第25話 にじゅうご
ふと、目覚める。
ずいぶんと汗をかいているようだ。ぼんやり見回す。
薄暗い部屋。百合子の弟の部屋。
あるじに急に見すてられ、置いて行かれた部屋は、やけにひんやりと寒い。毛布を口元まで引っぱり上げる。
そういえば、いつも寝具は百合子の部屋から持って来る。この部屋の押入れの中に布団はないのだろうか?
起き上がって、押入れを開けてみようとしていると、声をかけられた。
「大ちゃん、起きたの? 先生の急用で、でかけなくちゃならないの。大ちゃんは、もう少し休むでしょう? お食事はテーブルに準備しているから、起きられるようなら食べてね」
「うん……」
ぼーっとしている。なんだか、頭がうまく働かない。
あれ? 今、何を考えていたんだっけ……。とにかく眠くて仕方ない。
人が出て行き、鍵がかかった音がする。横になり、目を瞑る。
すうっと、眠りにおちる。
立っていた。
友達は皆、早々に見学を切り上げ展示室から出て行ってしまった。大基は独り、地獄絵の前に立っていた。
四つの車輪に手足をくくられ、それぞれ別の方向に引っぱられている人がいる。鬼が持つ金棒で炎の中に突き落とされる人がいる。口を大きく開かされ今にも舌を引き抜かれそうな人がいる。尖った山の岩肌を裸足で歩かされる人がいる。
怖い。
怖くてたまらない。
けれど目を逸らすことが出来ない。
ふいに、ツン、と鉄錆の臭いがした。
すんすんと嗅いでみると、臭いはどうやら、絵のほうから漂ってきているようだ。地獄で苦しむ人達の血の臭いなのだろうか?
出来るだけ鼻を絵に近づけてすんすんと嗅ぐ。手を伸ばせば、そこにある、触れようと思えば、簡単にできる。しかし臭いはなかなか届かない。
くたびれて立ち上がると、臭いが、より強くなった事に気付いた。地獄絵から臭っているのではない。
すんすんと嗅ぎながら首を右に回す。
この絵だ。
美しい天女が大勢描かれた真っ白に光り輝いているような絵。
この絵のどこかから鉄錆のような臭いがする。その出所に気付いてしまえば、臭いはもっと強く感じられた。
鼻の中にはすでに鉄錆とは間違えようもない、血の臭いが充満していた。天上と言う言葉は知らなかったが、この絵がとても清らかなことはよくわかった。
ひとつの染みも、ひとつの汚れもないように見える。
大基はすんすんと臭いを嗅ぎ、絵にどんどん近づいていった。隅から隅まで嗅ぎまわる。身を乗り出し過ぎて、とうとう展示境界を示す鎖を乗り越え、絹布に描かれた絵のギリギリまで鼻を近づけて嗅いだ。
みつけた。
ひとりの天女のひたいのうえ、
花のかんむりにわずかばかりの影がえがいてある。
しろいせかいのなか、この影だけが、くっきりと
黒い。
血だ。
この影は血だ。
天女は血で汚された。
もう天女の命は長くない。天上で遊び暮らし、慈悲も持たぬ魂の行き着く先は。
大基は首を左に向ける。
地獄。
そこからは血の臭いなどしてこない。そこに描かれた人々は、苦しみに苛まれながら、何故かとろんとした夢見るような顔つきをしているのだった。
見ていると大基もとろんと眠くなり、あんなに怖かったのが嘘のように、この絵の前から離れたくなくなった。ずっとここに立っていたい。
閉館の音楽が流れ、大基は我に返った。鎖の内側に入ったことが知れたら怒られる。あわてて鎖の向こうに戻ろうとしたが、ふと踏みとどまった。
地獄の鬼が手にする槍についている赤黒い血を、そっと指で掻き取る。指の先を舐めてみるとわずかに甘く、いつまでも舌に残った。
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