その17:孤高~フルメタルサムライ・世界最高の総合格闘家

 一七、孤高



 レフェリーの号令に続き、解説の担当者も昂った調子で試合の再開を盛り上げようとしているのだが、『ユアセルフ銀幕』の配信では英語の音声しか付いておらず、キリサメも岳も耳慣れない言語ことばは効果音程度にしか感じていない。

 二人が『CUBE』について語らっている間に八角形オクタゴンのボードを掲げた水着姿の美女が〝ケイジ〟の外周を練り歩き、藤太とジョアキンも臨戦態勢を整えていたのである。

 高い位置から試合場オクタゴンの全景を俯瞰していたカメラが両選手の表情まで読み取れるほど一気に絞り込まれていく――先手必勝とばかりに轟々と拳を突き込み、防御ガードの為に持ち上げられた岳の右下腕へ一等大きな波紋を起こすジョアキンを双眸で追い掛けながらもキリサメは『CUBE』という途方もないシステムを振り返らずにはいられなかった。

 複雑怪奇としか表しようのない演算や、そこから派生する膨大な処理を一瞬で完了してしまえる機械コンピューターなどこの地上に実在するのかと、驚愕を通り越して呆れてしまうくらいなのだ。彼の中ではネス湖への棲息が噂される未確認生物ネッシーなどと大して変わらなかった。

 同時に『天叢雲アメノムラクモ』ひいては『サムライ・アスレチックス』が『NSB』と手を結んだ背景も理解し始めている。ネッシーが人々の好奇心を刺激してやまないように、MMAの世界で生きる者たちの目に『CUBE』は天下の財宝にも等しく見えることだろう。

 日本MMAの行く末を握っているといっても過言ではない樋口郁郎までもが魅了されてしまったような旨を岳は忌々しそうな声色で繰り返していたが、おそらくはPPVのノウハウなど余禄おまけに過ぎず、『CUBEこれ』こそが日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催する最大の目的ねらいなのだ。

 SFにも等しい世界を現実に体験してしまったら、誰が魅入られても不思議ではない。


(……確か母さんの授業でも取り上げていたけど、コソ泥みたいな手口でも技術戦争と呼ぶべきなのか……?)


 首尾よくシステムを盗み取ったところで日本のMMA団体に運用し切れるか否かという疑問は残るものの、汚辱ともたとえるべき醜聞が付きまとう『NSB』に歩み寄るだけの価値はある――有無を言わさずに納得ほどインターネット画面を通してキリサメが触れた『CUBE』はとてつもないモノであった。

 これを作り上げたというビン・サトゥーすら今では神か悪魔のように思えてならない。


「……少し前まで『NSB』はドーピングに汚染されていたと人から聞いたのですが、もしかして、この選手の筋肉も――」

「……今、言おうとしてたコトは飲み込みな、キリー。それはお前と同じMMA選手に対する一番の侮辱だぜ」


 ジョアキンの筋肉が第二ラウンドに至って更に膨らんだように見えたキリサメはカリガネイダーや電知から教わった『NSB』の醜聞――ドーピング問題に触れたのだが、これは岳から強く窘められてしまった。


「……すみません……」


 それは今まで耳にしたことがないほど厳しい声であり、キリサメの口からは思考かんがえるよりも先に謝罪の言葉が飛び出していた。


「済んだ話を穿り返すのは気の毒ってモンだぜ。ジョアキンもドーピング野郎どもが一掃されるまで苦労した選手なんだよ。バキバキに鍛え抜かれた筋肉だって血が滲むような練習で手に入れた自前のモンさ。人様の努力を貶めちゃいけねぇぜ」


 浅慮を恥じて俯き加減となったキリサメの頭を乱暴に撫でた岳は「気にするなとは言わねえけど、気には病むなよ」と優しく諭した。


「何年経っても疑いの目を向けられたって仕方がねぇくらい『NSB』が荒れてたのは事実だよ。それは否定できねぇ。アメリカ本国でも未だに半信半疑で見られるらしいしな」

「……『CUBE』が開発された裏側にはその辺りの事情も絡んでいる……とか?」


 失言の直後ということもあって普段以上に控えめな声でたずねてきた養子キリサメに対し、岳は口の端を吊り上げることで返答こたえに代えた。

 キリサメ自身、禁止薬物に蝕まれた人間を故郷ペルーの裏路地で幾度も幾度も目にしてきた。それどころか、正気を失った相手から襲撃され、これを返り討ちにした経験を数えるには両手両足の指を使っても足りないくらいである。

 中には自我を保ったままの人間も含まれていたが、体内の変調だけは己の意思で操作コントロールできるものではなく、故郷ペルーで世話になっていた闇医者の話によれば心臓にも尋常ならざる負荷が掛かってしまうそうだ。

 実際、『聖剣エクセルシス』で退けた薬物中毒者ジャンキーの多くも闇医者から教わった特徴と合致していた。

 『CUBE』に組み込まれた測定機能が二〇一四年の時点にいて最新鋭であることは疑いようがなく、薬物の影響による体内の異常など容易く見破れるだろう。つまり、ドーピングの隠蔽を無効化し得るシステムとも言い換えられるわけだ。

 ひょっとすると『NSB』はによって内外に健全性を証明しようとしているのかも知れない。


「――コイツの前じゃ不正は通じねぇ。本当の体調不良でもそうでもなくてもは何でも見破るって寸法さ」


 不意にキリサメの脳裏を過ったのは、つい先ほど岳が発した言葉である。

 『CUBE』の心電図測定をウソ発見器や〝真実を見極める目〟とたとえた声には並々ならない力が込められていたが、養子を窘めた岳自身がその瞬間にはドーピング問題を思い返していたのだろう。


「見てみろ、これが腐れたヤツの技か? 健全な肉体にこそ健全な精神は宿るっつうのは時代遅れの標語かも知れねぇけど、ひたむきになれないヤツに本物のワザが身に付かないのも事実さ。堕ちた人間のワザがあっという間に錆び付いちまうのもな」


 気持ちばかりが先走る岳の言葉はまたしても要領を得ていなかったが、それでもキリサメを納得させるには十分であった。

 やや離れた位置からカメラワークまで巻き込むように大きく踏み込んだ藤太がこの勢いを乗せて横薙ぎの右拳ロングフックを閃かせるとジョアキンはすかさず身を沈め、風切る音を頭上に聞きながら相手の左足――つまり、打撃を振り抜く為の軸足へと両手を伸ばしていく。

 藤太の側は軸足を素早く屈伸させて後方に飛び退すさり、左右の五指による捕獲から逃れていったのだが、カメラのレンズがジョアキンの肩越しにこれを映した直後、一際大きな光の波紋がマット上に爆ぜた。

 その直後にジョアキンの全身が大きくうねり、獲物を捕捉した毒蛇のような動作うごきで藤太を追い掛けたのである。

 軸足を脅かさんと両腕を伸ばしたこと自体がフェイントであった。藤太の頭部を射程圏内に捉えるや否や、ジョアキンは上体を急激に引き起こしつつ右拳をも同時に突き上げていく。

 プロジェクションマッピングによって肩から拳にかけて一筋の閃光を纏うことになったアッパーカットである。カメラは藤太を背後から捉えている物に切り替わり、轟然たる風がマットを舐める瞬間まで視聴者キリサメたちの双眸に

 かわし切ることは不可能と判断したらしい藤太は顎を狙って迫り来るアッパーカットに自身の左拳を叩き付け、これを弾き飛ばしながら同じ側の足を振り上げようと試みる。全体重を乗せた蹴りでもってジョアキンの顎を反対に撥ね飛ばそうというわけだ。

 しかし、ここで更なる変化が起きる。反撃を仕掛けたはずの藤太が再び軸足を屈伸させて真横に跳ねたのである。

 その間際にジョアキンは自身の脳を揺さぶろうとしていた蹴りを左掌でもって防御ブロックしている。急激に突き上げた右拳を弾かれ、姿勢を崩しながらも反撃の機会を窺っていた彼はこの攻防にいて今度こそ蹴り足を掴み、寝技に引き込むつもりであったようだ。

 防御ブロックした掌から肩を伝い、心臓の真上まで大きな光の輪が広がっていくほど強烈な一撃をジョアキンは低い呻き声と共に凌いでいる。

 大写しとなったことで骨まで軋んだことがPPVの視聴者にも直感できたが、これを受け止めた左手の指を脛の辺りに喰い込ませるだけで捕獲は完了したようなものであり、目論見は達成されるはずであった。藤太の回避動作が僅かでも遅れていたら、対の腕をも巻き付けてマット上へ引き倒していたに違いない。

 藤太は着地した先から再び間合いを詰め、ジョアキンは上体を引き起こしながら共に右腕を振り抜き、互いの手の甲が衝突した瞬間に金網の向こうで歓声が爆発した。

 腰の捻りを加えたバックナックルは衝突した一点から双方の肩まで届くほど大きな波紋を生み出したのである。〝見せ所〟を弁えているカメラも二人の拳に焦点を絞っていた。


「海面から飛び出したクジラみてェなド迫力だろ? 今のもジョアキンの必勝パターンの一つだよ。アレもキリーに見せたかったのさ。おまけにフェイント二段構えってェ出血大サービスと来たもんだ。学ぶところも多かったよな?」

「同意を求められても困りますよ。強いて言えば電知の戦い方に――『コンデ・コマ式の柔道』に近かったようにも見えますが、あんな器用な真似、僕には無理ですし……」

「おいおい、オレのほうこそ困るぜ~! 何回でも想い出して身体に馴染ませておいてくれよ? キリーの初陣にとっちゃアレこそ一番のヒントだろ?」

「確かに総合格闘技MMAらしい攻防戦ではありましたけど……」


 普段と同じように岳の意図を掴み兼ねるキリサメであったが、打撃から寝技まで反則行為を除いた全ての技術が解放される〝総合格闘技MMAらしい攻防戦〟という点にいては「手掛かり」という一言にも素直に頷くことができる。

 波乱のインターバルを挟みつつも第二ラウンドはMMAに相応しい交錯から始まったのだ。血走った眼で藤太を睨み据え、中段蹴りミドルキックなどを織り交ぜながら更なる猛攻を仕掛けていくジョアキンの後ろ姿をキリサメは初めて〝真っ当なMMA選手〟として捉えていた。

 心電図の波形に表れてしまうくらい逆上していても、ルタ・リーブリひいてはMMA選手としての力量が大きく崩れるようなことはない。キリサメはに格闘家としての完成度を見出した次第である。

 無論、これらは素行不良を除いた上での見立てであって判断材料も力量のみに限定している。対戦者に中指を立てるという最悪な挑発行為は〝プロ〟としての資格を剥奪されてもおかしくないのだ。

 尤も、キリサメからすれば立て続けに虚を衝かれようと表情一つ変えない藤太の冷静さが薄気味悪かった。


「長ェ間、藤太が『プレリミナリカード』を抜け出せなかったって話したよな? そりゃそうだぜ。向こうは禁止薬物クスリ使って人間離れしてるんだからよ。改造人間が相手じゃあ生身は分が悪い。だから、藤太もジョアキンも苦戦し続けたのさ」


 『NSB』に参戦する以前から日本MMA界で勇名を轟かせていた進士藤太は最初こそメイン級の待遇を受けられたのだが、ドーピングによって強化された〝改造人間〟の前には戦績が伸び悩み、『プレリミナリカード』に転落するまで時間はかからなかった。

 そこから長い忍従の期間が続いたのだ――と、己が紡ぐ一言一言を噛み締めるようにして岳は愛弟子の歩みをつまびらかにしていった。


「……過去形なんですか。いや、メインを張ってるのが証拠か」

「おうとも、改造人間との闘いはメチャクチャ苦しかったがよ、踏み躙られた分だけ藤太はでっかくなった。ドーピングなんかに頼らなくたって人間は強くなれるってコトを証明してくれやがったんだよ」

「べた褒めですね」

「言ったろ、進士藤太は八雲岳の〝最高傑作〟だってよ。あいつは総合格闘家ってェ生き物を一つ上のステージに引き上げたようなもんだぜ」


 格闘家としての躍進を岳が称えた直後のことである。偶然にも師匠の声に応えるようなタイミングで藤太の拳がこの試合で最も大きな光の輪をジョアキンの顔面に刻み込んだ。

 前回し蹴りをかわすべく後方に退すさった藤太を追い掛けようと直線的に右拳を繰り出した瞬間、ジョアキンは己の浅慮を呪ったことであろう。

 このときの藤太は金網を背にしており、数歩でも後退すれば逃げ場を失う状況だった。それだけにジョアキンもノックダウンによる逆転劇を確信していたはずなのだ。

 命中の寸前まで相手の拳を引き付けたのち、頭部を横に振ってこれをかわした藤太は風切る音を頬で受け止めながら前方へと鋭く踏み込み、互いの腕を交差させるような形で右拳を突き出したのである。

