第41話 しじゅういち
橋田画廊に足を踏み入れた途端、その絵に目を奪われた。
男性の背中の絵。
よく知っている背中。ずっと見つめつづけていた背中。
まっすぐ、その絵に歩み寄る。
大基の背中だ。二十歳を過ぎても頼りなく細く、やや猫背だった。やけに首が長くて、マフラーを編んでやったら細すぎると言って笑った。
目を離すことができず、じっと見つめていると、受付の女性が話しかけてきた。
「こちらは高坂のライフワークで、彼女が弟の成長を描き続けた連作の、最新の作品です」
さゆみは、ちらりと女性を見る。メガネをかけた真面目そうな人だ。
「ライフワークは、この作品で終わりなんですか?」
「いえ、現在、新作を執筆中です。こちらの作品から後の、三年間の歳月を描き出すそうです」
「……そう。また……」
「え?」
さゆみの呟きは、女性には聞き取れなかったらしい。そのまま女性を放っておいて、絵にもどる。
題名は『弟 二十歳』。味も素っ気もない題名だった。
さゆみは隣の絵に移る。一枚移るごとに、背中は若くなっていく。
『弟 十八歳』
『弟 十七歳』
『弟 十五歳』
『弟 十二歳』
『弟 十歳』。
どの絵も、似たような背中に見えるが、どの絵も違う人の背中にも見える。さゆみが知っている背中は、一枚きりだった。
『弟 二十歳』とある絵の前にもどる。この背中を探して何年経っただろう。なんだか探していたのが馬鹿らしくなってきた。
大基はずっと、ここにいたのだ。
この絵の中に。
さゆみは静かに画廊を後にした。
ぼんやりと、駅へ向かって歩く。
色んな人が歩いている。
色んな背中がある。いろんな背中がさゆみを追い越していく。
青い背広の背中、赤いワンピースの背中、茶色い痩せた背中、灰色の老いた背中……。
もう、いいではないか。
背中ばかりを追いかけて、もう疲れた。
大基は、どこにもいない。二度と帰って来ない。
私を置いて行ってしまった。
彼の背中を追って行く事もできない遠いところへ。
ふと、目を上げた先に見慣れた懐かしい背中を見つけた。
「大基!」
叫んで駆け出す。
肩が人にぶつかる。
バッグが引っかかる。
そんなことを気にも留めず、さゆみは走った。
長い首、細い肩、少し猫背のその背中、よく見知った背中が見慣れぬ黄色いシャツを着て歩いている。
「大基!」
呼んで、男性の腕をつかみ引っぱる。
振り向いた男性は、まったく見知らぬ人だった。見知らぬ男性は、目を丸くしてさゆみを見ている。
「あ……」
さゆみは言葉を失った。息が整わず、はあはあと荒い息だけを吐く。
「大ちゃん、どうしたの?」
男性の連れの女性が振り返った。
「いや……。なんだか、人違いされたみたいなんだけど……」
男性は戸惑いの表情で、さゆみと連れの女性を見比べている。さゆみは呆然と男性の顔を見つめ続ける。
言わなければならないことがあるのに、必死に走ったせいで声が出ない。荒い呼吸だけが口から漏れ出て行く。
「そう、行きましょう」
女性に促がされ、男性は一度だけ振り返り、もの問いたげにさゆみを見た。しかしそのまま、すぐに背中を向けて歩いて行く。
さゆみは手を伸ばしかけて、止めた。
一体、なんと言うつもりだ?
なんと言えば伝わる?
そのことを言い表す言葉を、さゆみは持たなかった。
背中が人混みに消えるまで、じっと見つめていた。
ただ、見つめていた。
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