでホスト格闘技に
ほんの一瞬だけ訪れた静止状態を見逃すはずもなく、マットを踏み付けた直後には膝のバネをも引き絞り、電知の両手を振り解くようにして後方へと跳ね飛んだ次第である。
腹部に片方の足裏が宛がわれ、これによって
「それじゃ、お待ちかねの『パルチザン』、全力で行くぞッ!」
コーナーポストとは反対側へ着地した夜叉美濃は、上体を引き起こした電知が追撃を仕掛けてくることを確信するなり今し方の軌道を逆に辿る形で再び跳ねた。それまでの縦回転から横回転へ切り替えつつ、生じた勢いに乗せて右足を後方目掛けて繰り出していく。
「さも当たり前みてェにウソっぱちの
「サバットの回し蹴りは
追い縋ってくる相手の顔面に強烈な一撃を見舞う後ろ回し蹴りを夜叉美濃は『パルチザン』などと称していたが、左右の下腕を重ね合わせてこれを
(――だけど、これが格闘技ってヤツだよ! 所属団体とかしがらみなんざ関係なく、スカッと晴れた青空みてェに自由でなくっちゃ腕比べも面白くねぇよ!)
骨にまで響いた
柔道家としての経験と勘働きから『リュット・パリジェンヌ』の
もはや、本調子であるか否かは言い訳として通用しない。夜叉美濃との
復帰戦の相手――
依然として夜叉美濃の隣で蠢く
『首相撲』を
カラーギャングから
ムエタイという打撃系立ち技格闘技を専門にしているとは思えないほど寝技への対処が的確であった。しかも、完全には意識が回復し切らない状況下での反応と判断である。そこに決して短くはない格闘経験が透けて見えるようだ。
尤も、
サバットとムエタイの違いとは関係ない。夜叉美濃とならば高い次元で組技の稽古を突き詰めることができる。それは『コンデ・コマ式の柔道』を志す電知にとってこの上なく幸せな出会いであった。
だからこそ電知は浅草から歌舞伎町のジムへ
格闘家同士の交流などそれくらい自由で良いはずだ――と、ムエタイ式の回し蹴りを手刀でもって叩き落とした瞬間を振り返りながら電知は心の中で吼えた。
それでも電知は『
『
単純明快を信条とする電知には自分が誰かを認めたいというときに所属団他の思惑を判断の指標に据える意味が分からない。それ故に「何かがおかしい」と『
今や日本の格闘技界全体がおかしくなっているようにも思えた。幼馴染みと親友が〝
深夜に受信していた左右田からの
丁度、希更・バロッサも駆け付けたところであったのだが、二人揃って確かめたキリサメの
自分のことを『
平気であるよう装うことで、何かの拍子に決壊してしまいそうな感情を押し殺しているようにしか見えなかった。
希更のほうはキリサメの隣に座りながら真っ赤な顔で俯き続ける未稲へ「ひょっとしてナニかあったの? ナニがあったの?」と執拗に纏わりついていたが、電知は一瞬たりとも親友から目を離さなかった。
暴き立てられた過去を知った親友が自分のもとから離れていくのではないかと、いつもより瞼が閉ざされている双眸に問い掛けられたのだ。
それが電知には忘れられなかった。だからこそ、
『
「――尤もらしい
電知を罵る者たちも彼を応援する者たちも、双方とも息を飲んで瞠目してしまったのはその動きが電光石火の四字を
歌舞伎町のリングに立つ電知も
(そういや、
迎撃の為に突き上げられた
鳩尾を抉られた
激情に衝き動かされて心身とも前のめりになっていた為、一撃目を引き戻すよりも早く二撃目の掌底が追い付いてしまった。即ち、
その直後、
想定を上回る威力が人体急所を貫いたことは足元で泡を吹く
(二つの
我ながら
マットを蹴り付け、夜叉美濃の懐へと飛び込んでいく――己の肉体が意識を追い越してしまうほどの
しかし、電知は止まらない。一撃目で強引に押し込み、胸板と密着する格好になった左下腕へ二撃目の掌底突きを叩き込んだ――幻影を穿った瞬間のように一撃目と全く同じ部位に二撃目が追い付き、左右の手が重なっていた。
咳の一つ一つにも色気のようなものが宿っており、リングサイドの人々は先程と同様にパンギリナンを除く誰もが恥ずかしそうに目を逸らした。
「落ち込みモードから急に新技発表会に切り替わったのか? 何だ、今のは……」
ダメージそのものを自覚しながらも己の身に起きた
「やっぱし自由で良いんだっ! 格闘技ってのはよォッ!」
歌舞伎町界隈でも特に変わった理由で名前が知られているホストは、左右の掌を覗き込みながら〝何か〟を噛み締めるように首を頷かせていた電知が素っ頓狂な叫び声と共にいきなり握り拳を突き上げたことで更なる混乱に導かれた。