 撃ち抜いたのはジョアキンの顎下――即ち、人体急所の一つである。狙い定めた迎撃に興奮した岳が「クロスカウンター一閃ッ!」と雄叫びを上げたことは改めてつまびらかとするまでもあるまい。

 桁外れに優れた反射神経の賜物か、クロスカウンターに転じる身のこなしは電光に匹敵するほどはやく、キリサメの双眸にも僅かしか映っていない。

 肩の上に通すような恰好で直線的な一撃ストレートパンチを避け切る流れは、ジョアキンの動きをあらかじめて読み切っていたようにしか見えなかったのだが、翻せばその状況まで巧みに誘導したとも考えられるだろう。

 『クリティカルヒット』――と、藤太の有効打であることがインターネット画面にも明示されたが、わざわざ短い英文を読み取るまでもないはずだ。顎を射貫かれたジョアキンは凄まじい威力に全身を振り回され、間もなく藤太に背中を向ける恰好で崩れ落ちた。

 先ほど岳が説明した通り、強い光が選手の双眸に影響を及ぼす可能性がある場合はプロジェクションマッピングが施されなかったが、仮に網膜を刺激するようなことになっても現在いまのジョアキンは意識そのものが空白状態である為、何も気付かなかったに違いない。

 計測された打撃力は先程までの最大値を上回ったらしく、これに応じて得点スコアも大幅に加算されたが、慎重に攻防を組み立てる藤太とはいえ判定による勝ち逃げなど望んではいないはずだ。

 今こそ勝機と見定めた藤太は起き上がろうとするジョアキンを改めて押し倒し、背後から覆い被さって鉄拳を叩き付けていく。目にも止まらぬ速度の右フックを連ねて側頭部を揺さぶり続けたのである。

 やや離れた位置でクロスカウンターを捉えていたカメラも藤太の右拳が轟かせる鈍い音に合わせて、その焦点を急速に絞っていく。

 堪り兼ねてジョアキンが身を転がすと藤太はすかさず馬乗り状態マウントポジションとなり、今度は真正面から両拳を叩き込んでいく。これもまた防御ガードが間に合わない機関銃の如きパンチである。

 もはや、どこにも獲物を逃がすつもりはないのだろう。マウントを取った瞬間に互いの足を搦め、下肢の動作を殆ど封じ込めていた。

 『CUBE』に組み込まれた測定機能の一つであろうか、藤太の心電図などが列記されたパネルの真下に打撃の命中回数が表示され始めた。

 両者は先程も台風さながらに両拳を繰り出し続けていたのだが、その際には命中回数の表示などインターネット画面のどこになかったはずである。キリサメが気付けなかったわけではない。互いの防御ガードが巧みであった為、立て続けに命中したという〝結果〟を機械コンピューターの側で認識できなかったのだ。


「バックマウントからの切り替えもバカッぱやい。師匠の贔屓目かも知れねぇが、今のを返せるヤツは世界に五人といねぇよ。ルタ・リーブリは寝技が一番おっかねぇけど、ジョアキンだって意識が朦朧としていたらどうしようねぇさ」

「でしょうね。……見ていて背筋が冷たくなりましたよ」


 画面越しということもあって殺気を直に感じなかった所為せいか、心の奥に巣食う〝闇〟が疼くようなことはなかったのだが、一つとして隙を見出せない藤太の力量と、何よりも相手の顔面を容赦なく拳で抉っていく鬼の精神にはキリサメも心底から戦慄している。

 ここに至っても極太の眉毛は微動だにしないのだ。〝表〟の法律が及ばない格差社会の最下層を這い回ってきた少年だけにキリサメは血腥いことにも慣れ切っているが、あるいは藤太も同じように死の匂いを嗅ぎ取る感覚が壊れているのかも知れない。


「確実に相手を壊すにはどうするか――この人はよく研究しているみたいですね」


 MMAの専門用語で『パウンド』と呼称される振り下ろしの打撃を立て続けに浴びせられた結果、マウントを取られたジョアキンの頭部は殆ど宙に浮揚してしまっている。後頭部をマットに叩き付けられ、反動で撥ね上がるという状況が繰り返されているわけだ。

 試合場オクタゴン上部のカメラに切り替わったことで鮮明となったのだが、ジョアキンが背にしたマットには大小の波紋が立て続けに起きている。命中回数とも完全に一致しており、ICチップと特殊カメラを複合した計測に誤りがないことを示すかのようであった。

 その波紋はジョアキンの顔面ではなく左右に大きく割れた状態でマットに描画されているのだが、複数の投影機プロジェクターから集束される光によって選手の網膜を焼いてしまわない為の配慮であろう。


(一方的な嬲り殺しみたいに見えるけど、……これでもレフェリーは止めないんだな)


 肉も骨もまとめて打ち据える音がキリサメの耳には故郷ペルーで耳にした機関銃のと重なりつつあった。政府転覆を企む『組織』の拠点へ斬り込み、『聖剣エクセルシス』を振り回した際に頬を掠めていった死神スーパイの呼び声とも言い換えられるだろう。

 それだけに鈍い音と連動して刻まれていく数値がキリサメの瞳には酷く陰惨なモノとして映っている。

 戦意喪失を確認すればレフェリーも直ちに藤太を制止し、決着を宣言するだろう。

 だが、ジョアキンは――〝プロ〟のMMA選手はキリサメの想像を遥かに超えて強靭であった。猛烈といっても過言ではないだろう。馬乗り状態マウントポジションによって身動きを大きく制限された状態にも関わらず、自由を保ったままの両拳でもって藤太に殴り返したのだ。

 上から右拳が降り注ぐのならば、下からも同じ側の拳を突き上げる――ジョアキンの長くしなやかな両腕は藤太に対してリーチで勝っており、パウンドを入れるべく前傾姿勢になると側頭部すら射程圏内に入るのだった。

 両者の側面から焦点を絞り込んだカメラは打撃の応酬をレンズの中央に映している。ほんの数分前までジョアキンに冷ややかな罵声ブーイングを浴びせ続けていた観客たちも、今では声援の代わりとして彼の名を熱烈に呼び始めていた。

 パウンドでもって一方的に叩きのめされている状況であったならレフェリーも制止に割り込んだことであろうが、両者とも意識を保ったまま殴り合う展開には手の出しようもあるまい。

 双方の命中回数が秒を刻むよりも早く累積されていくという壮絶な場景であった。数値そのものは追い掛けるジョアキンのほうが少ないが、絶望的に不利な体勢から殴り返す姿は正真正銘のモンスターである。

 これがドーピングによる強化でないというのなら禁止薬物に汚染されていた時期の『NSB』にはどれほどの〝改造人間〟がひしめき合っていたのか、キリサメには全く想像が付かなかった。


「キリーの話を蒸し返すようだけど、ドーピングが蔓延してた頃はこうやってマウント取ることもできなかったんだぜ。藤太が強くなったならねェって話じゃなくてよ、〝改造人間〟がバカみてェなパワーを出しやがるもんだから、禁止薬物クスリやってねェヤツは歯が立たなかったんだ。……真っ当に頑張っているヤツのほうがワリを食う状況だったんだよ」

「……薬物の所為せいで死人が出たとも聞きました」


 キリサメから控えめな声で問われた岳は、画面内の藤太を見つめたまま養子と同じように躊躇を含んだ調子で頷き返した。


「勉強熱心になってくれたじゃねぇの。そう――アイシクル・ジョーダンの一件がきっかけになって『NSB』は大手術よォ。手始めにドーピングを容認していたフロスト・クラントンのバカ野郎も追い出してな。……フロストっつうのは前の代表者だよ。アメリカ格闘技界を凍り付かせるような悪行を働いたんだから宿命的な名前っていえるのかもな」

「同じ名前でもニクソン大統領からウォーターゲート事件の決定的なコメントを引っ張り出したデービッド・フロストとは正反対ですね。末路は大統領側に重なりますし」

「前から思ってたんだけど、キリーって故郷くにじゃ見里さんの跡継いで塾の先生センセをやってたんだろ? でなきゃ、そんなに物知りなワケねーじゃん。誰だよ、デービッドって」

「……死んだ母の教育が良かっただけですよ」


 将来を見据えて高校への進学を強く勧めていた麦泉に今なら頷くことができると、岳は養子キリサメの頭を乱暴に撫でた。

 くすぐったそうに身を捩るキリサメ当人の脳裏に浮かんだのはアメリカ政治史最悪の汚点――選挙中の不正とその隠蔽工作が暴かれ、現職の大統領が辞任に追い込まれたウォーターゲート事件の概要あらましなどではなく、ロサンゼルスの一角ダウンタウンにて日系人の歴史あゆみ現代いまに語り継ぐリトル・トーキョーの風景であった。

 彼自身はアメリカ最大規模の日本人街に足を足を踏み入れた経験はないが、他ならぬ岳がこの場所で『NSB』との合同記者会見に臨んだのである。町の象徴シンボルであり、地上一八メートルに達するであろう赤いやぐらを背にして堂々たる演説スピーチを披露したのは日系移民の歴史が横たわるもう一つの国――ペルーを訪れる直前のことだ

 キリサメが振り返ったリトル・トーキョーの風景にはパンツスーツ姿の女性も混ざり込んでいる。

 東洋の風を全身に纏っているようで、どこか違って見える不思議な顔立ちであった。演説台のプレートに刻まれたイズリアル・モニワという名前を確認していなければ日本人と間違えていただろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長と共に合同記者会見に臨んだイズリアル・モニワこそ『NSB』の代表である――が、正常なMMA選手とは言い難い〝改造人間〟が跋扈する事態を招いた薬物汚染は彼女がその肩書きを称する前に起こった問題であるらしい。

 ドーピング問題によってアメリカ最大のMMA団体が絶体絶命の窮地に立たされたからこそ彼女イズリアルが新たな代表へ就任する運びとなったのだろう。岳の説明によれば前代表フロストが薬物汚染を主導していたそうではないか。


「フロスト本人やドーピングの常習性・依存性の強い選手の追放から始まって『NSB』は死に物狂いで信頼回復に努めたんだよ。真っ当な選手がクリーンな試合を行えるくらい組織としちゃあ綺麗になったんだが、……〝改造人間〟がいなくなった途端、今度は客が離れていきやがった」

「格闘技団体としての信用にキズが付いたから――ではないのですか? 今の言い方ですと、何か別に原因があるように感じるんですが……」

信用問題それも理由の一個だけどな。……関節極められたまま相手を持ち上げたりするデタラメな選手もいなくなって、興行全体として迫力不足になっちまったんだよ。要はとしての魅力が半減ってヤツだ」

「……悪循環にしたって酷過ぎますね……」


 その話はすがだいら合宿を共にした誰一人として触れておらず、キリサメも全くの初耳だ。


「変身ヒーローが変身しない人間のままで怪獣倒しても面白味に欠けるだろ? 看板に偽りアリって話にもなり兼ねねェ。それと同じ理屈さ。何やったって構わねぇから面白いモンを見せろってこった。……冗談じゃねぇ! MMAはショーじゃなくてリアルファイトだぜッ!」


 在りし日の怒りが甦ってきたらしい岳が天井に向かって両拳を突き上げつつ語った内容によれば、迫力不足を解消する為に一部の筋肉増強剤を解禁するよう促す声がアメリカ本国では上がっていたそうである。「今さら〝ただの人間〟に用はない。超人たちを集めたを寄越せ」と、MMAの本質が全否定されるような事態に陥ったわけだ。

 その超人を作り出すのがドーピングである。薬物汚染時代に定着してしまった『NSB』のをそれで補えるのなら選手生命を縮めない程度の容認もやむを得ないという暴論はスポンサー側からも聞こえてきたという。

 キリサメの胸中でイズニアル・モニワに対する憐憫の念が強まっていったのも無理からぬことであろう。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの発表という華やかな舞台でもあった為、テレビ画面を通した姿はそれほどまでに重い荷を背負っているようには見えなかった。

 しかし、実際には茨の道で四肢を切り刻まれ、血を流し続ける人であったわけだ。樋口郁郎の剛腕はキリサメ自身も思い知らされたが、イズリアルもまた呪縛の克服をもってして底知れない男と肩を並べ、同じ高みに立っているのだろう。

 前代表フロストによる負の遺産との対決は余人の想像など決して及ばず、「試練」というありきたりな二字では表し切れないはずである。

 有力選手の追放についてはカリガネイダーや電知もすがだいらにて語っており、一度は地に落ちた〝MMA団体としての信頼〟を取り戻す為に血ともたとえるべき代償を払ったことは察して余りある。アンチドーピング機構に調査を依頼して徹底的な取り締まりを実施し、ようやく薬物汚染を乗り越えた『NSB』が自己否定を迫られたとすれば、余りにもむごい筋運びではないか。

