012 : Semper timeo.

 社の空気はひやりと冷たい。白い霧が立ち込めて、ラトの視界を奪っていく。

 まるでここへ立ち入った生き物の体に入り込み、内側から浄化しようとするなにかが働いているかのようだ。そう思いながら、ラトはタシャの手を握り直した。

 もう、随分歩いている。しかしこの大きな割れ目の中に、精霊の姿を感じることはできなかった。

 一体どれだけ歩くのだろう。ラトは思ったが、口には出さなかった。タシャも一言も話さない。ここでは口をつぐんでいるべきだ。そこには、迷い込んだ者達にそう告げる何かがあった。

 外の音も、聞こえなくなって随分経った。あるのは、進む二人の足音だけ。ラトはそっと視線を上げて、辺りを見回した。

 日の入らない岩の陰。視界はその闇の黒と、霧の白とに閉ざされている。それなのにラトには、この先をどう進んで行けばいいのかわかっていた。ラトの手を引くタシャも、それは同じなのだろう。二人はただ、そこに用意された見えない道を歩いて行く。

 内部が更に冷え込んできた。岩壁に触れてみれば、その理由はすぐに知れる。石に、氷が張っているのだ。

 ふと、思う。

(黄泉の国の入り口みたいだ)

 そう考えても、不思議と恐れる気はしない。だがそれが、人々の生きる現世の方がよほど恐ろしいと知ってしまったからなのか、触れているタシャの手が暖かいからなのか、ラトにはわからなかった。

 そんなことを考えていた、直後のことだ。

――来たのだな。

 唐突に聞こえたその声に、ラトは思わず立ち止まった。そうして、タシャの手をぎゅっと握りしめる。タシャも一緒に足を止めたのは、例の声が聞こえたのだろうか。それとも、ラトが立ち止まったのに合わせただけなのだろうか。

(あなたが、この崖の長……ですか?)

 言葉を選びながら、ラトは恐る恐る尋ねてみた。声を出す必要がないことは、わかっていた。

――この崖だけのことではない。この地方は全て皆、私が守っている。マカオの町も、その先も。だから、おまえを呼んだのだ。

(僕を呼んだ、って……。何故です。僕に何か、できるんですか)

――その問いに答える前に、私はおまえに尋ねなくてはならない。……三つ目の子供よ、その魂に力を持つ者よ、おまえの名は、なんという?

 ラトは、安堵の息をついた。その問いになら答えられる。もしここで、物語に出て来るような謎掛けをされたら、どうしようと思っていたのだ。

 ラトは一度唾を飲み込んで、はっきりした口調でこう告げた。

「ラト」

 それが合図であったかのように、急に世界が一変した。ラトは眩しさに目を細め、タシャの手を強く握り直す。闇は光の前に剥がれ落ち、ラト達二人は輝きの前へ投げ込まれたかのような錯覚を覚えた。

 何かが強く光っている。それが辺りの岩肌に反射して、洞の内部を明るく照らし出していた。なるほど、よく見れば岩の間には水晶が顔を覗かせている。しかし光源がどこかと言われれば、断言するに難かった。ただ確実に言えるのは、そこは広いホールのようになっており、その一番奥まった所に、何か台のような大きな岩があるということくらいだ。

「母さん、ここだ。精霊の長がいる」

 タシャの手が、いささか汗ばんでいる。

 この手は放さない。ラトはその時心に決めた。精霊達は気まぐれだ。突然気を変えて、いたずらをするかもしれない。

(母さんは、僕を助けに来てくれたんだもの)

 今度は、それを返す番だ。

「お願いがございます」

 タシャが短くそう言った。その一言だけは、本当に話すべき相手がそこにいるのか訝しむような口調だったが、ラトが一度頷くと、この占い師も勇気を取り戻したようだった。彼女は凜と背筋を伸ばし、続いてこんな事を言う。

「お願いがございます、長様。マカオの町やその周辺には、今、異変が起きてございます。星の相にも、大地の流れにも、記されなかった異変です」

 ほう、と息をつく声が、ラトには近くに聞こえていた。それから次いで、「おまえはそれをなんと見る?」とも。タシャに聞こえないのなら、自分が伝えなくては。ラトがそう思って彼女の顔を見上げると、ちょうどタシャが息を飲んだところだった。