当然ながら質問に対する直接的な答えになっていない。それどころか、間接的にも回答として成立していない。今までに見たことのない新たな技でも編み出したのかと夜叉美濃は
〝若〟の様子をリングサイドで見守っていたパンギリナンに目を転じ、互いの顔を見合わせた夜叉美濃は意味不明とばかりに揃って首を傾げるのだった。
「そうだよ、こいつは新技だ! 試験段階だけどな! そいつがホストと
世界中を経巡って各地の猛者たちと異種格闘技戦を繰り広げ、やがてはブラジリアン柔術の祖となった
ただひたすらに精神を研ぎ澄ませ、世界最強への道を求道者の如く突き進んだ――現代の人間が覗き込む
それは日本SF界の父と称される文豪――
強さを求める余り〝人間らしさ〟を捨てた修羅であるどころか、むしろ
「オレには
「西郷四郎大先生の次は前田光世大先生⁉ しかも、生まれ変わりィ⁉ ホストはおだて上手でなけりゃ務まらねぇだろうけど、幾らなんでもやり過ぎだぜっ!」
「照れながら言っても説得力ないぞ、電知。ナイーブな少年が塞いじゃったときは褒めて褒めて褒め倒すのが一番ってね」
「オチをつけたら意味ねぇよ! 木に登る豚じゃねぇんだからっ!」
生涯の目標として尊敬している人物の生まれ変わりとまで讃えられ、耳まで赤く染めた電知に教わらなければ夜叉美濃も知らないままでいただろうが、
明治日本の青春を彩り、若かりし頃の
日本で初めてオリンピックに挑戦した短距離走者も『
サバットを志している夜叉美濃にも
『
「
「徳三宝をお手本みたいに言うのは問題アリじゃないか? オレの記憶が正しければ、自由奔放過ぎて嘉納治五郎から破門された人だろう。冒険心と似て非なるものだよ」
「それが真に自由ってコトだろ! 天衣無縫の極みだぜ! ていうか、徳大先生は破門を許されて講道館に復帰してるから! 永久追放みてェに勘違いしてくれるなよっ!」
ブラジルの腕自慢一五人が講道館へ道場破りに訪れるという事件が起きた。
いずれも無作法な荒くれ者ではない。
異邦人の道場破りとはいえ、若き日の嘉納治五郎が修め、講道館柔道の起源ともなった『
ブラジル人柔術家たちとの一戦から更に遡ること三年――明治四二年の夏にも徳三宝は異邦人との闘いを経験している。
折しも明治後期の日本では柔道と拳闘――即ち、ボクシングとの異種格闘技戦が盛んに執り行われていた。
明治四二年は嘉納治五郎の甥・健治が日本に於ける
明治の終わり頃には
勿論、問題がなかったわけではない。同年五月――近代劇場として名高い
日本柔道の強さを世界に示すどころか、講道館の威信が地に落ちるのではないかと懸念する声まで上がり始め、とうとう最終兵器たる徳三宝に参戦が要請されたのである。
説得に押されて徳三宝が臨んだ〝柔拳試合〟の舞台は、かつて榊原鍵吉が〝撃剣興行〟を催したのと同じ浅草であった。
町のならず者を相手に路上戦のようなことを繰り返す荒々しい性情を大恩ある師匠・嘉納治五郎から幾度となく諫められていた為、参戦自体にも慎重であったが、
「改めて言っとくぜ⁉ 徳大先生のスケールもおれの理想なんだ! 世界を相手に闘った一人なんだよ! おれもブラジル艦隊を向こうに回して思いっきり暴れてぇ~!」
「電知の柔道家トークは耳タコだって。ブラジルの道場破りの件はやっぱりマズかったんじゃないの? 徳三宝に憧れるのは構わないけど、世界へ撃って出た後に警察のお世話になるような試合だけはやらかすなよ。道場じゃなくて旅先の国から追い出されるぞ」
「前田光世大先生も! 『野中の一本杉』も! おれには自由の象徴だぜッ!」
荒々しい憧憬と共に徳三宝の歩みを振り返る電知であったが、年下の友人から講道館最強の逸話を飽きるほど聞かされ、昭和二〇年三月一〇日の最期まで把握している夜叉美濃が指摘した通り、地球の裏側から講道館へ来襲したのはただの荒くれ者ではない。〝柔拳試合〟に駆り出された欧米の水兵と同じように遠洋航海の最中に寄港したブラジル東洋艦隊の乗組員であったのだ。
ブラジルの水兵が痛めつけられたことを受けて、道場破りを返り討ちにするという講道館の日常茶飯事が国際問題にまで発展してしまったのである。「徳三宝に片膝を突かせただけでも勝利に等しい」とさえ謳われる強さが却って仇になったのだ。
マラソンの
一九一二年といえば開拓移民たちがブラジルへ渡り始めたばかりの時期でもあった。日伯関係を拗れさせるわけにはいかず、講道館の威信を守った功労者であるはずの徳三宝を追放せざるを得なくなってしまったのだ。