 『NSB』と団体代表は安全性が万全に確保された試合を〝プロ〟のMMA選手へ提供することも役目の一つであろう。それにも関わらず、選手生命を犠牲にするような〝超人ショー〟を強いるなど理不尽の極みであり、一度でも受け容れてしまえば要求は際限なく悪化していくはずだ。最後には選手の掌から気功波ビームを発射させるようされ兼ねない。

 何しろアメリカはエンターテインメントの聖地――ハリウッドを抱える国である。過剰な特殊効果エフェクトが一つの文化として好まれていればこそ、禁忌による〝超人〟へのでさえ大歓声が批難を押し潰したのだ。

 『異界神座いかいしんざイシュタロア』を始めとする日本の文化サブカルチャーが海外でも広く浸透していることはキリサメも把握している。あるいはアニメ作品と見紛うばかりの演出が『NSB』の試合でも求められたのではないか――そのような仮説が脳裏に浮かんだ瞬間、彼は真隣の養父へ勢いよく振り返り、鼻先目掛けて右の人差し指を突き出した。

 完全に無意識の行動であったが、養子キリサメが考えていることを見透かしたらしい岳も自身の右人差し指を伸ばし、互いの指先を楽しそうに重ね合わせた。


「それで『CUBE』を」

「それで『CUBE』を」


 一字一句に至るまで同じ言葉でありながら、キリサメの側は答え合わせでも求めるかのように末尾を紡ぐ声が上擦り、これに頷き返した岳の側は白い歯を剥き出しにして大きく笑っている。

 プロジェクションマッピングによる光の演出や大胆なカメラワークはハリウッド映画顔負けというほど華やかであるが、決してMMAの本質に介入し、これを損なうものではない。自由自在に繰り出される格闘技術へと寄り添い、あくまでも試合の迫力や臨場感の拡張に留まっている。

 心拍数や打撃力・命中回数の計測、ひいては公開採点オープン・スコアリングも試合の在り方を大きく変化させたが、いずれも従来から行われていた作戦運用の延長線上に立脚したものである。

 『NSB』はMMAの純度を保ちつつ、試合を構築する要素を発展させることによって暴論への回答こたえに代えたわけだ。〝超人ショー〟とは異なるエンターテインメント性を提供した恰好ではあるものの、試合自体は格闘技の基本――真剣リアル勝負ファイトを貫いている。これをMMAの正統進化と呼ぶことに躊躇いを覚える者は少ないだろう。

 そして、それこそがイズリアル・モニワのもとで生まれ変わった『NSB』の決意表明なのだ。

 二度と同じ過ちは繰り返さないという『NSB』の意志を体現する藤太とジョアキンは波立つ光を互いに纏いながら真剣リアル勝負ファイトを激化させていく。先程までは秒を刻むよりも早く加算が続いていた命中回数は何度も初期化リセットされ、今では途切れる瞬間のほうが多い。

 猛烈なパウンドでもって一気に攻め切るだろうと誰もが信じて疑わなかった藤太の右手首をジョアキンが左の五指にて掴み、拳を振り落とさんとする動作を阻害しているのだ。このような状況ではリーチで勝る側が有利である。馬乗り状態マウントポジションを取られたまま脳を揺さぶり続け、寝技まで引き込める機会を決して逃さないだろう。

 対する藤太も肩の付け根などを殴打し、左腕全体を強制的に脱力させようと試みているらしいが、攻めかかろうとするたびに掴まれている側の腕を振り回され、身のこなしと技の拍子を崩されてしまうのだ。

 その上、迂闊に動けば右肘の関節を極められてしまうのでパウンドも慎重にならざるを得ない。一度の攻防にける命中回数が断続的にしか表示されなくなったのは連打から狙撃に切り替えた為であろう。

 つい先ほど岳はルタ・リーブリは寝技が一番恐ろしいと述べている。つまり、日本MMAを牽引する男の愛弟子もアメリカの試合場オクタゴンで同じことを考えているわけだ。


「くそったれた状況でも『NSB』は踏ん張った。本当に良く踏ん張ったよ。ドーピングに逃げて〝アメコミ〟みたいなミュータントを作り出すんじゃなく、あくまでも生身の人間で勝負するって腹ァ括ったんだからよ。……本気で生まれ変わるんだっていうイズリアルの覚悟を見たぜ」


 周囲まわりから超人ショーを強要されるような中であってもイズリアル・モニワは最後の良心を握り締めた。進士藤太やジョアキン・アンブロジオ・ジュニオール――ドーピングなどに頼ることなく信念を貫き通した選手がメイン級へ復帰できるようになった現在の『NSB』を同じ戦場に立つ者として誇らしく思うと、岳は握り拳で熱弁を振るった。


「『天叢雲アメノムラクモ』も『NSB』も、まだまだこれからだ。国の垣根なんか関係なくMMAの同志として肩ァ組んでいきてェんだ」


 キリサメは八雲岳という男の情熱に改めて感服した。

 愛弟子の熱闘を見守りながら「困ったな、おい! こんな良い試合見ちまったらジョアキンのことまで応援したくなっちまうぜ!」と左右の拳を突き上げた養父は心の底からMMAを愛している。未だに競技としての格闘たたかいそのものへの理解が浅い自分には想像も付かないほど愛し抜いている。だからこそ、同じ道を歩む『NSB』も等しく愛し、何の疑いなく受け容れられるわけだ。

 余りにも大きな過ちを犯してしまった『NSB』の新生を疑いなく信じ、抱擁をもって寄り添える情熱を宿していなければ、『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長など務まらないということであろう。日本MMAの先駆者という肩書きは伊達や酔狂ではないのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』長野興行で配布されたパンフレットのプロフィール欄に〝太陽のような男〟と記されていたが、『NSB』に向ける純粋な信頼や、東日本大震災直後の被災地へ自ら救援物資を運んだ行動力を思えば、が比喩でないことは明らかであろう。

 愛の一字が人間の姿であらわれたような男が養父であることを僥倖しあわせと感じないほどキリサメも〝人間らしさ〟を欠いているわけではなかった。


「国の垣根なんか関係なく――か。それが『NSB』と合同大会を開催することに決めた理由なのですか? ……先ほど教わった裏事情を考えれたら共催を取りまとめたのは樋口氏なのでしょうけど、もしかして、大会そのものは岳氏が持ち掛けたのでは?」


 リトル・トーキョーの共同記者会見にいて『NSB』は団体代表のイズリアルが演説台の前に立っている。それならば『天叢雲アメノムラクモ』も同等の肩書きを担う樋口郁郎が合同大会コンデ・コマ・パスコアに向けた思いを語るべきであろうが、実際にカメラが捉えたのはろくもんせんの陣羽織を纏う統括本部長であったのだ。

 熱烈としか表しようのない声で演説スピーチを披露する姿からも養父こそが日米という国の垣根を取り払った立役者ではないかとキリサメは思っている。


「オレ一人で勝手に盛り上がってたらただのバカだろ? みんなが『NSB』に握手を求めていったんだ。そして、『NSBあいつら』も『天叢雲オレたち』の手を握り返してくれた――それが全てだよ」

「岳氏のことですから教え子と闘いたくて麦泉氏や大勢の人たちを巻き込んだ可能性も捨てきれないんですけどね」

「そりゃあ、お前、『NSB』は闘いたいヤツばっかりだよ。勢揃いってレベルでな。勿論、一番に拳で語り合いてェのは藤太だけど、『バイオスピリッツ』を一緒に盛り上げてくれたヤツや、どれだけ恩返しをしたって足りねェくらい世話になった人もアメリカで頑張ってんだ」

「まさか、そんなに縁の深い相手だったとは……」

「それにしても今日のキリーは一段と頭が冴えてるじゃん。名推理にドンピシャな理由がないっていえばウソになるもんよ!」

「……はい?」


 意図せず皮肉めいた言い方になってしまったことを反省するキリサメであったが、当の岳は悪戯を見咎められた子どものような無邪気さではにかみ、「それ聞いちゃう?」とでも言わんばかりに両の眉毛を上下に大きく動かして見せた。


「仕方ねぇな~。可愛い息子のリクエストとあっちゃ語ってやらねェワケにはいかねぇもんよ。よ~し、父ちゃんのとっておきを教えてやるぜ!」

「別に何も頼んでいませんよね? 試合はどうするんですか、試合は。一進一退の状況なのに教え子を見守ってあげなくて良いんですかっ?」


 背中を追い掛けてきた制止も聞かず、勘違いとしか表しようのない呟きを引き摺りながら腰を上げた岳は道場の壁に飾られていた一枚の額縁を取り外し、ノートパソコンの前まで大急ぎで戻ってくると鼻先へ突き付けるかのような恰好でキリサメに翳した。

 その額縁には大きさの異なる写真が三枚ばかり収められている。一枚は中ほどに折れ曲がった痕跡があり、擦り傷や日に焼けたような色褪せも酷く、もう一枚は撮影の際に失敗していたのか色合いも輪郭も曖昧で、綺麗と断言できるのは最後の一枚のみである。

 岳のことであるから一つの趣向として持ちかけたのかも知れないが、三枚とも笑顔で肩を組み合うという体勢であった。

 構図自体は複写でも行ったとしか思えないほど変わらないのだが、撮影した場所は言うに及ばず、三枚それぞれで外見が大きく異なっている。数年とは言い難いほどの時間を置き、そこに至るまでの人生あゆみが表れたかおかたちを切り取ろうという意図があるのかも知れない。

 最も古い一枚の岳は頭髪を角刈りにしており、画面内でジョアキンと両手を組み合うような形となった藤太と全く同じで、プロレス団体の名称と思しきロゴマークが刷り込まれた真っ白なシャツは色彩の摩耗が写真全体へ及ぶ中で往時の眩しさを留めているようだ。

 もう一枚はつい最近に撮影したものであろう。ネクタイを締めたワイシャツの上から六文銭の刺繍が散りばめられている赤い陣羽織を着用し、頭髪も戦国武将のような形に結い上げる形となっていた。

 丁度、最古と最新の中間という時期に撮影したものとおぼしき一枚は陣羽織まで含めた外見こそ現在と大差ないのだが、眉間や目元に刻まれた皺が少なく、キリサメにも一等溌溂とした印象を与えている。特別に誂えた品であろうネクタイには『バイオスピリッツ』と刺繍されているようだ。即ち、前身団体の頃に撮影された写真ということである。

 一枚目と二枚目の間には一〇年近い時間が横たわっているようだ。それは肩を組む二人の若々しさにも表れている。

 岳が友情を確かめ合う相手は外国人であり、肌の色から察するにアフリカ系であろう。こちらは最古から最新に至るまで一貫して鼻の下に髭を蓄え、頭髪を短く切り揃えているのだが、二枚目と三枚目は額の中央から斜めに稲妻のような剃り込みが入っており、そこに歳月を隔てた変化を感じ取ることができた。

 一枚目の写真から笑顔を弾けさせる岳に対して、相手のほうは岳と肩を組むことに躊躇があるのか、左右の眉で山のような形を作っている。愉しそうな表情に変わるのは二枚目以降であった。


「ミッキー・グッドウィン――こいつとの宿命がオレの足をアメリカに向かわせたようなものさ。三〇年もモヤモヤし続けてきたモンにケリをつけなきゃお互いに幕は引けねェだろってな!」

「余計なお世話かも知れませんが、岳氏はもう教え子の試合はどうでも良いのですか?」

「ンなわけねーって! いよいよ面白くなってきたトコだっつーのに! そういうキリーだって一秒も見逃すんじゃねーよッ⁉」

「……言っていることとやっていることが一秒前と矛盾しているんですが……」


 昔日を懐かしむような岳の声が三枚の写真に重ねられたものの、一枚目と二枚目の間に訪れたであろう心境の変化を探り続けることが現在いまのキリサメには極めて難しい。何しろインターネット画面の向こうでは今まさに戦況が大きく動いているのだ。

 さすがは寝技に長けた選手というべきであろうか、馬乗り状態マウントポジションの〝下〟から猛攻を続けてきたジョアキンに押されて藤太の姿勢が崩れ始めている。両の五指でもって右腕を完全に掴まれ、肘関節を極められようとした瞬間などは拘束から逃れるべく身を捻り、その拍子に上体を大きく傾けてしまったのだ。

 そこに生じた隙を見逃すほどジョアキンが軽率であったなら、藤太がパウンドと繰り出した直後に試合も終わっているだろう。何よりも金網の間近という状況とその利点も十分に理解している。馬乗り状態マウントポジションの〝上〟は互いの足を絡めることで相手の下半身の動作うごきも押さえるものだが、現在いまはその拘束さえも緩んでいる。