「私にも、精霊の声が――」

「その少年が、それだけの力を持っているからな。さあ女、続きを話せ。おまえは、それをなんと見る」

 事も無げに、精霊の長がそう言った。タシャはといえば動揺を隠せない様子ではあったが、それでも落ち着いて聞こえる声音で、続けた。

「何か大きな力が、脈を歪めていると見ております」

「それで、私のところへ来たか。それについて知識を得るか、あわよくば私がそれを正さないかと」

「おっしゃる通りです。自然の力は、私達人間には及ばぬところ。起こるべくして起こった災害なら、私達は従うしかありません。しかし今回のことは、あまりにも」

 タシャがそこで、言葉を切る。少しの間、静寂が場を支配した。

(精霊の長は、どこにいるんだろう)

 ラトはふとそう考えて、静かに辺りを見回した。気配は感じるが、部屋の中で光と共に反射し、拡散しているかのようで、それを一つに掴むことが出来ないのだ。

 長は、何故姿を現さないのだろう。

(長は身を隠している。何かに備えて、今はまだ……。何故? 一体、何に備えているっていうんだ?)

 ラトの視線が、例の台座のような岩に向く。その瞬間の事だった。

 バリバリと鳴る轟音が、頭上からここへ降ってくる。ラトは思わず息を呑み、慌てて辺りを見回した。

「雷――!」

 タシャが呟くように口にするまで、そうとは気づかなかった。ラトは慌てて、空いた方の手で三つ目を塞ぐ。先程のような幻影を目にするのが怖かったのだ。しかしラトのそんな臆病風を吹き飛ばすかのように、力強く、大きな声が場に響く。

「ついに、来たか!」

 長の声だ。その声は歓喜に高揚し、雷へ向かい吠えている。同時に洞の中に、強い風が巻き起こった。

 タシャが庇うようにかがんでラトを抱き寄せたので、ラトもその手を強く握った。何故洞の中に、こんな風が吹くのだろう。そんなことを考える。外に通じている道は、先ほどラト達が通った長い暗闇の通路だけだ。雷の音にしたって、先ほどまでの静けさを考えれば妙である。

 しかしラトには、その風に確かな覚えがあった。

「禍人!」

 声を張り上げ、そう叫ぶ。風の中に、あの甲高い笑い声が混じっていた。

「酷いじゃないか、ラト。こんな面白いところへ来るなら、私も誘ってくれなくちゃあ」

 言われてラトはぞっとした。禍人の声は相変わらず親しげで甲高く、歓喜に満ちあふれていたのだが、今までの様子とは随分違っていたのだ。ラトの友人かのように話していたあの名残は最早なく、自分の優位を確信した者が下の人間に告げる、そういった話し振りになっている。

「お前から得たこの力を、試させておくれよ」

 禍人はするりとラトを通り過ぎ、唸るような低い声で、言った。

「参りましたよ、長」

「馴れ馴れしく話しかけるのでない。言われずとも、お前と出会うべき定めについては知っておったわ」

 長の、力強い吠え声が場に響く。ラトは恐る恐る、三つ目を塞いでいた手をそっと放してみせた。すると同時に、第三の目へ二つの大きな影が映る。

 一方は、例の石台の近くにいる。その姿はまるで話に聞く竜のように面長で、光る銀の髭を持っている。体の大部分は闇に融けているが、それが精霊の長であることはすぐに知れた。

 もう一方は洞の入り口にいた。それが今や洞の中でも最も濃い闇を作り出しており、大きな目玉をぐるぐると、楽しそうに回している。――そうしてその目玉の数は、紛れもなく、三である。

(禍人も……三つ目)

 思わず小さく息を呑む。しかしそれを悟られないよう、ラトはすぐに口を閉ざした。

「ラト、そして占い師の女。石台の陰に身を隠していろ」

 長がそう言ったのと同時に、洞の中の光が消える。二人は手探りで前に進んで、やがて石台に辿りついた。この陰ならば、身を隠せるだろうか。

「そこにいろ。だがまだ触れてはならん」

 声が聞こえて、ラトは伸ばしかけていた手を引っ込める。遠目で見たとおり、やはりなんだか不思議な石だと思った。近くにいるだけでひんやりと冷たく、その色は暗闇に近い今の状態でも、深い黒だと見て取れる。