実際には破門・追放ではなく謹慎を言い渡されたのみとも伝わるが、いずれにせよ講道館への復帰までには六年もの歳月を待たなければならなかった。
「……今夜の
「やっと吹っ切れそうってなタイミングで水を差すなよ、夜叉美濃ぉ~」
「水を差すつもりはないが、友人として釘は刺しておくよ。……『桃色ラビッシュ』とかいう例のカラーギャングを甘く考えないほうが良いぞ。抗争で打ち負かした『
「な、なんでお前がそんなに訳知り顔なんだよっ」
「眠らない街ってのは遠くから眺めている分には華やかだけど、ドギツいネオンライトの影が薄汚いモンを隠してるだけだからな。〝裏〟の社会の
「……それでもよ、カラーギャングから
「それが電知の良いトコだよ。……これから先もずっと大事にしてくれ」
常に前向きであるよう友人を鼓舞しながらも夜叉美濃の双眸はリングサイドに立つパンギリナンへと向けられている。
人から裏切られることも恐れないほど直向きな少年は
「言われるまでもねぇよ。おれは『
電知本人にもパンギリナンにもリングへ上がる前に教わったことであるが、彼は気力十分で臨んだ
開催の
生卵など挑発行為としては無害に等しいが、電知を裏切り者呼ばわりされたことに腹を立てていた仲間たちには十分に暴発の火種となる。これを引き金としてリングサイドでは小さな乱闘まで起きてしまった――と、夜叉美濃はパンギリナンから耳打ちされている。
古い時代の様式を再現した
質問に対する回答が先延ばしになっていることはともかく――夜叉美濃としてはホスト格闘技と
「誰がなんと言おうとおれは『自他共栄』で行くぜ! おれたちゃ格闘技っつうでっけぇ〝世界〟で一緒に生きてるんだぜ⁉ そいつを切り捨てちまったら後には何が残る⁉ 狭い範囲での仲良しごっこなんかに何の意味があるってんだッ! 世界中に
ジムの天井に跳ね返った雄叫びは電知の生き様そのものを表している。
世界最強の男を夢見て海の向こうまで飛び出さんとしている電知にとって嘉納治五郎が説いた『自他共栄』の
あくまでも〝兼業〟として格闘技
徳三宝もまた嘉納治五郎の理念を体現する快男児であったのだろう。
サバットを極めたホストが居るという噂を信じて歌舞伎町まで訪れた電知のように、徳三宝は〝唐手〟を初めて本土に伝えた沖縄の達人――名を
それこそが武芸を極めんとする同志を心から敬愛していた証左であろう。伝説の空手家への挑戦状と共に電知から教わった
本来の柔道に
人と人との繋がり――『自他共栄』の精神が大きな
命が尽きる一瞬まで逃げ惑う人々を焼夷弾から守るべく奔走し続けていた――自分以外の誰かの為に一生懸命になれる徳三宝と電知が夜叉美濃には重なって見えるのだ。
およそ一三〇年の柔道史に燦然と輝く先人たちと同じくらいキリサメ・アマカザリの話も聞かされおり、その
「サンキューな、夜叉美濃! お陰で新技がモノになりそうだぜ!」
「うん、その新技についてさっきから質問してるんだけどな、オレ」
「もう一発、喰らってみたいっつうリクエストか?」
「サンドバッグの代わりは真っ平御免だってさっきも言っただろう。実験台なら付き合うけどさ。……いや、あの技をまともに喰らうのは試合前は厳しいかもな。防御の上からダメージが貫通する感覚、オレは初めて味わったよ」
「偶然の産物だよ。……ほんの数分前まではな」
同じ現象の再び起こすことも難しくはないと自信を覗かせたように
間髪を入れずに左右の掌を重ねたことで相手の体内深くまで衝撃が押し込まれていったのは間違いない。そこにどのような力の作用が働いたのか、
古流柔術の
筋肉が収縮した場合、衝撃を緩衝する弾力性も必然的に減退する。つまり、人間の肉体を一時的に〝硬質な物体〟と同様の状態に変えてしまうわけだ。相手が甲冑を纏っていた場合は
そもそも打撃という外的要因による筋肉の緊張などは瞬きにも満たない短さであり、これを掌握するのは殆ど不可能に近い。その上、一点に衝撃を収束させなくてはならないので、絶え間なく連打を加えた場合には却ってそれが分散してしまう。
まさしく電知が試みたのは刹那を極めた
「……重ね当て――」
「――若ッ!」
自分でも信じられないといった具合に震える声で日本武術に古くから伝わる
リングサイドでを見守り続けてきたフィリピン
誰も彼も同じ方向へと足早に向かっていくのだ。
「どうなってんだ、パンギリナン? 一体、何があったんだ⁉」
「正直、何だかさっぱり。何か大きな、ニュース速報があったと、少しだけ、聞こえたくらいなので、どうにも……」