 すかさず右足を引き抜いたジョアキンは白波のような描画を伴いながら背中を滑らせて姿勢を変え、同じ足裏でもって金網を蹴り付けたのである。攻防全体をくまなく映すべくカメラがズームアウトした瞬間のことであった。

 網目を透過して観客たちの視界を遮ってしまう為か、金網に光の輪が描かれることはなかったのだが、反動は衝撃に換わって襲い掛かる。藤太の全身は不意に揺さぶられ、この影響によってもう片方の足に対する拘束は更に緩み、抜き取ることも難しくなかった。

 両足が自由を取り戻すということは攻守を組み立てる上でも選択肢が大幅に広がる。藤太の腰を掴み、頭上をすり抜けるような恰好で放り投げることは互いの足が絡み合った状態では物理的に不可能なのだ。

 素早く起き上がりながら藤太を投げ捨てた側へと振り向き、寝技に持ち込める体勢であるのかを見極めようとするジョアキンであったが、側頭部に反撃の前回し蹴りを打ち込まれては為す術もあるまい。

 着地と同時に立ち上がり、体勢を整えるのも藤太のほうが数段速かったのだ。しかし、ジョアキンの側も凄まじい反射神経で片腕を持ち上げ、側頭部を庇った為に致命傷とはならなかった。


(こんなに複雑な攻防、僕にもできるだろうか。……電知なら切り返しも巧いだろうな)


 馬乗り状態マウントポジションを引っ繰り返した側にも、必勝の状態を覆されながらも即座に体勢を立て直した側にも金網の向こうから等しく声援が送られている。今やジョアキンに対する罵声ブーイングなど殆ど聞こえていないのだ。


「これが『NSB』との約束よォ!」

「幾らなんでも端折りすぎではありませんか。約束って話も今、急に出てきましたよね」


 キリサメから説明を求められた岳は想い出深い額縁を抱えながら胡坐を掻き直し、「見てるか、ミッキー。オレたちの夢は藤太たちに受け継がれてるぜ」と、写真の中の人物へ話しかけていた。

 質問を受け流されてしまったことはさておき、キリサメには岳が故人と語らっているようにしか思えなかった。さしずめ額縁は遺影というわけである。


「とりあえず、写真の話から教えて頂いても構いませんか? 『NSB』との約束とやらに関係あるのかも一緒に。グッドウィン氏……でしたっけ?」

「オレがライバルと思い、オレのことをライバルと思ってくれていた格闘家さ。約束の男といっても過言じゃねぇな」

「……それが『NSB』との約束……なのですか?」


 随分と回りくどい表現であったが、これは普段のような突拍子もない放言などではなく彼なりの意図が含まれており、「取っ散らかってて気持ち悪いだろ」と微笑んだ。


「もう二十年以上前の話だけどよ――その頃のミッキーはキックボクシング界のエースとしてアメリカの名だたるタイトルを総ナメにしてたんだよ。オレのほうはプロレス一本。鬼貫の兄貴たちと異種格闘技戦に明け暮れていた頃さ。まだ総合格闘技ってモンが世の中に出てきていねぇ時代の話だよ」


 道場の片隅に置かれたガラスケースの中で大切そうに飾られているハゲワシのプロレスマスクが岳の肩越しにこちらを窺っている――不思議な圧迫感を覚える状況の中でキリサメは異種格闘技戦という言葉を受け止めた。

 『ダイニング士魂』で食事を摂った際に岳が自ら称した『鬼の遺伝子』というものであろうと理解している。『昭和の伝説』とまで畏敬されるプロレスラーの鬼貫道明が先鞭を着け、現在の総合格闘技へ繋がっていく異種格闘技戦の系譜がそのように呼ばれているそうだ。

 すがだいら高原の温泉施設にて電知が遊んだ対戦格闘型のビデオゲームには現役時代の鬼貫道明が操作可能プレイアブルキャラクターとして登場していたのだが、黒いプロレスパンツに脛の辺りまでを覆うリングシューズという出で立ちの『伝説』には若かりし頃の岳や聞多が続いたという。

 写真の中で岳と肩を組んでいるミッキー・グッドウィンは、その時代にキックボクシングの世界で活躍していたのだろう。立ち技系格闘技団体『こんごうりき』を担う〝競技統括プロデューサー〟の息子が自分と同じ時期に格闘家デビューを迎えるという話がキリサメの脳裏に甦っていた。


「今と同じように若い頃から世界中の強ェヤツと腕比べするコトしかオレは考えていなくてよ、キックの鬼みてェにウワサされてたミッキーのことも当然意識しまくってたんだ。夢の中にまでミッキー・グッドウィンっつう名前が乱れ飛ぶくらいにな。そこまで行っちまうと恋だよな、恋!」


 岳の話に相槌を打つキリサメではあるものの、彼の場合は『きょういし』という家名なまえを風変わりと思いこそすれ格闘家として意識することはないだろう。何しろ『こんごうりき』競技統括プロデューサーのきょういしが『くうかん』なる空手道場の最高師範であり、その息子が同じどうへ身を包んでいることすら知らないのだ。興味の範囲外といっても過言ではない。


「雑誌やテレビのインタビューでも『ミッキーとりたい』って希望を話してたんだが、それがどこでどう捻じ曲げられちまったのか、日本プロレス界がアメリカのキックボクシング界へ挑戦状を叩き付けたっていう物騒な形で独り歩きを始めちまってさ」

「……岳氏とグッドウィン氏に代理戦争でもやらせようとしたわけですか」

「日本プロレス全体としても認められるモンじゃねぇし、オレだって異種格闘技戦のつもりだったから代理戦争は筋が違う。ミッキーもそのつもりでいてくれたらしいんだけど、バックにいるキックボクシング団体が下心を出したみたいでな」


 〝下心〟という一言だけでも善からぬ結末を想像させるには十分であろう。尤も、岳とグッドウィンを待ち構えていた事態はキリサメには考えが及ばないほど深刻であった。


「ご丁寧に試合場まで用意して、そこにミッキーを立たせたんだ。当然、オレとしちゃ応じるわけにもいかねぇ。結局、黙殺シカトするしかなかったんだが、オレのいないリングには不戦勝のゴングを鳴り響いたそうだよ。……アメリカのキックボクシングが日本のプロレスに勝ったっつう既成事実さえ作れたら向こうは満足だったんだろうな」

「本当に代理戦争じゃないですか。そんなデタラメがまかり通るなんて……」

「……ライバルみてェに思いながら、オレはアイツの顔に泥を引っ掛けちまったのさ」

「名誉を傷付けられたのは岳氏のほうでしょう。……余りに酷い話だ」


 一秒たりとも目を離さないよう言い付けられてはいたものの、このときばかりはキリサメも藤太の試合ではなく岳の横顔を見つめることしかできなかった。格闘技団体の名誉と政治的な思惑が純粋な腕比べを望む二人の間を引き裂いたようなものではないか。


「ミッキー本人はそれからも日本のリングに立つ機会があったんだが、向こうは立ち技系の『こんごうりき』、オレはMMAの『バイオスピリッツ』ってな具合に道が分かれちまった」

「……でも、今は『NSB』に――MMAに出場していますよね?」

「アイツが『NSB』からMMAに参戦し始めた頃、オレはリングを降りてたんだよ。日本のMMAにも出場したんだぜ、ミッキー。それなのに、オレは……オレだけがそこに居なかったんだ」

「グッドウィン氏と闘う為に復帰ということは考えなかったのですか?」

「……全く同じコトをミッキー本人にも言われたよ。アイツが日本に来たときには必ずメシ食ってたからな。そのときに撮ったのが二枚目の写真ってワケ」

「それでは、どうして……」

「……筋を通さなきゃおとこが廃る――それでミッキーは納得してくれたよ」


 前身団体バイオスピリッツが瓦解した後にも日本から完全にMMAが根絶やしにされたわけではなく、幾つかの興行は引き続き実施されたそうだが、焼け野原にも等しい時期にグッドウィンは日本MMAへ参戦し、『天叢雲アメノムラクモ』が旗揚げを宣伝した二〇一一年には『NSB』に主戦場を戻したという。

 ミッキー・グッドウィンが意図的に対戦を避けたわけではない。八雲岳がMMAに復帰するまでの時間が余りにも長かった――その現実が切ないすれ違いを引き起こしていた。


「どうしても交わっちゃくれねェ巡り合わせから一度も手合わせできないまま、時間だけが過ぎていったっつうワケさ。……意地なんか張らず素直に復帰していれば良かったとは言ってくれるなよ?」


 互いのことを意識し合っていたにも関わらず、異種格闘技戦の機会はとうとう得られなかった。だからこそ、先程もライバルであるとは断言できず、その関係には満たないことを遠回しに仄めかしていたわけだ。

 あの瞬間ときに晒した微笑みは、岳本人の力では如何ともし難い自嘲の表れであったのかも知れない。


「『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げ興行でオレが現役復帰したら、今度はミッキーのほうが引退と来たもんだ。運命の女神はそうまでしてオレたちを同じリングに立たせたくねぇのかって呪いもしたんだが、……〝超人ショー〟で肉体からだをボロボロにされちまったら何も言えねェわな」

「まさか、それって……」

「ああ、すまねぇ。オレのほうで誤解させたら世話ねぇな。……ミッキーはあの事件の犠牲者さ。〝当て馬〟って言ったほうがピンと来るかも知れねぇな。ドーピングで化け物になったヤツの相手役――観客を喜ばせる為のやられ役に仕立て上げられたんだ」


 キリサメの口から低い呻き声が洩れたのは無理からぬことであろう。

 藤太やジョアキンといった〝暗黒時代〟を潜り抜けた者を先に見てしまった為に思考から抜け落ちていたのだが、禁止薬物を用いた肉体改造が横行していた『NSB』に〝超人ショー〟の餌食にされた選手がいないわけがあるまい。

 おそらくミッキー・グッドウィンは一例に過ぎず、比喩でなく文字通りに肉体を粉々に壊され、選手生命を絶たれた選手の無念や血の涙が『NSB』の試合場オクタゴンに敷き詰められていることだろう。


「……『仕立て上げられた』っつーと八百長インチキみたいだな。ミッキーも藤太みたいにドーピングなんかに頼らず真っ向から勝負を挑んでいったんだが、……さっき話したような〝超人ショー〟なんか、もうMMAじゃねぇだろ? 怪我もかなり悪かったみたいだが、それより何より真っ当にやっていくのがバカらしいって見切りをつけちまったんだよ……」


 自分が命を懸けたのはショープロレスではなく真剣リアル勝負ファイト――そういって『NSB』に背を向け、現役を退いた後は『グッドウィン・キックボクシングセンター』なるジムで次世代の育成に励んでおり、岳が訪ねていったときには顎が外れそうになくらい大口を開けて驚いたそうだ。

 一枚目と二枚目はどこかの飲食店で撮影したように見えるが、最新の写真では格闘技のジムを背にする恰好で肩を組んでいる。後ろ回し蹴りを繰り出す最中の練習生が映り込んだその場所こそが『グッドウィン・キックボクシングセンター』なのだろう。


「団体のメンツに踊らされて悔しい思いをした夜――鬼貫の兄貴がミッキーと一対一サシで話す場をセッティングしてくれてよ。……額縁の写真はそのときに撮ったモノさ。『いつか必ず闘おう』と誓い合ったあの夜は一生忘れられねぇ。それで合同大会コンデ・コマ・パスコアの話が出た直後、アイツのジムまで直談判に行ったんだよ。『今がそのときだ』ってよ」

「現役復帰の説得って、また強引な……」

「何年もリングを離れていたオレが一丁前に闘えてるんだから、ほんの数ヶ月程度のブランクなんか屁でもねぇってな。……『NSB』に確認もしねぇで、あの野郎、やってやろうじゃねぇかって頷いてくれたんだ」


 八雲岳とミッキー・グッドウィン――日米を代表するであろう二人の格闘家は、およそ二〇年に亘って拳を交える可能性を繋いできたわけだ。今日まで果たせずにいる約束こそ最も強い原動力となるだろう。

 キリサメからすれば岳が日米合同大会コンデ・コマ・パスコアに邁進する理由として最も納得できるものだ。もしかすると彼は金網の向こうで激しくぶつかり合う愛弟子たちに自分とグッドウィンの姿を重ねているのかも知れない。