 そうしてラトは、ふと悟った。

(これは、棺だ――)

 生唾を飲み込む。これは棺だ。直観的にそうとわかる。冷たい、いびつな形の棺。一体誰が、こんなところで眠っているのだろう。

 ――いや、恐らくはそうではない。

 心がそう答えたのを聞いて、ラトの体が再び震えた。それを心配そうにタシャが抱き寄せたが、震えは一向におさまりそうになかった。

 ラトは棺から目を逸らし、ただ、歯を食いしばる。その脳裏には、たった一つの疑問だけが浮かんでいる。

 冷たい洞の最深部に安置された、飾り気のない、石の棺。

 これは一体、誰のために用意されたものなのだろう。

 誰を収めるつもりで、こんな所に置いてあるというのだろう。

 嫌な冷や汗が頬を伝う。しかしどうやら、ラトにはその事ばかりを考えていられるような時間はないようだった。大きな風が荒れ狂い、ラト達の頬に吹き付けてくる。ラトが反射的に目をつぶると、その一方で、青い顔をしたタシャが呟いた。

「長様が……禍人に圧されている?」

 見れば、確かにその通りであった。

 やはり暗闇の中であるのに関わらず、ラトには見るべきものが見えていた。長は確かに人には考えられないような力を持っている様子だったが、禍人の前には影も無い。それでも長に焦りは感じられなかった。ただしそれは、何か隠し持った余裕を感じさせるものではなかった。

 涼しげなあの目は、歓喜に満ちた、あの目は。

(――諦めている、目だ)

 禍人が長をはじき飛ばす。長もすぐに体制を立て直し、禍人へと向かっていったが、力量差は最早明確だ。

 長には、始めから禍人に勝つ気など少しも無かった。ラトには何故か、そんな気がした。

「母さん、もしも、……」

 口に出すのが恐ろしい。しかし、このまま問わずにはいられない。

「長様が、この辺りの地域を守ってくれているというのなら……。もし長様が、禍人に負けるようなことがあったら、マカオの町はどうなるの?」

 しばらくの間、返事はなかった。その間にも長と禍人の攻防戦は続いており、洞の中は激しいせめぎ合いの音で満ちている。

 やがてぽつりと、タシャが呟いた。

「精霊の加護がなければ、大地は育たない。町はいずれ……滅びるわ」

 瞬間、ラトの世界から音が消えた。

「一体どういうことなの」

タシャが囁く。ラトは心の中で、「ごめんなさい」と、そう応えた。

「禍人なんて、人の心に住む鬼のようなもの……まさか、精霊の長を上回るような力があるはずは」

(ごめんなさい)

 力を与えたのは自分だと、ついにラトは言い出せなかった。

 長が牙を剥き、禍人に対して食らいつく。禍人はそれをするりと抜けて、笑いながら反撃した。

――お前から得たこの力を、試させておくれよ。

(僕は本当に、町に災いを呼んでしまったのかもしれない)

 町の人間達が言ったことは、ある意味正しかった。

 まさか、禍人がラトとの契約のためにこれ程までの力を手にいれただなんて、ラトにはとてもではないが信じられなかった。しかしそれが真実なのなら、自分がこんな力を持っていたことなど、誰にも知られたくはない。そう思った。強く思った。

 三つ目があるだけで、あれだけ恐れられてきたのだ。もしこれだけの力を持っていることが先に知れていたとしたら、ラトなど、とっくの昔に殺されていたのではないか。そんな考えが脳裏を過ぎった。

 隣に佇むタシャを見る。ラトがいずれその力を禍人に明け渡し、こんなふうに災いを呼ぶことがあらかじめわかっていたとしたら、この占い師は、ラトのことを育てただろうか。

(だって、知らなかったんだ)

 心の中で、そう叫ぶ。

(こんな事になるなんて、考えもしないじゃないか。だって、――だって)

 禍人が、長の喉元を大きくえぐった。致命傷だ。次いでこの世の物とは思えないような叫び声がその場へ響く。

 ああ、勝負が、――ついたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る