「ここでずっとオレらを見ていてくれたパンさんに訊くのはさすがに気の毒じゃないか。この部屋に居て分かることなんて
三つの顔を並べて出口の見えない問答を繰り返すまでもなく、尋常ならざる事態であることは瞭然なのだ。顎の下に溜まって玉を結んでいる汗も拭わずにロープを飛び越えてリングサイドに降り立った電知は、コーナーポストの近くに設置されている階段を駆け下りた夜叉美濃やパンギリナンと共に他の利用者たちを追い掛けていく。
この建物に
「――繰り返します。現地時間の土曜日午前一一時一〇分頃、エアフォースワン――アメリカ合衆国大統領専用機がサイバー攻撃を受けたとホワイトハウス報道官より発表がありました。同機はフロリダ州からメリーランド州の空軍基地へ移動中であり、機内には大統領や上級顧問のほか、大統領の仕事を見学する為に同行中であった中学生たちも搭乗しているとのころです。犯行声明によりますとエアフォースワンに大量の時限爆弾が設置された疑いもあり、
別の日に撮影したものと
電知と夜叉美濃が
「今、入ってきた情報です。エアフォースワンには人気タレントであるフィーナ・ユークリッドさん、総合格闘技団体『
「――はぁぁぁッ⁉ 『NSB』だとォッ⁉」
キャスターの声を押し流してしまうほど大きく、素っ頓狂な声が電知の口から迸ったのも無理からぬことであろう。
これに続いて大きなどよめきが起こり、キックボクシングのジムが穏やかならざる雰囲気に包まれたことからも明らかだが、格闘技に携わる者たちが「対岸の火事」などと構えていられる状況ではなくなったのだ。パンギリナンと夜叉美濃も血の気が引いた顔を見合わせている。
「……これって『九・一一』の再現になるんじゃないの……」
同じ場に居合わせた誰かが二〇〇一年九月一一日のアメリカ同時多発テロ事件を思い起こし、これを呼び水として身も世もない悲鳴が狭いロビーのあちこちで上がり始めた。
過激派の原理主義組織にハイジャックされた旅客機が世界貿易センターなどに突入し、筆舌に尽くし難い被害をもたらしたこの事件は二十一世紀を生きる人々の記憶にも、永い人類の歴史にも、史上最悪の自爆テロとして深く刻み込まれている。
とりわけ世界貿易センターは双子のように並び立つ
およそ一三年前の出来事である。悪夢としか表しようのない瞬間を目撃し、それが為に心を深く傷付けられた人間も少なくなかった。比べて遥かに惨たらしく、何よりも生々しい感覚で突き刺さったままのテロ事件が
「――ホワイトハウス関係者への取材に情報によりますと、容疑者と思われる人物がエアフォースワンの通信に割り込んだ際、笛のような物を吹き鳴らす音が混ざって聞こえたとのことで、現地の捜査関係者は『ウォースパイト運動』との関連についても慎重に調べを進めているそうです」
テレビの向こうのキャスターが述べた『ウォースパイト運動』なる言葉は日本にとって馴染みが薄く、同じニュースを視聴している大多数に意味が通じなかったはずだ。そうでなければ「格闘技廃絶を訴える人権擁護活動の一つで、アメリカの格闘技団体『NSB』のイベント会場に放火を試みるなど過激な抗議デモが問題視されている」との
しかし、キックボクシングのジムに通う者たちは誰もが『ウォースパイト運動』という言葉が持つ意味を理解している。だからこそ無数の呻き声が束となり、「今年二月には同活動の参加者がニューヨーク州の自宅で格闘技ファンたち数名に襲撃され、死亡するという事件も発生しており、エアフォースワンに対するサイバー攻撃との関連を確認中とのことです」という憶測の報道を押し返そうとしたのだ。
「聞いたことあるぜ、ンセンギマナって名前。確か義足の拳法家――いや、『NSB』の総合ファイターだったな……」
以前の
一九九〇年代に起きてしまった国家的悲劇を生き延びたルワンダの青年であり、左足に義肢を装着して他の選手たちとほぼ同じ条件で『NSB』の
間もなくテレビ画面には『NSB』から提供されたものと
この場には居ないキリサメ・アマカザリが御剣恭路の〝ゾク車〟後部に跨りながら瀬古谷寅之助との決戦場を目指している最中に秋葉原の中心部ですれ違った顔とも言い換えられるだろう。
後年の格闘技史に『
ニュースキャスターが言い添えた笛の音色は
『ウォースパイト』――その直訳は『
(後編に続く)
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