「……でも、ちょっと待ってください。一番に試合をしたい相手は教え子なんですよね。グッドウィン氏はどうするのですか?」

「言っとくけど、藤太をアイツの代わりだなんて思ってねぇよ? オレとしちゃ二人と闘いたかったさ。間に合ってさえいれば、キリーとタッグマッチでも良かったかな」

「……代わり?」

「……ミッキーも『ロバート・カーモディ』と同じ生身の人間だったから――こればかりはオレにもアイツにも、どうしようもねェからさ」

「一人で納得されても困りますよ。幾らなんでも端折りすぎではありませんか」


 先程と同じ言葉を繰り返してしまうキリサメであったが、何やら物思いに耽っている岳の説明が理解を妨げるくらい足りていないのだから仕方あるまい。

 ロバート・カーモディ――と、人名とおぼしきものが急に飛び出したのである。無論、キリサメは過去に聞いたおぼえがない。


「……あれ? 知らねぇか、ロバート・カーモディ? ハナック・ブラウンが分かるくらいだから、てっきりボクシング全般に詳しいと思ったんだけどな」

「わざわざハナック・ブラウンを引き合いに出したということは、ロバート・カーモディという人もボクサーなんですか?」

「一九六四年に開催された東京五輪オリンピックのメダリストさ。フライ級で銅メダルを獲得。同じボクシングでもジョー・フレージャーのヘビー級金メダルばかりが騒がれてるけど、カーモディだって負けてねぇぞ? アメリカ陸軍きってのボクサーでよ、軍の大会でも優勝する実力派。テクニシャンな姿から付いた愛称ニックネームは『バターボール』――何でそうなるのか、由来はいまいち分からねぇんだけどな」

「やけに詳しいんですね。僕が知らないだけでハナック・ブラウンやブルース・カービィと同じくらい有名なボクサーなのかな」

本国アメリカじゃ分からねぇが、日本で名前をおぼえてる人なんか殆どいないと思うぜ。オレが生まれた一九六七年に亡くなったんだよ、ロバート・カーモディ。それでついつい調査に熱が入っちまったんだ。きっとオレが日本で一番詳しいんじゃねぇかな」


 ロバート・カーモディについて誰よりも明るいと豪語する岳曰く――小学校の自由研究で自分の生まれた年にちなんだ人物や出来事を調べることになったそうだ。

 当時から既にプロレスラーの道を志していた為、テーマも〝知られざる格闘家〟と速やかに決定。取り上げるべき人物を模索している最中、一九六七年に没した銅メダリストへと辿り着いた次第である。


「英語辞書片手に色んな資料を読み進める内に何だか他人じゃ思えなくなってきちまってなァ。……オレだってガキの頃はとても褒められたもんじゃなかったし……」


 ニューヨーク州・ブルックリンの貧困家庭に生まれ、路上の殴り合いが日常茶飯事という荒んだ少年時代を過ごしたのちに一九歳でアメリカ陸軍へ入隊。アマチュアボクサーとして頭角を現し、一九六四年東京五輪オリンピックでは後楽園アイスパレスにて激闘を重ね、イタリア代表に判定で敗れはしたものの、銅メダルを獲得した。

 同大会にはのちにモハメド・アリと名勝負を演じることになるジョー・フレージャーも出場し、ヘビー級金メダルに輝いている。五輪開催中にも親しく交わったというカーモディとフレージャーの運命を分けたものがあるとすれば、陸軍に所属するアマチュアボクサーであり続けた前者に対し、後者が大会後にプロボクサーへ転向したことであろう。


「一九六七年といえば、確かまだベトナム戦争の真っ最中でしたよね。……陸軍も大変な時期だったのでは……?」


 キリサメが指摘し、「キリー、社会科のテストはいつも満点だったろ」と岳が躊躇いがちに首を頷かせた通り、一九六〇年代半ばには既にベトナム戦争は泥沼化の一途を辿っている。


「大変っつうか、……そのベトナム戦争でカーモディは戦死したんだよ」


 相槌を打とうとする動作を思考ごと凍り付かせるような筋運びが岳によって明かされ、キリサメは返すべき言葉を紡げなくなってしまった。

 ノートパソコンに内蔵されたスピーカーからは藤太とジョアキンが中段蹴りミドルキックでもって互いの胴を抉り合うという激しい音も聞こえているのだが、それすら脳まで届いていない。

 平和の祭典である五輪オリンピックで銅メダルに輝いてから僅か三年後――第一七騎兵連隊の一員としてベトナムの戦地へ赴いたカーモディ二等軍曹はサイゴン付近で哨戒パトロールを行っていた際に北軍・ゲリラ部隊の待ち伏せに遭い、結婚して間もない妻を遺して若い命を散らしたと岳は付け加えた。自由研究当時の記憶に誤りがなければ、数人の仲間と共に一一時間にも及ぶ銃撃戦を繰り広げたともいう。

 一九六七年一〇月二七日にカーモディ二等軍曹を撃ち抜いたのはソビエト連邦の自動小銃であったのか――『冷戦』の先にる戦場に立った銅メダリストは世界中のアスリートたちが集まり、腕を競い合う平和の祭典とは真逆の暴力に飲み込まれていったわけだ。

 奇しくも一九六四年東京五輪オリンピックでカーモディと共にフライ級銅メダルを手にしたスタニスラフ・ソロキンはソビエト連邦の代表選手であった。

 アーリントン国立墓地に永眠ねむるロバート・カーモディが栄光の銅メダルに次いで授けられたのは作戦上の英雄的行為を称える青銅星章ブロンズスターメダルであった――と岳は締め括った。

 一九六四年東京五輪オリンピックに出場した選手オリンピアンの中でベトナム戦争へ従軍し、戦死者として記録されている名前はロバート・カーモディのみである。


「……軍人だからですか」


 仮にもメダリストという栄達を約束された人間が戦場で撃ち殺されるという事態がキリサメにはなかなか理解できず、己自身でも間抜けと思える呟きしか絞り出せなかった。

 メダリストの特権のようなもので兵役が免除されなかったのかという質問への回答こたえは残酷なほど簡潔で、「カーモディ二等軍曹は軍人だから――友人の制止を振り切って使命に殉じたそうだよ」と岳は喉の奥から絞り出した。


「メダリストだろうが有名ボクサーだろうが、戦場は容赦してくれねぇからな。自動小銃構えているヤツには照準の向こうにいるのが誰だか分からねぇ。ただ銃爪ひきがねを引くだけだ。……キリー、『バロン西』って名前は知ってるか?」


 聞きおぼえがない為に首を傾げるしかないキリサメにも『バロン』と冠している点を手掛かりとして爵位の持ち主であろうかと想像を働かせることはできるのだが、とても確信には至らない。


「一九三二年――戦前のロサンゼルス五輪オリンピックで馬術競技を制した日本人選手さ。本名は西にしたけいち。その大会で日本はばたまさ率いる水泳軍団を筆頭に金メダルを量産してなァ」

「ロス五輪オリンピックの話なら母の授業でも扱いましたよ。一九六四年の東京五輪オリンピック招致を成功に導いたのも田畑氏でしたよね?」

「さすがにその辺は詳しく知らねぇなァ……。日曜夜八時に放送してる大型時代劇で主人公に選ばれそうもない人物じゃん」

「良く知らない人の名前を出さないで下さいよ……」

「話題をかっさらったのは何と言っても愛馬ウラヌスを駆るバロン西だよ! アメリカで暮らしている日系人のお姉さんたちも西の美貌にメロメロだったらしいぜ」

「……それほどの人でも戦争の前には為す術もない――と?」

「頭が冴えるってのも辛いな、キリー。……オレが伝えなきゃならないこと、先に言われちまったぜ」


 『バロン西』こと西竹一は旧日本陸軍に所属する大佐であり、騎兵としての腕を見込まれて一九三二年ロサンゼルス五輪オリンピックに出場したという。その後はウラヌスから戦車へと乗り換えて太平洋戦争最大の激戦地である硫黄島に赴き、同地で戦死を遂げたと岳は続けた。

 バロン西以外にも大勢のオリンピック出場選手が平和の祭典とは掛け離れた地獄の戦場で命を落としていったのである。出身国や戦没地に関わらず、こうした人々は〝戦没オリンピアン〟と呼ばれ、ベトナムに散ったロバート・カーモディもその一人に数えられているのだった。


「憧れの人を追い掛けてプロレスに人生捧げるつもりだったのにロバート・カーモディを知ってからボクシングにも興味が向いちまってな。中学校卒業する前の進路相談で死ぬほど悩んだんだよ」


 平和の祭典に大いなる夢を見たカーモディは、ソロキンの祖国くにの銃器が出回る戦地へどんな思いで赴いていったんだろうな――怖いくらいに虚ろな声で岳は小さく呟いた。


「……その頃の気持ちがハナック・ブラウンに教え子の指導を頼んだ理由とも結び付くわけですね」

「無きにしも非ずとだけ言っておくぜ。結局、ゆき助言アドバイスで初志貫徹のプロレスに行ったんだがな。〝レスラー八雲岳〟があるのはキリーの父ちゃん第一号のお陰なんだよ」

「その呼び方は抵抗があるのでやめて貰えませんか」

「じゃあ、キリーの父ちゃんしょごう! オレがごうな!」

「根本的な部分が伝わってないな……」


 言葉を交わしたこともない実父――くさゆきとの不意の邂逅はキリサメを何とも例え難い感覚へと導いていった。

 実父の助言に耳を傾けていなかったら、養父は現在と全く違う道を歩んでいたという。もしも、くさゆきが八雲岳の傍に居なければ『天叢雲アメノムラクモ』と前身団体バイオスピリッツの両方で統括本部長の肩書きを担う者が誕生しなかったことになる。ともすれば日本MMAの決定的な岐路にまで実父は影響していたとも言い換えられるわけだ。

 思いも寄らない形で広がり、結び付いていく因果関係が不思議でならなかった。

 日本格闘技界の未来へと通じるのちの運命はともかくとして、人生を決定付ける重大な局面にいて進むみちの灯火を委ねられるほど心を許し合った間柄であればこそ、実の息子を託したともいえるだろう。


(……まあ、岳氏の場合はMMAをやっていなくても、何らかの形で僕の人生に割り込んできそうではあるよな……)


 くさゆき助言ことばを握り締めた八雲岳に見出され、MMAの正統進化を担う進士藤太は試合場オクタゴンにてジョアキンの突進タックルを受け流し、再びボクシングのテクニックを中心に据えて反撃を試みる。

 少年時代の岳がロバート・カーモディという戦没オリピアンに気付いていなかったら、ジョアキンの顎が掬い上げるような右拳アッパーカットで揺さ振られることもなかったかも知れない。苦戦を強いられる当人ジョアキンには気の毒ながら、キリサメは巡り巡る縁の不思議さを感じずにはいられなかった。


「どうしたって人間は銃弾には敵わねぇ。プロレスラーでいえばりきどうざんだってマット上の対戦相手じゃなく路上で刃物に殺されたようなもんだからよ」


 一九九七年のペルーで生まれたキリサメは力道山という名前に聞きおぼえがなかったが、自分たちが想像しているよりも人間という生き物は脆く、簡単に命を落とすことは十分に理解している。養父とは違ってひきがねを引く感触も、大切な命が鮮血と共に失われていく瞬間の虚無感も生々しく刻み込まれている。

 それ故に岳がミッキー・グッドウィンの話を中断し、ロバート・カーモディという戦没オリンピアンを引き合いに出した意図をキリサメは既に悟っていた。遠回りしているとしか感じられない長々とした引用は、自ら核心に触れることを躊躇ためらっている所為せいであろう。


「……グッドウィン氏も、まさか戦場で……? でも、年齢的に合わないか……」


 紡ぐ言葉が途切れ途切れになるほど慎重な問いかけに対して、岳は油を差していないブリキ細工のようなぎこちなさで首を横に振った。


故郷ブルックリンでボランティア活動をしている最中に強盗に襲われたらしいんだよ。……オレも詳しい状況を確かめられていねぇから『襲われたらしい』としか言えねぇんだ。訃報が届いたのも埋葬まで終わった後だったしな」

「……岳氏……」

「葬儀にも出てやれないなんて、……とことんすれ違う運命だよな。ミッキーのヤツ、天国で『甘酸っぱい青春映画の男女みたいだ』とか何とか笑ってんじゃねぇかな」


 即ち、岳が抱えていた額縁は正真正銘の遺影であったわけだ。

 リトル・トーキョーの共同会見や『NSB』との会議ミーティングなどアメリカにける用事を済ませ、ペルーへ発つ前に『グッドウィン・キックボクシングセンター』へ弔問し、ブルックリン郊外のグリーンウッド・セメタリーに墓参りもしてきたという。


(……ペルーに生まれたことを感謝すれば良いのか、岳氏を悲しませた連中と同類だってコトを悔やんだら良いのか、僕にはちょっと分からないな……)


 亡き母の私塾がペルーではなくアメリカの貧民街スラムに開かれていたなら岳にとって約束の男を仕留めていたのは自分かも知れない――サン・クリストバルの丘に面した非合法街区バリアーダスと〝富める者たち〟の市街地を隔てる橋を渡ったとき、養父となる男から握手を求められたのだが、その数分前には応じた右手でもって自動式拳銃ハンドガンの銃爪を引いていたのだ。


「アイツが亡くなった後には筋が違うっつって離れたけど、藤太も渡米した後はミッキーのジムに居候してたんだ。……その想いにも応えてやりてェ」


 プロジェクションマッピングが追い付かないのではないかと思うほどの速度で試合が動いたのはキリサメの頭の中で進士藤太とミッキー・グッドウィンの関係性が結び付いた直後のことである。

 マットへ直線的な光線を走らせるようにして突進タックルし、そのまま一気に組み付こうとしたジョアキンは迎撃の拳で眉間を抉られ、これによって膝から崩れ落ちた――が、これは見せ掛けだけのフェイントである。

 致命傷を受けたかのような芝居のまま急激に沈み込み、そこから海面へ飛び出していく鯨さながらに全身を撥ね起こしたジョアキンは、膝の屈伸によって生じた勢いに乗せて藤太の左足に両手を巻き付けようと試みる。

 並みのMMA選手であればルタ・リーブリの寝技まで引き込まれたであろうが、藤太はマットに爆発的な波紋を起こしながら垂直に跳ね飛び、捕獲これを避け切った。逃れた空中でコマのように回転しつつジョアキンの脳天へ反撃の左踵を落とす――攻防の一部始終を追い掛けていたカメラが最後に捉えたのは師匠譲りの『超次元プロレス』であった。

 永別に至るまでの二十年を噛み締めるように拳を交えることが叶わなかった〝ライバル未満〟の旧友グッドウィンを振り返っていたからであろうか、己が最も得意とする戦法を愛弟子が繰り出したというのに誰よりも感情表現が大きい岳にしては信じられないほど静かであった。

 普段の岳であったなら『超次元プロレス』による踵落としがこの試合で最大の打撃力を計測した瞬間に左右の拳を突き上げてもおかしくはなかったはずだ。

 養父にとって情熱こそが身も心も衝き動かすものであろうとキリサメは感じていた。未稲や麦泉に四六時中呆れられるほど能天気にも見えるのだが、一九六九年から数えて四五歳という人生の中で何も背負わない者が存在しないように『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長もまた様々な想いを握り締めてまで歩いてきたのだ。


「藤太は日米両方のMMAにとって夢の結晶なんだよ」


 絞り出すような呟きには日米MMA団体双方の暗部を見届けたという意味も含まれているのだろう。悍ましい〝闇〟に身を切られながらも進士藤太は八角形オクタゴンの金網の内側へ留まり、『NSB』の〝光〟を体現していた。

 その進士藤太は――日本MMAの先駆者が〝最高傑作〟とまで褒め称えた愛弟子は決着を告げるブザーが鳴り響くと試合場オクタゴンの片隅で端然と正座し、マットに沈んだジョアキンを言葉もなく見つめている。勝利を得た現在いまも極太の眉毛は全く動いていない。

 以前かつては『グッドウィン・キックボクシングセンター』なるジムのがセコンドに付いていたのかも知れないが、今は歩み寄る者など誰一人としていない。岳も語っていたが、それが「筋を通す」ということなのだろうか。

 豪快な踵落としでもって脳を揺さぶられたジョアキンはセコンドや医師に取り囲まれ、応急処置を施されている。頭部に被ったダメージが相当に深刻なのか、起き上がることすらままならない様子である。

 その間に照明スポットライトが切り替わり、正座する藤太の側だけが俄かに暗くなった。

 プロジェクションマッピングは描画領域キャンバスとし、マット上には勝敗を決した技の名称や累積された得点スコアなど詳細な試合結果リザルトが次々と表示されていく。試合場オクタゴン上部のカメラが高い位置からこれらを写していた。

 決着までに要した試合時間は二ラウンド二分四〇秒である。

 『CUBE』による演出は〝明暗〟という意味では正反対だが、勝敗が視覚的及び直感的に分けられていた。

 『超次元プロレス』の再現による決着という鮮やかな勝利であったが、至近距離のカメラが捉えた藤太は少しも嬉しそうではない。決して満たされない双眸で遥か遠くを――これからも歩んでいくべき格闘家としての道を見据えているようだった。


「……もしも、藤太に勝てるヤツがいるとすればねいしゅうしかいねぇだろうな。電知と一緒に屋台を訪ねたらしいし、ねいしゅうは誰だか分かるよな?」

「沖縄クレープの人ですよね。電知からMMAの先輩とも教わりました」


 対戦を望みながら勝てるとは考えていないのか――口から飛び出しそうになった質問をキリサメは慌てて飲み下した。それは師弟という関係性へ水を差すことに等しく、無粋の極みとしか思えなかったのである。


「そうだ――先輩とは聞かされたんですが、とても格闘技をやっていたように見えなくてピンと来なかったんですよ。例えるのが難しいな。自然体というか……」

寧舟アイツは観客を楽しませるコトに命を懸ける芸人気質みたいなトコロがあるからねぇ。生粋のパフォーマーだし、ストイックな試合運びの藤太とは正反対さ。今の試合、ねいしゅうならわざとジョアキンの寝技に付き合って、絶体絶命からの逆転劇みてェな勝ち方を選んだと思うぜ。そのほうが盛り上がるってな」

「わざわざ危険リスキーな真似をする意味が僕には分かりませんよ」

「だから、パフォーマーなのさ。師弟関係はなかったハズだけど、レオニダスのスタイルはねいしゅう直系みてェなモンだな。キリーだって参考になるだろ?」

「……何をどう参考にしたら良いのか……」


 先に幾つかの試合を観戦したという岳の補足説明によれば寝技の攻防となった場合にも『CUBE』の機能が作動したそうだ。選手周囲の照明が一時的に落とされ、技に入ってからの経過時間がマット上に大きく表示されたという。


「藤太とねいしゅうは同い年の上に『鬼の遺伝子』最後の世代なんだよ。同じ釜の飯を食った仲間ってヤツ。藤太のほうが先にオレらの団体に入ったから同級生なのにねいしゅうが後輩なんだけどさ」


 沖縄がまだ琉球と呼ばれていた時代から脈々と継承されてきた古伝空手を携えて鬼貫道明のもとに馳せ参じ、異種格闘技を経て総合格闘技のリングで大輪の花を咲かせた――故郷のクレープを極めたじゃどうねいしゅうの過去を明かしていく声は想い出を懐かしむように穏やかである。


「この試合はビシッと胸に突き刺さったけど、それでもやっぱりジョアキンにねいしゅうの代役は務まらねぇかな」

「つまり、岳氏とグッドウィン氏みたいな関係ということですか」

「オレらみたいに最後まで結ばれない運命じゃなくて、リングの上で語り合えたコトは大きな違いかな。……格闘への哲学や美学までひっくるめて、何から何まで正反対なのに距離が近過ぎた所為せいか、ちゃんと向き合うまで随分と時間が掛かったなァ……」


 種々様々な沖縄クレープを提供する傍ら、さんしんという故郷の伝統楽器を爪弾きながら同地の民謡を口ずさむじゃどうねいしゅうと、『NSB』にいて確固たる存在感を示す進士藤太が好敵手とも呼ぶべき間柄であったという事実をキリサメは俄かに信じられなかった。

 テレビのバラエティー番組にも出演するというじゃどうとて〝華やかな舞台〟に留まり続けているといえなくもないが、やはり『CUBE』によって彩られた格闘たたかいの最前線とは天と地ほども環境が異なっており、二人の絆が深く交わっていたとはどうしても想像できなかったのである。

 『鬼の遺伝子』最後の世代という同志的な繋がりを持つ二人の先輩選手を頭の中で比べていたキリサメは、意識を取り戻さないまま担架で運び出されていくジョアキンを危うく見逃すところであった。

 金貸しとおぼしき背広姿の男たちも金網の向こうで立ち上がり、興奮した調子で拍手していたので試合の内容自体には満足しているのだろう。


「ジョアキンの名誉の為に言っておくとだな、ルタ・リーブリの神髄はまだまだこんなモンじゃねぇんだ。本人の勝率だって際立って悪いワケでもねぇ」

「僕にもそれは伝わりましたよ。本気を出させて貰えないまま完封されたようにも見えましたし。……それだけにあらゆる技を切り返す教え子の方が僕には恐ろしいです」


 緻密な計算に基づいて試合を組み立てていることは間違いなく、危機に際して思考かんがえるより先に肉体からだのほうが先に動いてしまう自分とは根本的な部分で異なっているが、「標的に何もさせないまま確実に仕留める」という理論そのものにはキリサメも自身との共通点を見出している。


「おうとも! 総合格闘技の一つの理想を体現してくれたよなッ!」


 あるいは『自然選択説』の体現ともたとえるべきの熱闘に対する岳の称賛は愛弟子一人ではなくジョアキンにも向かれたものだとキリサメは理解している。彼自身、金網の向こうにMMAの本質というものを捉えた心地なのだ。

 師匠と同じように藤太もまたジョアキンに溢れんばかりの敬意を抱いているのだろう。セコンドに付き添われる形で運ばれていく彼に深々と一礼し、試合場オクタゴン全体が明るくなってからも勝利を誇示しようとはしなかった。

 マイクパフォーマンスをも断って藤太は金網の外に引き上げていく。ただ一人で戦いの場から去っていく――孤高の二字が良く似合う背中にもキリサメは師弟の間で引き継がれたものを感じていた。

 極太の眉毛にひろたかの面影を見出したことなど頭から完全に抜け落ちてしまっているが、これからデビュー戦を迎えるMMA選手にとって学ぶものが余りにも多い一戦であったのだから無理もないだろう。


「向こうじゃ『フルメタルサムライ』ってあだ名で呼ばれているらしいんだよ。いかにもアメリカ人らしい命名ネーミングだからシャイな本人アイツは嫌がってそうだけどな」


 藤太の通称を明かした岳も『天叢雲アメノムラクモ』の試合場リングではセコンドを伴っていなかった。日本MMAの先駆者として今なお現役に留まり続ける師匠の魂は、海を渡って独り闘う弟子にも確かに受け継がれているのだ。孤高の武士さむらいたる威容すがたがそれを示しているといえよう。

 その通称を付けられた経緯がキリサメにも察せられるようであった。


「こいつは世界で最も完成された総合格闘家だよ」


 ノートパソコンの液晶画面から目を離し、余韻に浸るよう瞑目する岳であったが、キリサメに対しては「だからって藤太の真似だけはすんなよ」と釘を刺した。


「お前にMMA選手らしいテクニックを教えなかったのは、どうしてだか分かるか?」


 『世界で最も完成された総合格闘家』の試合を見せることがデビュー戦に向けた総仕上げと前置きした上で、岳は一つの質問をキリサメに投げ掛けた。

 キリサメが『天叢雲アメノムラクモ』への出場を決意してから今日こんにちに至るまで進士藤太が見せたような馬乗り状態マウントポジションの取り方といったMMA選手として欠かせない技術を岳は一度も指導していなかった。代わりに殺陣たて道場の体験会ワークショップや地方プロレスの合宿などMMAとの関わりが不明瞭な場所へ連れ出してきたのである。

 打撃訓練に至っては電知としか行っておらず、岳から直接的に指導を受けたものといえば体力・筋力を育む基礎訓練のみであった。


「どうしてって……忙しくて、面倒くさかったから――ですか?」

「違ェーよ! てゆーか、オレはキリーの中でどーゆーキャラなんだよ⁉」

「見たままとしか」

「キリーの喧嘩殺法はペルーで完成されちまってるだろ? もう変えようがねぇだろ?」

「良いか悪いかは別として、……僕の身体に一番馴染んでますよ」

「だったら、それを変にイジっちゃならねぇよ。ルールに当て嵌めようって無理に調整しちまったら、逆に技が崩れちまわァ。進士藤太っつう〝教科書〟からパウンドとかMMAの基本的な部分を見ておいて、後は実戦でお前なりにサバけばいいのさ」

「はあ……」


 『ユアセルフ銀幕』で藤太の試合を観戦させた理由を明かした岳は、空返事を洩らすキリサメに闘魂を注ぐよう右肩を強く叩いた。


「お前が思う通り! 好きなように思い切り闘ったらいいんだぜ!」


 それが岳の結論であった。適材適所と放任主義のどちらで言い表すべきか。納得できるようで、無責任ではないかと思えなくもないことを言い出したのである。

 キリサメはただただ呆然と固まっている。それ以外に反応しようがなかった。


「それでも不安なキリーにオレからとっておきの秘策を授けて進ぜよう!」


 キリサメの表情を不安と捉えた岳は「こんなこともあろうか」とばかりに自分の胸を叩いた。得意満面な彼には何やら秘策がある様子だ。


「要は〝バンツマ〟の無声サイレント映画でよ、殺陣たてだけでそのキャラクターの人生を語るっつう名作があってな。たまたまそれを想い出して〝決め球〟はコレだって閃いたのさァ!」


 岳が語った〝バンツマ〟とは往年の時代劇スター、ばんどうつまさぶろうのことである。勿論、ペルーで生まれ育ち、つ年若いキリサメには誰のことだか分からない。


「オレも一発喰らったけど、キリーはあの目潰しを実戦で使い込ませるだろ? だが、それはMMAのルールではどうだった?」

「サミングは反則行為と聞いてます。骨に指引っ掛けて投げてもダメだって」

「ちゃんと憶えてるな。キリー、自分の喧嘩殺法を振り返ってみて、どうだ? 反則取られそうなモンは多いか? タマキン蹴るのも『天叢雲アメノムラクモ』じゃアウトだぜ」

「僕の持ち技は殆どがアウトです」

「それを芝居のように相手に見せてビビらせる! 竦み上がったところに反則にならねぇ技で仕留めるってのはどうだ?」

「……僕に殺陣たてをやれっていうんですか? 『とうあらた』のように?」

殺陣たての理屈をミックスしたフェイント殺法だよ。寸止めの美学は殺陣たて、格闘技の技としての見せ方はプロレスってな具合でな。……オレ式の修行が見えてきたろ?」

「……見えましたけど……」


 そこでようやくキリサメは岳の目論見を悟った。〝坂東妻三郎バンツマ〟という着想は相変わらず意味不明だが、彼が示したかったことだけは理解できたのである。

 危険な技の数々を寸止めのフェイントとして応用するよう岳は促しているわけだ。その要点ツボを学ばせようと思い、殺陣たて体験会ワークショップや観客を楽しませる為にショーアップされた地方プロレスの世界へいざなってきたのであろう。


「ペルーの裏路地でギリギリの死線デッドラインを掻い潜ってきたキリーなら絶対にできるってオレは信じてるぜ! 『あ、これは死んだわ』って自分でも思っちまったような闘いを再現してよォ、相手の戦意をブチ折ってやるのさ! こんな人間離れした作戦、命懸けの世界で生き抜いたキリーにしかできねぇコトだからよ! 名演技に乞うご期待ッ!」


 岳が何かを言うたびにキリサメの混乱へ拍車が掛かる。

 『とうあらた』の体験会ワークショップへ参加したときにキリサメが最も学んだのは殺気の制御コントロール――気魄を練り、これを自由自在に操る工夫であった。

 格差社会の最下層という極限の環境下で編み出した喧嘩殺法は破壊の本能が剥き出しとなるものばかりであり、キリサメ自身も闘いの最中には殺気の塊のようになってしまう。ひめとの稽古でも思い知らされたが、気魄を制御コントロールできないと相手に容易く心理を読まれてしまい、手の内まで見透かされてしまうのだ。

 現状のままでは希更・バロッサのような猛者がひしめく『天叢雲アメノムラクモ』の試合場リングで勝負にならないかも知れず、この改善こそ岳の望みであろうとキリサメは捉えていたわけだ。

 『まつしろピラミッドプロレス』のすがだいら合宿でもレスラー同士の模擬線スパーリングを見学したが、技を観客に見せる工夫などは全く注視していなかった。

 岳が提案したフェイント殺法では技を披露するのは観客ではなく対戦相手ということになるだろうが、特別強化合宿が終わってからくだんの作戦を明かされては要点ツボの吸収も何もあるまい。

 恭路によって邪魔されてしまったが、菅平すがだいら合宿ではに向けた最終調整こそが目的であろうと考え、体力・筋力の充実や電知との打撃訓練に力を注いでいたのである。カリガネイダーには後ろ回し蹴りソバットなどのプロレス技まで伝授してもらったのだ。

 つまるところ、キリサメの解釈は全てが誤りだったわけであり、今日まで積み重ねてきたものが崩れ去った恰好である。

 せめて最初にフェイント殺法という全体の指針を示してくれていたなら、そこに向けて訓練トレーニングの計画を組み立てられただろう。『とうあらた』の道場にも通い詰め、体験会ワークショップのときに世話になった姫若子や近藤から専門的な指導を受けることもできたはずである。

 訓練開始に当たって多くを語らなかった岳こそ問題であろう。結局、親子二人で全く別々のことを考え、意思の疎通を図らないまま遠征直前を迎えてしまったのである。

 この期に及んで責任を追及しても無意味であるが、何よりもキリサメにはフェイント殺法について気掛かりなことがあった。


「……でも、その作戦はレフェリーから反則取られるのではありませんか? 実際に当てたかどうかじゃなくて、危険行為を試みたことが問題になるんじゃ……」


 キリサメが気付いたようにフェイントであろうとも危険行為に変わりはない。意図的に寸止めの目潰しなど仕掛けようものなら却って悪質と見なされる可能性もある。警告程度では済まされず、反則として即座に敗北を宣言されるかも知れないのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の試合場リングでは安全性を考慮したルールに則って試合が行われる。それを脅かす振る舞いは全てが禁止されており、岳の考案したフェイント殺法はルールそのものに対する挑発とも認識され兼ねないのだ。


「ぬあッ⁉」


 キリサメから疑問をぶつけられた瞬間、岳の表情が凍り付いた。どうやら奇抜な発想にこだわる余り、初歩的な部分に考えが及ばなかった様子である。統括本部長にあるまじき醜態ともいえよう。


「……岳氏の何を信じたら良いのか、もう分からなくなりました……」

「おぉ~い! ンな哀しいコトを言うなよぉ、キリ~! キリ~ちゃ~ん! 上手くやれば問題なくイケるって! オレを信じろってばさ~ッ!」


 岳に泣き付かれてしまったが、これはキリサメの偽らざる本音だった。これではひきアイガイオンに意味不明な訓練を施したボクシングジムや所属トレーナーと大して変わらないではないか。嶺子の話によれば彼らはタイトルマッチで反則行為まで指示したという。

 岩手興行――デビュー戦まで既に半月を切っている。ここから体勢を立て直すことは至難の業どころか、殆ど不可能に近いだろう。岳が述べた通り、以外に選択肢はない。不意に反則技が飛び出してしまったとしても今度ばかりは仕方あるまい。

 だからこそ、電知から格闘技界の汚点とまで扱き下ろされたひきアイガイオンに我が身を重ねてしまうのだ。何がどうなるか、もう誰にも予想がつかない。

 最終調整に失敗した状態でデビュー戦へ臨むようなものである。

 インターネット画面では次の試合に臨む『ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアン』という女性選手のプロフィールが紹介されているが、『ヴィヴィアン・トップチーム』なる所属ジムと共に映し出された女神の如き美貌すら二人の目には入っていない。

 もはや、『NSB』の観戦どころではないのだ。


「そうだ! 景気付けに東京ドームの話をしようぜッ⁉」

「それはもう結構――」

「――ちょちょちょ! ちょっと大変大変! お父さんもキリくんもヤバいって! かなりシャレにならない事態が起きちゃってるよ⁉ 値の張るアイテムへ課金したのにクソの役にも立たなくて、メンバー全員に白けた反応リアクションが囲まれる瞬間と同じくらい激ヤバっ!」


 岳の繰り言を制止しようとするキリサメの声を更に遮ったのは自室に籠り切ってネットゲームへ夢中になっているはずの未稲であった。通話を終えたばかりと思しき携帯電話スマホを右手に握り締め、火事でも起こしたかのように取り乱しながら道場に飛び込んできたのである。

 オフ会の為に何日も何日も丁寧に手入れをしてきた髪を乱雑に頭頂部で結い上げたさまはまるで玉葱ではないか。くたびれたシャツには「メガネの俺サマ優等生は首輪の下剋上からが本番」という意味不明な文言が刷り込まれ、これにゼブラ柄のスパッツを組み合わせただけという出で立ちであった。岳から東海道線の塗装ツートーンカラーたとえられたセーラー服でめかし込んでいたのが嘘のようであるが、これこそ彼女の寝間着なのだ。

 人前に出る恰好など省みてはいられないほど未稲は慌てており、丸メガネに至っては今にも鼻からずり落ちそうである。

 彼女のアカウントを無断で借用し、『ユアセルフ銀幕』を視聴していた岳は比喩でなく本当に飛び上がって驚いた。余りに突然な展開であり、事後報告の心構えなど間に合っていなかったのだろう。


「な、なァ、キリー? もしかして、勝手にログインしたのがもうバレたのかな?」

「そんな風にかれたら僕まで共犯者と誤解されますよね。巻き込まないで下さい」

「この際、無断使用はどうでもいいから! ていうか、それは後でしっかり叱るよ⁉ だけど、今は、今だけはそんなこと話してる場合じゃない! とにかく最優先はこれ!」


 気まずげな面持ちの岳と、迷惑そうに肩を竦めるキリサメを強引に押し退けて二人の間に腰を下ろした未稲は、酷く慌てた指使いでノートパソコンを操作していく。『ユアセルフ銀幕』からインターネット画面を切り替えるようなことはせず、同サイトに登録されている格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの公式チャンネルにアクセスしたいようだ。

 同チャンネルの中でも特に人気の高い『あつミヤズ』が配信している生放送の番組を視聴するつもりであることも察せられたが、気持ちばかりが焦っているのか、操作を間違えて目当てとは異なるページを選びそうになっていた。

 キリサメにとっては初めて触れる世界だが、ここ数年の『ユアセルフ銀幕』ではリアルタイムで三次元描画されるキャラクターを用いた動画ビデオがで流行の兆しを見せ始めている。

 高度な機材を駆使して配信者の動作や表情をコンピューターに取り込み、これを反映させることで架空バーチャル存在キャラクターでありながら生身の人間と同等の息遣いを実現させている。その内の一つが『あつミヤズ』であった。


「何の騒ぎなんだよ? ミヤズってお前、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの広報番組でも観るのかよ?」

「うわ~、その反応リアクション! マジでお父さんにも知らされてないんだ……一体全体、何がどうなってるのか、もう誰にも把握できてないんじゃないかなぁ~。怖過ぎでしょ……」


 岳が語ったように『あつミヤズ』とは格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの販促用に作られた〝キャラクター〟である。『天叢雲アメノムラクモ』と公式に提携して興行イベント後に試合内容を総括する〝業務〟を請け負っているのだが、マニアックな格闘技解説が大好評を博し、半ば独立したコンテンツとして運用されていた。

 父親と同じように口から飛び出す内容が全く要領を得ないのだが、そのミヤズを原因として未稲が狼狽していることだけは間違いないようだ。


「自分だけで納得してねぇで説明しろって! 何を言ってんだ、さっきから⁉」

「今、師匠に電話を貰ったんだけど、どういうワケだか、あつミヤズがお昼のおれつワイドショーみたいなコトやってんの! 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの広報番組? これが⁉ ミヤズの〝中の人〟が変わっちゃったとしか思えないよ!」


 未稲の言う〝師匠〟とは『天叢雲アメノムラクモ』にいて広報活動の一翼を担ういまふくナオリだろう。種崎のアトリエでも師弟関係を仄めかすようなことを呟いていたはずだ。

 その今福から未稲の携帯電話スマホ宛てに緊急連絡があったことも察せられた。


「言いにくいんだけど、みーちゃんの言っている意味が僕には何も分からないよ」

「……キリくんもお父さんも深呼吸しといてね。私はさっき血管ブチ切れそうになったんだから。特にキリくん。何かを殴りたくなったらお父さんの頭をやっちゃって良いよ」

「状況飲み込めてねぇんだけど、サンドバッグなら道場そこにあるだろ⁉ 何でオレよ⁉」


 ようやくアクセスした先には『ミヤズの緊急特別講義』と番組名が大きく表示されている。間もなく四畳半程度のアパートを彷彿とさせる狭い部屋へインターネット画面が切り替わり、そこに一人の〝キャラクター〟が現れた。

 巫女が用いるころもをモチーフにしたものとおぼしき若草色の装束に身を包み、正面に据え置かれたカメラ――そのようななのだろう――にはつらつとした笑顔を振り撒いている少女である。

 和洋折衷と呼ぶには無理のある着こなしだが、動き易いよう袴の代わりにスパッツを履き、着物の前面も大きく開けていた。巫女のころもを意識しながらも袖が取り外されて肩は剥き出しとなっており、両拳にはMMAで用いられる指貫オープン・フィンガーグローブを装着していた。

 右手が青で左手は白といった具合にそれぞれ色違いであるが、これは『天叢雲アメノムラクモ』の仕様に準拠している為だ。


「……全部がCGというヤツ……なんだよね? さっき観た試合から続いてだから、すっかりSFの世界に迷い込んだみたいだよ……」


 あどけなさを残した顔立ちには不釣り合いと思えるほど大振りな胸部はタンクトップで覆われているのだが、この最も目を引く部位には雑誌名がプリントされており、『パンチアウト・マガジン』に帰属する〝キャラクター〟であることを殊更強調していた。

 綺麗に割れた腹筋は仮想空間にて最強の格闘家ということを表しているのだろう。

 それが『あつミヤズ』であった。

 山吹色の長い髪は右耳の上辺りで一つに結わえ、紐の部分にはかんざしのような飾りが差し込まれているのだが、これらは全て仮想空間への三次元描画に過ぎない。


「――アマカザリ選手は岩手大会で必ず嵐を呼びますよ! 何てったって〝人殺し〟っていうブッ飛んだ経験を履歴書に載せちゃう人ですから! 『天叢雲アメノムラクモ』どころか、日本格闘技の歴史始まって以来のサイコ物件ですよぉ~! 漫画の設定じゃねぇんだからっ!」


 データの読み込みが完了し、生放送が開始された直後にスピーカーから飛び出してきたのはキリサメにとって最も聞きたくない言葉であった。

 岳や未稲にだけはどうしても聞かせたくない言葉と表すほうが正確に近いだろう。


「まあ、殺人経験っていうのはペルーの現状からミヤズが割り出した予想ですけどね。おい、そこの貴様、『誇大妄想極まれり』っつったろ、今! 残念でした~、キレッキレなリサーチとウハウハなデータに基づくスカッと痛快な分析に定評があるミヤズは今回も抜かりナシで~す! 何が悲しくて貧乏暮らしやってると思います? 裏社会の情報屋は値が張るんだわ、これが!」


 ミヤズは『じんぐう』という呼称が虚勢にしか聞こえないほど粗末な空間で〝活動〟している。割れた窓ガラスをダンボールで補強するなど派手な衣装との落差が激しい部屋の中央に座布団を敷き、畳の上に両足を投げ出した状態で豪快に座っていた。

 これだけならば変わり者の美少女キャラクターにしか見えない。実際に小さな口から発せられる声も愛らしいのだが、によって次々と暴かれていくのはキリサメ・アマカザリという新人選手ルーキーが抱えた〝闇〟であり、ペルーにける暴力の実態である。

 砂糖菓子のように甘ったるい声と、人の心を無造作に抉り出せるおぞましさとの落差には悪魔の二字こそ似つかわしいだろう。


「日本との親交が深いって割にペルーそのものが全然知られてないじゃないですか。ミヤズなりにコネ使って調べてみたんですけど、ぶっちゃけ調べたことを後悔しましたね。お隣のブラジルと競るレベルで貧富の差がエグいし、アマカザリ選手が暮らしてた貧民街スラムは強盗でもしてなきゃ生きていけない世界なんですよね。そりゃ暴力頼みにもなるわァ」


 熱心なMMAファンに桁違いので試合を解説してきたミヤズが〝暴露番組〟を真似する事態は極めて異常であるらしく、唖然呆然といった様子で大口を開け広げている。

 画面内に表示された累計放送時間が一〇分を超えているということは、それだけ暴露も進んでしまったわけだ。キリサメの立場からすれば〝味方〟であろう格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの〝キャラクター〟に背中から刺されたような状況であり、最初から『天叢雲アメノムラクモ』に批判的な銭坪満吉による理不尽極まりない攻撃と比べても遥かに悪質である。


「はい、これェッ! 痒い背中を孫の手で引っ掻くっていう知恵も回らない日本のマスコミサマに代わって某ネットニュースのお姉さんが体当たりロケしてくれたんで知ってる人は知ってるかもですけど、去年の七月にペルーは内戦寸前まで行っちゃってるんですよね。ど~やらアマカザリ選手も大立ち回りを演じたとか?」


 築数十年の古びた畳敷きの室内にはホワイトボードも運び込まれているが、そこに貼り付けられた数枚の写真は紛れもなく『七月の動乱』――労働者の権利を脅かし兼ねない新法の公布に端を発する大規模な反政府デモであった。

 自由を求める歌声でもって首都リマの大通りを満たす群衆から炎に包まれたタイヤや大小の石を投擲され、を強化プラスチック製の盾で弾きつつ陣形を整えて〝大統領宮殿〟への接近を防ごうとする国家警察など合戦さながらの画には、怒れる人々の間を真っ二つに割って警察馬を駆る少年が混ざっていた。

 レインコートのフードを被って顔の大半を隠してはいるものの、ノコギリと見紛うばかりの禍々しい『聖剣エクセルシス』を担いでいるのはキリサメ・アマカザリその人である。どのような経緯で写真を手に入れたのかは見当も付かないが、あつミヤズは『七月の動乱』との関わりまで嗅ぎ付けたようだ。


「……内戦というのは言い過ぎだな。市民の暴走を煽った『組織』はあったけど、あれはあくまでもデモだよ。銃撃戦は――いや、……戦闘は局地的なものだった」

「コネと生活費を使って裏も取りました! デモを影から操ってたのは一九九〇年代半ばに日本大使公邸を占拠した連中と似たような武装勢力だったってさ。そいつらの手引きで重火器も出回って最後には派手なドンパチと来たもんだ。銃撃戦の現場はすっかりスペイン時代の名残になった闘牛場なんだけど、ミヤズの耳に入って来ちゃった話によれば、そこにもアマカザリ選手が駆け付けたそうですね。はてさて何をしていたのやら?」


 間違いなく偶然だが、キリサメがインターネット画面に向けて小さく呟いた反論はミヤズの台詞に押し流されてしまった。奇しくも更なる反論に言い負かされた恰好である。

 三次元描画された竹刀の先端でもってホワイトボードの写真を指し示すたび彼女ミヤズの胸部は上下左右へ生々しく跳ね回っている。現実の世界と同じように『じんぐう』にも重力が働いているという演出が未稲には舌打ちしたくなるほど忌々しいのだが、現在いまは己の上半身に切り立った断崖絶壁と比べて逆恨みを拗らせている場合ではない。

 貧民街スラムで生きてきたキリサメと罪深き暴力が切り離せないことを理解している未稲も二〇一三年に発生した『七月の動乱』は今まで聞いたことがない。「キリくんから教えてもらえなかった」というような個人間の伝達を問題視しているのではなく、日本のニュースや新聞を振り返ってみても当該する反政府デモに触れたおぼえがなかったのだ。

 しかし、無感情というより虚無としか表しようのない面持ちを一目でも見れば、この暴露がキリサメの心身を脅かし得るものとすぐに察せられるだろう。

 ミヤズがキリサメのことをどこまで語るつもりなのか、これを確認するまでは視聴を打ち切ることも叶わず、今すぐ抱き締めて慰めたいほど未稲には心苦しくて仕方なかった。


「幾ら何でもMMAの現役選手がテロ紛いの事件に加担するなんて有り得ねーだろって画面の前の貴様らは思ってるね? 上等だよ、このゲス野郎ども! ここで証拠提出のお時間でぇッす! さっきの写真を想い出してみ? 中米の刀剣マクアフティルを担いだ現代人が文明社会に二人もいたら一等前後賞を的中させるような奇跡だと思うでしょ? でしょでしょ?」


 ミヤズがホワイトボードへ新たに貼り付けた何枚かの写真がインターネット画面へ大写しとなったのだが、それらは全て今日の内に撮影されたもの――寅之助とキリサメが秋葉原の中心部にて繰り広げた『げきけんこうぎょう』の再現である。

 それだけなら何も問題はない。この件は既に短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSやネットニュースを通じて広く世間に知れ渡っている。ところが、ミヤズは膝関節や金的を破壊しようとする蹴りや目突きといった危険な動作ばかりを意図的に選択ピックアップし、『天叢雲アメノムラクモ』の公式ホームページで公表された〝我流〟の技がMMAのルールから著しく逸脱していると繰り返し強調するのだ。

 そこに暴力性の顕現あらわれともたとえるべき中米の刀剣マクアフティル――『聖剣エクセルシス』を振り回す写真まで重ねるのだから演出自体に悪意があるとしか思えなかった。

 寅之助と斬り結ぶ姿が晒された瞬間、動乱の首都リマで『聖剣エクセルシス』を担いだ少年の正体も暴かれたわけだ。出身国にまつわる攻撃的な映像と喧嘩殺方法の危険性を切り取った写真が頭の中で結び付けば、ミヤズの緊急生放送を通じて作り上げられたイメージがそのまま視聴者に刷り込まれてしまうはずだ。


「おい、未稲……今すぐこの動画ビデオを食い止めろ! ハッキングしたって構わねぇ! 一体全体、何なんだよ、コレはッ⁉」

動画ビデオじゃなくて生放送だよ――って無意味なツッコミ入れてる場合じゃない! 実の娘にサイバーテロをけしかけちゃってるよ、この人! 私にそんな技術スキルないし、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンのツテで止めてくれるよう師匠にもお願いしたんだけど、自分の権限じゃどうしようもないって! とりあえず渋谷の本社に向かうとは言ってたけど……!」

「ンなアホな⁉ 『サムライ・アスレチックス』の広報部もノータッチってんなら、どこのどいつが手ェ回してんだ⁉ コレのどこが宣伝なんだよッ⁉」


 『NSB』の試合を観戦する際には機能そのものを停止していたのだが、『ユアセルフ銀幕』最大の特徴は配信される動画ビデオや生放送番組へ視聴者が自由にコメントを書き込むことができる点であった。

 視聴者全員の再生画面へリアルタイムで表示されるシステムとなっており、そこから表現する側と閲覧する側による双方向のコミュニケーションが生み出されているのだが、ミヤズの緊急生放送はキリサメの暴力を囃し立てるコメントによって埋め尽くされていた。

 本来の番組では愛らしい立ち居振る舞いや素っ頓狂な言動に悶えるような声が目立っているのだが、現在いまは悪意ばかりが噴き出し、何もかもが歪んで見えた。


「――経済フトコロ事情ぐあいが引き金になって何万人っていうレベルのデモが頻繁に起こるワケですから荒みまくりですよ。若いお兄ちゃんたちの中には『今はコソ泥だけど、いつかもっとデカい盗みをしてやるんだ』ってキラキラ夢を語る人も多いとか――って、盗んだモノを元手にして商売とか始めるって話じゃねーのかよ⁉ 重罪化エスカレートしてるだけじゃん! ……ここまでヤバい街で生き抜くのに必要なのは? そう! 圧倒的な暴力だね!」


 ミヤズが胸の双丘を揺らしながら暴力という二字を発するたびに画面内に映し出されるコメントも過激さを増していく。

 「犯罪者を選手に使うとかアイドル声優以上の『客寄せパンダ』じゃん」という心ないコメントが目に入った瞬間など岳は反射的に拳を振り上げてしまい、危うくノートパソコンを叩き壊すところであった。


「世界中の格闘技を極めてきたミヤズもアマカザリ選手は再現厳しいかも知れないです。いつもの『偽ミヤズちゃん』の目に指突っ込む絵面なんて放送倫理ギリギリでしょ。どうせまた『手首までめり込んだら大事件だろ』『画像壊れ過ぎ問題』みたいに煽られるし。おい、ビニール人形に目なんかねーだろってツッコむな! ミヤズだって敢えて黙ってんだから!」


 安アパート暮らしのわびしさが笑いを誘い、溢れんばかりの生活感に視聴者は親しみを抱くのだろう。あつミヤズは企業系チャンネルの中でも群を抜く登録者数を誇っている。その事実から連想される事態がキリサメに――八雲家の三人に大きく圧し掛かり、誰も何も口にすることができなかった。

 子どもたちの手前ということもあり、歯を食いしばって物に当たることを堪えた岳は、振り上げてしまった拳を己の脳天に叩き落としている。道場内に響く重々しい自戒の音色はインターネット上の〝キャラクター〟に煽られた人々への反駁のようにも聞こえた。


「程よく場が温まったところで――つーか、思いっ切り戦慄で凍り付いたけど、どうやらここでアマカザリ選手の独占インタビューが『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトで全文公開されたみたいですよ! 役得でミヤズは先に読みましたけど、ネタバレにならない程度に『キミの知らないがソコにあるッ!』とだけ言っておきますね! みんなもとっとと度肝を抜かれてこい! いやぁ~、ついに初めて『天叢雲アメノムラクモ』で死人が出るかぁ~⁉」


 これからMMAデビューを迎える新人選手ルーキー印象イメージを作為的に操作しようとする意思があつミヤズという〝キャラクター〟の向こうに透けて見えるようであった。

 古くからの仲間である岳にはどうにも認め難いようだが、裏で糸を引いている人間などは改めてつまびらかとするまでもないだろう。風貌自体は似ても似つかないものの、未稲の双眸にはあつミヤズと樋口郁郎が重なって見えた。

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